敗北 11/12 ~悠、詩織、亮太の大事な時間~(若干の残酷描写あり)

 悠はアパートの庭でジャン坊と遊んでいた。家の中にいたら寂しさで息が出来なくなってしまいそうだ。

 亮太が来る三か月前までは、ずっと独りで平気だったのに、今は人恋しくて誰でもいいから会いたい。

 亮太や詩織なら最高。黒川君もいい。美紀だって構わない。蜂谷さんでも、翔聖君でも。もちろん、西園寺さんだって、山崎さんだって、大家さんだって、大将、岩田さん、香田さん、近藤君でも。誰でもいい。だってみんな……


―― 私、大好きだったんだな。みんなの事。自分で思ってたよりずっと。なのに私、なんにもしてこなかったな。誰にも、なーんにもしてあげてない。みんな、私の事ダメなやつって、とっくに知ってるだろうな。それでもみんな、私に優しくしてくれて……それでも私はなんにもしてあげないでいて……ずっと今までそうで……ダメなやつ。


 ジャン坊がボールを咥えて戻ってきた。「もう一度!」と訴える目。悠は笑顔で応えて、ボールを受け取って投げた。

「飛んでけっ!」

 悠が走って行くジャン坊を目で追うと、その先のアパート前の坂道を自転車がすごいスピードで駆け下りてくる。


―― あれ詩織? いや、違うか。だってあんなに速く……あれ? やっぱ詩織だよ!


 詩織は慣れないハイスピードにハンドルを切るタイミングを誤り、前輪を側溝にはめ込んで自転車ごとひっくり返りながら、七十センチ下のアパートの庭に墜落した。

「うわわ! 詩織、大丈夫?!」

 悠が駆け寄り、手を貸して引っ張り起こすと、詩織は返事もせずにいきなり泣きながら喋り出した。自転車をこいでいる時から泣いていたらしい。

「ねえどうしよう! りょうた! りょうた探さないと! 今すぐ!」

「え…うん」

「来たんだよ! 私のバイト先に……! りょうたがさ……」

「え? バイト先にりょうたが来たの?」

「違う! 違う違う、百合亜! 百合亜が来て! 変なサラリーマンも来てさ……あの子クスリやってる絶対! 覚醒剤か何か! りょうたが取引で……」

「えぇ? りょうたがクスリやって……」

「そうじゃない! 百合亜が! 九時半にりょうたに取に行かせるって!」

「どこに?」

「だってそんなの分かんないよ!」

 完全にパニックに陥っている。悠は詩織に深呼吸するように促して、ゆっくり聞き始めた。

「百合亜が、クスリか何かをりょうたに取に行かせるって言ったんだね?」

「うん」

「詩織、落ち着いて思い出して。どこに行かせるかは言わなかった?」

「言ったけどさ! 昔使ってた何とかって……だってさ……ああもう! 思い出せない!」

「とにかく分からないんだね? じゃあ、取りあえず探しにいこう」

 詩織はうなずきながら自転車を引っ張り起こすと、アパートの入り口まで押して行った。

 今自分は悠がいないと何もできない。今まですっとそうだった。以前は、悠に助けてもらうたびに、自分はダメなやつだと後ろめたく感じていたが、最近はもうめっきりそんな事は感じなくなっていた。今も全く感じていない。

 悠はジャン坊を小屋に繋いで、自分の自転車を押して、アパートの入り口で待っている詩織の元へと戻ってきた。

「お待たせ」

「うん。でもさ、どうする? どこから探す?」

「詩織、バイト先から百合亜達が帰る方角見なかった?」

「ごめん、見てない」

「ああ、そう。まあいいよ。じゃあ取りあえず、昨日百合亜達と会った河まで行こう。そこまで行ったら、また考えよう」

 詩織は時計を確認した。今、ちょうど八時。あと一時間半だ。あまり時間はない。自転車をこごうとペダルを踏むとスカッと空振りして、詩織は自転車と一緒に倒れ込んだ。チェーンが切れてしまっている。

「え……どうしよう……」

「あ、チェーン切れた? 詩織、こっちに乗って。私は走るから」

 悠はそう言って自分の自転車を詩織に任せると、詩織の自転車を駐輪場へと戻しに行った。



                  *



 二人は河原までやってきた。詩織は自転車に乗っているが、悠に合わせているので大したスピードは出せない。ここまで二十分近くかかってしまった。百合亜も亮太も見つからない。

「ふぅ……いないね」

 河原を見渡しながら悠が言った。

「じゃあ、どうしようか。次は、そうだな……詩織のバイト先行こう」

 そう言いながら悠が方向転換して走り出したその瞬間

「ちょっっっと待ってよ」

 詩織が後ろから悠の腕を両手でつかんで、思いっ切り引っ張った。悠はバランスを少々崩してこけそうになり、詩織は完全に崩して、また自転車と一緒に倒れた。

 びっくりしながら「大丈夫?」と悠が手を差し伸べると、詩織はその手を無視して、すっくと仁王立ちして見せた。真顔で、すさまじい気迫を見せている。

「どういうつもり?」

 詩織の声は太く、深く、硬くて重い。音量はさほどないが、怒りがみなぎって、今にも悠に襲い掛かってきそうだ。

「……え?」

「どういうつもりって言ってんの! 悠、さっきからさ……。どういうつもり?! 『取りあえず』とか『まあいいよ』とか『じゃあ、どうしようか』とか! 今どんな状況か分かってんの?!」

 怒りで震える詩織の声。その迫力のあまり、悠は質問に真正面から向き合えなくなってしまった。

「……何でそんな怒っ」

「何でじゃないよ! ほらやっぱり! 本気になってない! 本気で探してないじゃん!」

「別にそんな事ないよ。ねえ詩織落ち着い」

「落ち着いてる! 落ち着いてるよ今は! また『別に』とか言って!」

「ねえ、今ここでケンカしても何も」

「怖いんでしょ!」

「……何が?」

 悠の声も震えた。でもこれは怒りではない。

「百合亜に決まってんじゃん! 百合亜が怖いんでしょ! 昨日負けたから、今日も負けるって! だからでしょ! 百合亜が怖いから……だからりょうた探したくないんでしょ!」

「そういう事言うのやめてよ!!」

 悠がそう叫んだ瞬間、詩織が悠の頬を思い切りはたき、悠の方も間髪入れずにはたき返した。「パンパン!」と続けて音が響き、詩織だけよろけた後、二人は向き合ってにらみ合った。

 二人とも鼻息が荒く、お互いの呼吸が肩の動きで分かる。にっちもさっちもつかなくなったら、強い方が折れなきゃいけない。そう思って先に口を開いたのは


「ごめん……。ごめん、私の言い方が悪かった」


 詩織だった。

「でもさ……聞いて。私分かってるよ。悠がりょうたの事大好きだって事も、本当は私よりもっと心配してる事も。百合亜が怖いのも、それでも何とかしなきゃって思ってるのも、でもどうにもできない今の自分に傷ついてるのも。本気になったらもっとそれがはっきりして、もっと傷つくから、もっと怖いのも」

 言葉一つ一つが悠の心に突き刺さって、切り開いていく。

「いつも色々器用にこなしてても、本当はなりたい自分になれなくてずっと苦しんでるのも。それを隠しながらなりたい自分を人前で演じようとして、本物の自分が置いてけぼりになって、打ち明けられない事が沢山あって、孤独で、寂しい思いをしてるのも」

 悠の目からは少しずつ涙がこぼれてきた。

「過去の自分を愛せなくて……だから未来の自分に愛してもらえなくて……必死に他の人を愛そうとしてるのも。でも満足いくように愛せなくて、また傷ついてるのも…………もう分かってるよ……」

 二人とも昨日と同じくらい、涙が出てくる。でも涙がとても温かい。目から温泉が湧いているみたいだ。

「だからさ……分かってるから…………分かってるからさ……」

 悠は手の平で涙を拭いながらうなずいた。

「だからさ……もうさ、全部聞かせてよ。悠が抱えてるもの……悠の言葉でさ……全部分かってるから……前に進もう」

 深呼吸して、ついに悠が口を開いた。

「私……子供の時から、なんにも夢なかった。将来の夢。誰にも憧れられなくて、自分が何を本当に好きなのか、やりたいのか分からなくて……。中学生の時も、みんな高校行くから、取りあえず行かなきゃって。で、入ったはいいけど、勉強は全然出来ないし、やりたい事は相変わらず見つからないし……。結局、お父さんの知り合いの伝手で、岡本食堂の大将に雇ってもらって」

 詩織は悠の言葉に、うん、うん、と一つ一つうなずく。

「就職する時、親からも先生からも散々脅されて。『世間の風は冷たい』とか『世の中いい人ばかりじゃない』とか。でも、大将はすごく優しくていい人だし、常連の岩田さんも香田さんも、みんな私に優しくしてくれて。でももちろん、世の中そんないい人ばっかりじゃないって事も分かってて……。詩織は、学生の自分は世間知らずだって言ってたけど、仕事してたって全然世間知らずなんだよ私。でも、詩織は先生になるってかっこいい夢があって、それのために今一生懸命勉強してて、一歩一歩前に進んでて……。この間の工作教室だって、詩織すごくかっこよかった。あれが出来ないこれが出来ないって自分では言ってても、すごく能力あるんだから。私なんか、誰でも出来る事しか出来ないし、唯一自信あったケンカも……年下の、体も小さい百合亜に、ボロボロに負けて。詩織は一歩一歩前に進んでるけど、私は中学生の頃から、なんっにも変わらないまま。夢見つけられなくて、そんな自分を変えたいって思いながら、でもなんにもしないで変えられないまま。気付いたら二十五になってて。この前、やっと受験できるようになった資格試験も……絶対イケたと思ってたのに……落ちて」

「うん。知ってた。落ちた事も……悠が本当は、高校卒業してない事も」

 悠は「ぶふっ」と鼻ちょうちんを作りながら吹きだした。

「なんで知ってんの……ゴミ箱の封筒見たでしょ」

 詩織が「ごめん」とうなずくと、悠は続きを話し始めた。

「本当は初めから……おかしいって分かってたんだよ。りょうたの事。だって、よく知りもしない人に、自分の子供三か月も預けるなんて親いないでしょ。それも、直接頼みもせずに、手紙すら書かずに」

 詩織はただひたすらうなずいている。

「でも私、なんにも変えられない、変わらない日々を……変えたくて……変えてくれるかもしれないりょうたに飛びついた。りょうたのためじゃない。自分のためだったんだよ。そんな勝手な、いい加減な気持ちでりょうた預かって……こんな事になっちゃって…………預からなきゃよかった」

 詩織が体当たりし、悠は後ろに吹き飛んで倒れた。

「そのままほっといたら、りょうたどうなってたと思うの! 誰のおかげで今こうやって二人で話してると思うの! 預からなきゃよかったなんて絶対許さないから!!」

 悠はむせ込みながら立ち上がった。詩織、西園寺さん、スースー、美紀、黒川君、袴田君、蜂谷さんと翔聖君、啓一、納豆仙人、山崎さん、亡くなってしまった横田さんの奥さん、ニューカッスルに行ってしまった横田さんの旦那さん、これまでの三か月間が一気に頭に反芻されて、思い出がひしめいて、渦巻いて押し上がってくる。我慢できない。片手で口を押えながら「あー」「うー」と大声を上げて泣き始めた。自分の泣き声が耳に入って頭の中に響く。我慢したくない。

「だからさ、気付いてよ。だってさ……悠はさ……良い事いっぱいしてきてるよ。みんなが優しくしくれるのは、ただ単にみんなが優しい人だからじゃない。悠がみんなに優しいから……悠が素敵だから、そんな悠が好きだから……みんなが悠の事好きだから優しくしてくれるんだよ。だからさ……りょうたの事探そう……探してよ。本気で、百合亜と戦ってよ」

「無理だよ……。私勝てないよあんなの」

 詩織が悠の肩を握って、息が出来なくなるほど激しく揺さぶった。

「いいの勝てなくても!! りょうたを助けて、悠も私も無事なら、それでいいの! 負けたっていいの!! 百合亜とまともに戦えるの、りょうたを助けられるの、悠しかいなの! お願いだから!!」

 悠は決心してうなずいた。

「うん……。分かった」


 二人が息を整えると、聴こえなくなっていた河の流れる音や、風にこすれる草木や車の走る音が、次第に聴こえてきた。相変わらず亮太がどこにいるか、何の手がかりもないままだ。詩織の時計はもう八時四十分を指している。

「詩織……もう一度思い出してみて。百合亜達が何話してたか。大事なところだけじゃなくて全部」

 詩織は必死に記憶を掘り起こした。だいぶ落ち着いている。

「鍵を使って取引するって。あれ、ロッカーの鍵じゃないかな。そう言えば百合亜の苗字、かなり珍しい苗字だった。漢字三文字だよきっと。確か……山? ……違う、岡……ダメだ。これは思い出せない。あとはえっと……クスリが値上がりしたって。それから……あれ? 最後の話何だっけ。なんか、笑ってたな……」


--- お二人とも臭いですよ。目の前にお風呂あるじゃないですか。いつでも入れるんだから、入ってくださいよ ---


「あ……あ! あ! 銭湯!」

「え? セント?」

「お風呂屋! 百合亜の家、お風呂屋さんの向かいかも!」

 悠の頭に蓄積されたこの街の景色が一気に吹き出した。生活圏からは外れているが、二軒記憶にある。

「河を渡って西にずっと行った所に一軒と、こっち側のコンビニから南に下った先に一軒あったはず」

「昨日の夜、百合亜達、橋は渡らなかった!」

「行こう!」

 悠がすぐに走り出し、詩織も自転車を起こして後を追っていく。土手を走り、信号を渡り、コンビニを通り過ぎようとした時、悠は子供にぶつかってしまった。ギリギリでよけようとしたため、子供の方は倒れなかった。悠の方は思い切り転んで、歩道でぐるりと一回転した。お母さんらしい女性が叫び声を上げた。

「あっ、ちょっと、危ない!」

「ごめんなさい!!」

 親子連れにそう言い残して悠は走って行く。詩織も後を続く。お母さんが後ろから何か言っているが、二人とも振り向かない。ごめんなさい。今は許してください。



                  *



 二十分程度でお風呂屋に着いた。向かい側の二軒の表札を二人で確認すると、高田と大山。よくある苗字だ。

「違うな……詩織、もう一軒のお風呂屋に行く?」

「ちょっと待って! 家の間、細い道がある」

 二人は細い道に気付いて、その前に立った。悠がふと足元を見ると、表札らしい板切れが落っこちている。悠は拾い上げて泥を掃い、街灯の明かりに照らした。

「詩織、これは?」

「畑…あ、ハタカンバ! 畑神庭! ここだ! この奥だ!」

 悠は表札を足元に放ると、結わっていた髪を一旦ほどき、きつく結わい直した。「よし」と呟いた悠を先頭に、二人は道の奥へと入っていく。

 奥の家は二階だけ明かりがついて、騒がしい話声が漏れていた。悠はインターホンを押した。音が鳴ると、二階が少し静かになり、少しするとガラリと引き戸が開いて、力士みたいな男が現れた。大和だ。

「おい百合亜!」

 悠達を見た大和が階段に向かって叫ぶと、百合亜が階段を降りてきた。悠達が見えるところまで降りてくると、階段の途中で立ったまま、百合亜は舌打ちをかました。

「何だよお前ら」

 百合亜の槍で突くような声が悠の心臓をえぐった。でもここで引き下がったらダメだ。悠は心を奮い立たせて、何とか一言放った。

「りょうたは?」

「帰れゴミ」

 百合亜はそう言い残して踵を返すと、大和もドアを閉め、鍵を掛けられてしまった。

「どうしよう。警察呼ぶ?」

 詩織がギリギリ聴き取れるくらいの小さな声でそう聞いた。

「うん。呼ぼう」

「ごめん。私スマホ、バイト先に置いてきちゃった」

 詩織にそう言われて悠がポケットを探ると、悠のスマホもない。

「あ、私もない。きっとさっきぶつかった時落としたな」

「え……じゃどうするの? もう取引まで時間ないよ?」

 悠は一瞬考えた後、詩織の手を取って庭に歩き出した。

「どっかから入るよ」

「えぇ……でもさ」

「しっ!」

 庭は草が生い茂っていた。木も何本か生えていて、油断していると転んでしまいそうだ。二人は足元に注意しながら家を見渡した。雨戸も閉まって、一階の中の様子は全く分からない。

「裏に、勝手口があるかも」

 詩織がそう囁いた。二人がそっと裏に回ると、確かに勝手口があった。しかも、鍵が掛かっているかどうかの前に、ドア自体が外れて、立て掛けてあるだけだ。

 二人は協力して音が立たないようにそっとドアを降ろすと、中に入った。


 入ってすぐダイニングキッチンだ。でも生活感がない。明かりはついていないが、小窓から月明かりがさし込んで、目を凝らすと物がちゃんと見える。

 テーブルにもホコリがたまっているし、どうやらもうずっと使われていないようだ。台所から廊下につながっているらしいドアのノブを悠がそっと握る。

「……ダメだ開かない。そっちから行こう」

 脇にあるふすまをそっと引く。雨戸が閉められて真っ暗な部屋に月明かりが差し込んだ。それと同時に、人が寝ているらしい布団が二人の目に飛び込んできた。二人とも息を呑む。だが、寝ているその人は起きない。

 忍び足でそっと布団の脇を通る二人。ところが、詩織はバランスを崩して、寝ている人に手をついた。詩織は飛びのいて息を殺した。だがその人は起きない。

 詩織は、妙に硬かった手の感触を思い起こしながら、ダイニングキッチンの小窓から差し込むわずかな月明かりに目を凝らして、寝ている人を見つめた。歯が見えるくらい大きく口を開いているが、いびきはかいていない。どうやらかなりの細身だ。仰向けのまま寝返りを打つ気配は全くない。

 段々見えてきた姿と、硬かった感触の答えが、突如詩織の胸の中で爆発した。



 人間のミイラだ。



 詩織が思わず叫び声を上げた瞬間、二階が静まり返った。

「やばい……やばいやばい! 詩織出て! 外出て! 早く!」

 二人とも大慌てで外へ出て庭を通る。ところが、すぐに玄関が開く音がした。

「ダメだ。そこの木の陰に隠れて」

 悠が詩織の背中を押して、二人は庭の奥の木の陰に潜んだ。ここから見えない玄関の方から、百合亜の声がする。

「ぜってーアイツらだ。北斗、玄関見張ってろ。あたし外の道見てくっから。大和、勝手口見て来い。見つけたらぶっ飛ばして捕まえとけ。背ぇ高い方、割と強えから気いつけろよ」

 すぐに大和が庭にやってきた。勝手口の方まで行き、倒れているドアを確認すると、家の中を覗き込むが、家の中には入らずに、家の更に裏側へと入り込んでいく。

「今だ。多分りょうた二階だから、さっきのとこ通り抜けて行くよ」

 飛び出そうとした悠の腕を詩織が引っ張った。詩織は自分の服の胸のあたりを握りしめて泣きながら首を横に振っている。

「大丈夫私がついてるから。詩織がいてくれないとダメなの!」

 悠は詩織の腕を思い切り引っ張って勝手口へ走り出した。同時に気付いた大和が家の裏から大声を上げる。二人は勝手口から飛び込み、ミイラの脇を通り、廊下へ続くふすまに体当たりをかまし、階段へと向かう。

 玄関から入ってきて大声を上げる北斗を悠が殴り飛ばした。倒れてうめき声をあげる北斗を尻目に、二人は階段を駆け上がった。二階にあるふすまは開いたままになっている。二人が中に飛び込むと


―― いた!


 そこには口をぽかんと開けてあっけにとられた様子の亮太の姿。ランドセルも背負ったままだ。

「詩織、りょうたお願い」

 そう言い残して悠はすぐに階段へ戻った。怒鳴りながら階段を駆け上がってくる大和を殴り飛ばす。大和は階段から転げ落ち、気を失った。

 すぐに悠と、亮太の手を引く詩織が階段を駆け下りる。やっと起き上がった北斗を悠がもう一度殴り飛ばし、三人は玄関から外へ出た。

「おめーらそこで何やってんだ!!!」

 外の道からこちらに突進してくる百合亜。悠も突進してパンチをかます。百合亜は昨日と同じようにかわして、悠にタックルを仕掛けてきた。


―― ダメだ! やっぱり勝てない!


 倒されないよう懸命に踏ん張りながら、悠は詩織達に振り返った。

「向こう! 庭の向こうから逃げ」

 言い終わる前に投げ飛ばされた。百合亜は左足を大きく持ち上げ、仰向けに倒れた悠のお腹を体重と勢いをつけて思い切り踏みつけた。

 布団を叩いたような衝撃音が響くと同時に、悠は日本語にないような生々しいうめき声を上げて身をよじって転がり、吐き戻した後、お腹を押さえてうずくまったまま動けなくなってしまった。

「ゴミが……ゴミが!! 調子こいた事してくれてんじゃねーよ!!」

 百合亜は、うずくまっている悠をまるで気が狂ったようにめちゃくちゃに踏みつけ、蹴り飛ばし始めた。喉が張り裂けるくらいの勢いで叫び声を上げている。

「死ねぇっ!! 死ねゴミ!! オラぁっ! あああああああっ!! 死ねえええっ!!」

 詩織はスカートにしがみついている亮太を無理やり引きはがし「先に行って!」と背中を押して庭へ走らせた。


 亮太は庭まで走ってくると、垣根を見渡してくぐれそうなところを見つけ、四つん這いになった。ところが、そこである事に気付いた。自分は両手を地面についている。つまり手ぶらだ。来る時は手ぶらじゃなかったはずだ。


 詩織は百合亜につかみかかった。百合亜もものすごい強さでつかみ返し、詩織を三百六十度あちこちに引きずり回し、押し倒した。百合亜は倒れた詩織にまたがると、両手を使って本気で首を絞めつけた。

「殺す!! お前ら今ここで殺す!!」

 首を絞めつける百合亜の手を引きはがそうと必死になる詩織の顔に、何かがポタリと落ちてきた。これは……


―― これ、涙? 百合亜、泣いてるの? ……なんで?


 困惑していてもしていなくても、詩織の力では百合亜には到底かなわない。詩織が息が出来なくなり、意識が遠のきだした時


ゴズッ!


 鈍器で殴ったような鈍い音が響いた。同時に、首を絞めていた手が緩んだかと思うと、百合亜が詩織の上に落ちてきた。

 詩織がむせ込みながら体を起こすと、目の前には気絶した百合亜、そして植木鉢を持った亮太がいた。

「道から……外出て」

 詩織は咳をしながら亮太にそう指示を出すと、まだうずくまって動けない悠を無理やり引きずり起こし、亮太と一緒に何とか表の通りに出て、へたり込んだ。

 通りには騒ぎを聞きつけた近所の住人が何人か出てきていた。

「警察……警察呼んで下さい!」

 詩織は一番近くで不思議そうにこちらを見ているおじさんにそう叫んだ。おじさんは不思議そうな顔のまま近づいてくると、詩織を無視して、百合亜の家の方を覗き込んだ。

「早く!!」

 そう詩織が怒鳴ると、おじさんはやっと詩織の方を向いてこう言った。

「大丈夫もう呼んであるよ」

 これを聞いた詩織が大きく息を吸って吐くと同時に、悠がガラガラ声を上げながら体を起こした。

「りょうたぁっ!!」

 叩かれるかと思った亮太は目をつぶった。ところが悠は、亮太の左腕を無理やり引き伸ばした。抱いていた植木鉢が落っこちて割れてしまったが、悠はお構いなしで亮太の内肘を街灯に照らしながらさすっている。

「ない。そっちは?」

 右腕は詩織がさすって確かめている。

「ない」

 悠は亮太の二の腕をつかんで顔を近づけた。

「ねえ! 注射されたり、何かクスリみたいな物飲まされなかった?」

 亮太はわけが分からずぽかんとしている。

「どうなの!!」

 悠に怒鳴られて亮太はようやく首を横に振った。

 その瞬間、悠が亮太を抱き寄せた。そのまま立ち上がろうとしたがそれは叶わず、膝をついたまま亮太を力いっぱい抱きしめた。

「ごめん……りょうた、ごめん……ごめんね……私が悪かったんだよ……」


 亮太は、今まで麻痺していた体の感覚が戻ってきた。ムシムシと暑い夏の夜の空気に、体が炭酸の泡になってシュワシュワ溶けていくみたいだ。


「ごめんね…………ごめんね……」

 亮太を抱きしめる悠と、その二人を抱く詩織。三人をパトカーの赤いサイレンが照らしていた。



                  *



 すぐに辺りには人が大勢集まってきた。北斗に大和、そして百合亜がパトカーに乗せられていく。

 百合亜は顔をぐしゃぐしゃにして、息を詰まらせながら必死に泣きじゃくっていた。悠にも詩織にも、そして亮太にも、捕まったと言うより助け出されたように見えた。

 三人の前で百合亜は今までで一番ちっぽけに、そして初めて本来の年頃の女の子になっていた。

 肋骨が折れているらしい悠は病院に運ばれ、詩織と亮太はパトカーでアパートまで送ってもらった。詩織は亮太を自分の家に泊め、次の日の朝、亮太を連れて警察署まで歩いてきた。

 警察署にはすでに悠が来ていた。入院は必要なかったようだ。

「おはよう」

 悠と詩織と亮太は、お互いそう言って笑顔を交わした。

「ほら見て。私のスマホ」

 悠は昨日なくしたスマホを詩織に取り出してみせた。

「やっぱりコンビニでぶつかった時落としたみたい。お母さんの方が届けてくれたんだって」

「えー、よかったね。あのさ、聴取誰から?」

「私はもう終わったんだ。次は詩織だって。私、りょうたに同伴するように言われたから、待ってる」

「そう。じゃあさ、私もさっさと吐いてくる」

「ちょっと! ここでそういう冗談やめてよ!」

 三人とも顔は笑っているが、心はドキドキだ。まだ三人だけで昨日の出来事を話す事は、怖くてできない。

 一人バイト先で例のサラリーマンを目撃した詩織は、聴取が長くかかった。最後に亮太に悠が同伴して聴取が行われ、事件の全貌が三人にもつかめてきた。


 ミイラは百合亜の祖母だった。百合亜本人の供述によると、殺したのではなく、病気で一年以上前に死んでしまったらしい。

 百合亜は幼いころに両親が離婚し、母と祖母に育てられたそうだ。離婚した父が振り込む養育費と少ない母の稼ぎ、そして祖母の年金で暮らしていたが、中学生になってどんどん荒れ始めた百合亜をもてあまし、母はどこかに逃げてしまった。

 その後祖母が病気になり死んでしまったが、百合亜はどうしたらいいか分からず、何もできないまま、年金を不正受給していた。

 北斗と大和の二人は兄弟だが、百合亜とは完全に他人だった。何かの理由で家を追い出された兄、北斗に、弟の大和がついて一緒にいた所、街で偶然百合亜と知り合い、一緒に暮らし始めたようだ。

 百合亜はどちらとも、恋人関係ではなかったらしい。


 亮太はそのまま児童相談所に一時預かりになりそうだったが、悠と詩織はあと一日だけ一緒にいられるように頼み込んだ。

 亮太に身体的な虐待の跡がなく健康だった事から三か月間二人がきちんと亮太の世話をしていた事が認められ、さらには亮太本人も強く望んだため、許可が下りた。

 三人は胸をなで下ろして帰り、昨日の事は何も話さないまま、三人一緒に悠の家で眠りについた。



                  *



 朝、亮太が目を覚まして起き上がると、視線の先の食卓では、悠がテーブルでコーヒーをすすっていた。

「おはよう」

 悠がにっこり笑いかけてきた。この三か月間毎日のように見てきた景色だ。違うのは、悠の顔が傷だらけで、腕にも大きなアザがある事ぐらい。

「歯磨いて、顔洗ってきな」

 詩織は一旦自分の家に戻っていて、朝食は悠と二人だ。ちぎったレタスと半分に切ったゆで卵、それにトースト。これも今まで通り。

 トーストに塗るのはいちごジャム。悠は亮太が来る前はマーマレードを塗っていたが、亮太が皮の苦味が嫌いだと知って、いちごジャムに切り替えてくれた。二人で一か月二瓶のペースで食べ続け、今置いてあるこれはもう六瓶目。


 歯を磨いて、顔を洗って席について、大好きないちごジャムのトーストを一口かじるが、飲み込めない。喉の通り道で、何かが出たがってむずむずしている。

「ねえ、りょうた」

 そう言って悠が立ち上がって、亮太の所へやってきた。

「ほら」

 悠が椅子の前に膝立ちして亮太を抱き寄せ、二人の頭が交差した。そしてすぐに悠の頭が、コツンと亮太の頭にもたれかかってきた。

「怖かったよね」

 一気に亮太の喉から声が湧き上がってきて、口からトーストがこぼれ落ちた。

「すごく怖かったよね。でも、もう大丈夫だよ。私がずっとこうしててあげるから、泣けるだけ泣きな」



                  *



 今日が最後の一日だ。悠は連休をもらっていた。大将に事情を話すと「今日は大事に過ごせ。バイトもいるし、店の事は気にするな」と、男前な事を言ってくれた。でも実はこれも、悠の知っている大将の姿。悠の事を思ってくれる、優しくて、実はかっこいい、いい人。イケメンではないけど。


 三人がまず向かったのは電車で三十分ほどの遊園地だ。平日だが、夏休みだから人が少ないわけでもない。でも乗り物はほとんど待たずに乗れるし、閑散として寂しいほどでもなく、かなり楽しみやすかった。

 詩織が二人を無理やりお化け屋敷へ連れてきた。悠は拒否が許されるが、亮太は許されない。嫌がる亮太を引っ張って詩織が二人で入っていく。悠が二人を待っていると、詩織は笑顔で、亮太は大泣きで出てきた。二人とも可愛い。

 ジェットコースター、観覧車、そして詩織が無理やり連れていった二軒目のお化け屋敷を回り終えて、フードコートで三人一緒にお昼。ソフトクリーム付き。

 悠がお化け屋敷で泣いていた亮太を茶化すと、「もう慣れたから今は怖くない」と亮太。だが、詩織がお化け屋敷はもう一軒あると言うと、亮太は当然「行かない」。

 早めに帰ってきて今度はジャン坊と散歩。公園に行ってボールで遊んで、その後紙ヒコーキを飛ばす。それが終わったら、駅のレンタルDVDショップへ向かう。

 詩織と悠は亮太の好きそうなアニメ映画を探したが、亮太は「悠の好きなやつがいい」と言う。悠が自分の小さい頃見ていた、やっぱりアニメの映画を見せると「そういうやつじゃなくて!」と少しイライラし始める。

 詩織が「大人っぽいやつ見たいんだよきっと」と言うので、悠は自分の一番思い出に残っている映画「雨に唄えば」を取り出して見せた。「それでいい」と亮太は偉そうな態度で納得。

 家に帰ってまずは夕飯。もちろん悠の手作り。ちょっと贅沢してハンバーグ。その脇に置かれた味噌汁には、赤エビが入っている。今日は少し高かった。

 悠の家にDVDプレーヤーはない。代わりに詩織のノートパソコンで、三人そろって「雨に唄えば」を観た。


 悠が初めてこの映画を見たのは高校に入学したての頃だ。パッとしない女優キャシーが偶然の出逢いから、最後にはスターになる。六十年以上前の映画だから、今の人から考えれば、ストーリーは単純だ。

 でもキャシーは悠にはとても魅力的だった。自分もこんな風に輝けたら、なんて思っていた。当然、無理。だって悠はもう、絶対キャシーより年上だ。

 実は悠は、岡本食堂に就職してから、この映画が見られなくなってしまっていた。「なんとなく見る気がしない」程度にしか考えていなかったが本当は、キャシーを見て自分に幻滅するのが嫌だったんだろう。

 でも今は気持ちよく観られる。悠にはそれが何故だかよく分からなかった。別に、自分の生活、想像できる未来も、大して変わっていない。


「えー? なんで車乗らないの?」

 あの雨が降る名シーンで亮太が言った。

「すっごく嬉しくて、一人で踊りたいからだよ。一人になりたいの」

「帰ってから家で踊ればいいじゃん。なんで雨の時に外で踊るの?」

 亮太は全然納得していない。まあ、小学一年生には分からなくても仕方ないだろう。

「大きくなったら絶対分かるよ。だから……このシーン覚えときな」

「ふーん」


 百分以上ある映画が、あっという間に終わってしまった。詩織はDVDを取り出して、パソコンをシャットダウンさせた。ベッドに座っている悠は、自分の膝に乗っからせている亮太の頭の後ろからポツリと言った。


「りょうた」


 映画が終わってから静かになっていた部屋に、悠の声で亮太の名前が鳴った。

「ん?」

「りょうたー、りょうた、りょうた!」

「何?」

 悠は亮太の返事を無視して「りょうた」という歌詞を織り交ぜながら、「雨に唄えば」を歌いだした。さらに、後ろから亮太の手を取り、無理やりでたらめな踊りを躍らせる。


―― 私今、意味分かんないな。「おやじギャグ連発して喜んでるイタいお父さん」って感じかも。うん、絶対そう。でもいいんだ。


 悠がチラリと詩織を見ると、悠を見て静かに笑っている。多分、悠の心境を完全に見抜いているだろう。

 亮太がどんな顔をしているのかは分からない。悠からギリギリ見えるのは、ぷっくり丸いほっぺと、そこからはみ出して見える小っちゃな唇だけ。ただ亮太は、少なくとも拒否はしなかった。悠のやりたいようにやらせてくれている。


 詩織が立ち上がって、お巡りさんのマネをして、悠がトーンダウン。これで今日最後のイベント、終わり。



 亮太にシャワーを浴びさせて、歯磨きさせて、ベッドに寝かせた。悠は詩織と二人で、亮太の荷造り。昨日の内にほとんどまとめてあったので、そんなに時間はかからなかった。

 全部終わって、あとは寝るだけ。テーブルでお茶を飲む詩織に、ベッドの脇に膝立ちしている悠が話しかけた。

「ねえねえ」

「ん?」

「私、りょうたの事大好き」

 あまりにも当たり前の告白に、詩織は静かに笑った。

「知ってる。名前で歌うくらいね。だってさ、うちのお母さん私が小さい頃、しおりしおり~って歌ってたよ」

「ねえ、眠ってる間に、りょうたのほっぺにキスしたらダメかな? 私、気持ち悪い?」

「別にそんな事ないでしょ」


 実は亮太はまだ起きていた。キスして欲しい。でも、起きている事がバレたら、悠は恥ずかしがってキスするのをやめてしまうだろう。亮太は顔が赤くなりそうなのを必死で我慢して、待った。

 少しするとベッドが軽く揺れて、ほっぺに唇が触れた。ちょっとカサカサしている。足音が聴こえ、またほっぺに唇が触れた。こっちはカサカサしていない。最後に、どちらかが頭を撫でた。多分、悠だろう。

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