スースー 7/7 ~みんな、どちらかと言うとウキウキ~
日曜日の夕方五時、悠は岡本食堂から走って帰っていた。日曜はランチ営業だけで、いつもは四時頃に店を閉めて帰れるのだが、今日は大将が自転車の鍵をなくしてし、一時間も一緒に探す羽目になってしまった。
今頃詩織と西園寺さんと亮太がアパートの庭で待っているはずだ。
息を切らせながらアパートに帰ってくると、もう三人とも出てきていた。詩織が悠に気付いて手を振り、悠は振り返さずにとにかく走った。
「悠、お疲れ様」
悠はぜぇぜぇと息を切らせながらうなずいた。
「はぁ、ごめん遅くなって。はぁ……大将がね……ちょっと……ふー……。あ、西園寺さん。……今日は、ありがとうございます」
「あ、いえ」
いつもより少しだけ明るい声のリアクションだ。微笑んでいるようにも見えるし、そうでもないようにも見える。普段はもっと無表情だ。という事は、これは微笑んでいるのだろう。
西園寺さんの髪の毛はいつもボサボサだが、今日は所々ボサ、みたいな感じ。シャツも、普段はシワシワだが、今日は所々シワ、みたいな感じで、所々ボロ、の靴とカバン。という事は、今日は気合いが入っているのだろう。
亮太が「ここは蚊がいる」と言って嫌がったので、三人はすぐに駅に向けて出発した。
学生街であるこの街には飲食店が山のようにある。日曜日は特に安いファミレスなんかは学生でいっぱいになって騒がしいので、今回は詩織が駅の向こう側にあるちょっと高めの和食屋さんの個室を予約していた。
「西園寺さん、普段大学生と話す機会とかってあります?」
悠が西園寺さんに話しかけた。
「大学生とは全くないですね。まあ、職場には基本毎年、新卒が来るので、この前まで学生だった人とは話したりしますけど……。でも、ほぼ仕事の話しかしないですね」
「ああ、そっか。職場って、当然みなさんスーツですよね?」
「ええ」
「私、この間詩織の大学に行ったんですけど、学生ってみんな詩織みたいにオシャレな子なのかなって思ってたら、案外そうでもなかったんですよね。ねえ詩織」
また鬱々とうつむいていた詩織はハッとして頭を上げた。
「ああ、確かにそうだね。うちの学生は学校の先生になりたい人達だから、地味な子が多いのかも。でも、岡本食堂にも学生来るでしょ?」
「来るけどね、うちはどっちかっていうと男向けの定食屋で客層がそんなに広くないって言うか……。西園寺さんの通ってたとこはどんなでした?」
「理工学系でしたけど、少なくとも私のまわりは地味な男ばっかりでしたね。特に私の学科は、四学年全体で五百人近くいたんですけど、女性は七、八人程度だったと思います。女性も地味でしたね。もう十年以上前の話ですから、今はどうか知りませんけど。でも、多分変わってないと思います」
詩織が「えっ」と驚いた。
「理工学系! すごい……。私は国語専攻で、まさに文系なんですけど、なんか理系に対してコンプレックスみたいなのがあるんですよね」
「ああ……。でも、理系にも若干ありますよ。そういう人達は文系の人達をバカ呼ばわりして、自分を保ってるというか。大抵本人は自覚してないですけどね。周りから見ていると、ちょっと哀れですよね」
この人は案外コメントが辛辣だ。
「ああなるほど。でも、それ文系にもある気がします。コンプレックスがあるから、理系は頭が固いとか、発想が貧困だ、みたいな事言ったり。酷いのだと、あいつらはカルト宗教にはまるようなヤツらだとか」
「まあ、実際過去にそんな人達いましたからね。ごくごく一部ですけど。私に言わせると、文系だろうが理系だろうが、驕ってる人は必ずつけ込まれるものですよ。理系も文系もそれぞれ『人間の文化や歴史を形作ってきたのはこっちだ』みたいな意識がある気がしませんか? 理系は数学とか科学とかを根拠にして、文系は言語とか思想とかを根拠にして」
「あ、うちの先輩にそれ言ってる人いました!」
「本当に頭いい人なら、人間の文化や歴史の形成全体を特定の学問で語る事に大した意味はない事を知ってるはずですけどね。数学って一種の言語ですし、科学ってそれ自体完全に思想ですし」
「西園寺さんは頭いいですよね」
「いや、それはちょっと怪しいとこですけど……」
自分が割り込むスキがない、という事が悠には嬉しかった。二人とも楽しそうだ。
*
待ち合わせた駅の南口に着くと、もうみんなが集まっていた。学生達が嬉しそうに西園寺さんに挨拶し、西園寺さんも照れ臭そうに挨拶した。だがよく見ると美紀がいない。
「美紀ちゃんまだ来てないの?」
「あと五分くらいで来ると思います」
悠の質問に答えてくれたのは、この前亮太を褒めてくれた学生だ。名前はたしか黒川君。
「美紀遅れてるんだ。あんまり遅刻しない子なんだけどな」
詩織が呟きながら不思議がっていると、女子学生の一人も言った。
「そうだよね。授業にも遅刻しないし。私今朝、彫刻の研究室で美紀と一緒にいたんだけど、午後からは何も予定無いから一度家に帰るとか言ってたの。まあね、寝ちゃってたのかもしれないけど。あの子ほんっとガサツだから」
「美紀ちゃん電車で来るんだよね? 次ので来るんじゃない?」
悠が改札の奥に見える電光掲示板を覗き込んだ。
「ごめんさい遅くなって!」
いきなり美紀の声が聴こえて悠は驚いた。すでに視界に入っていたその女性が美紀だとは気付かなかったのだ。
そしてどうやら、驚いたのは悠だけではなく他の学生も全員だ。一旦その場が静まり返った。
美紀はいつもの民族衣装なんか着ていないし、ストーンのネックレスも腕輪もしていない。普通の小さなシルバーのネックレスをつけて、髪は少し暗い色になり、淡いピンクのシャツの上にブルーのジャケット、白いデニムパンツ、小さめのカバンを肩にかけ、詩織に負けないほどオシャレな、普通の可愛い女子学生だ。
誰この人。
「美紀、あのさ、なんか……いつもと違うね」
「え、そう? まあいつもはこのカバンじゃないかんね」
あっけにとられている詩織に美紀は当たり前みたいにそう返した。恰好はこれだけ違うのに、声や発音がいい加減なのは前と同じだ。
悠も当然、あっけにとられていた。
―― どうしたんだこの子。詩織達も驚いてるって事は、やっぱりいつもはこんな格好しないんだろうな。まさか西園寺さんがいるから? 話聞いてカッコイイとは言ってたけど、会った事もない人に対していきなりここまで気合い入れるかね?!
店に向かう途中、悠はそんな事を考えながら後ろからじろじろと美紀を眺めていた。それに黒川君が気付いて悠に耳打ちした。
「悠さん、みんなびっくりしてます。でもあの子、基本的にブッ飛んでるんですよね。何するか分からないっていうか。垣沼さんは普段から振り回されて大変だろうなってみんなで話す事もあるんですよね。もちろん、悪い子じゃないんですけど」
「そうなんだ。美紀ちゃん、この前西園寺さんの事カッコイイって言ってたけど、他にも何か言ってた?」
「いやもう普通に『狙う』とか言ってましたね」
「『狙う』? 会った事もないのに?」
「そうですね」
西園寺さんと詩織と美紀は三人で先頭を歩いている。美紀が話しているのは、大学に変わった先生がいるだの、学科の先輩がすごい人だの、授業の課題で苦労しただの、西園寺さんとは関係ない自分の事ばかりだ。
美紀はもちろん西園寺さんに向けて話をしているが、西園寺さんはリアクションに若干困って「そうなんですか」をひたすら繰り返している。 そりゃそうだ。初めて会った人に、こっちに全く関係ないような本人の話ばかりずっとされたら。
そして困る西園寺さんの隣で詩織が「へぇー」「えーすごいね」とか、気持ち大きめのリアクションをしていた。
明らかに気を使っている。西園寺さんにではなく美紀にだ。美紀はそれに気付いていない……というかお構いなしみたいな雰囲気だ。
―― 見た目も中身も超個性的。狙ってる西園寺さんがどんな人かはあまり興味ないってか? 確かに詩織、普段から振り回されてそうだな。
店に着くと、予約をした詩織が店員さんに名前を告げ、全員個室にぞろぞろと歩き始めた。悠は亮太の手を引いて西園寺さんと美紀を追い越して先頭にいる詩織に追いつくと、「オシャレな店だね」「そうだね」と適当にやり取りして、詩織と美紀の間に割り込んだ。
個室に着くとすぐに奥に入ろうとした詩織を悠が引き止めた。
「西園寺さん、奥どうぞ」
「あ、べつに上座とか下座とか平気ですよ」
「いいじゃないですか上座で!」
悠がそうやって半ば強引に西園寺さんを奥の席に誘導すると、西園寺さんはテーブルの左側を通って奥へと進み出した。
美紀はそのすぐ後ろにくっついて行こうとしている。美紀が西園寺さんの隣に座ったら、さっきのように自分の話を続けて、詩織や他の学生が気を使う……なんて事になってしまうかもしれない。
悠はさりげなく西園寺さんと美紀の間に割り込んで、詩織の背中を押して西園寺さんのすぐ後ろを進ませ、隣に座るように仕向けた。
悠は亮太の手を引いてテーブルの右側から奥に進んで西園寺さんの隣に亮太を座らせ、自分はその隣に座った。
「西園寺さんて、美大とか出てるんじゃないんですか?」
悠の隣に座った黒川君がすぐに西園寺さんに話しかけた。
「いえ、大学は理工学系でした」
これを皮切りに、次々と学生達がしゃべりだした。
「マジすか。お仕事何されてるんすか?」
「電気メーカーに勤めてます。テレビの開発とか……」
「えぇ、ほんっとにエリート!」
「いや、会社の中じゃ落ちこぼれですよ」
詩織が口を開いた。
「えー、あのトリケラトプス見せられたら、その言葉は信じられないですよ」
この発言で一気に話が盛り上がった。
「確かに! あれ本当にすごかったっすよ!」
「いや……そうですか? あれは、もう五年くらい前のやつなんで……」
「五年前?! 私が中学生の時だ。そんなに前から! 私、彫刻どころか油絵も銅版画もやった事なかった。美紀は高校で彫刻やってたって言ってたよね?」
「うん。美術ん先生が美大で彫刻やってたかんね。でも私、西園寺さんと違って下手で、先生に、美大は難しいから教育学部ん芸術系とか狙えって言われちゃったんですよ」
「あのトリケラトプス、筋肉とかもすごく正確に再現してましたよね。あれ、何を参考にしてるんですか? 現生の爬虫類ですか?」
美紀がまた自分の話を始めようとしたところで、黒川君が話を戻した。彼も美紀が暴走しないように気を付けているようだ。
美紀には悪いが、みんな西園寺さんと恐竜模型の話をしたいのだから、今日は我慢してもらおう。
「昔はそうでしたね。あのトリケラトプスはそうやって作ったように記憶してます。今はネット上で論文とか探して、それを参考にして作ってます」
「論文?! ひょっとして英語のですか?」
「基本そうですね」
「あーダメだ。俺もうこの時点で真似できない」
「まあ、私も辞書片手にやってますよ。専門用語も多いですし、生物の知識には疎いので」
「でも、筋肉自体が分かっても動きを表現するのって、ほんっと難しくないですか? 私絶対できない」
「あ、それも論文にある程度は書いてあります。歩き方とか走る速度についての論文もたくさんありますし。ただ、恐竜って筋肉にしろ生態にしろ、ありとあらゆる説が溢れていて、どの論文に基づいて表現するかで、微妙に違ってきますね」
「やっぱり、怪しい論文とかもあるんすか?」
「ありますね。ただそれは恐竜に限った事ではなくて、どの分野の論文でも一定程度はトンデモ論文があるものですよ。恐竜の世界だと、大型恐竜の体長に関しては発見者の主張は全くあてにならないですね。かなり盛ってる事が多いです。最初は『最大十七メートル』とか言って、後からいろんな研究者が検討した結果『実は十メートル程度でした』なんて事もありますから」
ちょっと話が難しくなってきた。このままでは悠も詩織も入り込めないし、亮太も退屈だろう。悠は亮太をつっついた。
「りょうた、またみんなに見せてあげたら?」
亮太は悠のカバンに入れて来たスースーとトリケラトプスを取り出してテーブルの上に並べた。
黒川君と、もう一人の男の子が大きなリアクションをしてくれた。
「あ、また持ってきてくれたんですか。悠さん、さすが気が利きますね!」
「やっぱすげーよな。西園寺さん、五年前に作ったこの作品見て、どうすか?」
「そうですね…。トリケラトプスはちょっと、踏ん張ってる右前脚の筋肉が極端な形で、わざとらしいですかね。皮膚も明らかにひだが多すぎますし」
「りょうたはこっちのスースーって子の方が好きなんですよ」
悠がスースーを前に押し出した。
「スースー? その子名前ついてるんですか。かわいい!」
女子学生がいいリアクションをくれた。西園寺さんのリアクションは…?
「これは正直言うと、人に見せられるような物では…って思ってたんですけど、名前をつけてもらったって聞いたら、なんか私もかわいく見えてきたんですよ。出来はやっぱりよくないですけど」
悠の心は躍った。
―― 今度こそイイ感じになってきた……!
「この前、垣沼さんが名前つけさせたって言ってましたよね」
黒川君だ。よく聞いてくれました。
「そうそう。りょうたが決めかねてたら、詩織がいろいろ質問して」
「質問? 垣沼さん、どんな事聞いたんですか?」
彼は詩織にも話を振ってくれた。詩織のリアクションは…?
「あ、なんかさ……泳げる? とか、足速い? とかさ……どんな子かイメージ出来たら名前浮かぶかなって…」
詩織はちょっと恥ずかしがりながら、戸惑いながら、もじもじ答えた。
「ああ、なるほど!」
詩織の返事に黒川君はとても感心してくれている。いいリアクションだ。
「詩織が名前つけさせたら、りょうたの思い入れも強くなったみたいで。りょうたずっとスースーで遊んでるよね。大好きでしょ?」
「うん」
「名前つけるのって、そんなに効果があるんですか。さすがに教育学部の学生さんは、そういうのよく分かってるんですね」
西園寺さんがそう言うと、他の学生達からはこんなリアクションが返ってきた。
「いやー、俺は分かってないっす。そもそも、名前つけさせようともしねーな」
「私も。『よかったね』とか『カッコイイね』とか、その程度しか言えないと思う」
最後に黒川君がこう締めくくった。
「垣沼さん、大手柄ですね。今日こうやって楽しめるのも、垣沼さんのおかげって言ってもいいくらい」
―― これは詩織嬉しいでしょ! ああ、こいつマジでいいヤツだな!!
悠は詩織のリアクションを確かめようと目を向けた。はにかんで手を横に振っている。まだお酒は飲んでいないが、顔は少し赤い。
*
それから一時間ほど、料理を食べながらおしゃべりが続いた。亮太はみんなにスースーとトリケラトプスを闘わせて見せたり、質問に答えたりしていたが、次第にお腹がいっぱいになると眠くなってしまい、悠は二人で先に帰る事にした。
二人の帰り際に「また明日」と手を振ってくれた詩織の顔は明るかった。悠には、何で詩織が傷ついたり悩んでいたりしたのかは分からないままだ。
でもそれはそのうち分かるだろう。それまで一緒に楽しい時間を積み上げればいい。
そう思って悠はあまり気にしなかった。
帰り道、悠はにまにましながら亮太の手を引いて歩いていた。
「りょうた、楽しかったね」
「うん」
「スースーのおかげだね」
「うん」
「スースー、優しいもんね。だからだね」
「うん」
眠気をこらえて歩いている亮太のリアクションは素っ気ないしいい加減だ。でも別にそれでいい。
悠は亮太のリアクションを聞き流しながら、手を振ってくれた時の詩織の楽しそうな顔を何度も思い返していた。
第三話 スースー - 完
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