第捌話 MANGA SICK

「さて、葉月さん。あなたが獣に変身するその引き金トリガーとなるものは何だと思う?」

 夕暮れの赤がまばらに射し込むコンクリート剥き出しの一室に、処凛の声が不気味に反響する。

「え……いや、分かりません」

 その声に返事をするのは、ジャージ姿の葉月。


 山奥の廃病院。七月も目前となれば日の入りもずいぶんと遅くなる。紅は世界をじっくりと染めつける。

 部活を終えた葉月は処凛に背負われて、この病院にやってきた。

 処凛は転校前に在籍していた高校の夏服姿で、手には竹刀を構えている。


「これが意外にも単純。あなたの意志よ」


 処凛は散らばったコンクリートの塊に足をかけ、言う。

「え……だってこれまでは……」

「そうね、確かに。これまでのあなたは無意識のうちに獣に変身し暴れ回っていた。――けれどあなたはその声帯を、強い意志の元で〝変型〟させることができた。きっと無我夢中だったんでしょうけれど、それを極めて意識的に行えるようにしていこう、という話なの。まずはそこからね」

「た、例えばそうやって自分の意志で変身できたとして、その後うまく自分をコントロールできなくなってしまったら……どうしたらいいんでしょうか」

「とりあえずこの修行の間は私が力づくで気絶でもさせられるからいいのだけど……そうね、精神を研ぎ澄まして身体と限りなく溶け合う――岸田道場の瞑想法を教えるわ。家でも簡単にできることだし」

 意外と精神論らしいことに葉月は驚く。しかし事実、彼女もこれまでの部活において、自分の意志が時に最後の力を振り絞る契機になった経験はあり、それはあながち間違いでもないのかもしれないと納得する。

「能力を自覚できるようになったようだし、少しずつああいう暴走はなくなっていくことでしょう。――それに、おそらくあなたの精神的な不安もひとつ、解消されたようなのだから」

 処凛は脳裏に弥生を浮かべる。無邪気に笑うその表情が、彼女の優しさを物語る。

「まずはイメージトレーニングから始めましょう。局所的な変身は、任意の全身変化を習得してからにするとして……さあ、その全身が獣に変身することを思い描いて――」


 むむむ、と葉月は目を瞑って全身に力を込める。そしてそこでふと、単純な疑問――

「……ところで、変身する時に服って破けちゃいません?」

「…………そうね、制服だったら替えを調達するくらいわけないけど」

「!? ど、どうやってですか……?」

「着なくなった制服を街中からかき集めればいいわ」

 事も無げに処凛は言う。葉月は、案外処凛なら片手間でこなしてしまいそうだと思う。

「でも……下着とか……っていうかああっ! 変身した時って私……全裸……」

「まあ、獣だから大丈夫よ」

 事も無げに処凛は言う。大丈夫か大丈夫じゃないかの問題ではないと葉月は赤面する。

「さあ、今週中には任意の変身を修得してもらうつもりだから、どんどんやりましょう」

「うええ! ……頑張ります」

 再び葉月は思い描く。これまで自分が獣になる時にはどんな感覚だったか、獣になっていた時の世界の見え方は、体感したものは……――


「あ゛あ゛~っ! やっとづいだぁぁぁ!」

 その時、廃墟に響いた声――葉月は声のした方向に振り向く。

「っ!? 弥生ちゃん!?」

「あ゛い~……弥生ぢゃんで~す……」

 滝のような汗を流し、疲労困憊といった体の弥生。壁に手をついて、項垂れている。

「はいこれ……差し入れです……」

 弥生は手に持ったコンビニの袋を二人に向けて掲げる。

「随分と時間がかかったのね、弥生さん」

「だって……ここ、遠すぎ……」

「え、え、なんで」

「へへ……私も一緒に、葉月ちゃんの修行手伝おうと思って」

 弥生は汗を拭って、へへ、と気の抜けたように笑う。近くのコンクリートに腰掛ける。

「特にあなたにできることはないのだけれど……」

「さあー葉月ちゃん! 頑張っていこー!」

 スポーツドリンクを一気にあおり、そのままの勢いで弥生は声を上げる。

「うん……頑張ります」



「で、昨日のスパイ大作戦の収穫は? 今日聞かせてもらえるってことだったけど」

 一時間半ほどの修行――終始イメージトレーニングであったが――を終え、三人並んで山道を降りていく。弥生は自転車を手で押しながら、処凛に尋ねた。

「そうだったわね。――とりあえず放課後の校舎をぐるっと回って見取りを把握して、生徒たちに聞き込みをしてみたわ」

「いやあ……ほんと大胆だね」

 処凛の行動力に弥生は改めて感心する。

「やっぱり発狂事件については口が重かったわ」

「……まあ、べらべら喋るものでもないしね……」

「それでも、少しだけ近づけたわ。――発狂した三人の〝共通点〟に」

「共通点……なになに!?」

 なんだかミステリー小説っぽいと思わず興奮する弥生。

「弥生ちゃん……あんまり楽しいことじゃないよ……」

 その高揚を、隣の葉月が制する。

「あ、ごめん、そうだよね……」

「……まず半年前の二人。この二人――AとBは、とあるいじめグループの主犯格だった。いじめられていたのは同じクラスだった一人の少女。そのグループはクラス内での、いわゆるカーストでも上位にいて、誰も逆らえなかったらしいわ。ある時いつものようにそのグループが彼女をいじめていると、突然AとBが。原因は判明せず二人は入院することとなった。――そして、それから進級を挟んで、ひと月ほど前。二人を発狂させたことで残りのグループメンバーに因縁をつけられ、相も変わらずいじめられていた彼女。しかし進級したクラスでは、彼女に手を差し伸べる者がいた。その少年――Cは、人当たりもよく人気者だった。しかしある日、おそらく直前まで彼女と二人きりでいた後、校舎の屋上から身投げした。幸い命に別状はなかったけれど、意識を取り戻してからも彼は上の空で何かを呟き続けているらしいわ」

「――はい、つまり犯人はその女の子!」

 推理小説が如く、弥生は声を上げる。話を聞いていたら誰でも分かるって、と葉月。

「……犯人、という言い方はどうかと思うけれど、その彼女が共通点であることは間違いないわ。――中尾真由美なかおまゆみ、高校二年生。漫画研究部所属。実の父親の新しい家族と一緒に住んでいる」

「わあ! もうそこまで! ……実の父親の、新しい家族?」

「ええ。どうやら幼い頃両親は離婚して、彼女は母親に育てられていたらしいのだけど、母親が亡くなって、既に新しい家族を設けていた父親に引き取られた」

「……もしそれが、ナンバーガール計画と関係あったら、って話ですよね」

「ええ、その通りよ葉月さん。発狂事件が偶然である可能性ももちろん否定はできないけれど、諸々の条件から判断するに、彼女を詳しく調べてみる価値はあるわ」

「なるほど……なるほどなるほど! すごい!」

 弥生が興奮して言う。「すごい」が果たして何を意味するのかは葉月にも処凛にもよく判らなかった。

「今後も私は放課後、狗瑠眼くるめ市に向かって彼女を調査するつもりでいるのだけれど、あなたたちにも今後何かしら関わってもらうことになるでしょうから、是非一度三人で向かいたいと思うのだけれど……」

「あ、じゃあ明日は? 五限放課だし、私水曜バイトないし!」

「私も水曜は部活ないので大丈夫です」

「……そうね。じゃあ明日、放課次第、駅に向かいましょう」

「りょーかいー」

 弥生は片手を自転車から離し、敬礼のポーズを取る。

「……弥生ちゃん、やっぱり楽しそう……」

「あ、いやあ……なんか、うん、ちょっとね……」

 単純に、どこか楽しかった。変わらない日常の色が、少しだけついたような気がしたから。もちろん、へらへらと笑っていられるような事態ではないことは把握している。でも、それでも――――

 こういうのって、よくないのかなぁ。

 芽生えてしまう感情に、弥生はもどかしくなる。


「あ……、ところで弥生ちゃん、昨日貸してもらった漫画、読んだよ」

 街並みが見えてきた辺りで、葉月が思い出したように言う。

「えーっ! もう!? 早っ!」

「だって弥生ちゃんのオススメだし……なにより面白かったから」

「だよねぇだよねぇ! あれが四巻打ち切りなんておかしいよねぇ!」

 弥生はぴょんぴょん跳ねるように喜ぶ。好きなものの良さを理解してくれる人がまた一人。彼女の地道な布教活動も功を奏しつつある。

「あの作者今新しい漫画連載してるから! 読もう! ね!」

「私、今まで少年漫画とかあんまり読まないできたけど……面白いんだね」

「ねー! そうなんだよそうなんだよー! あ、そうだ、じゃあ次は――」

 一人盛り上がる弥生の奥で、どうにも話に入れないという神妙な顔つきの処凛に気づいた葉月は、彼女に声をかける。

「処凛さんは……漫画とかは……」

「……私は、そういうのは……」

「え、処凛さんもしかして漫画とか読まないの!?」

 驚いたように声を荒げる弥生。先程から機嫌が良い。

「……そういうわけではない、のだけれど」

「ふふ~ん。処凛さんて意外と……」

 そう言いながらニヤリと笑って処凛にすり寄る弥生。処凛はたじろいで、「そ、そういう俗っぽいものは……!」と言葉を返す。

 その光景を微笑ましく眺める葉月。

 季節は間もなく七月。心地良い夜風に、葉月は手にしたささやかな幸福を思った。


     ■[about 9 months ago]


「……なんか言ったらどうなわけ?」

「マジでいい加減気味悪いよ、アンタ」

「ほんと何なの……ネクラオタクのくせしてアタシより乳デカイのもムカつくし」

「うっわ、オンナの嫉妬こっわ! 揉むと大きくなるらしいけど、俺の手使う?」

「うっさい死ね」

「まあまあ――んじゃ、つーわけで掃除頼むわ!」

「いや、『つーわけで』ってなんだよ! 文章つながってねぇから!」

 ぎゃははと下品に笑いながら、男女四人が教室を後にする。


 夕暮れの教室に取り残されたのは、一人の少女。

 俯いて立ち尽くし、忌々しい彼らの足音が遠ざかるのを待つ。


 高校生初めての夏休みが終わり、再開した日常。

 最低最悪の、〝日常〟。


 中尾真由美。眼鏡の奥、全てを憎悪するかのような濁った瞳。

 傍らの机の上で、散り散りになっている破かれたノートのページ。

 アニメ調のイラストの顔が、真っ二つに引き裂かれている。


 静かに視線を机に落とし、無感情にその破かれた紙片をかき集める。

 不思議と涙は出なかった。

 あるのはただ、際限のない憎しみだけ。


 いつか、あいつらの人生を、狂わせてやる。

 いや、あいつらだけじゃない。傍観を貫くクラスメイト、見て見ぬふりをする教師たち、この学校の人間すべて、父親、新しい家族、隣の家のヒステリックな中年女、近所のコンビニの無能店員、この街の人間すべて、世界中の人間すべて。


 ぜんぶ、ぜんぶ、狂ってしまえ。


「――――ッ」

 頭がずきりと痛んだ。よろめきそうになりながら、くしゃくしゃに丸めた紙屑をゴミ箱へ運ぶ。

「…………」

 手に溢れる、意味を失くした自分のイラストたちに向けて、真由美は脳内で弔いを捧げる。

「南無阿弥陀仏」

 つぼみが開かれるかのように、その華奢な両手が内側に傾く。滑り落ちるようにはらはらとゴミ箱に散っていく紙片。

 ここは、最低最悪の掃き溜めだ。



 音を立てないように静かに玄関を開く。台所にいる女を無視し、一言も発さずに真っ直ぐ二階隅の自室へ向かう。

 日当たり最悪の薄暗い部屋。ひんやりとした空気に彼女は身震いする。

 乱雑にカバンをベッドに放り出し、簡素な勉強机に向かう。

 部屋の明かりもつけず、手元のスタンドライトの光の中で、広げたノートにペンを走らせる。


『お、お前、何だよそれ……』

 怯える男子高校生。目の前にいるのはナイフを手にした少女。

『じょ、冗談、だよな……おい、やめろ、やめろって!』

 グサッ。少年の脇腹にナイフが突き刺さる。ドッ。飛び散る鮮血。

 ピッ。少女の頬に跳ね返る黒い血。

『キャアアア!』名前も明かされない女子高生が叫ぶ。

 少女は振り返る。後ずさりするクラスメイトたち。

 ズームアウト、とある教室。施錠された教室の扉、窓。

『全員、生かしては帰さない』

 少女が笑う。


 死ね……死ね死ね死ね死ね。全員死んでしまえ。


 高揚し、口角を吊り上げる真由美。その表情はどこか色っぽくもあった。

 書き殴るように描かれるのは――漫画。

 その身に受けた今日一日の恥辱を、侮蔑を、侵害を、ぶちまけるかのように、鉛の黒は飛び散る。


 漫画。空想。妄想。想像。創造。それだけが、中尾真由美の、唯一の友達。そして、不条理に抗うための、世界に叛逆するための――誰にも刺さらない、武器。

 クラスメイト全員が惨殺され、その死体の山で高笑いする少女を描き終え、鉛筆を置く。背筋をぐっと伸ばし、一息つく。日も暮れて真っ暗な部屋の電気をつけると、巨大な本棚が――巨大な本棚だけが、真由美の視界にいつものように飛び込んだ。


 ――これ、だけ。私には、これだけ。


 椅子から立ち上がり何とは無しに本棚の前に立つ。

 細い指が、並べられた漫画の背表紙を這う。


「あ、マユミ、帰ってたのか。おかえり。どうしたんだい、いつも以上に険しい顔して」


 背後から声がした。真由美は無言で振り向いて、宙に浮かぶに手を伸ばす。

「……ううん、何でもない。ただいま」

 は、差し出された右手の先から腕のラインに添うように彼女の方へ近寄る。

 真由美はそれを抱きしめ――確かに抱きしめ、ベッドに腰掛ける。

「また嫌なことがあったのかい?」

 真由美の腕に抱かれたそれは、首を伸ばし彼女を仰ぎ見て、尋ねる。

「……ノート、破かれた」

 真由美は、両腕で抱きしめた自分の顔ほどの大きさのの体温を確かに感じながら、ウロコ状の皮膚を優しく撫でる。

「それは大変だったね。でも――」

 そう言っては、真由美の両腕の中で両翼を広げ、彼女の目の前に飛び上がる。

「マユミは強い子だよ! 絶対あいつらなんかに負けたりしないさ!」


 ――対空するは、翼を持つ角の生えた爬虫類のような姿をしていた。


「うん、ありがとう、ゴン」

「ボクはいつだって君の味方だよ」

 ふたつの翼を持ち、ウロコ状の皮膚に覆われた全身。後頭部には大きく伸びたふたつの角が生え、長く伸びる尻尾は上下動する翼に合わせ規則正しく揺れる。――ゴンは、よく知られるような呼称を用いれば、「ドラゴン」と呼べる姿形をしていた。

 ゴンは、真由美にしか知覚できなかった。他の誰もが、その姿を知覚することはできなかった。しかし、彼女だけは確かに知覚することができた。真由美はゴンを抱きしめることができるし、ゴンの体温もはっきりと感じることができる。


 ゴンは彼女が中学三年生の時に現れた存在だった。

 幼い頃から、無口で感情を表に出さなかった真由美は周囲に気味悪がられ、訳もなくいじめの対象になることが多かった。特に、思春期において最も不安定な季節、中学生の間には、不条理とも呼べる過酷を背負うこととなった。教師すら彼女を苛んだ。手を差し伸べる者は誰もいなかった。

 そんな彼女は自我を保つために、休み時間も家に帰ってからもひたすら絵を描き続けた。漫画を読み耽り、空想に埋没した。それだけが支えだった。物心ついた頃から絵を描くことが大好きで、今は亡き母にもよく褒められたものだった。

 彼女は次第に漫画を描くようになった。拙いながらも自分の脳内で描いた物語を形にする時だけは、心が晴れた。学校で嫌なことがあった時には家に帰ってから、いじめっ子たちに過酷な障害を与えたり、残酷に殺害したりすることで気分を晴らした。


 そうして月日が経ったある時。幼い頃からオリジナルキャラクターとして描き続けてきた子供のドラゴン、「ゴン」が、彼女の目の前に実際に現れた。質量を伴って、確かに現前した。彼女は初め、自分の脳がおかしくなったのだと思った。空想に逃げ込むうちに、妄想と現実の区別がつかなくなったのだと思った。

 しかしゴンは真由美に話しかけた。寄り添った。その身体からは体温が感じられた。呼吸が伝わった。心臓の鼓動が確かに感じ取れた。

「ボクは君の味方だよ」

 ずっと思い描いていた空想が、現実になった。それは彼女の救いになった。そうして中学生活は終わり、彼女は少しだけ新しい生活に期待した。

 ――それでも、現実はそう簡単に変わったりはしなかった。

 同じ高校に進学した中学校の同級生が、真由美の噂をあることないこと広め、あっという間に彼女の立場は中学の頃のそれと変わらなくなった。彼女を知らない初対面の人々も、広まった噂から勝手に真由美の人物像を作り上げ、遠ざけ、嘲笑した。真由美はそれを覆し、誤解を解く力を、術を、持たなかった。彼女はただ黙って、内に煮え滾る感情を殺して、漫画を描き続ける日々を過ごした。

 


「――そんなことより、ホラ、来月締め切りの応募原稿、早く描かないとあっという間に月末だよ?」

 ゴンが翼をぱたぱたさせながら、四本指の手で机を指差した。

「……分かってる」

 真由美は立ち上がり、机の引き出しの奥に隠してあった封筒を取り出す。

 椅子に座り中身を取り出すと、漫画の原稿用紙が姿を現した。


「――よし」

 先程の真っ黒な感情が嘘のように、彼女はその原稿に手をつける。――恋愛漫画。来月末にある女性向け漫画雑誌の新人賞に応募するための漫画。数か月前からプロットを練り込み、やっとのことで完成させたネーム。いよいよペン入れを行う工程に差し掛かっていた。

 その作品は彼女にとって初めての投稿作品となる予定だった。自然と、気合も入る。

 そのストーリーは、いかにもベタな少女漫画といった具合で、ついさっきまでその手でスプラッターを描いていた人間と同一人物とは思えないほど、繊細で瑞々しいストーリーだった。



 ペンを置く。何度か、両目をぎゅうっと瞑っては弛緩させ、眼鏡を外す。

 すっかり集中して、気づけば夜九時半。階下で物音がしていないことを確認し、静かに階段を下りる。


 人影のない暗いキッチン。空の茶碗にご飯をよそい、鍋の味噌汁を軽く温め、よそう。机の上に置かれたおかず、その上にかかったラップを取り外し、「いただきます」も言わずに食べ始める。

 味気ない食事。私に取り分けられたおかずには、愛情など入ってはいない。

 冷めた魚。冷え切った心。腸をブチ撒いてやる。


 ――幼い頃母親が亡くなって、真由美を引き取ったのは離婚した実の父親だった。しかし父親には既に新しい家族があり、真由美はその出来上がった新しい関係性の外側で、最低限の暮らしだけを与えられていた。

 真由美は、幼い頃から大好きだった漫画だけ、自由に買ってもらうことができた。父親も、彼女は漫画さえあれば放っておいても大丈夫だと考えていた。事実真由美は漫画以外何も求めず、家でのコミュニケーションはほとんどなかった。新しい母親――血の繋がっていない母親と、父親の間には、ふたりの息子がいた。高校二年生と、中学三年生。どちらとも会話をしたことはほとんどなく、思春期になってからは顔さえ合わせることはなかった。


『宗教にハマって挙句死んだ元嫁の娘なんて邪魔に決まってるでしょ』


 ――隣の家の中年女性が真由美に言った言葉。

 両親のいさかいのことは何も知らなかったが、周りの話を聞くにどうやら宗教にハマった挙句自殺をしたらしい。真相は何も分からなかったが、勝手に死んだ母親も今や怨嗟の対象だった。

 ――にしたって、あんなこと言うかよ普通。倫理観、ぶっ壊れてんじゃねぇの? 死ね。死ね死ね死ね。


 真っ白く濁った魚の眼球を、箸でぐさぐさと突き刺す。

 変わらない日常。夏休みが明けたところで、家にいる時間が少なくなるのに代わって学校で過ごす時間が増えるだけだ。学校にも、家にも、居場所なんてない。

 この手で、このクソみたいな世界の、ゴミみたいな人間たちを全員、狂わせてやることができたらいいのに。

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