第陸話 タッチ

「ん……」

 目が覚めると、またしても知らない天井だった。

 自分の身体はまだ、獣のままだろうか。両腕を持ち上げる。いつも通りの浅黒い手に、認めたくはないがこの時ばかりは安堵した。そして――

「あ! 起きた!」

 視界の右端からひょこっと顔を出す――弥生。

「え、あ、やよ、弥生ちゃん!?」

「はいー。弥生ちゃんで~す」

 思わず弥生ちゃんと呼んでしまったことに動揺する葉月。

「おあわ、あわ、わわわわ…………! え、じ、じゃあ、こ、ここ、ここは!?」

「んー? ここは私の部屋だよー。処凛さんが葉月ちゃんを背負ってここまで連れてきてくれたんだよ」

「うわあ、あわわ!」

 葉月は慌てて薄い掛布団を頭まで被った。

「――!」

 布団に潜り込み、身に付けている知らない服の存在に気づく。

 多分これ、弥生ちゃんの服――!

「えーちょっとなに~! どうしたのさー」

「だ……だって……だって……!」

 至近距離で弥生ちゃんと話してる! 弥生ちゃんの服着てる! 葉月の鼓動は速くなる。すう、と、袖口の匂いを嗅ぐ。ふんわりと、洗剤のいい香りがする。

「大丈夫だよ、もう獣の見た目じゃないよ。鏡、見る?」

「……いい、です。鏡は、いらない」

 葉月は布団にもぐったまま、興奮を抑えつつたどたどしく返事をする。

「鯔澤さん。あなたさっき、声帯を変型させて、人の声を出したわよね?」

 日本刀を抱えるように腕組みをして、窓枠に背中を預けていた処凛が、もぞもぞと蠢く真っ白な布の塊に向かって言う。

「え……あ……それは……」

 声を発したいと強く願った時、喉元が熱くなって、そして、声が出た――

 不思議なことだったが、違和感は何も感じなかった。

「あなたは、あなたの力を、制御できる」


「…………」

 葉月は目から上だけを布団から出して、処凛を見た。

「改めて、私の名前は田渕処凛。あなたと同じ高校二年。ナンバーガール計画の実験体」

「ナンバーガール計画……そうだよ処凛さん、それって一体何なの!? 私のお父さんとお母さんも関係あるの?」

 あ、同い年。だがそんなことよりも、先程の森でも語られた父と母のことの方が気になった。たくさんの疑問が浮かんで仕方なかった。

 弥生が訊く。処凛はしばし目を閉じて、そして話す。


「……九〇年代。一部のイカれた連中が、世界の終末がなんだと妄想に囚われて、集団自殺したり、無差別テロを行ったり、国家転覆を目論んだりした。

 そんな時勢の中、この街を中心とした西日本の一部で、多くの信者を集めた巨大な宗教団体があった。『抽象的な真実』教会――クソみたいな名前よ」

「か、処凛さん……言葉遣い……」

「そしてそこで秘密裏に行われていたのは、人体実験。世界の終わりに訪れる〝最終戦争〟を生き延びるための新たな人間、より高められた人間を生み出すための――……馬鹿みたい。〝新人類〟計画。そしてそのための下部計画――それこそが、五人の幼い女児を利用した、『ナンバーガール計画』……」


 フィクションか何かかと思った。

 でも、事実、処凛さんは飛んで、葉月ちゃんは獣になって――


「新人類計画は、ナンバーガール計画は、首都東京の毒ガステロの影響で、かねてより募っていた教団内部の不信や対立、分裂、公的権力からの調査、地元住民の反対、内部暴動――諸々の要素が絡まった結果の教団解体と共に、闇に葬り去られた――」


 弥生はちらりと葉月を伺う。布団から目より上だけ出した彼女は、真剣な目つきで処凛の話を聞いていた。

「――でも、実験に使われた子供たちは人間であって、誰かの子供であって、実験凍結と共に殺すなんてことはとても、研究所の人間にはできなかった。研究所には――その科学的知識による引き抜きによって、あるいは一種の脅しによって――信徒でない人間が多く働いていて、実働的なリーダーであった向井夫妻――そう、弥生さん、あなたの両親は、生き残った子供たちがその狂った因果から解放されるための術を、私たち自身に託したの」

「か、処凛さんはなんで、そのことを――?」

「父が残してくれた遺言に書かれていたわ――あなたの両親の下で、人道を外れた研究を、それも科学のためだと教祖に洗脳されながら、そしてそれに抗いながら、実験を続けた私の父のね」

「……ッ」

「向井夫妻も、両親も、殺された――それどころか、あの教団が壊滅する決定的な原因となった内部抗争で、ナンバーガール計画の子供たちの親たちも皆、殺されたわ」

「――――――――ッ!!!!」

 葉月が布団から飛び上がった。

 弥生も、身を乗り出した。


 ――お父さんとお母さんが、殺された?

 そんな、両親は、交通事故で死んだはずじゃ――……


 処凛は二人の動揺を確認して、それでもなお淡々と、続ける。

「教祖は狂ったように笑いながら、ピストルでこめかみを撃ち抜いて自殺した――これは有名な話で、その巨大施設内での殺戮を生き残った人たちは皆証言していることだけど、彼が死んだことで、私たちは『実験体の成育にあわせ観察、矯正し続ける』という不幸は免れたわけ」

「…………」

「実験自体は、成功だったらしいの。私を含めた五人は、生存に何の問題もなく、健康で、普通の生活が送れる。ただ、付与されたそれぞれの能力は、成長して、成人並みの身体能力を得て、思考能力が一定水準まで達した時に初めて発現されることになっていた――具体的には、十代後半。でも……その実験の成功までには、多くの動物や、身寄りのない幼児たちが、犠牲になったというわ」

「――――ッ!」


「……重苦しい、クソみたいなのお話は、ここまで」

 処凛は話を切り上げた。静かになった六畳間に、どこか遠くのバイクのエンジン音だけが響く。


 弥生も、葉月も、言葉が出てこなかった。

 伝えらえた多くの〝真実〟に、頭がこんがらがっていた。


 ――そして、お互いが、両親の不在を抱えていたことを、知った。

 弥生は、自分が何故、葉月のことを心のどこかでずっと気にかけていたのかという疑問に、答えが与えられたような気がした。

 葉月は、幸せそうに、充実しているように見えていた弥生の影に、両親の不在があったことを、知った。


「……さて鯔澤さん、声帯を変型させたことと同じように、あなたは訓練を積めば獣の姿に任意で変身することができる。凶暴な獣の意志も、コントロールできるようになる。さっき倒れたのはおそらく、簡潔に言うところのスタミナ不足で、力のセーブをちゃんと体得すれば、あなたは間違いなく重要な戦力になるのよ」

 刀を壁に立てかけ、窓の縁に両手をかけ体勢を崩しながら、処凛は葉月に言う。


「父から遺された私の使命。五人のナンバーガールを〝希望〟の元に結集させること。そして、私たちが私たちの意志の外側で植え付けられてしまった呪いから解放されること――」


 処凛は抽象的に語った。しかしそれは何かを誤魔化しているわけではなく、事実、父の遺言にはそう書かれていたのだった。――外部の人間にその全容が知られないために、極めて身内的で、抽象的な言葉が使われていた遺言に。

「――……戦、力?」

 葉月は独り言のように尋ねた。私が……戦う?

「ええ。残りのナンバーガールたちが、その力を悪用しているとも限らないでしょう。結集の過程で、何かしらの反抗を受ける場合もある。あなただって――悪用、ではなかったけど、私は刀を振るって戦わなければならなかった。戦力は多いに越したことはないわ」

 残りのナンバーガールたち。弥生は頭に少女の像を浮かべる。例えば……両手から金属の爪が生えるとか、手から蜘蛛の糸が出て、壁を自在に移動できるとか? ハリウッド映画程の想像力しかない弥生には、それ以上何も浮かばなかった。

「それに――第一、五人全員が揃うまでに、また暴れたら困るでしょう。父が遺してくれた資料に、あなたの力の扱い方もある程度書き留められていたわ。

 遺された資料によれば、残りの三人は私たちとは違う、もっと危険で実践的な力を持っているらしいの。――もしかしたら、次からは、私一人じゃ敵わないかもしれないから」

「わ……、私もいる!」

「……ん?」

 弥生は右手を掲げ、主張する。

「私、処凛さんがピンチの時に、葉月ちゃん、怯ませた!」

「――ッ、いや、だからあの時は別に」


「…………力に、なりたいよ」


 弥生は俯いて、言う。

「処凛さんも、葉月さんも、お父さんやお母さんが、いないんだよね? そして、その、残りの女の子たちだって。…………それって、なんだか、あまりにも残酷じゃ、ないかな」


 まただ。処凛は思う。この少女は――向井弥生という女の子は、心の優しい、女の子なんだ、と。

「――その通り、残酷で、どうしようもない現実よ。私たちの与り知らないところで、勝手に――――身勝手に、殺された!」

「だから――! だから……私も、みんなの力になりたい。私の両親は、みんなの命を、預かっていたんでしょう? もしかしたら死んでしまうかもしれないような実験を、なんとか成功させて、そうしてみんな、生きているんでしょう?」

 ――責任。そんな言葉を偉そうに使うつもりはなかった。

 ただ、きっと、同じ悲しみを、持っているはずだから。

 一人の人間として、一対一で、向かい合わせてほしいと思った。

 その時、もしかしたら、自分自身の、この漠然とした孤独も、不安定な気持ちも、悲しみも、消えるかもしれないと、思ったから――――


 弥生は、無意識のうちに、制服の上からペンダントを握っていた。

 かつてもらった両親のぬくもりを、思い出すかのように。


 処凛はため息を漏らし、諦めたように言う。

「――分かったわ。但し、再三言うけれど、あなたは父の遺言曰く〝希望〟なのだから、全員が揃う前に死なれたりしちゃ困るのよ。だから、くれぐれも気をつけて」

「……ねぇ、処凛さん? ところでその希望っていうのは、具体的に、どういうことなの……?」

 何度も繰り返されたその言葉。しかし一向に実情が掴めないその言葉。弥生は改めて処凛に尋ねる。

「………………」

 処凛は押し黙り、神妙な顔つきになる。そして、重々しく口を開く。

「…………実は――」

「実は?」

「……私にも、よく分からないの」


「っ……」

 ええ~! と、一際大きな声が弥生の住むアパート中に響き渡った。

「私も、その全ては把握しかねていて……」

「そんなそんなそんなぁ! これじゃあ生殺しだよ!」


 ――その光景をぼんやりと、葉月は羨望の眼差しで眺めていた。

 いろんな情報が飛び交いすぎて、上手く頭が回らない。ただ、どこか楽しそうに言葉を交わす、目の前のふたりの空気感に――

「いいなぁ……」

 私もこんな風に、弥生ちゃんと――

「ん? 葉月ちゃん、何か言った?」

「い、あ、え……えっと、」

「ああそうだ、鯔澤さんも連絡先を教えて頂戴。携帯電話とか、持ってるかしら」

「え、あ……」

 そういえば、携帯も何もかも、学校に置きっぱなしだった。

 ――――というか、制服。多分、破けて、風に舞って……。

「あ、あの……携帯は……学校で……それで、その、制服は……」

「あれ、そうだよね、そういえば制服は――」

「えっと……その、多分、獣になる時に破くように脱いで……手に持ってたような気もするんですけど……気づいたら手離していて……」

「えー! どうすんの!?」

「家に予備とかはないの?」

「あ、あります。一応」

「分かった、私が取ってくるわ。住所を教えてもらえる?」

「はい……」

 処凛が葉月から住所を聞き、マップアプリで検索している時、弥生の頭に浮かんだ二文字――学校。その言葉に、弥生は思い出したかのように叫ぶ。

「……ッああー! そうじゃんそうじゃんそうじゃん! 学校! 緊急避難の時って点呼とか取るんだよね!? どうしようどうしよう! 私たち今頃捜索願い出ているんじゃ――」

「……そうね、獣に襲われた、って嘘ついて何とか誤魔化せないかしらね」

「むむむ……ごり押し? ってか嘘でもなんでもないよね」


「あ……」

 そうだ、私は、この二人に、襲いかかって――

「あ、あの!」

 葉月は慣れない、獣の状態でしか出したことのないような、大声を出して、ベッドの上でかしこまる。

「――っ、わ、なに? どうしたの?」

「お、おっ、お、襲いかかってしまって、ご、ごめんなさい! わ、私、あの状態になると、うまく身体と感情を、コントロールできなくて……初めてやよ……向井さんに襲いかかった日、ちょうどその前日に、私は初めて、獣の状態で、自分が自分であるって認識ができるようになって、それで――――」

「――それは仕方ないわ。計画の段階では、成長に合わせた矯正もプログラムに組み入れられていたのだから」

「――でも……」

「わ、私は平気! 大丈夫! それに――」

 弥生は葉月と向かい合う。ベッドの上で正座する葉月の両手にそっと触れて、

「今思えば、葉月ちゃんは、私に危害を加えないようにって、必死に抵抗してくれていたように見えるよ。きっと、そうだったんじゃないのかな? 違う?」


「あ……あ――――!」


 弥生ちゃんが、大嫌いな自分の手に触れて、誰にも気づかれることのないと思っていたその葛藤を、言い当てて――――


「うっ……ううっ……」

 葉月は思わず泣き出した。弥生は慌てふためきながら、ゆっくりと、優しく、彼女を抱きしめる。

「大丈夫。葉月ちゃんは必ず、その力をコントロールできるようになるから」

「う゛ん゛……うん……」


     ■


「いやあ、ははは……めちゃ怒られたね」

「…………」

 校長室での説教を終えて、人一人いない廊下を歩く弥生と葉月。


 葉月は処凛が取ってきた制服を着て、弥生と二人揃って学校に戻った。体育館へ向かうと二人に気づいた教師たちが一斉に群がり、拘束。


 弥生の親戚は少し離れたところで暮らしていたためすぐ駆けつけることは出来ず、葉月の祖父母は共にたまたま留守にしていたため、両者とも保護者が呼び出されることはなく、生徒対教師だけの息苦しい空間で一時間近い説教が行われた。

 その家庭環境の複雑さと、共に女子生徒であったことが幸いしてか、恐ろしい体育教師もそれでも幾分か慎重に暴言を投げ、二人の担任が時折宥めながら時間は過ぎて行った。


 トイレ破壊という緊急事態による午前放課。他方、獣は山に姿を消したとのことでそちらもまた収束し、学校は数人で固まって集団下校するようにと促し、放課を迎えた。葉月がトイレに駆け込んだのを見た人間がたまたまいなかった――それは、あまり存在感のない彼女だったことが幸いしてなのか分からないが――ことで、トイレ破壊と獣の関連性は誰にも把握されないまま、事件の真相は闇の中へ消えた。獣の体毛は水道管から溢れ出た水で綺麗に流され、爆発物の形跡も特になく、一種の完全犯罪のようになったが、学校側も騒ぎにはしたくないようで、校内の危険物点検を行い、捜査は終了した。


「でも多分、獣に襲われました~なんて言ってたらもっと大問題だったかもしれないし、大人しく怒られる作戦は成功なのかも。……いやあしかしほんと恐ろしかったねぇあの体育教師。獣葉月ちゃんより恐かったかも、なんちて」

「…………」

「……葉月ちゃん?」

 俯いて押し黙ったまま歩く葉月を心配し、覗き込む弥生。

「……いくら制御が出来なかったとはいえ、私は、傷つけてしまった人たちが、います。や、やっぱり……じ、自首! とか……した方が……」

 葉月はたどたどしく、晴れない心持ちを弥生に伝える。

「うーん……複雑な問題だと思うけど、処凛さんのあの話を聞いた後だと――それはやっちゃいけないことのような気もするなぁ」

「…………」

「少なくとも、私はその気持ちを受け止めるよ。それに……この前怪我した人も、命に別状はないらしいし……」

「でも、その、入院費とか、手術代とか……」

「…………うん、言いたいことはすっごい分かるし、私もおんなじ立場だったら自首したいって思うかもしれない。でも、多分、これまた処凛さんの言葉そのまま使うけど、その身体は、自分の与り知らないところで手を加えられてしまったものなんだから、責められるべきは葉月ちゃんじゃなくて、その、――教団なんだと、思う。そして、よく分かんないけど、そんな葉月ちゃんや、他の女の子たちの『呪い』を解くために、処凛さんは動いているっていうから――――だから、とりあえず今はあんまり気にしない方がいいと思うな。もし、何かしらが今後起きて、全てが清算されるような時が来たら、その時また考えればいいんじゃないかな」

 あーなんかすっごいしゃべった今、と弥生は笑う。

 その笑顔に、葉月はむず痒くなる。


 そうだ、思えば今、私は弥生ちゃんと一緒に、二人きりで、歩いている――――


「あ、あの、向井さん!」

「――ん? どうしたの?」

「あ、あの、さっき……あの時、言ってくれたこと、わ、私のこと」

「?」

 上手く言えない。でも、きっと、これは、何かの運命なんだから、運命すら掴めなくてどうするんだ、鯔澤葉月。変われ、変われ! 変えろ、自分を! 惨めで、憐れで、大嫌いな〝私〟を! ――言え! 言えよ!

 一歩弥生の前に出て、葉月は彼女と向かい合う。

 そうして、意を決して、想いを、言葉にする。

「わ、わわわ私と、よよかったら、その、あの、えっと――――友達!!!!」

「……友達?」

「――ッ、に、」

「に?」


「なって、くれたら……うれしい、です」


 振り絞った言葉。たった一言をいくつにも区切ってつっかえて、ほんと締まらない。

 弥生は一瞬ぽかんとした表情を見せて、その顔に葉月が泣きそうになる前に、とびきりの笑顔で、言う――――

「うん! 友達! なろ!」


 ああ……あああ……――!!!!


「えっ、ちょ、ちょっと!? 葉月ちゃん!? なんで、なんで泣いてるの!?」

 葉月は大声で泣き出した。いろんなものを全部洗い流すかのように、泣きじゃくった。突然の号泣に弥生は慌てて駆け寄る。

「ぢが……えっど……うれじ……うれじぐで……」

「っわわわ! ちょっと! えっと……」


 ずっと、願っていたこと。自分のコンプレックスがひっくり返った、憧れ。

 私のことを見てくれていた喜び。

 葉月はただ、ただ、嬉しくて、泣いた。

 ずっと抱えていた想いが報われたようで、心の中の、濁った色をした何かが、浄化されてゆくような、そんな感覚が、全身を包んだ。


 友達。友達――!

 葉月は、涙でくしゃくしゃになった顔で、笑った。

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