第参話 SAMURAI
「はぁ、長居しちゃった」
一昨日とは打って変わって客が少なかった今日は、マスターの意向で早めの店終い。そのままついマスターやアルバイトの面々とおしゃべりに花を咲かせた弥生は、夜十時になりそうなことに気づいて慌てて帰路を駆ける。明日の英語の解答発表は自分に当たるだろうからと、予習を済ませておきたかった。
近道――そうだ、あの薄暗いトンネルを抜けて行けば早いかも。
弥生はいつもの帰路とは違う道でショートカットを選んだ。
トンネルへと続くのは、右手に林がそびえる、どこか不気味な道。街灯はぽつぽつとちゃんと点いているけれど、それでもやっぱり怖いし止めておけばよかったと一抹の後悔を抱えながら、思い切って走り抜けようとする。
月明かりの眩しい夜だった。
弥生はトンネルに足を踏み入れた。橙色の無機質な街灯を頼りに、出口へ向かう。
振り返ると幽霊がいるなんてよくある迷信を、弥生は意外にも信じていた。
トンネルを抜け出す直前。点滅していた街灯のひとつが、不意に消えた。
そして、直感にも近い何かが弥生の足を止めた――
次の瞬間。林の中から、巨大な影が現れる。
「――!?」
その巨大な影は、その毛むくじゃらの身体は、
「獣……」
熊のようで、猪のようなその身体。それでいてどんな野生動物とも違う、そんな姿。体長は成人男性の一.五倍ほどで、ずんぐりとした体つきに生え揃うごわごわとした赤土色の体毛は月明かりを受け鈍く光っている。
ずらりと並ぶ鋭い歯が、低い唸り声を漏らす口元から覗く。
弥生の足は竦む。汗でじっとりと貼り付く制服が気持ち悪い。
大丈夫、どうやら獣はまだ、こちらの存在に気づいていない――
お願い、左を、左を、向かないで――
消えていた街灯が、点いた。
そして獣は、弥生のいるトンネル側へ、顔を向けた――――
「――――!!!!」
獣は、瞳を大きく見開いた――ように、弥生には見えた。
数秒、不思議な空白の時間が流れた。
何も、してこない?
顔をしかめる弥生。そして――――
「グルル……ガ、ガァァァァ!!!!」
獣は弥生に向かって地面を蹴った。
「はッ……はぁ……!」
逃げ道は今や、さっきまで駆け抜けきた反対方向のトンネル入り口しかない。状況は最悪だった。無我夢中で走る。助けてと大声で叫ぼうにも声が出ない。さっきまで通ってきた道のりに、歩行者は誰もいなかった。車だってこの道は、ほとんど通らない――――!
足がもつれて転んだ。こんなマンガみたいな状況に自分が於かれるだなんて、最悪だ。
獣の足音が近づく。急いで起き上がろうとするが身体に力が入らない。
「ううっ!」
声すら絞り出せない。獣が近づく!
ドガァ!
「……?」
獣は自ら、トンネルの壁に身体を叩きつけた。
何が起きたのか全く判らなかったが、兎に角今がチャンスだと力を振り絞って立ち上がる。しかし――――
「ガアアアアア!」
気づけばすぐ真横に獣がいた。
獣は右腕を振りかざす――――
「――――ッ!」
ずしん、と震動がして、身体の上に何かが降りかかった。
ゆっくりと目を開く弥生。目の前には獣。右腕は頭上から壁に向かって伸びている。
「グ……ゴ……ガァァ……」
コンクリートに突き刺さった獣の爪。
逃げる好機にも関わらず、しかし足が竦んで動けない弥生。いよいよ自分の命もここまでかと膝から崩れ落ちる。
ふっと、頭の中に駆け巡る様々な経験、記憶――思い出。
友人との何気ないやり取り、アルバイト先での接客、帰り道に見た夕暮れ、高校の合格発表、母の腕の中のぬくもり、頭の上に添えられた父の手、かけられたあの〝言葉〟――――
「弥生に――――……たぞ――――」
いやだ、まだ、死にたくない。
両目から、涙が溢れ出した。強く、強く、生きたいと、思った。
形見のペンダントを、ぎゅっと握りしめる。
――そしてほぼ同時に、気づく。
獣の瞳から流れ出る、――涙?
それは紛れもなく涙だった――獣も涙を流すのだろうか。
いつか何かで読んだ覚えがある。動物には人間と同じように、眼を乾燥や細菌から守る『基礎分泌』と呼ばれる涙と、異物が入った時それを洗い流す『反射分泌』と呼ばれる涙はあれど、感情による涙――すなわち『泣く』という行為はない、と。
でも、今、目の前で涙を流しているこの獣は、――間違いない。泣いている。
悲しくて、泣いている。
弥生は、何故かそれを直感で感じ取った。そう思った理由は、判らなかった。そもそも動物だって、意志疎通ができないから確認しようがないだけで、悲しくて泣くことだってあるかもしれない。でも、そうじゃない。今、目の前で泣いているこの獣は、どこまでも、人間的な――――
コンクリートに食い込んだ爪が抜けた。そして獣は、再び弥生に向かってその腕を振り上げた。
「ッ――――――――!」
目を瞑り、短い人生の終わりを想った。だからイヤだってば、だってまだ、してないことたくさんあるし、例えば――例えばホラ! 彼氏とか、作ったことないし、キスだって、したことないし、手だって、繋いだことないし――――!!!!
ドッ、と、鈍い音がした。そして、ざりざりと砂が擦れる音がして、自分の身体に痛みはなくて、不思議に思った弥生は恐る恐る目を明けた。
――――――!!!!
目の前で、刀を構えた少女が、獣からの攻撃を、防いでいた。
その少女は、間違いなく、忘れもしない、先日、四限の国語の時間に、あの電柱の上に立っていた少女だった!
「う……そ…………」
思わず声を漏らす弥生。夢なんかじゃなかった。幻なんかじゃなかった。刀を携えた制服の少女は、本当にいた!
「早く……そこから離れて!」
「え……」
「死にたいの!?」
彼女の履くローファーがざりざりと音を立てる。獣の怪力に、押されている。
「え……あっ」
ふっと、身体に力が戻った。いやだ、死にたくない。
「早ッ……く、動……いて!」
「ッ――!」
少女は刀にぐっと力を込め、受け止めた獣の右腕を押し返す。
「早く!」
少女は叫ぶ。弥生は全身に力を込めて、立ち上がる。トンネルの出口へ向かって駆け出す。
ばくばく鳴る鼓動を全身で感じる。ぶわりと汗が噴き出す――
どごんっ、という地響き。弥生は思わず立ち止まって振り返る。
見れば獣が、地面に右腕を叩きつけていた。コンクリートの地面が抉られている。飛び散ったコンクリートの塊や破片が弥生のすぐ足元まで飛んできた。
そして少女は――空中に跳び上がっていた。
「えっ!」
到底人間が跳び上がれるような高さではなかった。まさに〝飛んだ〟というような高度に彼女はいた。
華麗に地面に着地して、低姿勢のまま駆ける――獣の懐に飛び込んで、左脇腹に一撃蹴りを入れた。とてつもなく重い一撃のように見えた。
「グゥア……」
獣がよろめく。同時に、反撃とばかりに左腕を水平に薙いだ――その腕は少女の華奢な身体を捕え、彼女は吹き飛ぶ。
「――ッぐ!」
「――! っ、ああ!」
弥生は思わず声を上げた。
トンネルの壁に叩きつけられた少女。ぐわん、と辺りが揺れる。あんな速度でコンクリートにぶつかったら――
しかし――少女は立ち上がった。
「えっ!」
「ッ……」
少女は口から赤い液体を――血を、吐き出した。そして弥生に向けて言う。
「何……やってるの! 早く安全なところへ逃げなさい!」
「そんな……だって……で、できないよそんなこと!」
「私は大丈夫だから逃げなさい! あなたは……〝希望〟なのよ――!」
……希望?
私の聞き間違いだろうか。彼女は今、ボロボロの身体で、私のことを「希望」だと言った。希望? 一体それは、どういう意味――――
いや、そんなこと、関係ないよ、だって、だって今、目の前で、女の子が、私とおんなじくらいの女の子が、傷ついている――――!
体制を立て直した獣が、少女に向かって飛びかかる。
弥生は足元に転がってきていたコンクリートの塊を掴み上げる。
――彼女を、助けなきゃ!
先程まで自分が獣に殺されそうになっていたことも忘れ、弥生は無我夢中で駆け出した――そして、獣に向かって力いっぱい、手に持ったコンクリートを投げつけた。
コンクリートは獣の右肘に直撃し、獣は一瞬怯んだ。
「――――だから、大丈夫だって」
少女は小さな声でそう言って、ぐっと姿勢低く構え、そして――――飛んだ。
獣の身長を悠々と飛び越え、刀を振りかざす――――
「はあああっ!」
叫び声を上げ、少女は獣に斬りかかった。獣はとっさに、左手首でそれを受け止める。ずしゃりと刃が肉を抉り、どっと血が溢れ出した。
「ガ、ゴアァァ!!」
獣が鈍い咆哮を上げた。二、三歩後ずさりして、狼狽の体を見せた後、目にも止まらぬ速さで去っていった。
くわん、くわん、と嫌な残響がトンネルを這って、やがて静寂が訪れた。
「っ……はぁ、はぁ」
荒くなった呼吸。膝はがくがく震え、緊張が解けたのか弥生は地面にへたり込んだ。
少女は獣が逃げて行った方向をしばらく見つめた後、弥生の元へゆっくりと歩み寄る。
「危ないことしてくれるわね」
つん、と、鋭い口調で少女は弥生に語りかける。
「だ……だって、危ないって、思っ……た、から……」
呼吸を整えながら、鼓動を鎮めながら、弥生は返事を返した。
「まあでも……ありがとう」
少女はややあって、弥生と目線を合わせないままぽつりと呟く。
「あ! そんなことより、き、傷とかは!」
弥生は慌てて立ち上り、彼女に駆け寄る。
「っ……あれ?」
しかし。弥生が身体を触りながら目視しても、傷らしい傷は見当たらない。制服はあちらこちらが擦れ、傷ついて破けているのに、その下から覗く白い肌は瑞々しい少女のそれだった。
ふ、と少女は小さく笑い、弥生と間を取るように一歩下がる。ずっしりとした重みの伺える巨大な刀を鞘にしまって、改めて少女は弥生と向かい合う。
「初めまして、向井弥生さん」
「え……私の名前……なんで?」
弥生は自分の名前が知られていることに驚く。この人とは初対面――いや違う、私たちはあの時、確かに目が合っていたんだ――!
「私の名前は
やっと会えたと、処凛は言った。
向井弥生と、田渕処凛。その邂逅。
止まっていた運命の歯車はこうして、ゆっくりと廻り始める――
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