第26話ミュージックタイム
「こんにちは! シュガーちゃん、いるかな?」
「フィーニスさん! こんにちは。お久しぶりです」
フィーニスさんです。
ウロさんのお知り合い。
……それしか知りません。謎のお人です。
「今日はどうされたんですか?」
先日は、紅茶屋さんのティーさんのところへ連れて行ってくださいました。
今度もまた、どこかにお出かけするのでしょうか?
「やあ――その顔だと、僕の用事は察しているみたいだね」
「と、いいますと。やっぱり、おでかけですか?」
「そう。今日はウロ――あいつはいないみたいだけど、二回目だから、大丈夫でしょう。あいつがいないほうが、シュガーちゃんともより親しくなれるってもんだよね」
にっこりと、優しい笑顔でフィーニスさんは笑いますが。
何でしょう。
逆にうさんくさいです。うさんくささが増します。
いえ、いろんな方のところに、わざわざ連れて行ってくださるくらいですから、いい人なのでしょうけれど。
「今日は誰にしようかな。ま。誰でもいいんだけど――ムジークが妥当か。シュガーちゃんのお店のことを考えたらね」
ムジーク……さん?
どんな方でしょう。お名前からは想像がつきません。
「まあ、ちょっと変わった奴だけど、悪い奴じゃないから。安心して」
え。
ちょっと待ってください。
その言葉は逆に不安をあおります。
「じゃあ、行こうか。手を貸して」
戸惑う間もなく。
私はフィーニスさんに手を引かれ、ノン・シュガーを飛び出しました。
***
そうして現れた、一つの扉。
といいますか、一つのお店。
なんだか混み合った概観をしています。
ウィンドウに、壁に、敷き詰められた四角い……紙の板?
これは一体なんでしょう。
それぞれには、英字や写真、イラストなど、多種多様な印刷がほどこされています。
ポップで賑やかな印象です。
そして――。
「ギターの音……?」
お店の中からは、ポロリポロリと、穏やかな弦楽器の音が流れていました。
これはアコースティックギター……でしょうか。
柔らかくて、どこか切なくて、素敵な音色です。
「彼は暇さえあればギターに触っているからね。まったく、何がそんなに好きなのかと思うよ」
言いながら、フィーニスさんは扉を開けます。
「ムジーク。こんにちは。お邪魔するよ」
「うわあ……」
店内に入ると、そこは一面、棚だらけでした。
一見するところ、本棚のようです。まるで古本屋のように、ぎっしりと詰まった棚が壁一面に、そして狭い通路を残して、いたるところに設置されています。
本棚のよう……とは言ったものの、入っているのは本ではありません。
もっとずっと、薄い薄いものです。
一体、これはなんでしょう?
「……あんたか」
と。
低い小さな声がして、私は初めてお店の奥に、一人の男性が座っているのに気がつきました。
ギターを抱えて、足を組んで、椅子に腰掛けています。
お若いです。フィーニスさんと同じくらいでしょうか。
そのひっそりとした姿は、このお店の中に自然に溶け込んでいて、私は声を聞くまで、その方に目を留めることができませんでした。
「やあ、ムジーク。相変わらずな挨拶だね。たまにはにっこり笑って出迎えてはくれないのかな?」
「……あんたは……重くて、暗い、から」
ムジークさんはぼそぼそと言いました。
フィーニスさんが、暗い?
こんなに明るくて人当たりの良い方なのに、一体どこが暗いというのでしょうか?
不思議に思いながらフィーニスさんを見上げると、肩をすくめて返されました。
「彼は僕達と見ているもの――感じているものが違うんだよ。理解しようと思わなくて良い」
そのとき、ムジークさんと初めて目が合いました。
それまでは、フィーニスさんの陰に隠れていて見えなかったのでしょう。
私を見るなり、ムジークさんの目が丸くなりました。
「……なんて、甘ったるい子だ」
甘ったるい?
確かに一日中お菓子に囲まれて過ごしてはいますが――そんなに匂い移りしているでしょうか?
そう思って、自分の服をかぎまわっていると――。
ふいに、ムジークさんが演奏を始めました。
途端、どうしたことでしょう。
私の頭の中に、山のようなお菓子の数々があふれかえってきたのです。
インスピレーションというのでしょうか。
削り創られたチョコレートの花びら、繊細に飾り立てられたデコレーションケーキ、ひらひらと層を折り重ねるミルフィーユ、可愛らしいマジパンの装飾、そういったもの達がわきおこって――一瞬のうちに、脳裏を占めてしまいました。
「……こんな感じか。あんた、甘いね。色んな意味で」
ギターを弾き終えると、ふと興味をなくした様子で、ムジークさんは私から視線を外してしまいました。
ですけど、私は今聞いた音楽の魅力から離れることができませんでした。
なんて優雅で華やかで、そして、美味しそうな音楽!
これをお店で流すことができたら――そんな思いに、ムジークさんから視線を外すことができません。
それを察したように――それを、最初からわかっていたかのように、フィーニスさんは頷きました。
「大丈夫。彼の音楽は、間違いなく君の元へ届けるよ。その代わりに、きみのお菓子は彼の元へ届けさせてもらう。……なんせこの男は、商売っ気がないったらないからね。きみの美味しいお菓子で、少しは客寄せをしてもらわないと」
「余計な世話だ」
「これだものね」
ムジークさん……。
よかった。最初は気難しそうな方かと思いましたけれど、彼の音楽はとても素敵でした。
それだけで、悪い人ではないのだと安心できます。
我ながら、単純ですけれど。
安心ついでに、気になっていたことを聞いてしまいました。
「あの……。お店にたくさん並んでいる、この四角いものたちは……。これは、何なのですか?」
「ん? あー、そうか。きみくらいの世代の子には、なじみがないかもしれないね。――ムジーク、一曲聴かせてあげたら?」
――一曲?
すると、ムジークさんはのそりと動き、棚から一枚を引き抜くと、その中から、するりと一枚の黒い円盤を取り出しました。
それを見て、ようやく私にも、それが何か分かったのです。
「――レコードですか!」
テレビでは、たまに見たことがあります。
「若い子たちには、骨董品のように思われているかもしれないけれどね、案外、今でもレコードは現役で売り上げを保っているんだよ。ある意味、CDより人気は高まっているかもしれないね」
「……レコードは……音の幅が広い。聴いてみろ」
その真っ黒でつやつやとした円盤を、円形の台の上に置き、ムジークさんがゆっくりと、その回転する円盤に、針を落としました。
すると――。
「――わあ……」
ぽろん、と。
深みのある音色をしたピアノの音の層が、自分の周りをぐるりと取り囲みました。
音のドームに包まれたかのようです。
まるで自分が、演奏会場にいるかのように。
ぱらぱらした音の粒が。波のような音の重なりが。
たゆたって。流れて。
――思わず、聞き惚れます。
「レコードには、CDには記録されない高周波の音域の音が記録されているから、音質が良い――とかなんとか、まあ、そんな理屈はどうでもいいよね。聴いて、気持ちいいと思う。その感覚の方が大事だなって、僕は思うよ」
「この音は……温かい。だから好きだ」
「……はい。私も、そう思います」
心の奥に深く入ってくるようなその音楽を、私は心地いいと思いました。
「レコード、是非、私のお店でも流したいです」
「……かまわん。創ってやる」
「……え?」
「彼は、自分で作曲もしているからね。君のお店に似合うアルバムを、創ってくれるんだろう」
「すごい! ご自分で作曲ができるなんて――素晴らしいですね」
「……菓子が作れるほうが、俺にはよほどすごいと思う」
「いいえ――そんな。創っていただけるなんて、もったいないです。光栄です……、ありがとうございます」
「いい。どうせ……いつもやっていることだ。音楽がなかったら、俺は生きていけん」
「それは――はい。私もお菓子がないと、同じことかもしれません」
「好きこそものの――ってね、二人とも、利害が一致したなら良かった。今日の目的は果たせたね。物々交換は、いつものように、あいつにやってもらおう」
「――おいおい、またおめーは勝手なこと言いやがって」
「――ウロさん!」
突然。
するりとウロさんが現れました。いつものぬいぐるみの格好です。
「いねーと思ったら勝手にシュガーを連れまわしてやがったのか」
「別にいいだろう? 店主同士の交流はいいことだ。止める理由はないし、いちいちきみに許可を求める必要もない」
「ちっ。そりゃそーだが。えらそーに言いやがって。――で? 用事は終わったのかよ」
「ああ。無事にね」
「ムジークさんの音楽、とっても素敵でした」
「……あんたの菓子も楽しみにしとく。客に受けはよさそうだ」
「ふん。んじゃ、二人とも、今日の分の鱗は回収してくぜ。これからも、精々がんばんな」
***
お店に戻り。
『ノン・シュガー』には、ティーさんの紅茶に加えて、ムジークさんの音楽が増えました。
お菓子の材料も、作れるレパートリーも増えて、どんどん素敵なお店になっていきます。
それが嬉しくて、それと共に――。
ちらほらとよぎる記憶の断片。想い。
記憶を取り戻したい一心で、頑張ってきましたけれど。
記憶が戻ったら――はたして?
私は、それからどうなるのでしょう?
――いえ、それがどうでも。
お客様がいらっしゃる限り、私はお菓子を提供し続けます。
心をこめて。
精一杯の美味しさを。
ですから明日も。
今までどおり、お店を開きましょう。
リニューアルした、『ノン・シュガー』を。
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