できない代わりに 8/8 ~詩織、あれこれ忘れる。悠、あれを忘れる~

「おまたせー」

 詩織がそう言ってカフェに現れたのは待ち合わせ時間を十分以上過ぎた頃だった。先週ほどではないが、顔色が浮かない。また何かあったのだろう。

 だが悠は、今日はこっちからそれをほじくるのはやめておく事にした。

「ごめんね遅くなって」

「平気平気。今さっきまで黒川君と話してたんだ」

「え、黒川君と? 何で?」

「私がブラブラしてたら、偶然黒川君と美紀ちゃんに会ったんだよ。美紀ちゃんはすぐ行っちゃったけど。ねえ、美紀ちゃん彼氏出来たんだって?」

「うそ?! 私知らないよ! ……まさかさ、西園寺さん?」

 詩織の顔色がちょっと明るくなった。こういう話題が大好きなのはとっくに悠も知っている。

「いや、サークルの先輩だって」

「あれ、狙い変えたんだ」

「なんか、向こうからいきなりコクられて、ほいほいって付き合い始めたみたいだよ。おとといからだって」

「ははは」と詩織の楽しそうな笑い声が響いた。

「美紀らしいな。あの子さ、昔っからそうなんだよ。個性強いけど、案外まわりの人とか状況にあっさり流されちゃうんだよね。それでいて予測不能なところもあってさ。意味不明なところでいきなり感動したり、一人だけツボにはまって笑いが止まらなくなったり」

「ふふふ、目に浮かぶな。ねえ、美紀ちゃんの彼氏って、ひょっとして詩織の元カレかな?」

「えっ?!」

「いや、知らないよ? でも詩織の元カレも同じサークルでしょ? 詩織、彼氏出来た事知らなかったって言うから、ひょっとしたら美紀ちゃん、詩織の元カレだから言いづらかったのかなって思って。……どうする? 本人に聞いてみる?」

「えー、聞けない!」

「冗談だよ。ねえ、これは想像で言ってるんだけど、美紀ちゃんってああいうスケコマシでも平気で付き合っちゃうでしょ」

「そう! そうなんだよ! 分かってても付き合う。それでいてさ、別れると傷つくんだよあの子!」

 だいぶテンションが上がってきた。

「ねえ、蜂谷さんの話聞かせてよ」

 詩織は「あっ」と息を吸い込んで、井戸端会議のおばさんみたいに手のひらをパタリと振った。

「遊びに行った日、悠達がアスレチックやってる間に私蜂谷さんと話したんだけどさ、そしたらさ、白状した。気があるんだって!! しかもどうやら脈あり! 誘いを断られた事ないらしいよ」

「えー、マジで?! 詩織よく聞き出した!」

「なんかさ、いいよね。そういうドラマって。蜂谷さんから、淡い恋心みたいなの感じた」

 悠はその後一通り蜂谷さんの恋についておしゃべりして、詩織を満足させた。悠が一番したい話は、これではない。


―― よし……今……今!!。


「ねえ詩織、りょうたなんだけど……」

「うん。……え? 何かあった?」

「いや、抱っこの話」

「あ、そうだよ! あの日結局何にも連絡くれなかったじゃん! どうだったの?」

「うん。初めはとにかく恥ずかしくて、何回もタイミング計っちゃって、なかなか抱っこ出来なかった。夕飯食べ終わって、詩織に教えてもらった番組見る時に、思い切って抱っこしてやったよ」

「りょうた、何て言ってた?」

「私が、今日楽しかったねとか色々言ったら、ただ『うん』って。そればっかりだった」

「ふふふ。恥ずかしかったんだろうね。でもさ、仲直りできたでしょ?」

「うん。できた。それにね……」

 続きを話そうとした瞬間、悠は自分の体温がグッと上がるのを感じた。出てくる声もちょっと変わりそうだ。今日どうしても詩織に伝えたかったのはここから先の話。

「私、りょうたを抱っこした時すごく嬉しかったんだ。すっごく。胸がじわじわ~って温かくなって、くすぐったくなって。すごく嬉しくて、りょうたの頭に私の頭をコツンってもたれかけちゃった。初めは抱っこするのも恥ずかしかったのに」

 詩織は静かな笑顔を滲ませながら、黙って悠の話を聞いている。

「その後、膝に座らせて一緒にテレビ見てたら、あの子すぐ寝ちゃったんだよ。ずり落ちそうになってたんだけど、私りょうたを膝から降ろしたくなくて。テレビ見てる間ずっと膝に座らせてた。私の方も、りょうたに甘えたいって気持ちがあったのかも」

「だから恥ずかしかったんだと思うよきっと」

 悠の思った通り、詩織はそこまで分かっていた。子供がからむと、本当に鋭い。それも子供自身だけではなく、まわりの大人の事までだ。

 そして、詩織は自分がそんなにも鋭い事を全然気付いていない。

「そうだね。私彼氏もいないし、一人暮らしだし、甘える相手なんていなかったんだよね。それに慣れちゃってたから、誰かに甘えたいって気持ちがあるなんて自分では気付いてなかった。それがりょうたを抱っこした瞬間に一気に溢れてきて……。幸せな時間だった。詩織のおかげだよ」

「……よかった」

 詩織は嬉しそうににっこり笑った。でも自分の力にはきっとまだ気付いていないだろう。さて、実はもう一つ話がある。

「あと、この前も言ったけど、ギター聴かせてよ」

「え嫌! 嫌だって言ったじゃん!」

「ダメ聴かせて! 絶対一度聴かせて欲しい!」

 子供みたいに駄々をこねる悠に、詩織は鼻を使って「ふふふ」と笑った。

「何でそんなに聴きたいの?」

「いいの!」

 亮太のマネだ。詩織は口を開けて「ははは」と笑った。

 悠は詩織のギターをどうしても聴きたかった。正直言うと、大して上手くないだろうと思っている。でも、どうしても一度聴いておきたい。

「もう夕方のバイトまでヒマでしょ? 今から詩織の家で聴かせて。そうじゃなきゃ嫌。聴かせてくれるまで、私の家の敷居はまたがせないからね」

「何なのそれ……もう……分かったよ」



                  *



 二人で自転車をこいで詩織の家に着くと、詩織は悠を和室の方に案内した。洋服がしまってあるらしいケースがいくつも積まれていて、その脇には積み重ねられたファッション雑誌。そして壁際に、エレキギターのケースと、デパートの紙袋程度の大きさのギターアンプが置いてある。

 そういえば今までこの部屋に入れてもらった事はなかった。もしかしたら、ずっと悠にギターを隠していたのかもしれない。


 詩織はケースのチャックを外して、中からギターを取り出した。ワインレッドの丸っこいギターだ。

「えー、このギターかっこいいじゃん。何てギター?」

「これはね……えーと……」

 詩織はギターのケースからごそごそと一枚のメモ用紙を取り出し、眉をひそめて読み上げた。

「レスポール・スペシャル……タイプ。トノカイ、LSS-50」

 もちろん、教えてもらったところで悠には何も分からない。

「へえ……。エレキギターって、アンプに繋がないと音出ないの?」

「いや、小さい音は出る。でもエレキっぽい音は出ない」

 そう答えながら詩織はアンプに繋ぐためのシールドの両端のジャックを、また眉をひそめながら見比べている。

「あ、それ決まった方を挿さないとダメなんだ」

「いや、平気だと思うきっと」

 詩織はギターとアンプを繋ぐと、ぶつぶつ言いながらアンプについているツマミをいじり出した。

「ベース、トレブル……ゲイン……ん? トレモロ?」

 ここで一旦止まり、詩織はさっきのメモ用紙をまた読み、つぶやいた。

「…あ、ゲインか…………ん?」


 一通りツマミをいじると、ついにアンプのスイッチが入り、詩織がギターを構えた。ギターのネックを覗き込むような姿勢で一度弾くと、「チャリーン」としょぼい小さな音を出してギターが鳴った。アンプの方はうんともすんとも言っていない。

「あれ? ……あ、コンセント」

 詩織はアンプのコンセントを挿し込み、もう一度弾いた。今度はさっきの小さい音にプラスして、どこかで「シュワー…」という、これまた実に小さな音が鳴った。

「ん? ……あ、ヘッドホン繋いでたんだ」

 詩織がアンプに挿し込まれたヘッドホンジャックを引き抜くと同時に、「ヴーン……」とアンプが唸り始めた。素人の悠にはかなり大きい音に聴こえる。大丈夫だろうか?

 と思った瞬間、「バオーン!」と部屋が破裂するかと思うような爆音がアンプから飛び出した。それに悠よりも詩織がびっくりして、またメモ用紙を見ながらアンプのツマミをいじり直し始めた。


―― 手際悪すぎ。


「よし、何弾こうか。……って言っても、私二曲しか弾けないけど」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ……」

 詩織がまたネックを覗き込むような姿勢になり、弾き始めた。「ビーン」と鳴ったかと思うと「ブツッ」「ボプン」と明らかなミスを織り交ぜて少し弾いた後、詩織は顔を上げた。

「あのさ、イントロは省いちゃっていい?」


―― 今のイントロだったんだ。


「うん。いいよ」

 もう一度構えて弾くと同時に、詩織は歌いだした。音程も不安定だし、意識がギターに偏ったり歌に偏ったりして、とてもぎこちない。四拍子の曲らしいのだが、コードチェンジで失敗して、押さえ直してまた弾く、という過程があるため、五拍子になったり七拍子になったり、一瞬止まったりしている。

 と思っていると、完全に演奏がストップした。詩織は一瞬考えた後、コードを鳴らし、また止まった後、いくつもコードを試し始めた。


―― さては忘れたな?


「あのさ……ごめん。こっから先忘れた」


―― やっぱり!


「今の誰の曲?」

「コマンドマスター」

 この名前は悠にも聞き覚えがある。ギターを高い位置で構えて叫びながら演奏するロックバンドだ。あまり女の子っぽい趣味ではない。

「ふーん……。知らない曲だったけど、なんか……詩織がどんな気持ちで歌ってるのかよく伝わってきた」

 嘘だと言えば嘘だが、嘘ではないと言えば嘘ではない。詩織は恥ずかしそうに「ふふふ」と小さく笑うと、すぐにアンプのスイッチを切った。



                  *



 悠はその後、バイトに向かう詩織をアパートの庭兼駐車場で見送った。自転車をこぐ詩織の後ろ姿はなんとなく楽しそうに見える。

 空を見上げると、昼間の青空の名残に、夕日が金色の足を伸ばしてくつろいでいる。そこに夏を感じさせる丸々と太った大きな雲が浮かんでいて、静かな空模様だ。

 悠の家では、もう亮太が帰ってきて悠を待っている事だろう。


―― 今日は詩織に夕飯ご馳走してあげよ。


 階段を登りながら冷蔵庫にある野菜を思い出しているところで、悠はハッと気付いた。野菜、すなわち植物。そして、薬草毒草。


「……農園見に行くの忘れた」


 黒川君のせいだ。




第四話 できない代わりに - 完

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