透明な青いサイダー

春葉つづり

透明な青いサイダー

 青い車輪の影が廻る。坂道を自転車で駆け下りてゆく。雨上がり、車輪は水を撥ねる。イヤホンが耳から外れ、ゆらゆら揺れた。伝えたいことがあった。わけのわからない高揚感が、炭酸みたいに湧き上がってくる。ちいさな泡は、素肌を滑って、まっさらなシャツを撫でてゆく。


 私はこの街を去る。もう二度と、かれには会えないだろう。これは恋愛感情ではなかった。ただほのかに温めていた友情が、ゆっくり、ゆっくり冷めてゆくのだ。その前に、触れてみたい。


 まだ鼓動のある友情に。やがて冷たく青くなってゆく。それは青く燃え尽きた青春の残り香がする。それは、今私が感じている、雨上がりの蒸れたにおいかもしれなかった。


 自転車が、滑って盛大にこける。膝を猛烈にすりむいて、赤い血が滲む。手首で乱雑に拭き取るとひりひりと痛んだ。


 携帯電話が猛烈に音を立てた。もう、時間なのだ。






 でも、まだだ、まだだ。






 転がった自転車にまたがって、目の前の水平線まっしぐらに走ってゆく。足が痛い。朝日がびりびりと視界に刺し込んでくる。






 坂を下り終えると、学校があった。白いハコモノには、ふだん溢れていた人気がない。蝉の抜け殻のようだった。陽光を浴びているくせに、廃墟のようなたたずまいがあった。


 迷うことなく、校門へ入る。呑気な花壇の花たちを少しだけ羨ましいと感じた。かれらは、この地で生まれ、この地で枯れてゆくのだから。


 自分にも根はあるのかもしれないけれど、それは水で満たされた、水耕栽培の植木鉢に浮いているヒヤシンスのように、ぷかぷか浮いているに違いないのだ。自分には根を張る地面がない。


 教室まで駆け上がる。はたしてかれはいた。


 猛烈な勢いで咳が込み上げてくる。むせながら窓際で突っ立っているかれに向かってなにかを言おうとした。けれども、体力を使い果たした自分にはその力は無かった。


 力の入らない足を叩いて、奮い立たせた。


 喉の奥から、言葉が跳ねて出た。「あ」


「あ?」


 かれが聞き返す。逆光で表情は見えない。


 私はせき込みながら笑った、笑いながらむせた。そうして自分とは思えないくらいのしゃがれた声で、言葉を吐き出した。






「ありがとう」






 思い出というのは、ぐるぐる回ってどんどん溢れてくるから、泣けて仕方ないものなのかもしれなかった。シーンごとに、ぼやけた思い出がフィルムを引き出すみたいにするすると出てくる。






「なにいってんだよ」






 かれにもわかっているだろう。もう会えないことを。逆光からかれが出てきた。微笑んでいた。照れたような、くすぐったいようなそんな微笑みだったけれど、いつものスマイルかと思ったら、なんだか泣けてきた。






「ありがとう」






 泣きながら、構築されようとした言葉は直前になって瓦解してわけのわからない呻きになって出てきた。


 かれはなにも言わない。ただ、携帯電話が耳をやかましく突く。


 それを耳から丁寧に一音一音剥がしてゆく。それが、服を一枚、一枚剥くように、心を裸にしていった。けれども裸になったからといって何かできるかというと、何もできなかった。私は大人でもなければ、子供でもないものだった。


 ただずっとかれの瞳を見つめている。月並みでくだらない感傷と感情がないまぜになったけれども「きれいだね」などとはどう突いても出てこない。


 目の前が水彩の世界のように淡い。それは、春の陽光のせいだ。水分をたっぷり含んで、儚い。


まばたきすれば、瞼の水分ににじんで消えてゆきそうだった。


かれの手を握ろうとした。その時車のエンジン音がして、触れようとした手は、行き場を失う。


 理性は完全に自分を押さえつけていた。その平たい理性を突き破って感情が噴き出す。それは定規みたいにまっすぐで、ゆるぎなく、たったひとつ心の中で輝いていたいちばん硬いダイヤモンドのようだった。


 きらめきは眩しい。その眩しさに当てられたまま、私は微笑んだ。






「ありがとう」






 かれも微笑んだ。


 階段を大人たちが駆けあがってくる。それはひどく不気味で、確実な足音だった。






「ゆい、何してるの。電話何回もしたでしょ。行くわよ」






 母親の声だった。父親もいるだろう。気配でわかる。


 すべてのものが陽光に浸されていた。それぞれの感情は、交わることもなく、ただそこに、形はなく、しかし、形があるように存在している。


 かれの表情からは、かれの気持ちは読み取れない。頭に花が咲いたみたいに、ただ、微笑んでいるだけだった。






「さようならは、言わないよ」






「おれも」






 突き刺すような大人たちの視線。その視線が刺さったまま、私は理性の板を完全に跳ね返して、絞り出した。それは宙に浮いて、かれのところまで届いただろうか。






「ありがとう」






かれも言い返した。丁寧にゆっくりと。






「ありがとう」





 それは何色だっただろうか。ことばに色があるとしたら何色だろうか。本当に友情だったのか、ほんとうは、ほのかに恋心がほんのり色を染めていたのではないのだろうか。真偽はわからなかった。いやそれはどうでもいいことだったのかもしれなかった。


 かれは、口角をニッと上げている。いつもの安定のスマイル。揺らぎや不安の一切ない。かれの微笑みで、旅立てそうな気がした。


 さようならは言わない。


 それはかれも同じだろうか。


 かれにも未来があり、私にも未来がある。けれども私はかれの未来を知るすべはない。


 この思い出は、遠くへ行く。


 この地から遠くへ行く自分よりももっと遠く彼方へ。






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