第35話ミルフィーユ(前編)

「それじゃあ、まずは自己紹介をしてもらいましょうか。最初は、右側後ろの……あなたから、お願いできるかしら?」

「……えっ!?」

 突然の指名に、私は椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、思わず立ち上がった。

 けれど、後が続かない。

「……は、はい……。あの……」

 違う。

 こんなんじゃだめだ。早く、喋らないと――。

 気ばかり焦るのに、言葉がでてこない。

 何を言えばいいんだっけ。

 名前。名前ってなんだっけ。

 ああ! こんなもじもじしてたら絶対変な子だと思われてる――!


(佳代、佳代!)

 ――と、隣の席から友達の亜由美がつついてきた。

(大丈夫だから、落ち着いて!)

 その視線に、かろうじて我に返る。

「……は、は。あの、……葉山、佳代、です……。よろしくお願いします……」

 ぼそぼそとつぶやいて、慌てて席に座った。

 ぱちぱちと拍手があり、なんとか一息つく。

(も~~、自己紹介とかなければいいのにっ!)


***


「おつかれ! なんとか第一関門突破したね」

「全然突破できてないよ……。むしろ玉砕だよ……」

「なに言ってんの。ちゃんと名前も言ったしよろしくも言ったし。充分じゃん」

「挙動不審だよ……。もう、なんで私、こんなに人見知りなんだろ……」


 今日から幼馴染の亜由美と一緒に始めた手話教室。

 その帰り道、私はひたすら落ち込んでいた。

 そんな私を励ますように、亜由美は明るく喋ってくれる。

「昔っからそうだもんねえ。クラス替えのたびに頭かかえてさ。そろそろ慣れたりしない?」

「数をこなせばどうにかなるってわけじゃないんだよ……。私はきっともうそういう星の下に生まれているんだよ……」

「そんな悲観的な。こうやって話してるときは、全然普通なのになあ」

 ちょっとでも人見知りを直そうと思って、人と関わる機会をふやさないかと誘われた手話教室。

 これなら喋らなくていいし、コミュニケーションの練習になるかと思ったんだけど……。

「ああ~~最初っから失敗しちゃって次からどんな顔して行けばいいの~~……」

「だから失敗じゃないってのに」 

 そんな風に、亜由美は根気強く私をなぐさめながら隣を歩いてくれた。


「――じゃあね。今日はなんか甘いものでも食べて、ぱあっと気分いれかえなよ」

「うん……亜由美。いつもありがとう」

「いいよ。少なくとも手話教室に通い始めたのは一つの進歩! そう考えて、前向いて帰りな。それじゃあね! また明日」

「うん。また明日ね」

 いつもの曲がり角で亜由美と別れる。

「はあ……」

 とたんに、でてくるのはため息だ。

 本当に、落ち込みやすく引きずりやすい自分の弱さに、ほとほと呆れてしまう。


「次回の教室、憂鬱だなあ……」

 とぼとぼと、うつむきがちに家路をたどる。

 と、その途中。

 ふわん、

「……わあ。――なあに? いい香り……」

 と唾液がこみ上げてくるような、甘い、お菓子の香りが私を取り巻いた。

 思わず、お腹がきゅるると鳴る。

「手話教室に行ったから、いつもより遅いし……そういえば、お腹空いたな」

 教室で緊張した分、神経はすり減っている。

 癒してくれるような甘味が、なんだかとても恋しかった。


 ふと見れば、こじんまりとしたお店がある。

 落ち着いた装飾の、暖かい雰囲気のお店だ。

「どうしよう……」

 いつもなら、知らないお店に一人ではいることなんか、怖くてできない。

 でも――。

「このお店は、なんだか、こわくない……」

 こんな自分でも、優しく受け入れてくれそうで。

 

 引き寄せられるように、私はその扉をくぐっていた。


***


 チリン。

「いらっしゃいませ」

「! ……あ、あの……」

 とたんに、声が出なくなってしまう。

 だって、出迎えてくれたのは、光り輝くような、とっても可愛い女の子だったから。

 ただでさえ人見知りなのに、この子の迫力の前では、

「……こ、こん……」

 にちは。まで言えず、私はもごもごと口を閉ざしてしまった。

「菓子処ノン・シュガーへようこそ。どうぞこちらへ」

 女の子は気にする様子もなく、にこやかに席へ案内してくれる。

 いわく、

「当店にはメニューはございません。お客様お一人につき一品のみを、おまかせで出させていただいております」

 だそうで……。

 変わったお店だなと思ったけど、緊張で固くなっていた私は、

「お、お、……お願い、します」

 とどうにか言うのが精一杯だった。


 美少女が奥に去っていき、ようやく私は一息つく。

 カチコチと優しい柱時計の音の中、落ち着いて見回してみれば、外装と同じく、柔らかい雰囲気のお店だった。

 店内には美味しそうな香りと、ゆったりとした繊細な音楽。壁にははっと目を惹かれるほどの美しい風景画――。

 心地よい時間を過ごしているうちに、気付けば緊張がどこかにいってしまっていた。


 まるで日常からぽかりと外れたような店内で、手話教室での失敗も忘れ、リラックスして深呼吸した頃。

「お待たせいたしました」

 少女の軽やかな声に、私は目を開けた。

「うわあ――綺麗……」


 そこに置かれたのは、つるりとした真っ白いお皿に乗った、一つのケーキ。

 こんがりときつね色に焼かれた、長方形の板状のパイ生地。

 それが何層にも重なり、そのあいだにはこんもりと黄金色のクリームが、あふれ出しそうなほどに挟まれている。

 その間からちらちらとのぞく赤色は苺だろうか。

 ケーキの上には、絞られたクリーム、その上に艶やかに光る苺とブルーベリーが宝石のようにちりばめられていた。

 その美しさに感嘆のため息が出る。


「ミルフィーユでございます。どうぞ、お召し上がりください」

 少女の言葉にも、しばらく魅入ってしまって、ケーキに手が出せなかった。

 しげしげと見つめた後、はっとしてナイフとフォークを手に取ったところで、はたと気付いた。

(これ……どうやって食べればいいの?)

 だってミルフィーユは、ただでさえ崩すのがもったいないほど綺麗に盛り付けられている。

 その上、堅い生地と、それに挟まれたたっぷりの柔らかいクリーム。

 このままナイフをいれたら、絶対につぶしてしまう!

 クリームははみ出し、見るも無残にぐちゃぐちゃになるだろう。

 とてもこのケーキを綺麗に食べきる自信がない。


「どうなさいました?」

 きょとん、とこちらを見つめてくる少女の視線が痛い。

「あ、あ……。あの……」

(どうしよう。どうすればいいの?)

 食べたい。このケーキを早く食べたい。

 でも、自分にはどうやって食べたらいいのか分からない。

 不細工な食べ方で恥をかきたくない。

 このままだと動くこともできない。

 だけど、少女に食べ方を聞くなんて、もっとできない。


 私は美味しそうなケーキを前に、固まってしまった。

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