第39話ショートケーキ(前編)

 そのお客様がいらっしゃったのは、ある日の昼下がりのことでした。


 チリン、と鈴の音がしたので、お客様をお出迎えするために、私は厨房を出ました。

 ところが。

 少しだけ開いた扉は、固まってしまったかのようにそこで動きを止め、半開きの状態で静止しています。

 不思議です。どこかでストッパーでもかかってしまったのでしょうか。そんなものはついていないのですが。

 はてなと思いながら様子をうかがっていますと。


 ゆっくり、ゆっくりと扉が開き始めました。

 そこで初めて、お客様の姿が目に入ります。

 扉の向こうにいらっしゃったのは、中年の、優しそうなご婦人でした。

 そこで私は、ご挨拶をしようと、

「いらっしゃま――」

 しようと――したのですが。


 慌てたように、今度は扉が閉まり始めます。

 私は思わず、

「お、お客様!」

 と声を上げてしまいました。


 いけません。お客様を引き止めるなど、はしたないことです。

 なぜ私は、そのときに限って、そんなことをしてしまったのでしょう。不思議です。

 けれど、そのおかげでしょうか。

 あと少しで閉まりきる寸前、というところで、扉の動きは止まりました。

 待つこと数秒。

 そして、今度こそ、扉は開き始め――

 やがて完全に、開き切りました。

 その向こうでは、お客様が少しだけ困ったように、けれどやはり優しく、微笑んでいます。


 さあ、お客様をお迎えしましょう。

「いらっしゃいませ、菓子処『ノン・シュガー』へようこそ」


***


「ごめんなさいねえ、先ほどは。少し……戸惑ってしまって」

 お席に着くなり、お客様はそんなことを仰いました。

 慌てて私は首を振ります。謝るのは自分の方です。

「いえ、私こそ。ぶしつけなことをして、申し訳ありませんでした」

「いいのよ。一度扉を開けておきながら帰ろうとするなんて、無作法をしたのはこちらだわ」

 そう言って、お客様は静かにため息をつきました。

「本当は、お店に入るつもりはなかったの。こちらは、お菓子やさんでしょう? お菓子からはなるべく、距離をとるようにしていたから……。でも、なぜかしらね。このお店の前を通りかかって、この扉を見たとき、ふと気付いたら、手が勝手に動いていたの。……ふふ、とっても素敵なお店だから、私も、引き寄せられちゃったのかしら」

「……光栄です。ありがとうございます」

 にこやかに私は答えますが――、お客様の笑顔が無理に作ったものであることは、すぐに分かりました。

 なぜって、今もデーブルの下で、握り合わされた手が細かく震えているのが見えましたから。


 どうして、お菓子から距離を? と、本当は気になります。聞きたい、とも思います。

 ですが、当店は菓子処です。お客様にお菓子を召し上がっていただき、楽しんでいただくのが私の務め。

 立ち入ったことを伺うのが私の仕事ではありません。

 まして、お客様の繊細な部分に触れてしまうような話ならなおさら。


 私は普段どおりに振舞います。見ないふりです。

「当店にはメニューはございません。お一人につき一品のみ、おまかせでご提供させていただきます。それでもよろしいですか?」

 それを聞くと、ふと、少しだけお客様は肩の力を抜きました。

 目元を和やかに緩ませ、

「メニューがないの? それは、風変わりなお店ね」

 面白そうにおっしゃいます。

「かまわないわ。――ちょうど私も、何を頼んでいいか決められそうになかったの。あなたの方で、決めてくれるなら嬉しいわ。おまかせします」

「かしこまりました。それでは、お待ちくださいませ」


***


 さて、本日のお客様には、何をお出しいたしましょう?

 お菓子から距離を置いていたというお客様。メニューの選択次第では、お気に召していただけないかもしれません。

 それは分かっていましたが、でも、不思議と。

 そのときの私には、お客様にお出しするものは一つしか思いつきませんでした。


 ふっくらと焼き上げたスポンジをスライスして、ふんわりと泡立てた純白のクリームを断面に滑らせます。

 真っ赤に熟した苺をふんだんに並べて、その上からスポンジを重ねて。

 側面もなめらかにクリームでおおったら、上面にも飾るように絞っていきます。

 クリームの装飾の間には、粒の大きな苺を添えて。

 仕上げに一人分を切り分けて。

 完成です。

 さあ、お客様にお届けしましょう。


***


「お待たせいたしました」

「まあ……」

 ことり、とお皿を置きます。

 装飾のない、シンプルな、滑らかな白いお皿。

 その上に、三角に切り分けられたケーキが乗っています。

 目にも鮮やかな赤と、素朴な黄色、澄み切った白。

 このケーキを構成するのは、それが全てです。

「ショートケーキでございます」

「……。まさか、これが出てくるとは思わなかったわ。シンプルなだけに、難しいケーキでしょう?」

「はい。ですが、お客様にはこれを食べていただきたいと思いました」

 お客様は、目を細めてケーキに見入りました。

「綺麗ねえ……」

 そっと、お皿に触れます。

「こんなに美しく飾ってあるのに、華美でないの。華やかだけど、どこか清楚で、優しい佇まい。柔らかそうなクリームに、そっと埋もれた苺がとっても艶やかなのね」

 しばしケーキを見つめたお客さまは、ゆっくりとフォークを手に取りました。

「美味しそう。いただきます」

 緊張しながら、私はそれを見守ります。

 お客様は、どんな反応をなさるでしょう?

 気に入ってくださるでしょうか。


 一口召し上がったお客様の瞳が、大きく見開かれました。

 とても驚いているように、その動きを止めてしまいます。

 それから、急ぐようにまた一口。

 じっと味わって……。

 それから、ぽろりと。

 お客様の目から、涙がこぼれました。


「お客様!?」

 慌てて呼びかけます。

 私のケーキは、何かまずいことをしてしまったでしょうか?


「ご……ごめんなさい」

 震える声で、お客様は懸命に答えます。

「こんな、いきなり……驚くわよね。ごめんね。――でも、まさかもう一度、こんなケーキが食べられるなんて……」

 涙を拭い、にこりと、お客様は微笑まれました。

「ありがとう。とても美味しいわ」

 その笑顔に、私は、とても胸をつかれるものを感じました。

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