第肆話 Frustration in my blood
「えっと、あの、その」
自宅への帰路を歩きながら、どんな風に接したらいいか戸惑う弥生。
「――とりあえず、そうね、電話番号、教えて頂戴」
「へ?」
すると思い立ったように携帯電話を取り出し、右手を軽く振って早く、と促す
「え、あ、うん、えっと――」
着信。
「じゃあそれ、登録しておいてね。名前の漢字は――」
田、渕、処、凛と打ち込んで、登録。
「じゃあ、えっと、私の漢字は……」
「大丈夫、知ってるから」
「ええ~……だからなんで……?」
そんな話をしているうちに二人は弥生の自宅前に到着した。何も言っていないのに処凛の振る舞いはまるで弥生の家を知っているかのようだった。
「さて――」
「なんで」という言葉には答えず、処凛の眼つきは鋭く変わる。
――思えば、その手には日本刀がある。
――よく考えたら、トンデモな展開じゃない!?
熊と猪を混ぜ合わせたような怪物がいて、日本刀携えた少女が飛んで跳ねてブシャーだよ!? 夢!? 違うよ夢じゃないよ! 身体バキバキに痛いし!
「私はあいつを追う。それじゃあね」
「え――?」
「詳しい話はいずれ」
そういって、処凛は飛び去っていった。飛び去って……いった……。
一人ぽつんと、月明かりに照らされる夜十一時。
「…………十一時!!!!」
弥生は慌てて家に飛び込んだ。
■
「だの゛む゛~英語のノート見せてぇ゛~」
結局帰宅してそのまま、英語の教科書など一瞬たりとも開かずに、インターネットで例の獣について調べてから倒れ込むように眠りについて、翌朝は弁当を作る暇もなくシャワーだけ浴びて、登校。昨日の出来事って――夢じゃないよね?
「あれ~? いつものやよらしくない」
前の席の友人が、顔だけ向けて言葉を返す。
「昨日はほんと大変だったんだよぉ~……」
――調べて分かった事、事件の概要。ひと月ほど前から時折山林近くの住宅地に現れ出した獣。目撃証言によると熊や猪のような、剛毛に覆われた身体つきで、しかしよく見ると決して見知った動物の姿ではないという。この街で熊が出没したというような記録はここ五十年以上なく、住宅地の山林に生息しているという調査結果は一度も出ていない。四本足で移動し、二本足で立つこともある。初めは猫やカラスなどが殺される程度で、住人もあまり気にかけてはいなかったが、ある時突然、市街地の真ん中で、五十代の女性がその獣に突き飛ばされた。幸い打撲程度で済んだが、猛スピードで駆けて行った獣の行方は結局突き止められることなく、捜査は数日行われてのち打ち切り。しかしそれから、時折住宅地での目撃情報が相次ぎ、一人、二人と、その獣に遭遇し怪我を負う者が増え始めた。さすがにこれはと警察を中心に本腰入れて捜査が行われたが、獣は主に夜間に行動をすることもあってかなかなか正体や足取りを掴むことが出来ず、知性が発達しているのか地元猟友会の罠でさえ捕捉できていない始末。そして昨日、山道を走っていた車が森から現れた熊によって投げ飛ばされ、運転手が重傷。
それから、調べて知ったことだけれど、熊に涙腺はないらしい。
「え、なになに、もしかして獣に襲われた?」
友人は振り向いて、にやにやと身を乗り出す。
「ぎ、ぎく」
いや事実その通り。昨日の夜は、獣が出て、どかーんってなって、死にかけて、刀の女の子が、飛んで、跳ねて、ずばしゃー………………
…………言えないでしょ、フツー。
「……マジ?」
「ぎ……ぎくぎく~! バイト先のみんなとおしゃべり弾んだぎくぎく~!」
弥生は慌てて誤魔化す。その焦った表情ですら演技でしたと言わんばかりに、大袈裟に振る舞ってみせる。
「……なんだぁー残念!」
「ちょっと! 残念って何!? 獣に殺されろってこと?!」
「あー不謹慎~! 昨日重傷出たんだよ~」
「う……って、それ『残念』の返事になってないから!」
「だって~、やよのバイト先の大学生かっこよくない? あんなイケメンと一緒のバイト先なんてうらやましいんだも~ん」
「ばか、あの人彼女いるよ」
あんな出来事があった後でも、日常はいつも通りやってくる。
不思議な浮遊感。地に足がつかないようなふわふわした感覚。
希望……。多分、希望って聞こえたような気がしたんだけど、あれって一体、どういうことなんだろう…………。
――――処凛さん、カッコよかった、な。
……なんて。
「……あれ?」
「ん、どした」
弥生は葉月の空席が目に止まって、何気なく言葉にする。
「今日葉月ちゃんお休み?」
「葉月? 誰?」
「ええ~……クラスメイトの名前くらい覚えようよ~……」
「ゴメ、ウチあんまり名前覚えるのトクイじゃない」
「
「あー…………あんたよくそんなの気づくね。彼女、いてもいなくても変わんなくない? ……あ、いやいや違う! 嫌いとかウザイとかそういうのじゃなくて、実際のところ」
「えーそうかなぁ。県大会で一位取って、集会で表彰されてたじゃん。有名人じゃん」
「有名人……? あんたよくそんなの覚えてんね……」
「やー、放課後も学校出る時走ってる姿よく見るしさー」
「でもあの子……暗いっていうか、なんか、あれじゃん?」
「んー、なんでだろうね」
ふと意識に立ち現れた鯔澤葉月のこと。よく考えてみたら、意外と彼女のことを見ていた自分に驚く弥生。耳を塞いで震えて、嘔吐して、欠席――? 何かあったのかな、心配だな。
その優しさは、弥生の生来のもので、少し特異な環境で育ちながらも、歪むことなく保たれてきたものだった。
ホームルーム開始のチャイムが鳴り響く。生徒それぞれが自分の席に着く。
弥生は窓の外を眺める。あの電柱をぼんやり見つめて、思い出す名前。
田渕処凛。
……いい名前。
■
葉月は学校を休んで、ベッドの上でうずくまって、枕元の時計の秒針が回るのをただただ眺めていた。祖母は嫌々そうに学校に電話をかけた。どうしていつもああなんだろう。
「…………」
弥生ちゃん。
弥生ちゃんだった。
私は弥生ちゃんを、傷つけようとした。殺そうとした。
この右手が、止まらなかった。
ベッドにだらんと広げた右腕を一瞥する。軽蔑する。
弥生ちゃんのあんな顔――見たくなかった。
私は訳が判らなくなって、無我夢中で……
傷つけたくない一心で、何とか、どうにか、制御したつもりだったけど、止まらないその衝動は、見知らぬ女の子を傷つけた――。
見知らぬ女の子――刀を持っていた。そして、飛んだ。
綺麗な跳躍フォームだったな。武道か何かやっているのかな。
――刀。
葉月は自分の左腕を見る。
前腕部分外側、手首から肘にかけて垂直に、大きく残る傷。
昨日、あの斬撃を受け止めた時抉られた傷。
消えない。目立つ。見られたくない。
――でも、いつまでも学校を休んではいられない。
この家にも、あんまり居たくないし――――
スポーツバッグからテーピングを取り出して、左上腕にぐるぐると巻き付ける。
涙がぽろぽろと溢れ出した。
私は、もしかしたら、世界中で独りぼっちなのかもしれない。
いっそ、どこか人里離れた山の中で、静かに暮らそうかな――
なんて、それでも棄て切れないたくさんの未練や願望が、私は人間でいたいのだと、葉月の涙腺を揺らした。
■
翌日。葉月の登校に気づいた弥生は、自分の席に向かいがてら葉月に声をかける。
「おはよう、葉月ちゃん! 昨日は、大丈夫だった?」
「え…………あ……」
机を挟んで、一対一。
またしても弥生に話しかけられた。一体どういう風の吹き回しなのだろう。私なんて、私なんか――困惑した葉月は言葉につかえる。
「あれ……? その左腕、どうしたの?」
弥生は首を傾げて、左腕を覗き込む。
「こ……これは……その」
葉月は右腕で庇うように左腕を隠す。
その時弥生の目に飛び込んだのは、右肘に出来たかさぶたであった。
「――――?」
弥生の頭の中に、何かが掠めた。ばらばらになっていた欠片が、ひとつに纏まりそうで、宙を舞って……――
「うわ、一限国語じゃん。山月記タルいわ~」
「――!」
葉月の前の席、弥生の背後で男子生徒が何気なくぼやいたその言葉に、弥生は気づく。
『その声は、我が友、李徴子ではないか――――?』
もしかして、まさか、いや、そんなはずはない。人が――獣に?
でも、あの時獣が見せた涙は、とても人間的で――
左腕のテーピング、右肘のかさぶた――
「あ、やよ~! おはよ!」
教室に入ってきた弥生の友人が、立ち尽くし目を見開いて葉月を凝視する弥生に声をかける。その言葉に弥生はハッと我に返り、友人に促されるように自分の席に向かった。
■
―――――気づかれた!!!!!!!!
葉月は激しい動悸に襲われる。全身がぶるぶると痙攣し、瞳孔がくわりと開く。
ごろごろと喉が鳴る。唾液が溢れ出そうになる。
葉月は教室を這うように飛び出した。
気づかれた!! 気づかれた気づかれた気づかれた!!!!
女子トイレに駆け込んで、個室の鍵をかける。
「はぁ、はぁ、はあ、はぁ」
どうしたらいい? どうしたらいい!? どうしたら私は罪に問われなくて済む? 弥生ちゃんが誰かに言いふらしたら? 警察に通報したら?
解剖? 人体実験? 死刑?
どうしたらいい? 山に籠って暮らす? 嫌だ、人間でいたい!
どうしたら、どうしたら、ハッ……ハッ……どうしたら、はっ、ハッ、コロセ、
弥生ちゃんを殺せ。
――――!?!?!?!?
よぎったその感情は、びっしりと脳を覆い尽くす。コロセ、コロセコロセコロセコロセコロセコロセ――――!
■
どごぉん、と、爆発音に近い音が、学校中に響き渡った。
生徒、教師がみなぴたりと動きを止める。
その音の発信源――二階女子トイレのすぐ近くに位置している二年二組の教室でホームルームを始めようとしていた男性教師が、一声断りを入れて女子トイレに足を踏み入れる。
「――――!? な、なんだこれは……!」
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