NAKAO electric brain

第漆話 転校生

 しん、と澄み切った朝の空気。道場に張り詰める静けさ。

 黙想。道着姿の処凛は目を閉じて、精神を集中させる。


 岸田道場。処凛かりんが居候の身を置く、父の古い知り合い岸田征史きしだまさしが師範である、古道場。


 左手側の床に置かれた竹刀を手に取り、剣道の型にならって立ち上がる。

 竹刀を構え、素振り――それは処凛の日課であった。

 朝五時の起床。その神聖な――戦うための力をもらった――場所を、毎朝欠かさず掃除して、その後道着に着替え、素振りを行う。


「ふっ……ふっ……」


 ――向井弥生、鯔澤葉月。私を含めて、三人が揃った。

 残る計画の被験体、〝ナンバーガール〟は、三人。


 私がを得てから、三ヶ月ほど。ようやく見つけた〝希望〟――向井弥生むかいやよい

 そして奇妙なことに、偶然にも彼女と同じクラスメイトだった鯔澤葉月いなざわはづきが、計画の被験体ナンバー2だった。


 おそらく、他の被験体も既に、それぞれの能力が発現していることだろう。

 早く探さなければ。被験体たちは十代を終えるまで――正確に言えば高校を卒業するまでは、この街か、F県内のどこかで暮らしているはずだ。教団内の抵抗組織が、それぞれの子供を県内に在住し続ける確実性の高い預け先へ手引きしたからだ。――来たる日に、速やかに結集させることができるように。

 ――しかしもし、何かしらのイレギュラーがあって、彼女らのうち一人が海外で暮らしているなんてことがあったとしたら? 居場所が分かりさえすれば、私は必ず探しに向かう。

 でも、その手掛かりさえ、見つけることができなかったら……?


 大丈夫。父が、母が、向井夫妻が、必ず繋ぎ止めてくれているはずだから。

 今はそう信じて、行動していくしかない。


 処凛は素振りを終え、竹刀を片付ける。

 そして、道場の端にある畳貼りの小さな部屋に、一礼して足を踏み入れる。


 床の間の前に正座して、呼吸を整える。

 床の間の中心に置かれている刀掛けには、一振りの日本刀。


 処凛は両手をゆっくりと伸ばし、刀の鞘と柄に触れ――持ち上げた。


 傍から見れば、優雅で、流れるような所作に思えるが、実際には、そうではない。

 目を凝らせば、刀掛けの足が接している部分の床が、凹んでいる。


 刀の重さは五十キロ近くあった。


 その刀は、持ち上げられない刀として、道場の門下生たちには知られていたが、その真相は、処凛の父が彼女のために遺した、〝戦うための武器〟であった。



 岸田征史は、友人である処凛の父の言葉を守り、処凛が十五歳になった日から毎朝、必ずこの刀を持ち上げることを――持ち上げようと試みることを、日課にさせていた。

 処凛は意味も判らず続けていたが、ある時思いがけなく、その日はやってきた。



 ここ数日の異様な身体の痛みや、時折麻痺したように動かなくなる四肢、ずきずきと重い頭痛、原因不明の発熱を繰り返しながら、その日処凛は日課である剣術の鍛錬を行っていた。

 道場でひとり面打ち機に向かって竹刀を打っていた時、突如電撃のような激痛が全身を襲った。倒れ込みそうになった次の瞬間、嘘みたいに身体は軽くなり――――そして、振り下ろした竹刀は捉えた面打ち機を粉々に破壊した。

「――――!?」

 処凛は突然の出来事に、目の前の現象に、驚いた。

「――ッ!」

 叩き砕かれた面打ち機の破片が、処凛の頬や腕の肌に傷をつける。

 しかし驚くことに痛みはほとんど感じない。そしてものの数秒で、その傷は、――癒えた。

「――!?」


 時間にしてわずか一瞬。その一瞬に起きた全てが、処凛を混乱させた。


 能力の開花。

 初の成功被験体である処凛は、身体能力と自己治癒力の強化というシンプルな改造を施されていただけであるが、その力は、到底人間のそれではなかった。


 道場中に響き渡った大きな音に慌てて姿を見せた征史は、目に飛び込んだ情景に全てを察した。「ついにこの日が来たか」と小さく漏らし、処凛に歩み寄る。

 困惑する処凛を畳の小部屋に待たせ、蔵の地下倉庫で大事に保管されていたアタッシュケースを持ち出した。


「処凛、今からおじさんが言うことを、心して聞いてほしい」


 両親のいない自分を大切に育てて上げてくれた岸田家。時に目的が理解できないほど厳しい剣術の指導を受けたこともあったが、それでも多大なる恩義を感じていた、そんなおじさんの、いつになく真剣な眼差し。そして告げられる、真実――――


「――このアタッシュケースの中に、君のお父さんが遺した真実の全てが入っている。そして――」

 征史は立ち上がり、床の間に飾られた刀に目をやる。

「その刀を、持ち上げてみなさい」


 処凛は疑問符を浮かべながらも立ち上がり、床の間の前へ正座する。毎朝行うように、呼吸を整えて、両手を刀へ差し出した。そして――

「――――!!」

 いとも容易く、その刀は持ち上がった。

「えっ……そん、な……これって……」

「その刀は君のお父さんが、君へ託しただ」



 ――――そう、これは、私に託された、力。

 処凛は刀を手に取り、立ち上がる。



「あら、処凛ちゃん、おはよう」

 顔を洗いに洗面所へやってきた岸田征史の妻が、シャワーを浴び制服に着替え終えた脱衣所の処凛に挨拶する。

「おはようございます、おばさん」

「今日からね」

「はい」

「いろいろ大変だと思うけれど――私たちは、処凛ちゃんと、処凛ちゃんのお父さんお母さんの、味方だからね」

「――ありがとうございます」

 処凛は礼を言って、ひもで括られたを、首にかけ制服の下にしまった。


 ――鍵。父が私に宛てたアタッシュケースの中に、たくさんの紙の資料と一緒に入っていたもの。これが何なのかは、未だに分からない。でも、きっと、絶対に失くしてはいけない、大切なもの。きっと、私たちの命運を握る〝鍵〟――――


     ■


 向井弥生にとっての怒涛の一週間が過ぎ去り、週明け。修繕の始まった女子トイレを一目確認した後、いつものように、教室に入る。

「ん、葉月ちゃんおはよ」

 教室最後列で、朝練を終えたばかりの葉月に声をかける。水筒に口をつけていた葉月は、予期していなかった弥生の声に驚いてむせる。

「ん……! ぶふっ! や、やよ、向井さん、お、おはようございます!」

「こぼれてるこぼれてる」

 慌てて机の上のタオルで口元を拭う葉月。それを見て笑う弥生。


 トイレ破壊事件が葉月と関連付けられることはなかった。

 葉月が獣になりトイレから飛び出すまでに撒き散らした体毛は、水道管から溢れ出した大量の水に綺麗さっぱり流し尽くされ、あるいは風ですっかり飛ばされ、現場検証を行った人間がそれに気づくことはなく、都合よく事態は収束したのだった。


 何事もなかったかのように、当たり前にホームルームが始まる。日常にまた、ゆるりと舞い戻る。担任が先週の事件について軽く触れた後、「それから」と言って廊下に出る。クラスメイトたちは皆、ルーティンを外れた教師の行動を追うように、廊下に目を向ける。

 そして見える、二人分の影。一人は見知った教頭先生、だがあと一人は?

 誰かが直感で気づく。他の者も追従して、思い至る。

 ああ、きっと、あれは――――!


 一方、窓際の席。ちょうど担任の背中で遮られ、その先の廊下で何が起きているか気づけない弥生はぼんやりと、先週一週間のことを思う。電柱に立つ少女、獣、刀、ナンバーガール計画……。俄かに騒ぎ立つクラスメイトたちを意識から外し、脳内に焼きついた映像たちをリプレイする。

 あれら全て、確かに現実なのだ。私がごくフツーの生活を送っていたその裏側ではずっと、とんでもないことが起こっていたのだ。

 田渕処凛が言った「希望」という言葉を思い返す。希望。私は両親から何か、大切なものを――

『弥生に――――……たぞ――――』


 私の両親の死因は、交通事故ではない――……

 土曜、日曜と、弥生はひとり考え込んだが、納得などできるはずなかった。詳しい話を処凛に訊き直さなければと、無意識に首元のペンダントに触れた。


 担任が教室側へ振り返る。その後ろに誰かを連ねて、教卓へ歩み寄る。

 弥生はなんとなく目を向けた。そして、その長い黒髪を、見覚えのある夏服のセーラーを、視認して――――

「…………え?」

 思わず口を開けて、教卓の横に佇む少女に目が釘付けになる。


「今日から新しい仲間が、このクラスでみんなと一緒に勉強していくことになりました。みなさん、仲良く楽しく過ごしていきましょうね!」

 お辞儀をして、顔を上げた少女。その鋭い眼つきは、凛とした佇まいは、それは――!

「あ………………あが……あがが…………」


「田渕処凛といいます。よろしくお願いします」


 ええ~っ! という弥生の声は、学年の廊下まで響き渡った。


     ■


「…………」

「…………」

「この学校は屋上が解放されているのね。素晴らしいわ」

 昼休みの屋上で、処凛は波夏多市の街並みを一望する。常に何かを睨みつけるかのようないつもの目つきは、心なしか緩んでいるように見える。

 そんな処凛を、未だ消えない疑問を以て見つめるのは、弥生と葉月。

「この学校は屋上が解放されているのね――じゃないよ! 処凛さん!」

 弥生は弁当をつつきながら、処凛にもの申す。

「なんで、事前に何も、言ってくれなかったの!」

「だって、当日になれば分かることじゃない」

「――そうじゃなくてぇ!」



 教室最後列、廊下側から二列目。すなわち葉月の右隣が、処凛の新しい席。

「よろしく」と処凛は葉月に声をかけ、席に着く。

 ホームルームが終わり、飛び出すように処凛へ詰め寄る弥生。

「ちょ、ちょっと! 何、何で? どういうこと!?」

 クラス内の視線を一斉に浴びながら、それでもかまわず処凛に尋ねる。

 処凛は極めて何ともないような表情で、「詳しい話は後で」と、一限の準備を始める。


「やよ、なに? 知り合いなの!?」

 煮え切らないまま席に戻った弥生に友人が声をかける。

「うん……まあね」

「あの子、オーラすごいね」

 その、他者を寄せ付けないようなぴりりとした雰囲気が、前いた高校の制服であることと相まって、圧倒的な存在感を醸し出していた。

「実際いろいろすごいよ……」

 空跳んだり、獣ぶった斬ったりするんだからね……。弥生は脳内で呟いて、苦笑する。


 じれったい気持ちを我慢しながらの授業。まるで集中できたものではなく、四限終了と同時に強引に処凛を引っ張って――葉月を伴って――、弥生は屋上へやってきた。



「あなたたちの近くにいた方がいいと思って」

「――~ッ、そんな理由で転校できるものなの!?」

「私の保護者代わりのおじさんは、父の遺言の通り私を支えてくれるから」

 処凛の保護者――岸田家は、処凛の父と深い信頼で結ばれており、託された処凛を鍛え、守り、そして彼女に力が発現してからは、父の願いとそのために動く処凛に全力で力添えしている。

「もう……ぶっ飛びすぎだよ」

「ところで葉月さん、腕の傷はもう大丈夫なのかしら?」

「え……ああ……っと」

 処凛の質問に、葉月は左腕を掲げる。

「なんか、土日で治りました」

 差し出された腕には傷ひとつなく、健康的に焼けた肌が太陽の光を鈍く跳ね返す。

「え……よかった、けど、すごい」

 弥生はその左腕をぺたぺたと触りながらじっと眺める。葉月はくすぐったく思う。

「私の実験からのフィードバックで、あなたにもある程度自己治癒強化の力が備わっているらしいわ。私ほど特化はしていないようだけどね」

「ていうか処凛さん、学校にまで刀持ってくるの……?」

「勿論よ。あれがなければもしもの時対処できないわ」

 三人の目線の先、屋上入り口横の日陰には、カモフラージュとして剣道の竹刀を収めるケースに収納された日本刀が、立てかけてあった。

「これからよろしくお願いするわ。学校のことで分からないことがあったら、あなたたちを頼りにするから」

「というか処凛さんて前の学校で友達とかいたの……?」

「失礼ね、私だって友達くらい……」

 二人の独特の距離感に、葉月は笑う。


「ところで、残りのナンバーガールの話なのだけれど――」


 処凛が語調を改めて言う。その言葉に、弥生と葉月も真剣な眼差しに切り替わる。


「ナンバーガールが起こしたと思われるような事件がないか、私は父の遺言を受けてからすぐさま探し始めた。そして目星をつけたのはひとつに獣、つまり葉月さんあなたのことで、これは解決した。そしてもうひとつ、大きくその関係性を想起させたのは、狗瑠眼くるめ市で起きた、生徒連続発狂事件」

 狗瑠眼市は、波夏多はかた市から南東に、電車で一時間ほどの距離に位置している街である。

「……発狂事件?」

「ええ。半年ほど前、狗瑠眼市のある高校で、男子生徒二人が突然発狂して、精神病院に入院した。メディアは特に大きく取り上げることもなく、原因も判明しないままだったのだけれど、先月、同じ高校で、精神錯乱した少年がまた一人、今度は屋上から身を投げて重傷を負ったわ」

「――ッ!?」

「これはメディアもそこそこちゃんと取り上げたのだけれど、ご存知ないかしら」

「わ、私は、知ってます……」

 二つ目の惣菜パンに手をつけながら、葉月が答えた。

「父の遺した資料によれば、ナンバーガールの中の一人に、『相手の脳に干渉する』能力を持った者がいるらしいの」

「うえ……なにそれやばいじゃん」

「これ以上被害を増やさないため、そして――、その力で、彼女が自らを呪い殺してしまわないように、速やかに行動に移す必要があるわ」

「行動? 具体的には?」

「とりあえず目下、学校に潜入して、敷地の下見と、発狂した少年たちの友人関係なんかを洗ってみることが優先されるわね」

「学校に潜入!? どうやって?」

「制服と学校指定ジャージは手に入れたわ。明日の放課後にでも、私は学校に忍び込むつもりなのだけれど」

 転校したり他校の制服入手したり、この人一体何者なんだ。馬鹿らしいほど素朴に、弥生はそう思ってから、またしてもハリウッド映画的な想像力で納得しようとする。

「……つまり、スパイ大作戦ってこと?」

「……はい?」

 処凛が眉をしかめる。この手の冗談に対する返答スキルを、彼女は持ち合わせていなかった。

「わ、私は! 何をしたらいいのでしょうか……」

 三つ目のパンの袋を開けながら、葉月が処凛に尋ねる。

「……そうね。あなたはまだその力の制御もほとんどできないし……とりあえず明日の夜から、訓練を始めることにしましょう」

「え……?」

「部活が終わるのは基本的に何時?」

「えっと……六時半とかですけど」

「そうね、そしたら……部活が終わってから、山奥の廃病院の中で特訓しましょう」

「っ……え?」

 処凛は、先日学校で獣になった葉月が向かった森の先に連なる山を指差した。

「あそこにある廃病院なら、多分大きな音を出しても気づかれにくいと思うわ。あなたが逐一吠えなければの話だけれど。口輪でも買っておこうかしら」

「処凛さんそれギャグ?」

「……どれ?」

 処凛にはやはり、冗談のセンスはなかった。

「さすがにこの高校からあの山までだと移動に時間がかかりすぎるわね……。じゃあこうしましょう、部活が終わったらこの屋上に集合して、それから私があなたを背負って廃病院まで向かう、と」

「さらっとすごいこと言うよね、処凛さん……」

 弥生がはは、と苦笑いで小さく呟く。

「あなたがその力を局所的に発動できるようになれば、獣の脚力を以て簡単に人間以上の速度で走れたりできるようになるのだけど」

「え、そんなことも、できるんですか?」

「ええ。何たって私たちはした実験体なのよ。もともとあなたは身体能力が高いようだし、鍛え甲斐がありそうだわ」

 処凛は少し口角を上げる。その表情に葉月は戦慄する。私、何されるんだろう。

「それじゃあ、連絡先を交換しましょう」

「あ! 私も葉月ちゃんの連絡先知りたい!」

「――!」

 処凛に続く弥生の発言に、葉月は首を縦にぶんぶんと振ってもの凄い速度で携帯電話を取り出した。

 弥生ちゃんと、連絡先交換。私、こんなに幸せでいいのだろうかと、甘い脱力感が葉月を襲う。



「ところで、私は何したらいいの?」

 空の弁当箱を片付け終えてから、弥生は二人に尋ねた。

「……そうね、とりあえず今日一緒に来る?」と処凛は答える。

「え、今日バイト……」

「えっ、向井さんってバイトしてるんですか」

 校則で禁止されている行為が口からさらっと出てきたことに驚いて、葉月は訊く。

「んー、そうだよー。一人暮らしだし、生活費稼がないとさ~。あ、もちろん学校からの許可はもらってるよ!」

「す、すごい……」

「あ、ねぇ、その向井さんっていうの、やめない?」

「え…………?」

「この前は弥生ちゃんって呼んでくれたじゃん? 私、そっちの方がいいなぁ。なんか距離感じるし。あ、もちろんみんなみたいに『やよ』でもいいんだけど。……あ! それから処凛さんも『弥生さん』ってのやめに――」

 

「あ………………」


 葉月が一声上げて、固まった。その挙動に弥生は困惑し、処凛への提言を打ち止めて「どういうこと?」と目配せする。

「葉月……ちゃん?」

「う、嬉しい…………」

「え?」

「弥生……ちゃん、弥生ちゃん!」

 呼ぶ名前。いつも心の中で呼んでいたその名前。

 その言葉を受けて、

「はーい、弥生ちゃんでーす!」


 弥生はおどけて笑う。屋上に六月最後の風が吹き抜ける。

 青く広がる快晴の空。揺蕩う千切れ雲。空へと続く小さな箱庭。

 まるで使命も呪いもないかのように、束の間、そこに優しい時間は流れる。

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