NUMBER SIX NUMBER GIRL

蒼舵

第壱話 日常に生きる少女

『世界の終わりがやってくる――』

 そんな風に騒がれた一九九九年の夏。誰しもがきっと、心の何処かで少しだけ期待していたハルマゲドンは起きることなく、呆気なく夏は過ぎ去って、世紀末から早十年。

 世界は終わることなんかなく、終わらない日常はいつまでも続いていた。

 無意味な日常に見限りをつけた誰かは電車に飛び込み、救いのない苦悩の迷宮から抜け出せない誰かは屋上から飛び降りた。誰かの世界は静かに閉じる。そしてその些細な抵抗は、反抗は、誰の心もひっくり返さぬまま、日常は続いていく。


 夏。F県波夏多はかた市の、夏。

 鬱陶しい蝉の鳴き声。茹だる炎天下。

 容赦なく照り付ける灼熱の太陽は、人々の気力を奪い去る。


「その声は、我が友、李徴子ではないか――?」

 クラスメイトが読み上げる『山月記』。小難しい漢字ばかりの文章は、蝉の声と混ざり合って、雑音のように頭に響く。鬱陶しくて耳を塞ぎたくなる。

 窓際中列、向井弥生むかいやよいは音読をぼんやり聞き流しながら、真っ白なノートにぐりぐりとシャープペンシルを押し付けていた。窓からの陽射しが、ノートに反射してちくちくと目を刺す。

 意味のない落書き。虎のような何か。ぐしゃぐしゃと塗り潰す。


「はい、ありがとうございました」

 定年前の男性教師が一声かけ、音読担当の少年は一息漏らし席に着いた。教師が「読みにくい文章ですねぇ」と笑い、ほんの一寸クラスの雰囲気が柔らかくなる。

「さて、ここで主人公は例の獣がかつての旧友だと気づくわけですが――獣……そういえばここ最近、この辺りで謎の獣が住民を度々襲っているそうですね。三組の小出さんも先日被害に遭われました。幸いなことに、彼女は掠り傷だけで済んだようですが、その獣は未だ捕獲されていません……それどころか、正体すら判明していないようです。皆さんも、くれぐれも登下校時には気をつけるようにしてください。えー、さてさて、話が脱線してしまいましたね。それでは教科書三十五ページの……」

 退屈な授業。脱線ばかりの国語教師。しかも全然面白くない。

 弥生はペンを放った右手に顎を預けて、へらへら笑う教師を一瞥してから、窓の外に目を向ける。

 ゆらゆらと揺れる世界。変わり映えしない風景。何もかもが昨日と同じに見えて、こんな風に思ったことすら、昨日と同じことの繰り返しのように思えた。

 平坦に広がる街並み。その奥でタケノコみたいに頭を生やす灰色のビルディング。大都会波夏多はかた市。その先にわずかな水平線。

 ――ああいっそ、宇宙人でも攻めてきたらなぁ。

 唐突に浮かんだ荒唐無稽な言葉に、我ながら馬鹿馬鹿しいなと自嘲した。


 ――そういえば、私が幼い頃には、終末思想なんてものが流行ったらしい。

 世界の終わりという想像力。それは意外にも耽美で、魅力的なものなんじゃないかなんて、思ったりもする。だって、このいつも通りの日常が、一瞬で吹き飛ぶんだから。

 ただ、死ぬのはちょっとやだな。あ、でも、世界中でただ一人生き残るのも、それはそれでいやだな。


 一九九五年、ここからずっと離れたこの国の首都東京で、とある新興宗教団体が地下鉄に毒ガスを撒いたんだって。世界の救済を謳い、日本の新たなる支配者になろうと夢想した教祖の錯乱の上に、多くの人が犠牲になったんだってさ。

 その事件の当時私は一歳とか二歳とかで、ほとんど何も知らないに等しいんだけど、その事件の影響もあって、この街にもあった大きな宗教団体も潰れたらしいんだ。詳しいことはよく知らないんだけど、聞くところによると――――……私のお父さんとお母さんも、その教団に関わりがあったみたい。

 お父さんとお母さん――私が五歳の時に交通事故で亡くなってしまったお父さんとお母さん。今ではもう、両親との思い出もぼやけていて、残された写真と、ペンダントだけが、私と両親を繋いでくれるもの。

 弥生は左手で、制服の上から首元にあるペンダントに触れた。ごつりと、少し大きめな金属のカタマリの感触が、布越しに伝わった。

 あの時。最後の朝、父が私に言い残した言葉は、何だったっけ。

 思い出せるようで、思い出せない。もうすぐ喉まで出かかっているのに、最後の最後で、霞みがかる。


 両親の不在。今となっては当たり前になってしまったけれど、独りで迎えた十七歳の誕生日は、少しだけ寂しかったな――――


 親戚からの援助で高校近くに一人暮らしをしている弥生は、アルバイトをしながら学校に通っていた。親戚とて、実の娘ではない子供をいつまでも家に置いておくのは窮屈だったようで、そんな本心にも気づいていた弥生は自ら、高校進学に伴う一人暮らしを願い出た。

 夏休みまであと一ヶ月もない。早くこの退屈さから抜け出して、夏休みはちょっとずつ貯金したお金でどこか旅行に行こう。弥生はそんな風に思う。そうだ、東京に行こう。中学の修学旅行で行った東京。もう一度、あの街に行ってみたい。


 少しだけ気分の晴れた弥生。窓の外に広がる街並みを、俯瞰する。こうして見れば、退屈な灰色の街だって少しだけ、愛しく思える気もする。ゆっくりと視線を流す。そうして、薄皮を纏ったようなぼんやりとした世界の中で何故だか一際鮮明に、眼に飛び込んでくる〝何か〟に気づいた。


 日本刀を持った制服の少女。


 弥生は我が目を疑った。

 グラウンドの先、道路のそばの高い電柱の天辺に、器用に、間違いなく、立っている、女の子。

 大きく目を見開いて確認する。目を凝らす。凝視する。

 はっきりと、分かる。見える。その少女は、セーラー服姿で、真っ赤なスカーフが風になびいて、後ろ手には黒光りする大きな鞘を携えていて、彼女は、彼女は――――


 こちらを、見ていた。


「――――!!!?」

 鼓動が速くなる。蜃気楼? 陽炎? ――いやよく分からないけれど。

 幻影、錯覚、夏が見せた幻――否、違う!


「あ……あ……」

 口をぱくぱくとさせ、思わず小さく声を漏らす弥生。目が合った。間違いなく彼女はこちらを見据えていた。

 電柱の上に、刀を携えた、制服の少女が、自分のことを、見据えていた。

 瞬間的な恐怖。弥生は固まって、もはや身動きが取れなかった。

 鳥肌が全身を回る。〝有り得ない〟ようなことに出会う時、人は冷静さを欠き、正常な思考はできなくなる。頭が真っ白になって、適切に反応することも――――


「――――さん、……井さん、向井さん!」

「――えっ、あっ、はい!」

 教師の声で、弥生は金縛りが解けたかのように我に返った。慌てて教室に視線を戻すと、クラスメイト全員がこちらを見ていた。教師も心配そうに弥生を見つめている。

「顔色が悪いですよ。何かありましたか?」

「あ、いえ、何でもありません……」

 荒くなった呼吸を整える。無意識のうちに強くペンダントを握っていた左手を、脱力させる。

「授業が退屈だからといって、窓の外ばかり見続けるのは、あまり関心しませんよ」

「はい、すみません……」

「外の景色を見てあんなに蒼ざめる人を、私は今まで見たことがありません……くねくねでもいたんでしょうかね。みなさん、知っていますか? くねくね。都市伝説のひとつなんですけどね、白い色をしていて――――」

 教師がまた話を脱線させる。説教すら脱線するのだから、威厳がないと言われ続けても仕方がないよなと呆れるクラスメイトを横目に、弥生は再び視線を窓の外に戻した。

 しかし先程の電柱に、あの少女はもういなかった。


     ■


「やよ~。さっきはどーしたの? ほんとに顔色悪かったよ」

 昼休み。仲の良い女子生徒数人と机を囲んでの昼食。クラスメイト全員が間違いなくという形容を認めることができる先程の出来事の詳細を、彼女の友人は率直に尋ねた。

「いやね…………実は」

 弥生は窓の外を指差す。友人たちは「なになに」と椅子から腰を浮かせて、その指が差し示す方向を伺う。

「あそこの電柱に、女の子が立ってた」


 間。


「ちょ、やよ……あんた!」

 一斉に起こる笑い声。

「聞いてくださーい! やよは暑さで頭がイカれました~!」

 友人の一人が右手を挙げながら、教室に向けて大声で喧伝する。

「ちょ、ちょっとやめてよ恥ずかしい! ほんと、ほんとなんだから!」

「オーケー分かった分かった。百歩譲ってやよの言い分を信じることにしよう。しかし問題は何であそこまで蒼ざめたかってことだよ」

「え?」

「だってさ、実際誰もが分かるくらい気分悪そうになってたってことは、それが何かしら自分にとってヤバイものだったんでしょ?」

 言われてハッと気づく。自分はどうしてあんなに恐怖を感じたのだろうか。あの少女を視認するほんの数十秒前まで、宇宙人が侵略しにこないかなどという夢想をしていたではないか。冷静になってみれば殊更怯えるような事柄でもないのに、悪い夢から覚めた後、その夢は現実に何の干渉もしてこないにも関わらず、その恐怖の持続に布団から出られないあの感覚のように、あの時弥生は間違いなく、恐怖に囚われていたのだった。

「…………なんでなんだろう」

 それは、なにか、――胸騒ぎに近いものだったのだろうか。

 一瞬そんな考えがよぎってすぐ、目の前で無邪気に笑ってくれる友人たちから感じた〝日常〟に、弥生はほっとする。

「――うん、多分、白昼夢かなんかだったんだと思う。心配かけてごめんね」

「や、やよ……?」

「さーて、朝六時起きで作った手作り弁当、いただきまーす!」

「わー、今日もおいしそ~」

「あげないよー! あげないよー!」


 退屈だと思う日常。そんな中にも、それなりの愛しさはあって、心の何処かで非日常を求めたりしながらも、結局私はこうやって、身近な人たちとの幸せを、噛みしめていくことが大切なんだと思う。

 ね、そうだよね、天国のお父さん、お母さん――――


 弥生は、目の前で楽しそうに談笑する友人を愛しく想いながら、自分で作った唐揚げのおいしさを、その何気ない幸せを、しっかりと味わった。



     ■


 つい数十分ほど前に立ったその電柱の天辺から、再び教室を覗き込む。

 楽しそうに友人たちと笑い合う少女を、その眼は鋭く捉える。

 風がごう、と吹き抜けた。長い黒髪が大きくなびく。

 電柱に立って見下ろす世界は、存外悪くない。――この街をと、何度でもその決意を思い出させてくれるから。

 日本刀を持つ右手に、ぎゅっと力を込める。


「見つけた――向井弥生。向井教授夫妻の、たった一人の娘。

 私たちの――希望」

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