第7話カスタードプリン(中編)
三日前、母が亡くなった。
胃がんだった。享年80歳。
最期は、苦しむことなく、静かに息を引き取った。それだけは何よりの救いだった。
年齢としても、決して若くしての死ではない。
満足した人生だったと、そう思いたい。
それでも。
通夜やら葬式やらを終えて、一段落した時。ふと、喪失感に襲われた。
母を失ったことを改めて感じ、悲しみに居ても立ってもいられなくなった。
一人になりたくて、ふらりと街に出て、歩いていたその時、
一つの建物が目に付いた。
こじんまりとした、どこにでもありそうなお店。
それに、なぜか惹きつけられた。
どうやら甘味処のようだ。甘いものなど久しく口にしていないが、疲れていたせいだろうか、久々に、何か菓子を食べたいと思った。
そして私は、吸い寄せられるように、その扉に入店したのだった。
***
出迎えてくれたのは年端もいかない少女で――しかも非常に整った顔立ちをしていて――驚かされた。準備中だというのに、例外的に簡単なものなら提供してくれるという。
この際、甘味であればなんであろうと構わない。ありがたくいただくことにした。
待ち時間は、ある程度長かったのだろうと思う。
けれど、店内は温かなぬくもりにあふれ、穏やかな時を刻んでいた。私は久しぶりに雑事を忘れ、落ち着いた気持ちで過ごすことができた。
物思いにふけっているうちに、いつしか時間は流れていたらしい。
「お待たせいたしました」
少女の声に、私は、はっと意識をその場に戻した。
そして、テーブルの上に置かれた品を見て、
「おお……これは」
歓声をもらす。
黄金色の小山に、コントラストの美しい褐色のソースが上面を覆っている。
本体はつるりと滑らかで、皿の動きに従ってふるふると揺れる。
みるだけでその優しい舌触りが想像できるよう。
素朴ながら、普遍的な魅力を感じさせる一品だった。
「カスタードプリンでございます」
「……なんと懐かしい」
今ここで、このメニューが出てきたことに、不思議な感動を覚えていた。
スプーンを取り、ゆっくりと、一匙をそれに差し込む。
つぷりと、少しの弾力を感じた後、するりとその内部に吸い込まれていく。
大切にすくい上げ、口に含んだ。
「ああ……この味。濃厚で、少しほろ苦い……」
ぷるんと触れた固まりは舌の上で柔らかく崩れ、まったりと絡みつく。
卵黄の豊かな風味と、濃厚なコクがたまらない。
一口ごとに満足感を与えてくれる甘さは、カラメルソースの苦味によってほどよく中和され、また次の甘さへと誘ってくれる。
滑らかなのどごしに、つい匙が進む。
いかん。慌てて食べてしまってはもったいない。
ゆっくりと、このひと時を味わいたい。
子供時代を思い出しながら、私は時間をかけて、その一皿を食べ終えたのだった。
「――お味はいかがでしたか?」
気付けば、少女が厨房から出てきていた。
心配そうに、こちらを見つめている。
「ああ、とても美味しかった。――このプリンはお嬢さんが作ったのか? だとしたら、小さいのに、大した腕前だ」
それを聞くと、ほっとしたように少女は微笑んだ。
「ありがとうございます」
「……今でこそ安価な卵だがね、昔はなかなかの高級品だったのだよ。めったに口にできるものではなくてね。砂糖も貴重品だったから、プリンなど、よほど特別な日でなければ食べられなかった。今でも、あの頃に、母が作ってくれた味は忘れられない。――陽光のような色をした、あの甘味が出てくるときを、私は胸を躍らせながら待っていたものだ。待ちきれずに、熱いまま無理に食べようとして、火傷しそうになったりな……。ふふ、懐かしいものだ」
「……」
「お嬢さんのプリンは大層美味いものだったが――、やはり私にとっては、あの頃の母の味は何にもまして、代えがたいものだな」
「……。……!」
唐突に、少女がうろたえ始めた。
「え、ええっと……。それでは、私は、片づけがありますので!」
言葉もそこそこに、厨房に引っ込んでしまう。
不思議に思ったとき、私は気付いた。
ぱたぱたと、腿に落ちる雫に。
いつの間にか、私の目から温かい水があふれ、次々と頬を流れ落ちていた。
(ああ……これは、恥ずかしいところをみられてしまった)
少女は、私の涙に気付き、気を利かせて見なかったふりをしてくれたのだろう。
その心遣いに感謝し、ハンカチを目に押し当てながらも、雫はとどまるところを知らなかった。
(涙を流すなど、何十年ぶりのことだろうか)
母を失っても、妻や娘の前では、私がしっかりしなければと気を張っていた。
いまや私が一家の大黒柱なのだからと。
だが――一人の人間としての私は、やはり悲しみにくれていたのだろう。
女手一つで私を育て上げてくれた、大切な母を失った悲しみに。
懸命に押し隠していたそれを、この店のプリンは解き放ってくれた。
外の世界から孤立したような、ようやく一人になれたような、この不思議な店で。
私はようやく、母を想い、自分のために泣くことができたのだった。
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