敗北 9/12 ~自分ダメだな、嫌だな~

 悠は立てた両膝に両肘を引っかけて座り込んでいる。項垂れたまま、切れてしまった髪留めのゴムを握って、一言も発しない。

 詩織はその前に立ち、悠が立ち上がるのを待っていた。百合亜達が立ち去ってから十分以上経つ。もうどこに行ったか分からない。

「あいつ、絶対なんかやってる……」

 悠がやっと喋った。

「ん?」

「総合か何か……」

 詩織には何の話かよく分からなかった。分からないしどうでもいい。本当は悠だってどうでもいいはずだ。別に今しなきゃいけない話じゃない。それだけは詩織に伝わってきた。

「悠……あのさ、取りあえず一旦帰ろう」

 そう言われると、悠は黙ったまま立ち上がった。二人はスマホの明かりを頼りに土手まで登ると、帰路についた。土手を歩き、信号を渡り、コンビニを通り過ぎ、住宅地の道を歩いて行く。

 詩織は、先を歩く悠が心配でたまらなかった。いつもと歩き方が違う。変に堂々と胸を張って、何にも気にしてない風に歩いている。絶対そんな訳ないのに。

 声をかけるべきだろうか。でも何てかけたらいいのか。家に帰って、少し落ち着いてからでいいかもしれない。でも、早く声がかけられれば、それに越した事はないだろうし、でも何て声をかけたら……。そんな事がぐるぐる頭を巡って、詩織は何もできずにいた。

 ふと気付くと、蚊の鳴くような細い声が聴こえる。ひょっとして、泣き声だろうか? 詩織がそれに気付くと同時に、目の前にいる悠が顔を右手で覆って、道端にへたり込んでしまった。

 悠は声を押し殺しながら、一回一回息を絞りつくすように背中を動かして必死に泣いている。詩織は悠が泣いている所を見るのは初めてだ。隣にしゃがんで背中をさすりながら声をかけた。

 さっきまで何を言うかあんなに迷っていたのに、考える前に言葉が出てくる。

「悔しかったよね」

 悠は泣きながらうなずいた。

「痛かったよね」

 悠はまたうなずいた。

「怖かったよね」

 悠はもう一度うなずいた。声をかけながら詩織も涙をこぼしていた。

「大丈夫だよ悠。ずっとこうしててあげるから。泣けるだけ泣きな」



                  *



 亮太は河原から十分程度歩いて、百合亜の家に着いた。二軒の家に挟まれた、横に二人並んだら通れないほど細い道の先に建っている、ぼろい一軒家だ。外の通りからは見えない。

 玄関まで来ると、百合亜はポケットの鍵を探しながら亮太に言った。

「亮太、その植木鉢、庭に置いてこい」

 本当は植木鉢をずっと抱いていたい。でもそんな事は言い出せない。亮太は玄関の脇から庭に行き、そっと植木鉢を置いて、百合亜の元に戻った。

 玄関の引き戸を開けると、そのまま奥まで廊下が続いている。でも先は真っ暗だ。玄関を上がってすぐ右脇に階段があり、百合亜は亮太の手を引いて登って行った。

「おい亮太、勝手に一階降りんなよ」

 百合亜の声はかなり重みがあって、こちらに迫ってくるような太い声だ。もし言いつけを破ったら、自分も悠みたいに殴られるかもしれない。亮太は恐怖で返事ができなかった。

 二階に上がると、百合亜は奥の小さなドアを指さした。

「トイレそっちだかんな」

 百合亜に手を引かれるまま、二階の一部屋に入ってみると、北斗が待っていた。テレビと座卓があり、空になったカップ麺の容器が三つ転がっている。

「お前、腹減ってんだろ? これやるよ」

 百合亜は座卓にコンビニの袋を置くと、中からパンを取り出して亮太に手渡した。チョリソーが乗ったパンだ。悠に買ってもらえなかったパンにそっくり。マヨネーズソースがかかって……。こんなに不味そうなパンだったっけ。

 亮太は吐きそうなほど気持ち悪くなった。



                  *



 悠が泣き止む頃には、空はもう白んでいた。電信柱の脇で体育座りしている悠は、泣き腫らした目に、鼻水で詰まった鼻。何度も鼻をすすりながら、口を開いて息をしていた。詩織はその隣にしゃがんで、頭を優しく撫でてやっている。

「……歩ける?」

 悠はうなずいて、立ち上がった。ところが、歩き出そうとするとすぐに詩織が引き止めた。

「ちょっと待って! やばい!」

 何かと思い悠が振り向くと、詩織は綱渡りでもしているような雰囲気で、突っ立ったまま動かないでいる。

「足、痺れてる。めっちゃ! あーやばい、歩けない。あのさ……少し立ったままこうしてていい?」

 ささやかにだが、二人とも何時間かぶりに笑った。



                 *



 今日は岡本食堂は定休日だ。詩織に「こういう時一人で家にいたらダメ」と言い聞かされて、傷の手当と朝食を済ませた後、悠は大学について行く事にした。

 大学に着くと、詩織は自分のお気に入りの場所を悠に教えてくれた。学内最大のケヤキが生えている広場だ。幹の直径は二メートル、高さは二十メートル以上ある。

 授業に行く詩織を見送ると、悠はそばのベンチに腰掛けた。ケヤキを見上げると、はるか上空で、ざわざわと枝で空を撫でつけている。何だか涼しそう。きっと、こっちと空気が違うんだろう。今度は根元を見下ろすと、根っこが空から大地を繋ぎ止めていた。この木がなかったら、大学は海に沈んでしまうかも。

 よく見ると、根元に「R」と彫ってある。木に傷をつけるなんて、誰がこんな事をしたんだろう。彫刻刀か何かを使ったらしく、かなり太くて、深い傷だ。苔が生えたり、樹皮がはがれかけたり、この傷は相当古い事が見て取れる。ひょっとしたら悠が生まれる前かもしれない。


―― 傷って、消えないんだな。何年、何十年経って痛くなくなっても、その人の一生にジンジン響いて、影響し続けるんだ。私の一生って、昨日、もうこの先どうなるか決まっちゃったのかも。


--- 調子こいて親ヅラしてんじゃねーよ。ゴミがよ ---


 お昼は詩織と一緒に、購買部で買ったおにぎりをベンチで食べた。詩織は、自分は小学校の先生になろうとしているのに二十五メートル泳げない、とか、美紀が歴史好きで、最近カエサルとブルータスにはまっている、とか、いそべえ(黒川君)はしょっちゅう甲子園の話をしてきて、自分はにわかだから話が続かない、とか、他愛無い話で悠を楽しませてくれた。

 だが、話は楽しくても、悠の気分は晴れなかった。詩織の一生懸命さが伝わってきて、それが逆にプレッシャーになり、心苦しかったのだ。

 詩織はその後バイトに向かうとき、悠にこう言い残して行った。


「今日の夜になっても帰ってこなかったら、警察行こう」


 亮太の名前を口にしない所が、想いの強さを感じさせる。それも悠には少し辛かった。


―― 私は、自分の事ばっかり考えてる……。

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