パステル・プロムナード
鯨武 長之介
これから歩む妻との散歩道
離れていても
「どうしても戻ってきてほしくなったら、これで帰りの電車賃以外、全額下ろしていいから」
僕が由美さんにそう告げたのは二ヶ月ほど前のことだった。
由美さんは元気にしているだろうか?僕は電車内の窓から見える、徐々に近付く故郷の景色を眺めながら思いふけていた。
◆
僕は晴れて自由の身となり、住み慣れた故郷を旅立った。
数週間前、僕は学校卒業と同時に就職して4年間務めた会社を退職した。もうこれで煩わしい電車通勤、大声で社訓を読み上げる朝礼、そして社長の誕生日に涙ながらに感謝の気持ちを伝える誕生会イベントともおさらばだ。
無職となった僕は、ひとつの思い付きを実践することにした。その思い付きとは、ずばり『日本一周』である。
男子たるもの、人生において一度は『冒険の旅』の憧れたものではないだろうか?ゲームやアニメ、映画の主人公を自分に置き換えて、広い世界に一歩踏み出そうと思ったはずだ。
幸い、今の僕には自由な時間、そして過重労働で休む間もなく使わないままの貯金が80万円近くあった。
僕はその半分を旅の資金にして、リュックひとつの荷物だけで一ヶ月間の一人旅に出ることにした。無計画な日本一周の旅が今、始まろうとしている。
だけど旅立つにあたり、ひとつだけ気掛かりがある。それは付き合って4年になる僕の彼女、由美さんのことだ。彼女は僕の突然のこの思い付きをどう思うだろうか。
「うん、わかった。気を付けてね」
由美さんは、いともあっさり軽いノリで返事をした。
正直、少しくらいは引き留めるか、寂しがる態度を見せてくれてもよいのではないかと思った。
「旅に出掛けてる間は、よほどのことがない限り連絡はしないと思うから」
由美さんの態度に、僕はほんの少しばかり火が着いたのだろうか。思わずくだらない言葉を投げかけてしまった。しかし、由美さんはそれも特に気に留めることなく、微笑みながら頷いた。
旅立つ当日、駅のホームまで見送りに来てくれた由美さんと僕は、無言に近い時間を過ごしながら電車を待っていた。ある意味、気まずさとも倦怠感とも捉えられるような、短いようで長い重い空間だったかもしれない。
電車が到着する直前、僕は由美さんに一冊の預金通帳と印鑑を渡す。通帳には僕の全財産が刻まれていた。
「どうしても戻ってきてほしくなったら、これで帰りの電車賃以外、全額下ろしていいから」
最後の抵抗とばかりに、僕は由美さんに一言だけそう告げて電車に乗った。
◆
僕は旅立ちの最初こそは、少しばかり由美さんを試すようなことをしたなと後悔する。そして電車で一時間ばかりの県外に降り立ち、あてもなく歩き始めたときも、海を漂流する小物のような虚しさを感じていた。
だけど、そんな僕の反省の色はすぐに自由な世界と好奇心に塗り消された。
それからの僕の一人旅は、由美さんのことを忘れるくらいに未知の体験、感動と発見の毎日だった。
南は九州、北は北海道まで、主に少しばかりの距離を電車で移動し、疲れるまで、暗くなるまで名所や着の身着のまま日本中を渡り歩いた。
僕の旅の行き先は気まぐれで無計画そのものだったが、旅費だけは計画的にというか、大金を持ち歩かないように財布の中身は常に一万円以下を貫き通した。それが適度な緊張感と恐れのない安心感を兼ねたスタイルを生んだ。
僕の旅は当初予定の一ヶ月を大幅に超えて、二ヶ月にも及んだ。その間、本当に色んなことがあった。
夏であるのをよいことに、宿泊費をケチって何度も野宿したこと。
お寺や一人暮らしで畑を営むお年寄りの家に泊めてもらったこと。
ヒッチハイクした長距離トラックのおじさんと、互いの半生を語り合ったこと。
駅一本分くらい歩こうと思ったら、そこは山道経由で夜中まで掛かったこと。
無人駅で寝ていたら、近くで起きた強盗事件の容疑者で警察に連行されたこと。
行き先で知り合った縁で、オカマ・バーで数日間、住み込みで働いたこと。
そのどれもがひとつの物語になるくらい、可笑しくて楽しかった思い出だ。
◆
旅の間に起きた出来事のひとつひとつを振り返るうちに、電車は僕の故郷の駅へとたどり着いた。たった二ヶ月あまりでは、何も変わらないのは当然だが、不思議な懐かしさが込み上げてきた。
「おかえり。元気だったみたいだね」
駅のホームで僕の耳に届く、聞きなれた優しい声。その主はもちろん由美さんだった。前日、僕は旅立ってから一度も連絡していなかった由美さんに帰郷することを告げた。
「明日、夕方に電車でそっちに戻るから」
「うん、わかった。駅まで迎えに行こうか?」
「そうだね、お願いするよ」
僕らの久し振りの会話は、特に盛り上がることなく、淡々と短めに終わった。
由美さんが運転する車中でも僕らは静かだった。
「元気してた?」や「変わりはなかった?」くらいの些細な確認や返事と相槌だけが、ときおり繰り返されるだけだった。
なんで由美さんは、一言も寂しさや不満を漏らしてくれないのだろう。
由美さんとの再会はとても嬉しい。だけど、僕の中では、何とも言えない悔しさと不安も渦巻いていた。
今回の旅の終わりの経緯だが、一応は区切りよく日本中をまわったのもあるが、僕が寂しさと不安で音を上げたというのが正直なところだった。
そうこう思いを巡らせるうちに車は僕の住む家の前にたどり着いた。
本当はこのまま、二人でゆっくりご飯でも食べながら、由美さんの近況や気持ちを聞きたかった。そして、僕の今回の旅の出来事を話したかった。だけど意地を張っていた僕は、「今日は帰ってゆっくりするよ」と言ってしまった。
僕は最後まで由美さんに「寂しくなかった?」「連絡なしで不安はなかった?」と、素直に聞けなかった。
「あ、これ返すね」
車から降りる直前だった。由美さんは僕が旅立つ前に預けていた、預金通帳と印鑑を差し出した。
余談だが、当初一ヶ月の予定だった僕の旅の期間は倍の二ヶ月となったが、その間に費やした旅費は、当初の予算の半分未満、20万円も掛からなかった
僕は由美さんに「ありがとう」と、お礼を言いながら、二冊の通帳と印鑑を受け取った。
ん?どうして通帳が二冊あるのだろうか?当然、僕はその違和感に気が付く。僕が由美さんに渡した通帳は一冊のはずだ。
通帳を見ると一冊の表紙には【繰り越し済】と印字されていた。
僕はその通帳を開き中身を眺める。少しして僕は涙が溢れだした。
7/10 ヒキオトシ 5,000 無事 ✓
7/21 ヒキオトシ 3,000 無事 ✓
7/25 ヒキオトシ 8,000 無事 ✓
・
・
・
9/11 ヒキオトシ 5,000 無事 ✓
そこには、もう一つの旅の記録が残されていた。
僕が少しずつ引き落とした心の通わない金額の履歴・印字とともに、ボールペンや鉛筆などで書かれた、由美さんの手書きの印があった。
由美さんはこの二ヶ月間、決して無関心だったわけじゃなかった。
僕を心配してくれていた。信じていてくれた。そして、旅の無事を見守っていてくれた。連絡も入れずに旅を続けていた僕に文句のひとつも言わずにいてくれた。
僕は涙でグシャグシャになりながら、嗚咽を漏らしながら由美さんに感謝と謝りの気持ちを精一杯伝えた。
あれ以来、僕は二度と由美さんの気持ちを試すような、馬鹿な真似はしなくなった。疑いや誤解となりそうな気持は隠さずにいつでも素直に伝えて、また、訊ねるようにもなった。
当時を思うと、あれは僕の自分勝手な最初で最後の倦怠期だったと思う。
だけど由美さんは何も変わっていなかった。僕はそこを勝手に誤解して、いつの間にか、我が儘で贅沢になっていただけだった。
これが、僕が彼女との結婚を決意した出来事だった。
パステル・プロムナード 鯨武 長之介 @chou_nosuke
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