第6話カスタードプリン(前編)
黒のスーツをかっこよく着こなした、50代の男性でした。
少し白髪の混じった頭が渋いです。
私は慌てました。
なにせ、開店準備どころか、私自身が正体不明です。
「あ、あの……」
断ろうとしたのです。
今は営業していなくて、申し訳ありませんと。
でも――。
「これは……かわいらしい店員さんだね。お手伝いかな。――もし、営業中なら、何か甘いものをいただけると嬉しいんだが」
私を見て、やわらかく微笑んでくれたその表情。
けれど、その目元には深いしわが刻まれ、目の下にはくまが目立ち、頬はこけ、つまりは、やつれて見えました。
肩を落とし、悄然としたその姿。
それに気付いたとき、私は思わず口に出していたのです。
「また、開店準備中なので、手の込んだものはお出しできません。――それでもかまいませんか?」
びっくりしました。
自分で自分にびっくりしました。
目覚めたばかりのこの状況で、私は一体なにを言っているのでしょう。
でも。
明らかに悲しみを抱えているその人を見て、私はなんとか、元気づけてあげたいと思ったのです。
私がそう言うと、その人は明らかにほっとした表情をみせました。
「ああ。食べられるなら、何でもかまわないよ。すまないね、準備中に。ありがとう」
「いえ、それでは――こちらにおかけになってお待ちください。少しお時間をいただきます」
そう言って私は、お客様を椅子にご案内して、厨房へと急いだのです。
***
厨房に戻ると、蛇さんは悠然とかまえていました。
「ししっ! 幸先いいじゃねーか、早速最初のお客さんとはよ」
「そんな悠長なこと言っている場合ですか! どうしましょう、なんとなくはずみでご案内してしまいましたけど――蛇さん、ここって、在庫のケーキとかは!?」
「ああん? そんなもんあるわけねーだろ。ここはお嬢ちゃんのためのぴっかぴかの新居なんだ。お嬢ちゃんが来るまでは無人だったんだぜ。誰がそんなもん作るんだよ」
「じゃ、じゃあせめて、今ある食材っていうのは……」
「ああ、ちょっと待てよ。んー」
蛇さんはなにやらリストを確認すると、言いました。
「卵、牛乳、砂糖だな」
「スーパーの特売品ですか! 何ですかそのしょぼいラインナップは!」
突っ込みました。思わず。
「え? 嘘ですよね? 薄力粉すらないんですか? そんなのでどうやって何を作れっていうんですか?」
「まあまあ、落ち着けって。いわばお嬢ちゃんはレベル1だからなあ。これから材料を増やしていかなきゃならねーってことだ」
「増やすも何ももうお客様がいらしてるんですって!」
ああ、混乱です。
粉がなければ、ケーキ類は全滅でしょう。作れません。――いえ、そもそも、作るのに時間がかかりすぎます。
砂糖があったのは幸いでした。せめて甘いという条件だけは満たすことができます……って、どれだけ極限なのですか!
後で思い返してみれば不思議なのですが、このとき私は、何の疑問もなく、今ある食材で作れるお菓子を懸命に考えていました。
自分が、ここでお菓子を作ることを、当たり前のように前提としていました。
考えてみるとおかしな話です。え、お菓子だけに? ――まあそれはともかくとして。
記憶喪失の私が、なぜとっさにそんなことをしようと思ったのか。
それでも、その時私は、無意識に確信していたのです。
お菓子なら、きっと私は、息をするように作ることができる――と。
(卵、牛乳……甘いもの……すぐ作れて、お客様にほっとしていただけるような……)
ぐるぐるとレシピを検索する私の頭に、はっと。
一つのアイデアが浮かびました。
「蛇さん……材料を出してください」
「お、なんか思いついたみてーだな」
「ええ。超特急で作りますよ! お客様のために!」
***
厨房に立つと、自然に気分が引き締まりました。
すっと、雑念が消え、手元に意識が集中します。
さあ――はじめましょう。
まずはお砂糖と水を合わせ、飴色になるまで煮詰めました。型に薄く流し込み、冷やしておきます。辺りに立ち上る、甘く香ばしい匂い。
続いて牛乳を温め、お砂糖の半分を溶かします。ボウルに卵を溶きほぐし、お砂糖の残りの半分を入れて、よくすり混ぜ、牛乳を少しずつ注いでいきます。このとき、泡立てないように注意です。卵は、卵黄を少し多めに。
本当はバニラビーンズが欲しいところですが、今回は仕方ないですね。
卵液を型に静かに流し込んだら、すが入らないよう、ごく弱火で蒸しあげます。
蒸しあがったら、冷やして、崩れないように型から出して。
さあ、これで完成です。
――お客様に、お届けしましょう。
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