第二話 すけこまし

すけこまし 1/6 ~お泊りへ向かう~

 金曜日の朝、悠は困っていた。メールで母から「今日実家に帰って明日まで泊まれ」と急に要請されたのだ。おそらく大した用事があるわけでもなく、母が悠に会いたくなったというだけだろう。

 実家はここから電車で三十分ほどなので、帰ろうと思えばすぐに帰れる。母からこういう連絡がくるのは、たまにある事だった。


 もちろん、亮太を一人で残して行くわけにはいかない。しかし、以前母からの要請を断った時、母は根拠なく心配していきなり悠の家にすっ飛んできた事があった。今来られたら、亮太を預かっている事が知れてしまう。何を言われるか分からないし、警察に行けだの何だの、面倒になるかもしれない。それを避けるには、一日だけ誰かに預かってもらうしかない。

 悠はこのアパートで適任なのは誰かを順番に考えてみた。



 一号室の西園寺さん。不愛想で、暗い感じの背の高い三十代男性。服装には無頓着でいつもクタクタのTシャツにジーパン。ヒゲは剃っているが、髪はいつもボサボサ。休日になると、部屋から電気工具の音が聴こえてきたり、鼻をつくような臭いが漂ってきたりと、何をしているのか分からない怪しい人だ。却下。


 二号室の横田さん。ご高齢の夫婦。奥さんの方は優しそうな人だが、旦那さんの方は厳格な雷ジジイといった雰囲気。亮太がひっぱたかれたりするかもしれない。下手したら悠まで何か説教をくらうかも。却下却下!


 五号室の垣沼さん。水玉のワンピースとか、フリル付きのシャツとか、ガーリーでオシャレなファッションの、悠より小柄な女子大学生。挨拶しても素っ気ないし、悠の事を見る時にはいつもどこか不機嫌そうな顔をしている。却下したいが一応保留。


 七号室の山崎さん。一人暮らしの中年のおばさん。誰かが外の通路でちょっとでも物音をたてると「うるさい!」と文句を言ってくる。常に垣沼さん以上に不機嫌そうな顔をしている。亮太を預かってくれなんて言ったら、どんなに文句を言われるか。却下。


 ……垣沼さんに預けるのが一番「マシ」だろう。


「りょうた、私今日いないから、垣沼さんのおうちに泊めてもらうんだよ。明日の朝帰って来るから」

「え、垣沼さんて誰?」

「お隣に住んでる大学生の女の子。私と違ってオシャレで、頭よくて、いっぱい遊んでる子。よく彼氏っぽい人が来て、一緒に出掛けたりしてるでしょ?」

「なんでおれだけ泊まるの?」


 これは亮太の立場に立てば当然の疑問かもしれないが、あまり時間がないし、いちいち答えるのは面倒だ。

 悠は「この家は夜、私がいないとお化けの家になる、実はこのアパートでお化けじゃないのはもう私と垣沼さんだけだ」という身の毛もよだつような嘘をかまし、亮太を納得……というか黙らせた。


 亮太の荷造りをしている間に出発予定時刻を過ぎてしまった。悠は大急ぎで自分の準備をし、亮太を連れて外へ出た。


「泊めてくれる時は、垣沼さんに『よろしくお願いします』って言うんだよ」

「ん」

 声がかすれている。緊張しているようだ。いきなりよく知らない人の家に一人で泊らせられるのは確かに怖いだろう。申し訳ないが、一晩だけの辛抱。


 インターホンを押すと、垣沼さんはすぐに出てきた。

「はい」


 垣沼さんは、相手が悠だと分かると軽く眉間にしわを寄せて怪訝そうな顔をした。悠を見る時はいつもこんな風だ。感じが悪い。悠は何とか笑顔を保って垣沼さんに言った。


「おはようございます。垣沼さん、私急に今日一晩家を空けなきゃならなくなってしまって。突然で申し訳ないんですけど、一晩だけりょうた…あ、この子を預かってもらえませんか?」

「えっ今日?! ……今日か……」


 嫌味とまではいかなくても、少し相手にプレッシャーをかけるような言い方だ。悠はできる限り丁寧に頼んだ。

「ご迷惑だとは思うんですが……。明日の朝には迎えに来られるんです。本当に急で申し訳ないんですけど、他に頼れる人もいなくて。なんとかお願いできませんか?」

 垣沼さんは亮太をちらりと見た後、音を立てずに小さくため息をついた。

「……分かりました」

 よかった! 悠の体にたまった濁った空気が、口から抜けた。


「ありがとうございます。よろしくお願いします。ほらりょうた」

「うん」

 悠は「『うん』じゃないでしょ!」と言う代わりに、背中をつついた。

「あ、よろしくお願いします」

 垣沼さんは亮太に「はい」と返事をして、亮太を中に入れてドアを閉めた。


 引き受けてくれて一安心だ。たった一晩だが、その間に亮太が嫌な思い、怖い思いをしなければいいが。

 悠は一抹の不安を感じながらも、そのまま仕事に向かった。

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