第37話モンブラン(前編)
「――最近、学校の方はどうだ?」
「ん? ふつー」
「……」
それきり、会話は止まってしまう。
次の言葉を探しているうちに、
「ごちそうさま」
娘は席を立ってしまった。
(今日も、会話は出来ずじまい、か……)
小さくため息をつき、
「母さん、お茶」
妻に食後の茶のおかわりを頼む。
だが……。
「今いいところなの。急須に茶葉は入っているから」
テレビに夢中な妻は、そう言って動こうとしない。
(後は自分でいれて、ということか)
再びため息をついて、ポットから急須にお湯を注ぐ。
自分で入れた熱い茶をすすりながら、ぼんやりと考える。
(いつからこうなってしまったのか……)
高校生になった娘とは上手くコミュニケーションがとれず、長年連れ添った妻とは、よく言えば気を遣わない仲、悪く言えば倦怠期真っ只中だ。
しばらくの間、家族団らんといえる会話を経験していない。
(昔は二人とも可愛かったのだが)
そんな風に考えながらも、そういう自分はどうなのかといえば、風采のあがらない中年親父であることにはたと気付き、苦笑する。
格好良くもなければ、話し上手な男でもない。
(人のことばかりいえないな……)
自分も父親として、あるいは夫として、何を思われているかわかったものではない。
***
「いってきます」
形だけの挨拶をして、家を出る。
満員電車をやりすごし、それだけでうんざりとした気持ちで出勤する。
席に着くと、始業時間前だというのに、早速部下に声をかけられる。
「課長、例の件で今いいですか」
部下に担当させている新規プロジェクトの件だろう。
「次回の会議、こんな感じでいこうと思うんすけど」
敬語が中途半端なのはいつものことだ。いちいち注意してもしかたがない。
だが、提案に目を通して内心でため息をつく。
さて、何と言ったものか。
「……これじゃあ、実現しても利益が出ないだろう?」
「いやでもですね、これは今までにない性能なんすよ。技術的にはすごくて……」
「うん。君のやりたいことは分かるんだけどね、いくらいいものができても、コストが高過ぎるとお客さんに必要としてもらえないし、売価より製造費の方がお金がかかってちゃあ事業としてやっていけないんだよ」
「そういう問題じゃないでしょう。こんなすごいものなら、アピールしないともったいないじゃないですか!」
(じゃあどういう問題だ)
内心で突っ込みながら、表面上はあくまで丁寧にさとし、説得していく。
この若手の、熱意がありあまっての暴走は、今に始まったことではない。
やたら自信家で、やる気はあるのだが、どうにも空回りしがちなのである。
なんとかかんとか言い含めて、内容を修正させる。
業務が始まり、気になる案件があったので部下に質問する。
「山下君、このまえのテスト生産の件はどうなった?」
「はい。ほぼ問題なく終わりました。あ、今お時間よろしければテスト品の品質を確認してください」
(ほぼ問題なく――ね)
この中堅どころの部下は、仕事は早いが大雑把なところがある。細かな失敗は報告せずに流してしまうのだ。
「ほぼ」問題がなかったということは、細かい問題がいくつかあったということだろう。
テスト品の品質確認も、こちらから声をかけなければ自分だけで済ませてしまっていたに違いない。
(本当に問題がないか、しっかり確認しないと)
そう思いながら、部下のもとに歩み寄った。
「木下君」
「これは……部長」
そうこうしていると、名前を呼ばれた。見ると、自分の上司である部長がこちらを見ている。
部長はよく、こんなふうに突然ふらりと訪れるのだ。
たいていは無駄話が多い。どうしてそんなに暇な時間があるのかと不思議に思うほどに、中身のない話をつらつらと気の済むまでしゃべっては自分の席へ帰っていく。
もしくは、無茶振りだ。たまたま自分が思いついたことを、部下に丸投げしていく。それにどれだけ労力をともなうかは考えない。苦労するに見合うだけの成果が必ず出せるとは思えないことでも、上司の指示であれば逆らえない。
台風の来襲のような部長の訪れに、今回は何事だろうか、はたして無事にすむだろうかと考えながら、部長のもとへ赴いた。
***
(今日は早めに帰れたな……)
いつも通りささいな問題はあったものの、普段よりスムーズに業務が進み、いつもより早い時間に帰途につけていた。
駅へと向かいながら、さてと考える。
妻は専業主婦だ。あまり早く家に帰ってしまうと、食事の準備ができていないと不機嫌になるだろう。そうでなくても、あまり長い時間家で過ごすと、時間をもてあましてしまう。
(どこかで時間をつぶして帰るか)
かといって、酒を飲みたい気分ではない。
どうしたものかと思いながら歩いていると。
(おや、こんなところに、こんな店があったかな……?)
普段気付かなかった、こじんまりとした一軒の店に目が留まる。
看板を見れば、菓子処「ノン・シュガー」とある。
(菓子処なのに、無糖とは、変わった名前だな)
くすりと笑い、興味をそそられた私は、時間つぶしにその店に入ることに決めたのだった。
***
「いらっしゃいませ。菓子処『ノン・シュガー』へようこそ」
入ってみて、驚いた。
出迎えてくれたのは、自分の娘よりもはるかに幼い、少女と言える小さな子供だったから――そして、その少女が見たこともないほど美しかったからだ。
見とれている間に、少女は淡々と説明をする。
曰く、その店にはメニューがなく、お任せで一品のみを提供していること。
もともと時間つぶしのために入った店だ。メニューはなんでもよかった。
それに、その一風変わった店の提供方法が面白く、興味をそそられた。
一体何が出てくるのかと、私はむしろ楽しみに、それを了承したのだった。
待っている間は、居心地が良かった。
美しい音楽が流れる、綺麗な内装の店内で、会話のはずまない我が家や、憂鬱な会社のことをひと時忘れ、久し振りにリラックスした気分で過ごすことができた。
「お待たせいたしました」
しばしの後、戻ってきた少女の声にそちらを見れば、
「おお……これは」
ことりと置かれた一皿に、思わず歓声をもらした。
大皿は鮮やかな黄色。
その真ん中に、高々と盛り上がった淡い茶色のケーキが置かれている。
底には、香ばしそうなきつね色に焼きあがったタルト生地。
その上に、はみ出んばかりに豊満に、素朴な栗色の細いクリームが、幾束も、幾重にも折り重ねられている。
その山は美しく高々と、そして頂上には艶々と輝きを放つ大粒の栗の甘露煮――甘皮ごと煮たものだろう、濃い褐色をしている――がそっと添えられていた。
ケーキの周囲には、細かい格子状に刻まれた黄金色の甘露煮が、ぱらぱらとちりばめられている。
そしてまるで清冽な雪山のように、白く細やかな粉砂糖が、その大皿とケーキの頂点を品よく彩っていた。
「モンブランでございます」
「ありがとう。見ただけでも美味しそうだね。食欲をそそられるよ」
「光栄です。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「ああ。いただきます」
そして私は、ゆっくりとフォークをその山肌に差し込んだ。
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