第38話モンブラン(後編)
するりと、その柔らかいクリームはその身にフォークを沈ませる。
栗色のクリームをたっぷりとすくうと、ぱくりと口に含んだ。
「! なんて芳醇な……」
一口含めば、ほっくりとした秋の味覚が口の中にあふれた。
クリームを舌でつぶせば、舌の上でさらりと広がり、火が通りホクホクとした栗の実の甘さと特有の舌触りが、まったりと口の中を楽しませる。次々と鼻に抜けるその木の実と洋酒の香りもたまらない。
「ああ……優しい甘さだ。栗の風味がたっぷりと感じられる」
もう一匙掘り進めば、その山は内側に、外側とは異なる生成り色の層を隠していた。
ふわりと軽やかにたてられた――これは生クリームだろうか? ――そのごくわずかに淡黄色を帯びた白いクリームと、栗のそれを同時にすくい、ほお張る。
途端に生成り色のクリームはすうっとほどけて溶けて、舌に残る重厚な栗のクリームと見事に調和して、お互いを引き立てている。
「これは……生クリームじゃない?」
生クリームなら、もっと強い乳の香りがするはずだ。だが、そのクリームにはそのような強い主張はなく、栗の風味と自然に混ざり合うような、控えめな素朴さがあった。
「はい。こちらには、豆乳のクリームを使用しています」
「そうか、これは豆乳か!」
なるほど、納得だ。たとえるなら「洋」のイメージの生クリームに対し、このクリームのイメージはまさに「和」。おなじ植物同士である栗の実と、大豆からできた豆乳の風味は、煮豆のようなほっこりとした柔らかい甘さを持って、絶妙にマッチしていた。
中心に混ぜ込まれた甘露煮の粒感や、底に敷かれたタルト生地のザクザク感も楽しみながら、私は存分に、その和風モンブランともいえる甘味を堪能した。
「ごちそうさま。とても美味しかったよ」
「ありがとうございます」
てきぱきとお皿を下げる少女を見ながら、私はもうすぐこの時間が終わってしまうことを惜しく思った。その気持ちが素直にこぼれて、私は思わずぽろりともらしていた。
「もう、ここでの時間も終わってしまうな。帰ったら……またあの家族と過ごすだけか」
少女はぴたりと手をとめ、首をかしげてこちらを見た。
そんなしぐさも、非常に可憐な少女である。
「ご家庭に……なにか問題でも?」
「――聴いてくれるかい?」
尋ねる少女に、私はぽつぽつと、自分のことを語っていた。
娘の気持ちが分からず、うまくコミュニケーションがとれないこと。
妻と通じ合えず、会話が弾まないこと。
それだけではなく、頼りがいのない部下や目の離せない部下、こちらを振り回してくる上司のことまで――気付けば、他愛もない愚痴を少女に打ち明けていた。
「ここを出たら、またあの毎日に戻るのかと――そう思ってね。そうしたら、なんだか惜しくなった。私はこれからも、おなじような毎日の中で生きていかねばならないのかと」
私の自分語りを、少女は黙って聞いていた。
その美しい紫色の瞳を、じっとこちらに向けて。
そして、言った。
「――お客様は、天辺ですか?」
「……え?」
思わず、問い返す。
少女は静かな目で、こちらを見つめている。
「お客様のいらっしゃる場所は、山の天辺なのでしょうか?」
「それは……どういう……」
「本日お召し上がりになられたモンブラン――それは言うまでもなく、山をモデルにしたスイーツです。山を登っていれば、坂もあり、谷もあり、中腹もあり、そして――天辺、頂上があります」
「それは……そうだね」
「人生も山に似ていると思います」
「……」
「坂もあれば、谷もある。誰もが皆昇り続けている。いずれは頂上に辿り着くのでしょう。けれど――それは、今ですか?」
「……」
「お客様は、天辺まで、登りつめていますか?」
「頂上ならば、その先がないのなら、今の自分の現状を、そして変わることのない未来を、なげくこともあるでしょう。憂うこともあるでしょう。――ですけど、人生とは昇り続けるものではないですか。頂上など、辿り着けるものではないと――いえ、生きている限り存在しないものだと、私は思います。生きている限り昇り続ける、それこそが人生だと」
「……」
「……申し訳ございません。若輩者が、差し出がましい口を」
「いや……。そうだね」
私は嘆息する。
「私も、いつからか、今自分がいる場所が、最終的な場所だと思っていた。ここが最終形だと。どん詰まりだと。今自分がいる世界で、私はこれからも生きていくしかないのだと――そんな風に思っていた」
「……」
「でも、そうではないと、君は言うんだね」
「はい」
「……そうか。ならば、――これからも変えることができるというなら、私があがくことも無駄ではないのかもしれないな」
「もちろんです。お客様がいらっしゃる場所は、まだ山の中腹なのですから」
「まだ、中腹か……はは。それはまた、長い人生だ」
「はい。きっと、これからも、長い人生だと思います」
「わかったよ。――私はこれからも、昇り続けよう」
そういうと、少女はにっこりと笑った。
「はい。お客様の道行きに、幸あらんことを」
――チリンと、何かが落ちる音がした。
***
「ただいま」
不思議な店を出て、少し寄り道をして買い物をしたあと、私は家に帰った。
「あら……あなた。お帰りなさい。あら、それ。どうしたの?」
「ん、これ。土産だ」
妻の目が丸くなる。
「お土産? まあ……珍しい」
そう言われるのも無理はない。これまで、出張でもないのに土産を買って帰ることなど、おそらくなかっただろう。
「あらっ、これ! 『トルタ』のケーキじゃない! ちょっと、真子、真子もきてごらん」
「え、なになに……わ、すご。美味しそう」
(よかった)
私は内心胸をなでおろす。
どうやら、帰りに買ってきた土産は気に入ってもらえたらしい。
「これ、人気店で、ずっと食べてみたかったんだよね。……でも、なんで父さんがこれを?」
「前に、お前たちが話していただろう? ここのケーキが美味しいらしい。食べてみたいって。それを思い出したから」
妻と娘が顔を見合わせる。
「あなた、そんな話を覚えていたの?」
「結構前だし、ちょっと話しただけだったのに……」
「そりゃあ覚えているさ。家族の話だものな」
それを聞いて、二人の顔がほころぶ。
「ありがとう。これ、ご飯の後に出すわね」
「父さん、ありがと」
「いや、喜んでくれたならよかった」
迎えた晩の食卓は、いつもより少しだけ、賑やかなものになった。
「おはよう」
「おはようございます。課長……」
いつものように、会社に行くと早速、熱心な部下が話しかけてくる。
これまでは若干辟易していたが、考えてみれば彼のやる気の現れである。やる気があるのはいいことだ。
部下の話をよくよく聞いた後、こんな風に言ってみた。
「君のやりたいことは分かった。次は他の人の立場にも立って考えてみることをしてほしい。生産部や、お客様の立場。そうすると、違うものも見えてくるかもしれない」
部下は「はあ」と返事をした。まだぴんときていないようだ。それでも、何度でも伝えよう。
大雑把な部下には、報告書の書き方をより詳細なものに変えてもらった。口頭だとどうしてもざっくばらんに終わりがちだが、こうすればデータなどもきっちり載せられるし、記録にも残すことができる。少しずつこうする癖をつけていってもらおう。
そして――。
「部長」
「おお、きみか」
「先日の件ですが……」
今日も今日とてふらふらと訪れた部長に対し、私は勇気を出して交渉を行った。
現状の職場の人数では、部長に言われた仕事を全て行うには時間が足りないこと、優先度の低く、利益につながりにくい案件については検討を取り下げてほしいこと、よって先日の議題に関しては取りやめさせてほしいことを伝えた。
部長は渋っていたが、どうにか説得することができた。
同じようなことはまた起こるだろう。
だけど、少しずつ変えていこう。
毎日の生活に大きな変化はなくとも、まったく同じ日々が続くわけじゃない。
山登りは続いているのだから。
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