スースー 3/7 ~詩織、鬱々~

 次の日の朝、詩織はいつもより早く目が覚めた。普段より気持ちよく、ぐっすり眠れたからだ。

 大学の授業は楽しいとは言えないし、サークルにも入っていない。美紀は美術専攻の学生や、サークルの友達と一緒にいることが多いから、最近は一人の時間が多かった。

 でも悠と知り合いになって、家に遊びに行くようになって、一人の時間は減って、笑う時間は増えた。何となく、これから自分の生活が変わりそうな気がする。

 詩織は早めに大学に行って、美紀がいるであろう美術係の研究室がある棟、通称「美術棟」で美紀を探す。偶然美紀の知り合いの男子学生に会って、美紀の居場所を教えてもらい、早く会うことができた。

「美紀、おはよう! 今日、西園寺さんに頼んでみるから」

 開口一番美紀にそう伝えると、美紀は嬉しそうに笑った。

「詩織、しくじんなよ。みんなにトリケラトプスん写真見したら、全員西園寺さんに会いたいって」

 会話を聞きつけてまわりの美術専攻の学生も入り込んできた。

「あのトリケラトプス作った人? あれほんっとすごかった。作った人と会えるの?」

「マジ? 俺聞きたい事メッチャあるんだけど! バイト休んでも行くわ!」

 自分がこんなにみんなの期待を背負うことになるなんて。詩織はなんだか得意な気持ちになった。



 夜、詩織は西園寺さんを訪ねた。隣には悠もいる。インターホンを押すと西園寺さんはすぐ出てきてくれた。

 悠が恐竜のお礼を言った後、詩織が事情を話すと、西園寺さんは微妙なリアクションをした。

「食事ですか……あの……何人くらいですか?」

「美紀の話だと、五、六人らしいです。でもひょっとしたら、もっと増えるかもしれないです」

 詩織がそう言うと、悠の顔がピクッとこちらに動いた。悠が何を思っているのかはよく分からないので、詩織はひとまず話をつづけた。

「彫刻とか工芸に興味がある美術専攻の子達がすごく興味を示してるみたいで、色々教えてもらえるって期待してるみたいです」

 西園寺さんは下唇を人差し指の爪に乗せて考えている。

「すいません、少し考えさせてください。明日お返事します。……じゃあ……お休みなさい」

 言ってすぐ、西園寺さんはドアを閉めてしまった。

 何かしくじってしまったのだろうか。詩織が悠を見ると、気まずそうに笑っている。

「あのさ……何かまずかった?」

 小声で詩織が聞くと、悠は軽く笑った。

「いや、確かに失敗したかもだけど、これはね……もうしょうがない。詩織んち行っていい? 部屋で話そ」


 アパートの階段を登りながら詩織はちょっと憂鬱になっていた。

自分はちょっと新しい友達が出来たくらいで、何でもできる気になって、このザマだ。みんな楽しみにしているのに。しかも、自分はしくじった事にすら気付けない。でも悠は全部分かってる。悠と自分にはそれくらいの差がある。

 悠がそれに気付いたら、こんなヤツどうでもいい、と思われてしまうかもしれない。いや、かもじゃなくて、絶対そうなる。そして、こっちもそれに気付いてそばにいづらくなって、連絡できなくなって、そのうち「一応友達なんだよね」みたいな関係になるんだ。二週間とかからないんじゃないだろうか。

 詩織はそんなふうに話をどんどん頭の中で広げていた。


―― 嫌だな…。


「さっきさ、私、何がまずかったの?」

部屋に入って詩織が席に着くと、悠は自分が座る前にもう話し始めた。

「西園寺さん、何人くらいですかって聞いたでしょ? それを聞くのってさ、十中八九、大勢いるのが嫌だからだよ」

「あー……」

「五、六人が西園寺さんにとって多いか少ないかは分からないけど、詩織さ、『増える』って言っちゃったでしょ? しかも目安も言わずに。そりゃあ不安だよ。」

「うん…。」

 悠はしゃべりが波に乗ってきた。

「そんなところに、『大学で美術を専攻してる子達が期待してる』なんて言っちゃったらね。西園寺さんは私達からすれば、模型作るのすごく上手いけど、美術専攻の大学生はどれくらい上手いのか、私が知らないように、西園寺さんも知らないでしょ。期待に応えられるか、ひょっとしたら逆に馬鹿にされるんじゃないかとか、怖いんだと思うよ。それは当然だよ。正直ねー、西園寺さん、断ると思う。そうなったらさ、今回は諦めよう。美紀ちゃんには悪いけど」

気持ちよさそうに最後まで喋りきると、悠ははっとしたようにパチパチッと瞬きをした。どうやら詩織の顔色が暗くなっていることに気付いたらしい。

「いや、詩織、大丈夫だよ。だって……そもそも、ひょっとしたら西園寺さん行くって言うかもしれないし。それに……」

「あ、うん。そうだよね。どっちにしろさ、返事待つしかないもんね」

 詩織は悠の言葉を遮って話を終わらせようとした。

「ねえ詩織、そんなに気になる? しくじった事」

「平気平気。今日は一杯に授業入ってたからさ、ちょっと疲れたんだよ。今日はもう寝る」

そう言って何とか悠から逃げ切ると、詩織は悠が帰った後の部屋で、一人でひたすら悶々と過ごした。



                  *



 次の日は一日中土砂降りの雨だった。詩織が大学から帰ってくるころには、アパートの庭は沼と化していた。大きな雨粒が庭の草や泥、アパートの屋根、壁を叩いて大きな音を立てている。

 そんなアパートの玄関先で、西園寺さんのボソボソとした声を聴き取るのは容易ではなかったが、答えが「ノー」である事は詩織にもすぐ分かった。西園寺さんは、手のひらを横に振ったのだ。

 やっぱり悠の言った通りになった。


―― 私のせいだ。西園寺さんの返事を悠に話したら何て言うかな…。「だから言ったじゃん」みたいなリアクションだろうな。


 詩織はしばらく自分の家で悶々としていた。頭の中が洗濯機のようにぐるぐると目まぐるしくかき乱れる。

 でも綺麗になんかならないどころか、どんどん回転が速くなって、水は黒く黒くなっていって、底が深く深くなっていく。

 遠心力で意識が霞んで、今目の前にある小さな座卓が何なのかすら忘れてしまい、頭は激しく動いているのに、何を考えているか自分でも分からなくなっていく。


ヴヴヴヴ!


 いきなりスマホが座卓の上で振動して大きな音を立てた。詩織はビクッと肩を震わせて、ゆっくり息を吐いてからスマホを取り上げた。

 思った通り悠から連絡だ。ただ、夕飯をこっちで食べないかという誘いだった。てっきり西園寺さんの返事をすぐ聞いてくると思っていたのに。

 詩織の緊張は一旦ほぐれたが、西園寺さんの事を聞かれるのは間違いない。悠は何て言うだろう。というか、「だから言ったじゃん」ってなるに決まっている。正直なところ行きたくない。

 でも、西園寺さんの事は遅かれ早かれ話す事になる。後に延ばしていつまでも憂鬱でいるより、思い切って今日話してしまおう。


 玄関から通路に出ると、雨はまだ滝のように降っていた。相変わらず土とほこりの匂いがする。部屋よりだいぶ冷たい外の空気を吸うと、詩織の頭の中は透き通った。さて、覚悟を決めて、行くか。

 悠の家に上がると、奥の部屋で亮太がまたスースーで遊んでいた。脇にある台所から、肉か何かを焼いている匂いがする。

 玄関で出迎えた悠は詩織に「お疲れさん」と声をかると、台所でジュージュー音を立てているフライパンの元に駆け寄って行った。

「もう少ししたら出来上がるよ。そこに座って待ってて」

 詩織はそう促されるまま、テーブルの玄関側の席に着いた。とりあえず「いい匂い」と言うと、悠が「そうでしょ?」と返してくれたが、次に何を言ったらいいのか分からず、後は黙って料理が出来るのを待つしかなかった。

 おそらく悠の方から西園寺さんの返事を聞いてくるだろう。何て言おう。悠のリアクションを少しでも軽いものにしたい。


―― 当たり前みたいに「え? ああ。ダメだったよ」みたいな? ……不自然だな。悠は私の顔色が暗い事に気付いてるんだから、演技だって見抜かれちゃう。なら逆に思いっきり暗い感じで「……断られちゃった」とかは? ……なんかしっくりこないな。悠のフォローをこっちから促しているみたい。その後優しくフォローされても後味が悪いっていうか、申し訳ないな……。


 少しすると、夕飯のどんぶりが三つ、テーブルに並んだ。ご飯の上に刻みキャベツが敷いてあって、その上に長ネギと一緒にゴマ味噌炒めにした豚のこま切れ肉がのっている。

 甘い美味しそうな匂いを嗅いで、詩織は少しだけ気持ちが和らいだ。

「あー、美味しそう」

「濃いめに味付けしてるからね。半分くらいはそのまま食べて、残りはお湯注いでお茶漬けにすると美味しいよ」

「へえー」と詩織が返した直後に、質問が飛んできた。

「ねえ、西園寺さん、断ったでしょ?」

 詩織はドキッとした。この聞き方は「だから言ったじゃん」ってなりそうな感じだ。でも、もうしょうがない。聞かれちゃったんだから、言うしかない。

「あのさ…、手をね……こゆふうにやった。」

詩織はそう言いながら手にひらを軽く横に振った。ちょっとだけふざけた感じにすれば、軽い空気になるかなと思ったからだ。

 それを見た悠は笑い出した。

「あっはははは! 手のひら横に振ったの? ぶっきらぼうな断り方!!」

 詩織の方もつられて笑いが出てきた。

「いや、口でも何か言ってたんだけど、雨の音でよく聴こえなかったんだよね。ボソボソしゃべってたから」

「雨の音にかき消されるとか! どんだけ小さい声でしゃべってんの?!」

 よく考えたらこの程度の事。笑って「あぁ~あ」とか言ってすませてしまえばいいのだ。

「ねえ悠、西園寺さんご飯一緒に食べないって事?」

 亮太がくちゃくちゃ音をさせながら会話に入ってきた。

「飲み込んでからしゃべりな。美紀ちゃん達とは食べないみたいだよ」

悠に言われた通り口の中のご飯を飲み込んだ亮太はまた口を開いた。

「なんで?」

「不安なんでしょ。大学生は西園寺さんより恐竜作るの上手いかもしれないって」

 悠の答えに亮太はすぐこう言った。

「なんで上手いと不安なの?」

「ん? 教えられないから」

「教えられないと何で不安なの?」

「えぇ? 美紀ちゃん達は教えてほしいと思ってるから」

「そうなの?」

「そりゃ思ってるでしょ」

「美紀さんて恐竜作るの上手いの?」

「そんなの知らないよ。詩織、どうなの?」

悠に聞かれて詩織は考えたが、美紀の彫刻作品はまだ見た事がない。

「私も知らないけど……でもトリケラトプス見て『神だよ』とか言ってたから、西園寺さんの方が上手いんじゃないかな……」

「それなら、何とかしてもう一度頼んでみよう」

詩織は思わず「ええ?」と怪訝な顔をしてしまった。

「どうやって? だってさ、単に説得したって……」

「まずは、なんとかして西園寺さんに自信を持たせてあげよう。そうしたら、もう一度頼めば受け入れてくれるかもよ」

正直言って、詩織にはうまくいくとは思えない。

「うーん、でもさ…」

「とりあえず美紀ちゃんとか、詩織の大学の美術専攻の子達に会わせてよ。まずはそこからでしょ。明日は定休日だから、私も大学行くよ」

「ああ……分かった」

悠のプッシュに詩織は渋々オーケーを出した。

悠はテキパキと物事を判断するし、行動も早い。何かを見たり聞いたりすると、すぐに自分なりの答えを出せる。西園寺さんに断られた後、ただウジウジしているだけの自分とは大違いだ。

詩織は一つ胸のつかえがとれたものの、やはりもやもやした気持ちで悠の家を後にした。

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