INAZAWA MEETS KEMONOSTYLE

第弐話 ZAZENBEATS KEMONOSTYLE

 最近なんだか、私が私じゃないような気がする。


 四限の国語の授業。クラスメイトの教科書音読をぼんやりと聞き流しながら、教室中央最後列で鯔澤葉月いなざわはづきはそう思う。連日の部活動で浅黒く焼けた両手を見つめながら、ちっとも女らしくないごつごつとした自分の手にうんざりする。可愛くない。

 進級を迎えた頃からだろうか。意識が落ちることが多くなった。それは主に、学校から帰って自室にいる時に起こることだが、気づいたらぐったりと、ベッドの上で全裸になって寝ているのだ。両手両足は土で汚れ、そして……

 ……いやに汗臭い、獣のような臭いがして――――


「その声は、我が友、李徴子ではないか――――?」


 クラスメイトが読み上げたその文章に、ぞっとした。


 獣。例えば自分が、意識の無い状態で、裸で、家の中を、庭を……街の中を、歩き回っているとしたら――?

 ……とんでもない変質者だ。やばい。ちょっと病院に行った方がいいのかもしれない。

 夢遊病。なんかそんな病気の名前を聞いたことがある。発祥の原因は、確か――――


「向井さん!」

 温厚な老教師が張り上げた声に驚く。

 向井さん――このクラスの向井姓はただ一人。向井弥生――弥生……ちゃん。窓際の席の彼女。その彼女が今、名前を呼ばれた。

 何事かと葉月は弥生を見る。そこには顔面蒼白で冷や汗を垂らす彼女の姿があった。


 どうしたのだろう。教師が話しかける。窓の外を見ていた? 葉月は窓の外に目を向ける。

 特にいつもと変わらない風景。真昼の波夏多はかた市の街並み。

 ――――?

 グラウンドの先で、何か影のようなものが、飛び去っていった。

 この距離からしたら、鳥にしては大きすぎる影だった。

 ……いや、きっと見間違いか何かだろう。葉月はそう納得して、再び弥生を見た。教師が何やらまた脱線を始めた。説教中ですら話が脱線するのだ。生徒に威厳がないと言われても仕方がないなと思いながら、なにかひどく動揺しているように思える弥生の背中を遠く見つめた。


     ■


 昼休み、葉月は自分の席でひとり、味気ないコンビニのパンを頬張る。左隣の席で集まって食事をしているクラスメイトの弁当をちらりと一瞥して、そんな風に楽しく食事が取れることを羨ましく思いながら、でも私は、「一緒に食べてもいい?」の一言が言えないのだと落ち込む。もし拒絶されたらどうしよう。話が合わなかったらどうしよう。相手に迷惑をかけてしまうかもしれない。楽しい時間の邪魔をしてしまうかもしれない。ぐるぐると回る自己嫌悪も、いつものことだった。

 ――ああ、もしもお母さんが生きていたら、あんな風に美味しそうなお弁当を、毎日作ってもらえたのかな。

 何気なく廊下に目をやると、笑顔の女子生徒が弁当箱をふたつ持って、男子生徒の手を引いて階段方向へ消えていった。


 自分の惨めさに、悲しくなる。恋人も、友達も、両親さえいない。祖母は早起きしてお弁当を作ってくれたりはしないし、第一、身内なのになんだか余所余所しい。原因は、父母がかつて怪しい新興宗教に染まっていたからだとかなんとか嫌味みたいに聞かされたことがあるけれど、そんなのって、関係ないじゃん。両親は両親で、私は私なんだから。

 ――――私は私。……私は、私?


「聞いてくださーい! やよは暑さで頭がイカれました~!」

 教室の窓際の女子集団から、元気な声がした。その楽しげな発言に、クラスのみんなは笑う。そしてその言葉にあたふたと反論する女の子。

 ――弥生ちゃん。

 クラスの人気者。さらさらのミディアムヘアーで、オレンジのヘアピンはお洒落なアクセント。女の子らしくて、誰に対しても優しくて。

 私は、弥生ちゃんみたいなクラスの人気者には、到底なれないし、それどころか、友達さえまともに作れた試しがなくて、勇気を出して告白した部活の後藤先輩にも、呆気なくフラれた。


 本当の私はどこにいるのだろう。

 本当の私は、どんなだろう。

 ホントウノワタシ? 本当の私って、何?

 じゃあ今の私は、本当の私じゃないの?

 理想、現実、願望、挫折。


 例えば、弥生ちゃんみたいになれたなら。

 きっと毎日が楽しくて、充実していて、美味しそうな手作り弁当を食べて、友達がたくさんできて、恋とかだって――――

 でも、私は、彼女になんてなれない。近づくことさえ、できない。ワタシは、日陰者。無駄に肌だけ焼けた、日陰者。きっと、彼女に認知さえ、してもらえてない――んだと、思う。


 手持ち無沙汰に携帯電話のスケジュールメモを開く。予定表には、部活、部活、部活。それだけしかない。中学の時から頑張ってきた陸上。でも、それだって、もう、疲れちゃった。だって、頑張って賞を取っても、褒めてくれる人なんて、一緒に喜んでくれる人なんて……

 ……顧問くらいしか、いないんだよ。


 ずきん、と、頭が痛んだ。まただ、最近ずっとこればっかりだ。

 葉月はくしゃりと、野暮ったいと自己嫌悪する癖っ毛の上からこめかみを揉んだ。


     ■


 「はあ、疲れた」

 スポーツバッグをどさりと肩から下ろしそのまま、うつ伏せでベッドに飛び込む。


 朝六時に起きて、学校に行って、朝練して、授業受けて、七時まで部活して――

 毎日毎日、同じことの繰り返し。でも、前に進んでいるような実感は、これっぽっちもなくて。ああ、私は、何がしたいんだろう、何になりたいんだろう、どう在りたいんだろう。


 ――弥生ちゃん。

 もしも、弥生ちゃんみたいになれたなら。


 粗末な学習机横の姿見。そこに映る自分の顔。可愛くない。一丁前に姿見なんて、生意気。こんなもの、私には必要ないよ。


 やがてまどろみがやってくる。葉月はその心地良さに全てを委ね、ゆっくりと目を閉じた――


     ■


「やよ、じゃあね~!」

「うんー! またねー」


 帰り道。クラスメイトと別れた弥生は、そのままの足でアルバイト先へ向かう。弥生の高校は基本的にアルバイト禁止だが、家庭の事情などを理由に許可申請を行えば認められるのだった。個人経営の喫茶店のウェイトレス。父と古い友人だったというマスターが、特別にいい時給で働かせてくれている。彼女にとって接客は苦ではなく、むしろ楽しいものだった。馴染みの客たちは自分を、看板娘のように可愛がってくれる。


「…………」

 夕暮れ時。友人と別れてふとやってくる、虚無感に近い何か。


 もしかしたら私は実は孤独なんじゃないかなんて、思う。

 友達がいても、理解のあるバイト先のマスターがいても、優しいお店のお客さんに囲まれていても、頼りになる先生がいても、本当は、何も無いんじゃないのだろうか。

 一日眠れば朝には消えてしまっているような些細な疑問。それでも、ふとした瞬間に湧き起こる疑問。

 沈んでいく西陽に目を細める。

 こんな風な生活も、一年以上が経った。すっかり馴染んで、何の不満もないけれど、でも、何だろう、この気持ちは――――


 ふと、今日の昼間の、電柱の上に立っていたあの少女のことを思い出す。

 弥生が立っている道は、丘の上にあって、そこから波夏多はかた市の街並みが見下ろせた。

 電線を目で追って、電柱に辿り着く。いない、いない、いない。


 何やってんだろ、私。いるわけなんか、ないのに。

 ポケットから携帯電話を取り出す。

 時間を確認して、それから、何となく電話帳を開く。スクロールしていく画面。友達、友達、バイト先のお姉さん、マスター、友達、友達…………

 アルバイト代をやりくりして自分で使用料を払っている携帯電話。普通の子たちなら当たり前のように持てるものも、私は努力しなきゃ掴めない。

 それでも、人並みな、それなりな生活がほしくて、私は、頑張ってるよ。

 お父さん、お母さん。私はあなたたちのこと、恨んだりしてないよ。産んでくれてありがとうって、思ってるよ。

 でも、でもね、ちょっとだけ、寂しいな――――


 その電話帳に、父と母の名前はない。どれだけたくさんの名前が連なっていたって、そのたったふたつが、私にはないんだよ。


     ■


 窓から差し込む月明かりがベッドに射す。

 目を閉じたまま、膝立ちでゆらりと起き上がる。

 月明かりに全身を晒け出すように上体を逸らし、ややあってだらんと脱力していた両腕が首元へ向かう。

 リボンを取り外し、ブラウスのボタンを上からひとつひとつ、ゆっくりと外していく。

 両肩に手をかけ、滑り落とすようにブラウスを脱ぐ。

 そのまま腰に手をかけ、スカートはぱさりと、放射状に広がってベッドに沈む。

 両腕をクロスさせインナーシャツの裾を掴み、たくし上げる。シャツは首の後ろを通ってベッドに散る。

 立膝になり、パンツに手を伸ばし、ゆっくりと滑り下ろす。

 そのまま立ち上がり、ベッドの上を窓に向かって歩いてゆく。


 腰上ほどの高さにはめ込まれた窓枠のガラス戸を開き、サッシに両手をかけ――そしてまた、右足も、同じように、サッシに乗せる。

 「ふーっ……ふーっ……」

 少しずつ、少しずつ、大きく、荒くなる呼吸、そして、

 

 ぐぐ……ばき、


 肉付きのよい少女の身体が、不規則に痙攣する、痙攣はがくがくと大きくなり、次第に、身体の内側から何かが突き出るかのように、半身が跳ねる。


 ごきっ……ざわ、


 物理法則を超越した体積の増加、瞬時に全身を覆う赤土色の剛毛。

 みし、とサッシが音を立てる――――そして瞬間、その巨躯は、夜に向かって飛び出した。


     ■


「いらっしゃいませー」

 からんと入り口の鐘が鳴り、来客。弥生は笑顔で応答し、客を席へ通す。

「お冷ただいまお持ちいたしますねー」

「はい、弥生ちゃんこれ、三番席のお客様に」

「はいー、かしこまりました! 今日はお客さん多いですね~」

 弥生がアルバイトをしている店は、地元ではちょっとした有名所で、部活帰りの高校生から営業回り休憩のサラリーマン、主婦からカップルまで老若男女に大人気で、忙しい時は本当に一息つく暇もないほどの盛況ぶりだ。

 充実した疲労感。私って結構接客には向いていると思う。

 どうしてだろう――人と関わっているのが好き?

 ――――あるいはそれは、永遠に満たされない寂しさの、裏返し?


「……?」

「ん、どうした弥生ちゃん」

 マスター越しに見える小さな小窓に、何か巨大な影が横切ったような気がした――


     ■


 腰を抜かしてがたがた震えている成人男性に、二人の警官が駆け寄る。

「大丈夫ですか!? お怪我は!」

「け、怪我は、無いんですけど、あいつ、森の、森の方に……!」

 男性は震える手で住宅街に隣接する森を指差し、声を絞り出す。

「分かりました。事情聴取ということで、署までご同行願えますか?」

「は、はい……」

「では車の方に……おい! 頼む」

 車からもう一人警官が出てきて、男性を車に乗せる。


 五分ほど前、獣に襲われかけた住民が警察に通報を入れた。

 警察が現場に到着した頃にはすでに――やはり、獣は姿をくらましていた。

「……またか」

 指差された方角を遠く眺めながら、初老の警官が呟く。

「全然、足取り掴めませんね。もうかれこれ一ヶ月くらいになりますかね」

「監視カメラでも捕え切れない……どんだけ速いんだよ奴ぁ」

「これ以上野放しにもできませんね……しかし」

「最善を尽くすのみだ。さ、行くぞ」


 警官は車に戻る。時刻は夜八時。


     ■


 ぼんやりと、ゆっくりと、意識が覚醒する。

 もの凄い速度で、景色が流れゆく。視界が高速で移り変わる。

 ――ここは、何処? 私は――――……走っている?

 身体にちくちくと感じる痛み。

 木々? ……木々。

 ここは……森の中?

 私は、四本足で、四本足で! 走っている――――大地を駆けている!?


 ずざざと、急ブレーキをかけて立ち止まる。土煙が舞い上がる。

 立ち止まって、二本足で――二本足で! 立つ。

 いつもと違う視点。いやに高い。身体が大きくなったように感じる。

 両手を見る。浅黒くて、ごつごつした、可愛くない、手――――手!?

 毛むくじゃらで、巨大な、獣の手。


「――グォオオア!」

 思わず奇声――奇声!? 自分が発した唸り声に、驚く。


 そうして、初めて明瞭に、自己を認識する。


 鯔澤葉月わたしが、獣――――!


「グォ、ウォ、グオオオオオ」

 人間の声が出せない。現状の、現象の把握ができなくて、パニックになる。両腕を振り回す。腕にぶつかった細い木々は次々に倒れてゆく。

 あの事件も、あの事件も、犯人は全部全部、私!?

「グォ、アアア!!!!」

 太い幹に体当たりすると、ばきばきと周囲の枝を巻き込んで真っ二つに崩れ落ちた。


「グォォォォォォン!!」

 頭上の月に向かって吠える。そうして、訳も分からぬまま駆け出す。


 私は一体どうしたの!? 何が起こっているの!?

 ――――私は、私は一体何!!!!!!


 森を突き抜け、舗装された山道へ飛び出る。

 右手側から眩しい光源。振り向くと自動車。

 ――――ぶつかる!

 しかし、避けようという意志とは反対に、飛び出た右腕が自動車のバンパーを捕える。運転手を乗せたまま、自動車は駆けてきた森の方へ吹っ飛んだ。

 ドゴォ、と爆音が響く。

 ――運転手の命が!

 そう思った獣――葉月は慌てて車へ向かう。

 ひっくり返った車を起こし強引に車の天板を引きはがす。

「う……うあ、うああああ!」

 獣を見て叫び声を上げる運転手。

 ――よかった! 生きてた! コロセ!

 ――?


 頭の中に、ノイズ、違う、間違いない確固たる別の意志が響く。

 コロセ! コロセ!! コロセ!!!

「グウァ! アガアアアアアア!!」

 理性と反対に――或いは本能のままに飛び出る右腕。

 ――だ、ダメ!

 右腕はそのまま自動車の先の木へ向かい、その木を吹き飛ばした。


 遠くからけたたましいサイレンの音が聴こえてくる。

 いち、にい、さん、し……音源はよっつ。四台。この音はパトカーだ!

 ――捕まったら不味い!

 動物的な直感と、認識能力と、人間の判断力。瞬間の判断を、脳が下す。


「ヴォォォォォォ!」


 巨躯は唸り、森の奥へ消える。

 頭から血を流し左腕を骨折した運転手の男性は近づくサイレンを聴きながら気を失った。



「おい! あれ!」

「――ッ! おい! 救急呼べ!」

 山での咆哮を聞きつけた先程の警察官たちがパトカー数台を引き連れて山道を飛ばし、そうして見つけたのは惨劇の跡だった。


     ■


「ねぇヤバくない? いよいよヤバくない!?」

 学校では朝からその話題で持ち切りだった。そこかしこでその〝事件〟について考察やら感想やら対策やらが交わされている。

 ああ、待って、言わないで、それ以上、それは、私が――――

「――さん、葉月さん!」

 胃が飛び出るかと思うほどびっくりして葉月は跳ね上がる。思わず獣みたいな唸り声が出た。

「――っ、どうしたの? 大丈夫?」

「えっ、あ、え、え?」

 葉月に声をかけたのは――弥生だった。

「やよ――向井さん……な、なに?」

「い、いや、教室入ったら耳塞いで震えてる人見たらほっとかないでしょ」

 弥生ちゃんが私に話しかけてくれた……私のことを心配してくれた――?

「あっ……あっ……」

 思うように言葉が出てこない。代わりに喉から出てくるのはごろごろと濁った醜い音。

 ――これじゃあまるで獣だよ。

「怖いよね、謎の獣。私が昨日見かけた影って、もしかしたら例の怪物だったのかも」

 弥生ちゃんははにかんで席に戻る。やめて、やめて、そんな笑顔で、

 その獣は、わた、私――私?


「お゛ッ……げぇぇぇぇ!!」

 葉月は教室の一番後ろで、吐瀉物をぶち撒いた。


     ■


 知らない天井。初めて見る天井。両腕を持ち上げて、視界に入れる。

 相も変わらず醜い両手。知らない誰かを知らないうちに傷つけていた両腕。

 ――脱力。両手はどさりとベッドに沈む。

 薄暗い保健室の、硬いベッドの上で、無気力に天井を見上げながら、葉月は思う。

 私はこれから、どうなるんだろう。もし私が獣だってことがばれたら? 無意識だった時にやってしまったことも全部、私の罪になるの? 牢屋に入れられて、美味しくないご飯を食べる? いやだ、そんなのいやだ。ごめんなさい、許してください。私まだ、人は殺してないよ。殺してない、昨日の運転手は無事かな、――ああ、山月記、李徴はだんだんと、完全に獣になってしまう。私も? 私もいつか完全に獣になっちゃうの? 友達もまともにできないまま? 恋人も? 弥生ちゃんともおしゃべりできないまま?

 いやだ、いやだよ、私は私でいたい! ……私? 私って何? 誰? 私は誰!

「うっ……うあ……ああああ……!!!!!!」

 堪え切れない嗚咽を、ぶちまける。涙が枯れるまで、葉月は泣いた。獣のように唸りを上げて、泣いた。

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