第36話ミルフィーユ(後編)

「もしかして、食べ方にお困りですか?」

 そんな私を救ってくれたのは、少女の一言だった。

 天の助けとばかりに、私は涙目で少女に頷く。


「ふふ。ミルフィーユは綺麗に食べるのが難しいですよね。でも――ちょっと失礼します」

 少女は、ひょいとナイフとフォークを佳代の手から優しく取った。

「こうすれば、大丈夫ですよ」

 そうして、ミルフィーユの側面を支えると、なんとこてんと横倒しに、ケーキを寝かせてしまった。

「ええっ!? た、倒していいの?」

「はい。それからこうして……」

 少女はミルフィーユの中央、生地と生地の隙間、もともとの置き方からすると上下に真っ二つにする形にナイフを刺し入れ、綺麗に二等分にしてしまった。

 そうしてそれぞれを、元通り立て直す。

 するとお皿の上には、背が低くなったミルフィーユが二つ、きちんと並んだ。

「これなら、切り分けやすくなっているはずです。どうぞ、お試しください」

「う、うん……」

 少女の言葉に従って、勇気を出してナイフを差し入れた。

 

 平たくなったミルフィーユは、多少の手ごたえは残しながらも、素直にナイフを飲み込んでくれる。

「あ……本当だ。切れる、切れるよ」

 ざくざくと、心地よい手ごたえを残し、生地部分が削られていく。

 潰すこともクリームがはみ出すこともなく、丁寧に切り分けることができた。

「どうぞ、お召し上がりください」

「あ、ありがとう……。い、いただきます」

 切り分けた一切れをフォークにのせ、ぱくりと口に含む。


 頬張ると、はみ出したクリームがとろりと舌にあふれた。

 それはとてもなめらかで、卵とバニラの贅沢な甘さが口いっぱいに広がる。

 生地を噛みしめると、ざくりと小気味いい食感とともに、バターの香りがぷうんと鼻に抜ける。

 そのままざくざくと噛めば、生地の香ばしさとクリームの甘さが混じり合って――。

「おいしい……」

 あっという間に口の中からは一口目が消えてしまう。


 焦るように、二口目を口に入れた。

「わあっ……いちごだ……」

 がぶりと噛むと、しゅっと新鮮な果汁があふれだした。

 その甘酸っぱさとクリームのぽってりした濃厚さとが、絶妙にマッチする。

 食感の楽しさと、濃厚さとフレッシュさ。

 それらをゆっくりと味わいながら、私はその一皿を食べきった。


「おいしかった……」

 ふう、と満足のため息をつく私を見つめ、少女は嬉しそうに微笑んだ。

「それはようございました」

 その笑顔の美しさに、途端に私は緊張を取り戻す。

 夢中になって食べている間は忘れていたけど、私は今、初対面の人と二人きりなんだ。


「あ……。あの、その……」

 こういう場合、何を喋ればいいの?

 美味しい。

 美味しかった。

 そのことを伝えたい。

 だけど、どう伝えていいかわからない。

 黙り込んでしまう私。

 ああ、きっとおかしな子だと思われてる――そう思うと、なおさら何もいえなくなる。


「――お気に召されませんでしたでしょうか」

 困ったような少女の顔に、途端に申し訳なくなる。

「そ……。なくて、ちがくて、……美味しい、です……」

 だめだ。こんなのじゃ全然伝わらないよ。

 焦りばかりが強くなり、視線はあちこちをさまよう。

「……私は、そんなにこわいでしょうか」

 へにゃりと眉をたれて、少女が言う。そんな顔もとてもかわいい。

「ち、ちがい……ます」

 慌てて、私は自分がひどい人見知りであることを、途切れ途切れながら必死に伝えていた。


「人見知り……ですか」

「人と……話すと……、この人から自分は、どう思われてるんだろうって……、この人の目に、自分は、どんな風に、見えてるんだろうって……。そういうのが、すごい、気になるの。自分は、変じゃないか、自分の見た目や、話し方は変じゃないか……。そんなことが気になって、頭がぐるぐるして……。心臓がばくばくして……。それで、何も言えなくなっちゃう。何を言えばいいのか……何が正解なのか、分からなくなるの……」

 ぽつぽつと話す私の言葉を、少女は静かに聴いてくれる。


 それから少女は言った。

「正しさって、なんでしょう」

「……え……?」

「正解とは、何なのでしょうね。お客様が言う、他人との会話の中での正しい道筋、正解――それって、本当にあるものなのでしょうか」


 聞かれて、予想外の質問に、頭が真っ白になる。

「そんな……そんな、こと……。わかん、ない」

「ええ。そうですね。わかりません」

 きっぱりと言う少女に、目が丸くなる。

「そんなこと、誰にもわからないのではないでしょうか? ――それこそ、お話をしている当の本人にも」


「で……でも、失敗したな、って、思うとき、あるよ。ああ――間違っちゃったって」

「そうだとしたら、それは、あなたが決めていらっしゃるのだと思います」

「私……が……?」

 私が決めている?

「ええ。完璧な正解なんて、誰にも分かりません。それなら、正しい正しくないは、あなたの心が選んでいるのではないでしょうか。ご自分で、自分が正しくないと思っているから、言動に自信がない――自分以外の人がみんな正しく見えるから自信がない。そんなことは、ありませんか?」

 自分以外の人が正しい。

 確かに――確かに、そう、思っている。

 正解は、自分以外のところにあるもので、私はその一本の道筋を、間違わずに歩けるかどうか自信がない。

 だから――だから、喋れなくなるし、動けなくなる。


「ならば、あなたを縛っているものはあなた自身です。完璧な正解――ただ一つの道筋なんて、人と人との交わりの中には存在しないと思います。本当は、誰もが正解に迷っていると」

「みんな……迷っている」

「はい。迷いながら、歩いているのです。それはあなただけではありません。いつでもどこでも、最適の行動をとれるなんて、そんなこと誰にもできないと思います」

「そうなのかな……」

「例えば、今もそうです」

「え?」

「ミルフィーユを――ケーキを横倒しにして食べてもいい。そんな食べ方が正解――そんなこと、思っても見なかったのではないですか?」

「う、うん……」

「そんな風に、考えもしなかったことがその場に相応しい行動だった……。そんなことも、いくらでも起こりうることです」

「じゃあ……どうしたらいいの? 正解がわからないんなら……ますますどうしたらいいか、わからなく、なるよ……」

「そうですね。ですから、そんなことは考えるのはやめましょう」

「え?」


 少女は花がほころぶように、にっこり笑った。

「正解でも正解じゃなくても、あなたが後悔しないことの方が大切です」

「後悔、しない……」

「はい。そしてそのためには、正解が何かを考えるよりも、大切なことがあります」

「……」

「それは――あなたが、どうありたいかを考えること。あなたが、あなた自身と、周りの人のために、なにをしたいかを考えること」

「どう、ありたいか……。なにを、したいか」

「それが間違っていなければ――あなたの心に正直で、あなたの礼儀に従っていれば、何も恐れることなどありませんよ」

「ほんとに、そうかな……?」

「もちろん。少なくとも私は、迷って閉じこもってしまわれるよりも――たとえたどたどしくとも、お客様と素直におしゃべりできたことを、とても嬉しく思いました」


 ぽろりと、私の目から何かが落ちた。

 きらきらと光るそれを、少女が拾い上げる。

「アレクサンドライトの鱗……ですね。とても綺麗です。本日のお代はいただきました。お客様の今後に幸あらんことを」


***


 次の手話教室の日。

 亜由美は少し遅れるということで、私は一人で訪れていた。

 緊張しながら、扉をくぐる。

(私が、どうありたいか……。私が、したい、こと……)

 それは――それは。

「こ、こんにちは」

 年の近そうな生徒の一人に話しかける。

「こんにちはー。あ、前回から参加してる子だったよね。今日は一人?」

「う、うん……。亜由美は――もう一人の子は、今日は、後から、遅れて、来るって……」

「そっか。二人とも、続けてくれて嬉しいよ。これからもよろしくね」


(挨拶、ちゃんとできた……)

 私はほっとして、生徒達の輪に参加する。

 私の望み。


 それは――みんなと仲良くしたい、ということ。


「さあ、では今日もレッスンを始めましょう」

 人見知りは、きっとすぐには直らない。

 でも、おびえるよりも、大切なことがわかったから。

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