第25話特製パンナコッタ(後編)
「あの、お客様。こちらを――」
気付けば、少女が手巾を差し出している。
その心配そうな表情を見て、わしは改めて自分の行動を客観的にみて、気恥ずかしさを覚えた。
このような幼い店員の前で、涙を見せてしまうとは。
還暦を過ぎたというのに、情けない。
「これは、すまんな。嬢ちゃん――恥ずかしいところを見せてしまった」
「いいえ、そんなこと。あの――お出ししたものに、何か不備がありましたでしょうか」
「いや、いや。とんでもない。とても、美味しかったよ。いささか、美味しぎるほどにな……」
わしはしばし、目を閉じる。
「嬢ちゃん、もしよければ、わしの思い出話を聞いてくれるかな」
少女は黙って、頷いた。
「わしには、女房がおってな――といっても、もう、この世にはおらんのだが――。自分で言うのもなんだが、仲の良い夫婦じゃったと思っておるよ。
女房は、菓子が――甘いものがそれはそれは好きでな。好きこそものの、というが、自分で菓子を作るのもそりゃあもう上手かった。へたな店で買った菓子よりも、わしは女房が作った菓子を食べるほうが好きじゃった。
女房自身も、自分が作った菓子を
そんな女房が、わしを置いて、先に逝ってしまった。去年のことじゃったよ。
あまりにも、あっけなくてな。それまでは、毎日くるくるとよく動いて、元気じゃったのに……。
それ以来、菓子を見ると、どうしても女房を思い出して。
あいつの、嬉しそうに、美味しそうに食べる顔を、あいつの作った菓子の味を、思い出して――。
あいつが、もう、二度と菓子を食えんというのに、わしが、わしだけが、菓子を楽しむことがどうしてもできんかった。
あいつへの、裏切りになるようでな。
じゃから、それからわしは菓子を絶った。甘味を絶った。
あいつのいないところで、その美味さを味わうことのないように。菓子を美味いと思うことのないように。
――じゃが。今日、この店を見つけてな。
この店なら、甘くない菓子だからと、自分に理由をつけて、納得をさせて、注文をしたのじゃが――。すまんかったな、勝手な注文をつけて。
じゃが、想像に反して、どうじゃ。出てきた菓子といえば。
確かに甘くはない。砂糖も使っておらぬのじゃろう。じゃというのに、この、美味いことよ。
わしは、美味いと思ってしまった。
この菓子を、心から美味いと思ってしまった。
それは、自分に禁じていたはずのことじゃったのにな。
それが口惜しくて。
あいつに、申し訳なくて――。
気付けば、このざまじゃ。
……すまんのう、驚かせてしまったようで。
決して、嬢ちゃんの菓子が悪かったわけではない。むしろ逆なのじゃよ」
長い長いわしの独り言に、嬢ちゃんはじっと耳を傾けておった。
そして言った。
『あなた、どうしてもっとたくさんのお菓子の味を教えてくれないのですか?』
「!?」
がたっ。
わしは思わず立ち上がった。
少女の物言いが、まるで亡き妻に一喝されたかのように感じたからじゃ。
「すみません……勝手なことを申し上げました。――ですが、私は、もし奥様がご存命であったなら、そんな風に仰ったのではないかと、思いましたので」
少女は真剣にわしの目を見つめておる。
「自分はもう、味わえない身体になってしまった。だからこそ、今も生きているあなたには、自分が感じられなくなった分も、たくさんのお菓子を食べて、楽しんで、味わってもらいたい。――奥様は、そんな風に、仰るお方ではなかったですか? 生きていた頃の、幸せなお話をうかがっていると、私には、そう思えるのです。自分が食べられなくなったからといって、お客様にも甘味断ちを強いるような、そんな方では決してないと」
「…………」
「お客様がお菓子を我慢して、苦しい思いをされているほうが、よほど奥様へかわいそうな思いをさせていると、思います。それよりも、生前の奥様と同じように、たくさんのお菓子を食べて、美味しかったと、奥様ともその味を共有したいと、その想いを届けることこそが、なによりのご供養になるのではないでしょうか」
「……そう思うか」
「はい。私は、そう思います」
(…………千代)
亡き妻へ、私は思いを馳せる。
今このときに、この店にめぐり合ったのはどんな偶然か。
私は、単に自分が罪悪感に耐えられなかっただけなのかも知れぬ。自分一人が、甘味を味わうことへの。妻を信じきることもできず。
そして、それだけではない。
どんな菓子も、どんな甘味も、妻と一緒でなければ、その美味しさも半減であった。
妻と一緒に食べた数々の菓子、それよりも美味い菓子など今後出会うことはないだろうと思っていた。
それゆえ、自ら菓子を断った。
だが、ここに、まだ知らぬ美味が。妻と共に味わった数々の甘味に勝るとも劣らぬ美味が、ここにあった。
ならば、私は自分に許すことができる。
妻へと、まだ知らぬ美味しさを伝えるため、いまだ味わいきらぬ菓子の数々を語り伝えるため、これからも甘味を食べる続けることを、自分に許すことができる。
この店の、この味に出会ったがゆえに。
「……嬢ちゃん。ありがとう。――この一皿、とても美味かった。しっかりと、妻にも伝えておこう」
***
おじいさんが残していったペリドットの鱗を手に、私は考えます。
亡くなってしまった奥様。
もう二度とお菓子を食べることのできない奥様。
もう二度と甘味を味わうことのできない――。
なんでしょう。
なにか、ひっかかるものを感じます。
その思いに。切ないほどの痛みを。
まるで、他人事とは思えないように。
――私のなくなってしまった記憶と、何か関係があるのでしょうか。
今は、わかりません。
わかりません――ですから。
今は。これまでのように、変わらず甘味を提供しましょう。
少しでも多くの、お客様のために。
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