第5話はじまりの日

 一度、話をさかのぼりましょうか。

 そうですね、一番はじめ。

 私がこのお店で、目覚めたところから。


 そこから、物語ははじまります。


***


 ぱちり。

 起きました。

 起きたということは、それまで私は寝ていたのでしょう。

 こんな、固い木の床に、横たわって。


 横を見れば棚です。反対側には、机と椅子の脚も見えます。

 なんですか、ここは。

 どう考えても、睡眠にふさわしい環境とは思えません。


 そして――私?

 私は、手をつき、身をおこしました。

 その手も、見下ろした足も、触って確かめた身体も、小さいです。子供です。

 

 いえ、それより、なぜ私は、そんなことを確かめているのでしょう?

 自分の身体がどんなものであるかなんて、確かめるまでもなく知っているはずなのに。

 知って――あれ?

 いえ、知りません。何も――わかりません。


 私は……誰でしたっけ?


「ししっ! なんだなんだ、混乱してるようじゃねーか、お嬢ちゃん」

「ひいっ!」


 飛び上がりました。

 びっくり仰天しました。

 寝起きに、知らない人から声をかけられた感じです。

 まあ、比喩でなく、まさにその通りの状況なのですけれど。


 声の方を振り向いて、

「ひゃあ!」

 また驚きました。


「おいおい、お嬢ちゃん。初対面の人間に、それはねーんじゃねーのかい?」

「に、に、に……」

「に?」

「人間では、ないですよね?」

「まあまあ、そりゃあ、言葉のあやってもんだぜ」


 蛇です。

 いえ、リアルな蛇ではありません。

 ぬいぐるみです。

 手袋のようにはめたら、口をパクパクさせることができそうな――人形劇で使えそうな、蛇のぬいぐるみです。


「どうして喋っているのですか!?」

「どうしてもこうしてもよー。ここが現実世界じゃねーからに決まってんじゃねーか。現実じゃなければ、蛇も喋るさ。ししっ!」

「げ、現実世界では、ない……?」

「ああ、そうさ。ここは異空間だぜ。お嬢ちゃんは、たった今ここに入ってきた新入りだな。ようこそー。歓迎するぜ。蛇だけに、ヘビーにな。しししっ!」

「あ、あの、二重の意味で全然笑えないんですけど……」

「ああん? なんだよ。なんか気になることでもあんのか?」


 蛇さんは勝手に話を進めようとします。するすると。

 待ってください。そんな早さに追いつけません。


「わ、私、全く記憶がなくて、自分が誰なのかも、全然思い出せなくて……」

「ああ、そりゃあそうだ。ここに来る奴は、最初は皆まっさらだよ。漂白済みだ」

 蛇さんはけろりと、なんでもないことのように言います。

 あまりに自然だったので、一瞬、そんなもんなのかあと納得しかけたくらいです。


 ……いや、納得できませんよ!?


「お、おかしいでしょう。なんですか、それ、ここに来る奴は皆って……記憶がないって、大変なことじゃないですか! あ、あなた、何か、ご存知なんですか?」

「おお、それそれ。よく聞いてくれたね、お嬢ちゃん。いやあ、そりゃあいい質問だ」


 そういって、蛇さんは肩をすくめます。

 ……ない肩をどうやってすくめたのでしょう。器用です。


「要するに、俺は新人さんの案内役ってわけ。ガイドさんだな」

「ガイドさん……? それじゃあ、聞きたいこと、全部教えてくれるんですか!?」

 あまりの私の食いつきっぷりに、蛇さんはのけぞります。

「おおっとっと! そんなにがっつくなって。残念ながら、全部ってわけにゃあいかねーな。そんな親切なチュートリアルはねえよ」

「チュートリアル……」


「ん。なんとなく言っちゃあみたが、そりゃ都合のいい単語だな。要はそう。俺様は、お嬢ちゃんがここで働いていくための、ルールってやつを教えてやりにきたんだ」

「働く? 私……働くんですか? ここで?」


「おいおい、そりゃあそうだろう。働かざるもの食うべからず、ってな。これからお嬢ちゃんがこの空間で暮らしていくためには、いくつか果たしてもらわなきゃならない役割がある」

「働くったって。というか……そもそもここはどこなんです?」

「だから、最初にいっただろ。異空間だよ。それ以上でも、それ以下でもねえ。まあそれはそれとして、この建物自体がどこ、いや、何なのかと聞かれたら――そりゃあ店内を見れば、お嬢ちゃんには推測がつくんじゃあねーか?」

「え?」


 言われて、改めて私は周囲を見回します。

 

 どうやら、私が立っているのは厨房のようでした。

 それも、お家の台所、というよりは、もっと大きな規模です。それこそ、店舗のような。

 お鍋、ボウル、オーブン……。

 厨房の向こうには、テーブルと椅子が一組。

 

「……お菓子屋さん?」

「ご名答! ししっ、さすが。よく分かってんじゃねーか、お嬢ちゃん」


 からかうような蛇さんの言葉にも、今は反応できませんでした。

 だって――。

 


 とっさに、そんな感覚が心をよぎったのです。

 正確には、この厨房。この器具、この設備……。


 私は、使


「記憶の片鱗でも感じたかあ? お嬢ちゃん。いい傾向だぜ」

「――私は……誰なんですか?」

「それは今はわからねえよ。諦めろ」


 ずばっと。 

 蛇さんに切り捨てられます。なんて冷たいんでしょう。

 いえ、蛇は冷たいものなんでしたっけ。変温動物とかなんとか。


「知りたいのなら――いや、思い出したいのなら、ここで働くんだ。それが、お嬢ちゃん自身の記憶を取り戻すことにつながる」


 蛇さんの言葉に、私が何かを答えかけたその時。


 チリン。

 とベルが鳴り。


「すまない。こちらは――営業中だろうか?」


 一人の紳士が、来店したのです。

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