第伍話 Teenage Casualties
「お願い……繋がって!」
女子トイレが半壊した。何か――何者か? によって、個室を仕切る壁が破壊され、窓ガラスがトイレ内部に飛散していた。水道管が折れ、水が溢れ出した。
生徒は体育館に集合するようにと緊急校内放送が流れる。これは訓練ではありませんと繰り返す教頭。廊下に溢れる人、人、人。律儀にクラスで整列して、ノロノロと進んでいく。
緊急時にこんなことしてたら死ぬよ! そう思う弥生は人混みを抜け昇降口に向かいながら、処凛に電話をかける。出てくれるだろうか――
『――もしもし』
繋がった――!
「――あ! もしもし! 処凛さん!? あのね、実は、――多分だけど、例の獣は、私の学校の生徒で、それで、今、学校のトイレを破壊しながら、市街地に出た、と、思う!」
『――――!』
「どうしよう、どうしたらいいかな!」
電話越しに「お、おい田渕、どこへ行く!?」という男性の大きな声が聞こえた。
独特の反響を伴った足音が聞こえる。
ごお、と、風の音がする。
『私が探す。あなたは学校にいなさい。大丈夫。獣くらいなら、なんとかなるから』
そう言って処凛は電話を切って、立ち入り禁止の高校の屋上に隠しておいた日本刀を手に取り、貯水タンクの上に立つ。
この高校から、弥生の通う高校ははっきりと見える。
「どこにいる――――ナンバー2!」
■
嫌だよ、殺せない! 私は弥生ちゃんのこと、殺せない!
「ヴォア!」
「――っうああ! け、獣だぁあああ!」
ブロック塀に身体をぼこぼことぶつけながら、朝の静かな住宅街をもの凄い速度で駆ける巨躯。犬の散歩をしていた老人が獣に気づき大声を上げる。ペットのチワワはその恐怖に完全に委縮して、黙り込む。
――どこに、どこに向かえばいい!?
森、そうだ、この前初めて意識を取り戻した、あの森なら――!
葉月の通う高校から北に数キロ、住宅街の端に隣接する、山に繋がる森へ身を隠そうと、湧き上がる破壊衝動を鎮めようと、獣は駆ける。
■
――私、何で、自転車を漕いでいるんだろう。
処凛さんに、来ちゃ駄目って、言われたのに、駐輪場で、鍵のかけ忘れた自転車を必死に探して、それで――
強い風が顔を叩く。つい数十分前登校してきた道のりを、逆走している。
何で、どうして、こんなことをしている? 危険な目に遭ったのに、死ぬかもしれないのに。
処凛さんを手助けするため? ――違う、そうじゃない。
じゃあ……葉月ちゃんの、ため? ――葉月ちゃんのため?
ため、って、なんだろう。私、偽善的かな?
違う、違うんだ――彼女は、あの時、泣いていたから。
寂しいって、泣いていたから。
誰かがそばにいてあげなくちゃ、その悲しみに気づいた誰かが、そばにいてあげなくちゃ――!!
強い意志で、漕ぎ進めたはいいが、商店街を抜けた辺りで、いい加減焦る。
闇雲に走っても、獣には――葉月ちゃんには、辿り着けない!
山月記の、李徴は、獣になって、どこへ向かった――?
どこで、「その声は」と、訊かれた――?
「あ――――!」
弥生は先日獣と遭遇した、近くで自動車の運転手が重傷を負った、小さな山に繋がるあの森を目指しペダルを踏み込んだ――――
■
「――いた! 森か!」
弥生の高校の屋上まで移動した処凛は、強化された感覚器官――眼と耳で以て、暴れ回る獣の姿を捕捉した。
とん、とん、と小さく跳ねて、ぐっと姿勢を低くする。
貯水タンクを飛び降り、まっすぐ伸びる屋上で、助走をつけて――――
飛んだ。華麗に、凜として、舞い上がった。
ぶわ、と髪が乱れて、全身に風を感じる。
昇り切った太陽が街に降っている。小さくなる住宅の連なり。この街を、この世界を、守り抜くために――
右手の刀を強く握りしめる。
高校すぐ隣の住宅街の屋根を伝って、電柱に飛び乗って、風を切って、駆ける――
■
「うう~っ! 山道は登れないぃぃ……」
自転車通学ではない弥生は、山道までやってきて限界を感じた。
見つからない。さすがに獣の移動速度が速すぎる――処凛さんは、見つけられたのかな。
「……あれ?」
道端で、草木がなぎ倒されて獣道のようになっている箇所を発見した。そこからどうやら、山に続いている。
「……」
ごめんなさい、と弥生は知らぬ誰かの自転車をコンクリートの塀沿いに停めて、その獣道――まさにあの獣が作ったであろう道――に、足を踏み入れる。
■
「グァア……ゴァァア……」
獣は泣く。哭く。身をかがめて、頭を腕で抱えながら。
その姿は傍から見れば異様に人間的で、事実獣の正体は、高校生の少女なのだった。
森の中の少し拓けた空間で、唸る獣。遮る木々がなくぽっかりと空が切り取られた空間に、太陽の光が届く。
――――いやだ、私は誰も傷つけたくない! 普通の人生を送りたい!
友達がいて、努力が認められて、あったかい、帰るべき家があって、それで、それで――――
神様、どうして、私は、普通にもなれないのに、こんな醜い姿にばかりなってしまえるの!?
「グォ……グォォォォォ!」
獣は、何度も、何度も、悲しみの咆哮を、上げる。
■
「グォォォォォン!」
獣の唸り声が微かに聞こえた。声のした方角へ弥生は走る。ローファーは土をまとい、慣れない山道に疲弊している。木々が制服を汚すのもお構いなしに、弥生は気力を振り絞って、斜面を登る。
拓けた場所に出た。そしてそこでうずくまっていたのは――獣。
「ッ! い、いた!」
思わず声が漏れる。そしてその声に、獣は気づく。
「ゴ、ガ、ゴアアアアア!」
――!? 弥生ちゃん!? なんで、どうしてここに!?
葉月は困惑と同時に、野性的な感情に飲み込まれそうになる。
コロセ、コロセ、あイつヲ殺せバばレずに済ム!
ゆらり、と上体を起こし、獣が弥生に向き合う。
「やー……待って待ってちょっと待ってそう言えば勢いで来ちゃったけどやっぱり相手は獣じゃん!」
「ゴアア!!」
獣が飛びかかる。いやだ、いやだ! と葉月の理性は必死に抵抗する。それでも両手は、両足は。大地を捕え、土を撒き上げる。
歯を食いしばる弥生。――血迷ったか、彼女を抱きとめてあげようだなんて考えている。
「はづ――――」
「ゴッ、ガァ……!」
獣が弥生に飛びかかる瞬間。獣の左肩を捕えた両足――――
「処凛さん!!」
間、に、合、っ、た。
日本刀を携えた制服の少女――田渕処凛が、獣に一撃を入れた。
「処凛さ――」
「――ッ馬鹿!!!! 何してるのよあなた!」
「ッ、ご、ごめんな、さい、でも……」
「でも、何!?」
処凛は鞘を地面に払い捨て刀を抜いて、獣と対峙する。ざりざりとローファーを擦って、適正な間合いを見極める。
「く、クラスメイトが、泣いていたら、私は――」
処凛はその素朴な言葉に驚いて、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ弥生を見た。
その言葉は嘘偽りのないものだと、彼女の表情が語っていた。
「ヴォアアア!」
獣が咆哮して処凛に飛びかかる。通算二戦目。処凛は右手側に回り込み、獣の左足を斬りつけた。体勢を崩した獣は左側に倒れ込む。
「――待って処凛さん! 斬りつけないで!」
「――?」
「その傷、人間に戻っても残るみたいなの! 女の子が肌に傷を作るなんて――駄目だよ!」
「――――そうか……分かった」
処凛は獣が起き上がる前に、先程打ち捨てた鞘を手に取り、刀を収める。
「え――?」
「斬撃でなければいいんでしょう!」
「……いや――そうじゃなくて」
いくら獣だって、その正体は、見知ったクラスメイトの女の子の、はずで――
「ああ!」
獣は起き上がりざまに右手を振り上げる。殴りかかろうとしていた処凛にそれは直撃する。咄嗟に刀で身体への打撃の干渉を防ぎ、再び間合いを取る。
「グウォ……オォ……」
誰も傷つけたくないと、言うこと聞いてと、葉月は必死に全身に願う。醜く巨大化した毛むくじゃらの身体。助けて、お願い、誰か私を――
一瞬の隙をついて、処凛が跳び上がった。獣の背後に回り、首筋をひと蹴りしてさらに高く飛び上がる。
「グウオ!」
ぶんぶんと腕を振り回し次の攻撃を防ごうとする獣。
処凛は冷静にその腕の動きを見極めて――――首筋に向けて、背骨と垂直に構えた鞘を突き出す。
「――ッはああ!」
鞘は獣の太い首を捕え、巨体はその刀の重みと落下する処凛の勢いで顔面から地面に叩きつけられる。
「ゴアア!」
苦しそうな悲鳴を上げる獣に、弥生は居た堪れなくなる。
「止めて処凛さん――」
首元を刀でがっちりと抑え込む処凛、しかし彼女は暴れる獣の両腕に吹き飛ぶ。
「処凛さん――――!!」
「ゴアアアアアアアア!!」
獣は咆哮し起き上がる。吹き飛んだ処凛目掛けて突進する。
弥生は、――息を吸い込んで、有らん限りの声量で――――
「葉月ちゃん――――なんだよね!?」
叫んだ。その言葉に、追撃する獣の動きがぴたりと止まった。
奇妙な静寂が流れた。吹き抜けた風に森の木々がざわざわと鳴いた。
――弥生ちゃんが、私の名前を、呼んだ?
「葉月ちゃん! 二年四組二番鯔澤葉月ちゃん! 部活動は陸上部で、癖っ毛ショートがかわいい!」
弥生は続ける。暴走する相手に理性を取り戻させるには、普段の人となりやらをひたすら言い並べるのが最善なのではないかと、映画か漫画でかじったような展開を闇雲になぞっているだけであったが、弥生が葉月を想う気持ちは、偽りのない、本物だった。
弥生ちゃんが、私の野暮ったい、大嫌いな癖っ毛を、かわいい、って――?
葉月は朦朧とする意識の中で、思う。弥生ちゃんが、私を――
「陸上部で、地道に頑張っているところ、いつも見てたよ! 県大会一位だったんだよね! 私は、いろいろあって部活とかやってる暇なくて、そんな風に打ち込めることに、すっごい憧れてる! 本当にカッコイイと思う! 風切って、走る姿は、ほんとにカッコイイ!」
誰も見向きもしてくれなかった、私の唯一の努力を、その結果を、それを、それを、他の誰でもない、弥生ちゃんが――?
「――ッ? 涙……?」
至近距離の処凛が気づく。獣が――――大粒の涙を流している。
「……いつも一人でいて、あんまり人付き合い好きなタイプじゃないのかななんて思ってたけど……でも、でも、この前思い出した! 進級した時の自己紹介カード、今年の抱負、『今年こそ友達がほしい』って―――」
「ウヴォアアアア!!!!」
葉月は咆哮した。処凛は身構える。弥生は――怯まない。
「ねぇ! 提案なんだけど!」
――分かってる。弥生ちゃんなら、きっと次に出る言葉はひとつだ。だって、あんな風に誰にだって優しい弥生ちゃんなら、惨めな私のために、憐れな私のために、そう言うに決まってる――!
待って、待って弥生ちゃん、やめて、その先は、その先は――――!
「私たち、よかったら――」
「ヴォオオオオオ!」
弥生の言葉を遮るように、再び葉月は吠える。そして、お゛っ、ぉお゛っ゛、お゛お゛お゛……!
「ヴぁ、お゛ぁ……ヴァタシ……ガ、イイ……ダイ!!」
「――――!」
涙をぼろぼろと溢しながら、獣はしゃべった。
葉月は、その声帯を〝変型〟させ、絞り出すように、人間の言葉を、しゃべった。
「ヴ、ワダシガ――ヴァダジガ! ザギニ、イイダイ!!」
「――ッ! 葉月ちゃん! 葉月ちゃんなんだね!?」
「ゾ……ウ、ワダジハ……イナザワ、ハ、ヅ、ギ……」
「よかった! 人間の気持ちが、戻ったんだね!」
もともとはっきりした意識の中で、制御できない身体と暴走する野生的感情に苦しんでいた葉月だったが、そんなことを知りようもない弥生は、無邪気に語りかける。
「葉月ちゃん、もう、人を襲ったりするのはやめよう! そんなことしたって、いいことなんてひとつもないよ、それより、どこかに遊びに行ったり、そうだな、えっと、カラオケとか! ねぇ、葉月ちゃんは好きなアーティストとかいるの!?」
「ヂガ……ウ……ゴレハ……ワダジノ、イジジャ……ナイ……」
「え? 私の、意志じゃ……なに、どういうことなの!?」
「実験体ナンバー2は、凶暴な肉食動物のDNAを埋め込まれた実験体――」
処凛が葉月にしっかりと鞘を向けたまま、弥生に告げた。
「え……なにそれ、どういうこと……?」
「ナンバーガール計画」
「ナンバーガール……計画?」
「かつてこの街に、巨大な宗教団体があったことくらい知ってるでしょう?」
「――――!」
「その教団では、来たる最終戦争に生き残るための〝新人類〟を生み出すために、極秘で非合法な人体実験を行っていたの」
「っ……え……?」
「最終戦争だなんて……妄想でしかないのに! ありもしない幻影に囚われて、正気の沙汰じゃない――!」
処凛は怒りを露わにする。ぶちまけるように言い放ち、一息置く。
「――選ばれたのは五人の幼い子供。全員が教団関係者の子供。そしてその中の一人は、信徒夫妻の一人娘」
「――――ッ!」
弥生は葉月を見る。その獣の眼に見える、驚愕と、悲哀。
「そして同じように私もまた、その実験体の一人。私は最初の一人――通称ナンバー1。身体能力、自己治癒力の強化など改造自体はシンプルなものだけれど」
淡々と処凛は続けた。弥生も、獣姿の葉月も、唖然となっていた。
――人体、実験? つまり私の身体は、改造されてこうなっているってこと?
葉月は自らの両腕に目をやる。人間の手の名残りなど少しもない、正真正銘、獣の腕。
「――鯔澤葉月! あなたに問う! あなたは私たちに反抗せず、その力の制御を正しく行い、私の両親そして、向井夫妻の願いを実現させるために力を貸すか――!!」
処凛は葉月に刀を突きつけ、すうと一息吸い込んで、叫んだ。
「もしも、この条件が飲めないというならば、残念だが、その時私は、鬼にでも邪にでもなる――――あなたをこの場で、斬り伏せて――殺す!」
「ちょ、ちょっと――そんな!」
「そして向井弥生! あなたは……希望よ。向井夫妻が残した最後の希望。あなたがいなければ、私の両親と、あなたの両親の願いは決して果たされることはない!」
――私のお父さんと、お母さん……? 私が……希望?
「ヴォ、オ゛ッ、オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!!」
「――葉月ちゃん!?」
その時、葉月はひと唸りして、崩れ落ちるように倒れ込んだ。弥生は思わず駆け寄る。
「――! パトカーのサイレンだわ」
遠くから聴こえるパトカーのサイレン。処凛が刀を鞘に戻し、徐々に人間の姿に戻っていく葉月を背負う。
「逃げましょう」
処凛は飛んだ。あまりに高すぎる跳躍に呆然と立ち尽くす弥生に、上空の処凛が言う。
「あなたの部屋で落ち合いましょう!」
「……へ? 私の部屋?」
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