すけこまし 2/6 ~亮太と詩織さんの一日~

「あのさ、りょうた君、朝ご飯食べた?」

 亮太は固まった。朝ご飯はまだだが、垣沼さんの声は不機嫌そうで、何となく返事をするのが怖い。悠が垣沼さんを教えてくれた時に、嫌味を言っていた事も気にかかっていた。悠があんな言い方をするのは、きっと垣沼さんが性格が悪い人だからだろう。

 うっかり下手な事を言ったらすぐ怒られるかもしれない。亮太はとにかく怖くて緊張していた。

「ん? どう? 食べてない?」

「…まだ……」

 垣沼さんは冷蔵庫からラップがかかったお皿を取り出した。

「これ食べて。昨日の食べ残しだけど」

 お皿に乗っていたのは半分に切ったメロンパンだった。亮太は「ありがとうございます」とお礼を言って、テーブルに座り、一口かじった。

「!!」

 パッッサパサだ! 口に含んだ瞬間、唾液が全部吸い取られてしまった。これ昨日の? 先週のじゃないのか? 先月でもおかしくない! それくらいパッッサパサ。それに加えて緊張のせいで、とても喉を通らない。

「何か飲む? お茶しかないけど」

 助かった! 亮太がもぐもぐしながらうなずくと、垣沼さんはマグカップに冷たいお茶を注いでくれた。亮太はそのお茶でなんとかメロンパンを流し込んだ。

「家の鍵渡すから、帰ってきたらこれでドア開けてね。私は六時過ぎくらいに帰ってくるから。テレビでも見て待ってて」

「うん……」

 垣沼さんはずっと不機嫌そうな顔のままだ。それで逆に、亮太はチラチラと垣沼さんの顔色をうかがっていた。何かの拍子に笑ってくれないだろうか。

「垣沼さん」

「ん?」

「……おうち何時に出ますか?」

 これで笑ってくれるはずはないだろうが、他に言う事が思いつかない。

「八時半かな。あ、そうか。りょうた君そろそろ学校行かないといけないよね。じゃあ、私も一緒に出ないとな」

 垣沼さんは鼻で軽くため息をついて、リュックにノートやファイルを詰め込み、立ち上がった。家を出るのかと思いきや、垣沼さんはリュックを玄関の近くに置くと、洗面所に行ってしまった。

 何をしているんだろう。気になるが、のぞいて怒られでもしたら大変だ。亮太は洗面所の手前でじっと待っていた。

「ん~……あぁ、もういいやこれで」

 やっぱり不機嫌そうな声だ。垣沼さんは短い髪をフワフワ撫でながら、スタスタと洗面所から出てくると、リュックをぐいっと勢いよく持ち上げて背負い、玄関のドアを押し開けた。

「はい、行くよ」

 亮太は急いで靴を履いて、垣沼さんについて家を出た。



                  *



 亮太は学校にいる間もずっとドキドキしていた。垣沼さんから預かっている鍵をもし無くそうものなら、どんな恐ろしい事になるか。授業中何度もポケットに手を入れて鍵があるのを確認し、休み時間も校庭には行かずに教室で恐竜図鑑を見ていた。

 学校からの帰り道も亮太は何度もポケットに手を突っ込んで鍵を確認しながら歩いていた。でもひょっとしたら、こんな事をしていたら逆に怪しまれて、悪い大人に目をつけられるんじゃないか。そんな気すらしてきて、もう、すれ違う大人がみんな怖い。

 自分が襲われて、鍵を奪われたら、垣沼さんが泥棒に入られるかもしれない。そうなったら垣沼さんだけではなく、悠にも怒られる事になる。追い出されるかも! どうしよう。ポケットから手を出すか? でも、それでなくしてしまっては元も子もない! どうしたらいいんだ!!


 もちろん怪しまれるはずもなく、襲われるはずもなく、ポケットの中で握りしめていて鍵をなくすはずもなく、亮太は無事に垣沼さんの家まで帰ってきた。ドアを開け、ランドセルを部屋の隅にそっと置いて床に腰を下ろした。

 そう言えば、垣沼さんはテレビを見て待ってるようにと言っていた。特に見たくはない。だが垣沼さんが帰ってきた時に自分がテレビを見ていないと、何か気に障って、怒られるかもしれない。

 亮太はリモコンを探してテレビをつけ、また腰を下ろしてテレビを見始めた。その後ずっと、亮太はテレビをつけっ放して、座りっぱなし、部屋の物には一切触れずにじっと待っていた。

 トイレに行くのも我慢していたが、さすがに我慢しきれずに一回だけ使ってしまった。バレて怒られたらどうしよう……。



                  *



 垣沼さんは六時すぎに帰ってきた後も、不機嫌な雰囲気で全然笑わなかった。亮太がいる事が相当迷惑なのだろう。詩織さんは二人分のお茶を持ってきて亮太のそばに腰かけると言った。

「そうだ、私の方は自己紹介してなかったよね。私詩織っていうの。『詩織さん』って呼んでね」

「はい。詩織さん、ごめんなさい」

 亮太が恐る恐る謝ると、意外な事にそれを聞いた詩織さんは、ふわっと笑顔になった。

「いいのいいの。怖がらせちゃったか。そういえば私、朝からずっと感じ悪かったかもね。ごめんね。あのさ、別にりょうた君の事嫌いなわけじゃないんだよ。それにさ、実はたいして迷惑でもないんだよね。私、木村さんが急に来たからちょっとびっくりしちゃってさ。あの人、私みたいなガキんちょ好きじゃないと思うからきっと」

 詩織さんの表情は今までとは打って変わって、柔らかくて優しげで、まるで別人。本当はこんな人だったんだ。悠は絶対気付いていない。

「夕飯にしようか。あのさ、スープパスタとパエリア、どっちがいい?」

 パエリアって何だ? という亮太の表情を詩織さんはすぐに読み取ってくれた。

「あ、パエリアって言うのはね、イカとか貝とか、ピーマンとかが入ってるご飯の事だよ。本当はお鍋みたいなので作るんだけどさ、炊飯器で作れるのがあるの」

 口で説明されてもよく分からない。亮太は取りあえずスープパスタを選んだ。


 詩織さんに「お手伝いしてくれる?」と言われ、亮太も夕飯の支度を手伝い始めた。

 亮太が指示通りテーブルに食器を並べていると、視界の端で詩織さんが冷蔵庫を開いた。

「あれ、ベーコンはどこに……ん?」

 まさか、ベーコンがない? ひょっとして、今日の夕飯は肉一切なしになってしまうのか?! 不安になって亮太が詩織さんの手元を覗きこむと、詩織さんは一枚の小さいお皿を冷蔵庫から取り出していた。

 さっきの「ん?」は、このお皿に向けられたものらしい。乗っているのは、ラップがかけられたメロンパンだ。半分の。

「あれ、これいつのヤツだ?」

 詩織さんはそう呟いてラップをはがしてメロンパンを突っついた。

「あ、これが昨日の? ……あのさ、りょうた君、今日さ……お腹痛くなったりしなかった?」

「ううん」

「そう。じゃ大丈夫だねきっと」


 ベーコンは冷蔵庫の端から詩織さんが発掘し、亮太は洋室にスパゲッティの麺を取りに向かった。

 棚の下に押し込んである収納ケースを引っ張り出し、蓋に手をかける。その赤い蓋がとにかく固い。右手で開けようと、つまんでグイグイ粘り強く引っ張ったが、ビクともしなかった。こっちは早く夕飯が食べたいのに、憎たらしい蓋だ!

 今度はケースを床に置き、自分も座って、両足の裏でケースを挟んだ。これでこんな雑魚蓋はチョチョイのチョイだ。亮太は両手で蓋を思い切り引っ張った。

「グポン!」と大きな音を立てて蓋が吹っ飛び、スパゲッティやお茶漬けやスープの小袋、開封済みのグラノーラの袋が、亮太の足元いっぱいにぶちまかれた。

 やばい。詩織さんに見つかる前に片付けないと、今度こそ怒られるかもしれない。亮太が慌てて片づけ始めると

「どうしたの?」

 すぐに詩織さんが来てしまった。それはそうだ。数メートルしか離れていないのに、あの「グポン!」という大きな音が聴こえないはずはない。

 詩織さんは亮太の足元を見ると「あららら」と言いながらすぐに亮太の足元の小袋を片づけ始めたが、全然怒らなかった。


 詩織さんと一緒に片づけをしていると、インスタント味噌汁の袋が亮太の目にとまった。悠の家に来た最初の夜、エビが入った味噌汁を作ってくれた。体に染みていく美味しさ、心地よさは忘れられない。

 亮太がインスタントの味噌汁を手に取って眺めていると、詩織さんはすぐに気付いてくれた。

「あ、それ飲んでみたい? 作ろうか」

「うん」

 亮太が詩織さんの指示通りに食器をテーブルに並べていると


 ボン!


 と後ろから大きな音が鳴り響いた。驚いて亮太が目を向けると、詩織さんが収納ケースの蓋をはめて、上、斜め、横、様々な方向から強く叩いている。「ボンボンボン!」と何度も何度もしつこく繰り返し。

 亮太の目にはとっくに閉まっているように見えるが、詩織さんは納得がいかないらしく、かなり長い事叩いていた。こんなやり方をしていたから、あんなにきつく閉まっていたのだろう。



                  *



 悠は仕事を終えて、実家で母の愚痴を聞きながら夕飯を食べていた。もう夜遅く、父は眠っている。母と悠の二人きりだ。こうなるともう母の話は止まらない。

「おとといスーパーに行ったときにね、お豆腐買ってきたのね味噌汁の具に。でもね、開けてみたらヌルヌルだったの! 賞味期限前なのに! あそこ、どういう商品管理してるんだか! 前も、カット白菜買ったら中身キャベツだったしね。駅にくっついてるもう一つのスーパーの方が品物はずっといいの。でもね! あそこの海鮮巻きとかサラダ巻きは山盛りにわさび入ってて、もう辛くて辛くて。基本的に店員さんの感覚が変なの!」

「へぇ。あーホント? そうなんだ……」

 悠は適当に相槌を打ちながら頭ではずっと亮太の事を考えていた。今日はすぐ寝て、明日早くに迎えに行ってやらなくては。

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