敗北 10/12 ~詩織、バイト先であいつを見る~
詩織のバイト先のカフェは住宅地にポツンと建っている。駅からは少し離れているが、雑誌で紹介された事もあり、わりと人気のあるお店だ。
今日もいつも通り、七割方のテーブルが埋まっている。水曜の営業は夜八時まで。バイトが終わってアパートに帰ってみたら亮太が帰っている、という未来を願いながら、詩織は黙々と仕事をしていた。
今は午後七時過ぎ。閉店まで一時間を切った。
「いらっしゃいませー」
厨房に食器を下げにきた詩織の背中の方で、他のバイトが新しく来たお客を案内している。
「お客様、二名様ですか?」
「いや、先に一人来てるはずなんだけど」
女の子の声だ。二人って、カップルだろうか? でも先に一人来ているなら、ただの友達の集まりかもしれない。
「
男の人の声。先に来ていた人だろう。おそらく、喫煙コーナーに一人で来ている若いスーツのサラリーマンだ。メガネをかけたにこやかな人で、さっき詩織がコーヒーを持って行ったとき、わざわざ目を合わせて「ありがとうございます」と言ってくれた。
商談か打合せだろうか。「ハタカンバ」? 女の子の苗字だろうが、変わった名前だ。
詩織は食器を全部流しに入れ、フロアに出ようとして立ち止まった。喫煙席のサラリーマンの元に歩いて行く女の子は、金髪ロングに緑と赤のメッシュ。
百合亜だ。昨日の力士みたいな男も一緒にいる。あんなサラリーマンに、「さん」付けで名前を呼ばれて、一体何の話をしに来たのだろう。
詩織は顔をそむけながらも、百合亜達を目で追った。二人は、サラリーマンの席に、禁煙コーナーを背にして座った。すぐ後ろのテーブルはお客さんが帰った直後で、まだ片づけられていない。チャンスだ。
百合亜から顔が見えないようにこっそり背後のテーブルに行き、片づけを始める。それも出来るだけゆっくり。
詩織は元々一つ一つの作業が遅いため、特に慌ただしい今は他の店員からも怪しまれない。レジ打ちも下手過ぎて禁止されているし、オーダーも出来るだけ取らないようにとまで言われていて、このタイミングでテーブルの片づけをしていれば、百合亜と顔を合わせずに済む。
「畑神庭さん、いつもお世話になっております」
サラリーマンの挨拶から百合亜と二人の会話が始まった。
「別に挨拶とかいいって。鍵は?」
「こちらの封筒に。……あの、申し訳ありませんが、『鍵』という言葉は使わないで頂けますか」
「だって鍵じゃん」
「え、え、もちろんそうなんですけれども。最近、同業者がちらほらと、手を取られておりまして。このあたりの駅も目があるわけでして。あまり『鍵』という言葉を使うと、ですね……目もありますので。開ける時はくれぐれもご用心ください。いつものポーチに三セット、ご用意させて頂きました」
「ハァ? 何で三セットなんだよ。五セット分払ったろ」
「申し訳ありません。今お話ししたような事もありまして、急遽、値上げさせて頂く事になりました」
「チッ、マジかよ。ひょっとしてさ、買い方とかもこれから変わんの?」
「え、え、そちらは決まり次第、こちらからご連絡させて頂きます」
「もう面倒くせーから、直接持って来いよ」
「申し訳ありません。それは禁じられておりまして。商品は直接お客様にお渡しできない事になっております。何卒ご理解……」
「ガキだったら?」
「は? お子様ですか?」
「今度うちに小学生のガキ来たんだよ。そいつに取りに行かせんのは?」
詩織は手が震えてテーブルの上のスプーンがつかめなかった。鼻でゆっくり、深く呼吸して、少しでも気持ちを落ち着ける。まだ百合亜達の話は終わっていない。
「あぁ……お子様を介して頂けるなら、そうですね。可能です」
「じゃあ、今から二セット追加注文。今夜用意出来る?」
「今夜ですか……まあ、二セットだけなら……九時半ごろまでには何とか致します」
「ああ。受け取り、昔使ってたとこでいいよな。じゃあ九時半に間に合うように、ガキに取りに行かせっから。合図も教えとく」
「分かりました。ではそのように致しましょう」
「ああ」
「それとですね……あの、畑神庭さん……と言うか、大和さんもなんですが……」
「大和も? こいつにも興味示すなんて珍しいじゃん。何だよ」
「興味と申しますか……お二人とも、その……かなり臭いですよ」
百合亜と大和が笑い出した。
「汗臭いです。お二人とも、目の前にお風呂あるじゃないですか。いつでも入れるんですから、入ってくださいよ」
「面倒くせーな。次会うときは入ってくるって」
「是非とも! よろしくお願い致します」
百合亜と大和は笑いながら席を立ち、サラリーマンの男もそれに続いて席を立った。この男は絶対、まともなサラリーマンなんかじゃない。
詩織は「大学から急に呼び出された」と嘘をついて予定より三十分早くバイト先を後にした。必死に自転車をこいでアパートへと向かう。
帰ってみたら亮太が帰っている、なんていう未来は、願うどころか微塵も意識に上らなかった。
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