道徳授業の重要性

 最近、有識者が小学校の利害をしきりに討論している。

伝統工芸などの職人技を伝授するのを先にして、他人に迷惑をかけてはいけない。

そういう道徳の授業は後回しにするといった具合だ。

天文や物理学、化学などは「技術」だ。

そして、両親や年上の人間に対して敬語を使い、礼儀を尽くすのは「道徳」だ。

物理や化学を習得しても、道徳を身につけていなければ、世間からの評価は徐々に悪くなっていく。

もっぱら中国思想の教えを正しく広めたいと考え、あるいは小学校の教科書で、論語や大学レベルの経典を採用したい。と主張している者がいる。

なるほど、一理ある。

単に技術や知識だけを教え、道徳がなにか? 理解し得ないまま、大人になればそれは「猛獣」だ。

道徳の教えは非常に重要であるが、私の考えはちょっと違う。

決して道徳が不要と言っている訳ではない。とご理解頂きたい。

大人でも理解が難しい論語を小学校の授業で教える必要がない。と私は言いたいのだ。

あくまで、今の日本の実態は、ただ貧困層の子供たちに対して、文字を教えて、算数の計算が出来る程度までの場所なのだ。

学問を修めて、一通りの足し算や引き算、お金の計算など出来るようになれば良い場所なのだ。

知識や学問は過去を振り返る余裕がなければ、終わりも全く見えない果てしなき分野だ。

中国思想学者だけに限った話ではない。オランダ学の学者にだって言える事だ。

この辺の事情は穴だらけの欠陥構造だけに「うっかり屋さん」のそしりはまぬがれないだろう。

小学校の授業科目で、あれも必要、これも専門家になる為には重要な事柄だからと「図工・音楽・歌・体育」など全て子供達に教えてしまえ!

そう主張する者がいる。

物心つく前から家の手伝いに明け暮れて、心身ともにくたくたに疲れている子供に体操を教えてどうするの?

農家の子供は、朝日がまだ顔も見せない早朝から牧草を刈って、牛の世話までしている。

学校に到着するころには、もう体力気力ともにゼロの状態だ。

出来れば休息したい子供に向かって、やれ鉄棒しろだの、棒を登れ。とか……それ、なんて拷問?

論語や大学の授業にも同じ事が言える。

農作業に励む子供に、漢字を声に出して読ませ、その文字の意味を教えたら、覚えるのだろうか?

正しく理解してくれる事は、私は絶望的だと思っている。

子供にしてみれば、難しいうえに「つまらない」退屈な時間である。

そして、教える大人も、手ごたえの無さに脱力するだろう。

お互い不幸な思いしかせず、かついたずらに時間を浪費するだけだ。

昔から、物好きな親はごくたまにいる。

子供に漢字の読み書きをさせ、勉強させるけれど大抵、世間は「あの子は変わっている」と評価して、才能を発揮する事無く人生が終わってしまう。

結局のところ、歌唱力なり、絵の才能だったり、道徳にしても、教える時期や年齢を間違えると害にしかならない。という事を私は言いたいのだ。

くどいようだが、小学校とは、より上を目指す場所ではない。

家庭の事情で退学しても、不自由なく生きていけるように、人生の宝物ともいえる知識や能力を見につける場所とするべきなのが私の考えだ。

だからこそ、国民それぞれの所得の差ではなく、生徒自身の能力に応じて、国内の学校も二種類に分けねばならないと言える。

すなわち、前者は国民が日常生活を送るに当たって、困らないように教える場所であり、後者は学者の後継者を育てる専門的な場所だ。

お金に余裕があり、能力がある子供は小学校だけに留まっていけない。

あるいは最初から小学校をすっ飛ばして、より上の学校に入ってもいいだろう。

地方に中学校が必要だと説明しているのは、これが理由だ。

小学校→中学校→大学と順番に上がっていくように聞こえるが、金銭的な事情や学力に応じて、初めから入る場所を選ぶか?

あるいは成績次第で途中から飛び級させても良いだろう。

しかし、世間の多くの国民がそれはダメだと言う。

学校の種類を最低でも二つに分けて、高等学校で道徳の授業や中国の経典「四書五経」を使用すればいい。

ここでも私は反論してみようと思う。

道徳の教えも、人間を育てる一つの条件にして、絶対に欠いてはならないのは当然である。

例えるならば、道徳とは人間には欠かせない塩分のような存在だ。

それに加えて、道徳の種類には中国思想もあり、仏教もあれば、神道・キリスト教もある。

どれもすべて人間として生きていく上での必要な生き方を説明している。

しかし、日本には昔から中国思想がもっとも定着している。

まずは教える側の大人が慣れている事から子供達に教えていけば、問題は起こりにくいだろう。

ただ、それだけでは足りないからダメだ。

ブッタやキリストの本意は、明治の世となっている今では、はかり知る事が出来ないが、さておき彼らが教え説いた道を考察して行こう。

数百年、数千年も色あせることなく、中国学者達に人間としての道を教えて、多くの人が信じている事を考えれば、欠点はほとんどないと言っていい。

その中でも唯一、欠点らしきものを挙げるとすれば「道徳」を修めている完璧かんぺき人間こそ世の中の統治者となるべきである。という風潮だろう。

これは塩をちょっと神様に納めただけで、食べ物をささげた替わりにしようとしている事に近い。

塩分は非常に重要だ。これを欠かしてしまったら、生きていけない。

しかし、同時に人間は塩分だけでも生きて行く事が出来ない。

考えてみるに、道徳だけを修めるというのは、聖人方の本意ではないだろう。

後の世の学者達が、聖人方の本意に背くと知りながらも、これを論じあっているのは、いかんせんとも世間一般の意見が、共感しているからこそである。

道徳を修めた者が出世して、以降の自己資本とすればいい。勉強が出来なくとも、図工がヘタでも、運動神経が鈍くても、道徳だけすっぽ抜けている者はいない。という実情であろう。

要するに私と読者との間に誤解が生じている。という事はつまり、教育現場と学者の間で意思の疎通がうまくいっていない。証拠とも言えるのだ。

今、この記事を読んでいる時点で、すでに誤解している者がいるならば、私の言わんとしている本質の良しあしに関わらず、正しく伝わっていないなら無意味だと言いたいのだ。

さりとて、世の中は何事も真ん中になるよう意識している。

なぜ、真ん中なのか?

それは出来の良い悪いに関係なく、真ん中ならば可もなく不可も無いからだ。

古来から日本の教えとは、道徳と技術、どちらを重宝しているか?

質問されたら、どちらも同じぐらい大事にしていると答えざるをえない。

毎日の行いを良くする事に専念して、考える力をおろそかにすれば、詐欺師にカモられるだけだ。

かといって良い行いを減らして良いと言っているわけではない。

勉強して足りない部分を補い、すでに備えている能力とのバランスをはかれば、いっそう日本国家の文明はさらに躍進していく事だろう。

だから学者方も道徳だけにとらわれず、さらに励んで学力を向上させ、人柄と学力、両方申し分なく備えたバランス感覚でもって初めて専門分野である「四書五経」を更に議論していこうではないか!


初出:「福澤文集 二編」中島氏蔵版

一八七九年 明治十二年 八月

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