第27話ティラミス
「それじゃあ、行ってくる」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
いつものように、そんな挨拶を交わして。
私は夫を見送る。
最後まで見送って扉を閉めたら、続きは家事だ。
朝食の洗い物を片付けて、洗濯機を回す。
洗濯機が回っている間に、掃除機をかける。
洗濯が終わり、洗濯物を干しながら、さて、今日の晩御飯はなににしよう。そんなことを考える。
自分の昼食は適当にすませ、また洗い物をする。
夕方になれば晩御飯の準備を始める。
家事と家事の合間の、空き時間。
テレビをつけても、くだらないことしかやっていない。
一人の家の中。
何をするでもない空白の時間が、ぽつりと発生する。
そんなとき、何かをしなければならないのではないか、何か意味のあることをしなければならないのではないかという、強迫観念にも似た焦りが、無性にわきおこる。
結婚して半年。
新婚生活も、ようやく板についてきたところだ。
結婚するまでは、仕事に勤めていた。
毎日必死で働いて、残業も多い日々。
そんな毎日に疲れ果てて、仕事だけでいっぱいいっぱいだった。
プロポーズを受けたとき、主婦と仕事を両立する自信がなくて、結婚と同時に仕事をやめた。
そうして今、専業主婦として暮らしている。
夫とは、けんかをすることもなく、和やかに暮らしている。
愛情深く、優しい夫だ。
それでも。
ふとしたとき、いや――いつも、どんなときでも。
かすかに。時には大きく。
これでよかったのかと。
今の生活は、本当に間違っていないのか。
私の人生はこれでよかったのか。
もう二度と他の道は選べないのに、それで後悔しないのか。
そんな気持ちが、襲ってくる。
こうしてずっと、ただ家事だけをこなし、家の中で誰とも会わず、家の中の雑事に追われる日々が続いていく。
私はそれに耐えられるのか。
そんな疑問が、襲ってくる。
そういうとき、私は思考を閉ざすのだ。
いけない。
こんなことは、考えてはいけない。
そうしてその疑問は答えられることなく放置される。
今日も今日とて空き時間をもてあまし、私はいつしか眠りに落ちていた。
***
「……あれ」
気付けば、見知らぬ場所に座っていた。
周りを見渡せば、質の良さそうなアンティーク調の家具に囲まれ、自分が座るのも、磨きぬかれた艶のある木製の机と椅子だ。
「ここ、どこだろ。良い匂い……」
お菓子の焼ける甘い匂いと、紅茶の華やかな香り。
「この音楽も、なんだか落ち着く……」
ゆったりとしたピアノの音色が流れている。
心地よい空間だった。
「いらっしゃいませ」
「……! こ、こんにちは」
突然声をかけられ、驚いた。
声をかけた人物を見て、さらに驚いた。
柔らかく波打って流れる、やや青みを帯びた銀髪。
宝石のようにきらめく、紫の瞳。
まだ幼いのに、目をみはるほど、綺麗な子供だった。
「菓子処『ノン・シュガー』へようこそ」
「菓子処……?」
展開がさっぱり分からず、オウム返しをしてしまう。
「はい。こちらは菓子処。ただし、メニューはございません。お客様お一人につき、一品のみを、おまかせで、ご提供させていただきます」
「はあ……」
それはまた、変わったお店だ。
(そうか。昼寝中に、夢でもみてるんだな。私、お腹でもすいてたんだろうか……)
夢にしても、こんなに美しい夢なら大歓迎だ。
この際、心ゆくまで楽しんでおこう。
そんな風に思い、私は、
「それじゃあ、何か食べさせてもらえる? お願いします」
そう言っていた。
「はい、かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
そうして私はしばし、どんなお菓子が出てくるのか思いを馳せながら、気持ちの良い音楽と、美味しそうな香りを楽しみつつ、少女を待った。
***
「お待たせいたしました」
コトリと置かれた一品は、一見すると地味なものだった。
スポンジの上にぽってりと生成り色のクリームが乗り、その上とお皿に褐色のココアパウダーが振り掛けられている。
一見すると、白と茶のコントラスト。
華やかな装飾もない。
だが、シンプルなだけにどこか気品を感じさせるたたずまいだった。
「ティラミスでございます」
「わあ……ありがとう」
味を楽しみに想像しながら、私はスプーンを手に取る。
「コンビニのお菓子とかでは食べたことあるけど……こういうお店で食べるのって、初めて。いただきます」
縦にするりとスプーンを差し込み、クリームと底のスポンジを共に口にほおばった。
「! コーヒーの香りがする……それに、チーズも! なんて複雑な味……」
一見して地味なそのケーキは、実に幾重にも重なった味わいをしていた。
口に入れると、まったりとしたチーズと、濃厚な卵黄、それに生クリームの組み合わせ。さらにふわんとコーヒーの香りと苦味が抜け、仕上げのココアの風味が味をまとめ、引き締めている。
「こちらは、卵黄のクリームにマスカルポーネチーズを加え、洋酒と生クリーム、メレンゲをあわせたものをクリームに使用しています。底のスポンジにはコーヒーリキュールを染み込ませたものを。仕上げにココアパウダーを振り掛けて完成です」
「うん……ほど良い甘みとしっかりコクがあって、でもほろ苦くて、なんだか大人のスイーツって感じ」
「大人のスイーツ……たしかにそうかもしれませんね。特に、疲れている大人の方に」
「え?」
少女の言葉に、私はぎくりとした。
今の自分のことを、言われたような気がしたから。
「ティラミスは、Tirami su。イタリア語で、“私を元気づけて”という意味です。アルコールも効いていますし、大人の方が疲れたときに、励まされるような、元気を出してくれるようなスイーツなのかもしれませんね」
「それは……まさに今の私に必要なお菓子かも」
「おや」
そしていつしか私は少女に、これまでのあれこれを、思いつくままに語っていた。
「……だから、迷っているの。私は本当にこれでいいのかって。これでやっていけるのかって」
「そうだったのですか――」
少女は最後まで話を聞き、食後の紅茶を入れてくれた。
「お客様、こちらのティラミス、どんなデザートだと感じられましたか?」
「え?」
突然の少女の問いに、私はしばし考えた。
「そうだね……最初は、ちょっと地味だなって思った。でも、食べてみると複雑で――甘みもあったり、苦味もあったり、とても香りが豊かで奥が深くて――」
「食べてみて、単純に、いかがでしたか?」
「美味しかったわ。とても」
それだけは、断言できた。
「でしたらそれが、お客様のお答えだと思います」
「――え?」
思わぬ言葉に、私は聞き返す。
「毎日の生活は、一見単調に思えて、地味な日々が続くかもしれません。ですが、ふたを開けてみれば、毎日、いろいろな出来事が起きているでしょう。それは、甘いだけのものではないかもしれません。苦いこともあるかもしれない。いろいろな味があるかもしれない。でも、その全てが合わさってお客様の今があり、それは決して否定されるものではない。――もし今の生活がなくなったとしたら、お客様はどうされますか?」
「それは――」
私は絶句した。
「……無理よ。耐えられないわ、今の生活がなくなることなんて。考えられない」
「今一度、お聞きしましょう。今の生活は、いかがですか?」
私は今度こそ、心を込めて答えることができた。
「……幸せよ。それは、毎日楽しいことばかりではないわ。疲れることも、大変なことも、意見が合わないこともある。――でも、引き裂かれるほどの孤独を感じることもないし、平穏な明日が、今日と変わらず訪れることを、迷うことなく信じることができる。それは、それは、幸福というものよ。そうではない?」
「はい。私もそう思います。――華やかなデコレーションケーキは、毎日食べるものではありません。ほろ苦くて地味で、だけど美味しい。そんな毎日が続くとしたら、私は幸せだと思います。それでも、そんな毎日に飽きるときがきたら――。また、こちらにいらしてください。『あなたを元気づける』、このお菓子をご馳走させていただきます」
「……ありがとう」
***
私は目を覚ました。
「寝ちゃってたのね……」
今のは夢?
「なんだか、やけにはっきりした夢だったけど……」
夢の中で食べたケーキの味も、ありありと思い出せる。
「……まあ、どっちでもいいか」
夢で感じた思いは、変わらずこの胸の中にある。
それなら、それで充分だ。
「さて、それじゃ、晩御飯の準備でもしようかな――」
そのうち、何か趣味を見つけてみるのもいいかもしれない。
自分を元気づける――例えばお菓子作りのような。
***
「今日の鱗はクリソプレーズですか。可愛らしい緑色ですね」
「よー。おめーの貯鱗箱も、ずいぶん充実してきたじゃねーか」
「ウロさん。いかがでしょう、私の記憶を取り戻すまで、あとどのくらいかかりそうですか?」
「さーなー。安易にそれを言うわけにゃいかねーよ。そん時がくりゃ分かるだろ。ま、精々がんばんな」
「適当ですねえ……」
まあ、確かに。
がんばるしかないのも事実です。
今はお仕事に励みましょう。平穏な毎日を目指して。
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