星空を見上げる君へ
ラミア
◆
君は何を思い星空を見上げているのだろう――。
問いかけたい気持ちを、雄也はただ呑み込むしかなかった。
叶わない片思いで良いじゃないか。そう自分に言い聞かせる。叶わないからこそ、近付かないからこそ、こうして彼女を眺めることができる。もし問いかけてしまえば、彼女がこちらの存在に気づいてしまえば、この幸福な時間を失うことだろう。
雄也は彼女へ向けていた目線を、少しだけずらして空を見上げた。
満天の星。
微かに聞こえる虫の音さえ掻き消されてしまうその悠然さに、雄也は言葉を失う。彼女の目線の先にあるのは、紛れもなくこの世界だ。街灯の光さえも霞むほどに広く、大きな光の粒。宇宙の壮大さに比べ、自分がどれだけ小さな存在なのかを思い知らされる。
雄也は彼女の視線の先にあるこの空を眺め、同じ時間を共有している気分になるこのときが一番好きだった。雄大なこの星空に彼女が何を思い巡らせているのか、綺麗に瞬くその一瞬一瞬の光を見つめ何を願っているのか、そんなことを考えながら過ごすこの時間が好きだった。
名も知らない彼女。
長い髪で見えない表情、それなのに、雄也は心を惹かれていた。開け放された窓の向こうで凛と立ち、星空を見上げるその姿に見惚れた。風が強い日はカーテンがなびき、なかなか彼女の姿を見ることができないが、それでも毎日のようにこの場所を訪れた。
大通りから外れ、郊外の閑散とした住宅街の一角にあるアパート。二階の一番右端の部屋に彼女はいる。
彼女を初めて見たのはつい先週のことだ。夜勤バイトが終わって、同僚たちと話し込んでしまったときに終電を失った。仕方なく徒歩で帰っていたとき、偶然このアパートの前を通り彼女を見つけたのだ。
眼鏡をかけていても視力の弱い雄也だが、長い髪、凛として立つその姿に心惹かれた。
もう少し視力が良ければ、彼女の表情も見れたかもしれない。しかし、顔を見て幻滅するぐらいなら、その姿に片思いすることの方が毎日を楽しく生きられる気がした。
毎日ただ、生きているだけのつまらない日常でしかなかった。惰性で大学へ行き、つまらない友人との会話に付き合い、親のすねかじりで足りなくなった生活費のためにバイトをする。
毎日毎日同じことの繰り返し。機械にでもなったのかのような錯覚にさえ陥る現状が嫌いだった。
構内に好きな人もできなかった。身を捧げるほどにのめり込む趣味もなかった。
特に決まった将来をもって大学に入ったわけでもない。全てはただなんとなくでしかなかった。大卒なら就職に困らないだろう、という安易な理由だっただけだ。かといって、やりたい仕事があるわけでもない。
卒業して、自分が何をしているかなどという想像さえもつかない。終わりのない袋小路に迷い込んで、ただぐるぐると回っているだけの錯覚にさえ陥る。
生きていることが、こんなにもつまらないとは。
しかしそんな、冷え切った心に光を宿してくれたのがこの彼女だった。
毎日飽きもせず、星空を見上げる彼女が愛おしい。そこに垣間見える哀愁さえ感じる雰囲気に、雄也の心は鷲掴みされていた。
毎日、バイト帰りには寄り道をした。それが唯一の楽しみだった。
いつしか、心の中に彼女の姿ばかりが映るようになった。講義中も頭の中は彼女の姿だけ。勉強に身が入ることはない。何という名前で、どんな人生を送ってきたのだろう。昼間は何をしているのだろう。
彼氏はいるのだろうか。
昼間は大学があり、バイトへ向かうときは電車を使うため、彼女の姿を見られるのは夜中に限っていた。
しかし、毎日続く彼女への思いは肥大し、いつしか抑えられないほど大きくなっていた。
もし彼女が彼氏と一緒に夜空を見上げていたら……。
想像するだけで吐き気がした。胸を焼き焦がすほどの嫉妬の炎が消えない。ただの想像だけでさえ、こんなにも心は彼女を欲していた。
彼女と一緒に過ごしたい。彼女の隣で、一緒に空を見上げたい。
迫り上がってくる思いは収まらない。むしろ膨張する。まだ彼氏が居ないなら、今がチャンスなのかもしれない。彼女を誰かに取られるぐらいなら、自分の手で彼女を――。
初めて彼女を見つけた日から、二週間後。
雄也はバイトを早退し、少しだけ早い時間に定位置へと向かった。
今日は朝から決意していた。悩み続け、我慢し続けてきたが、どうしても抑えが効かなくなった。彼女の隣にいたいという思いは、これまで無気力に生きてきた自分にとって最大の行動理念になっていた。惰性で生きてきたこれまで、人の言いなりになって動いていた過去、社会のほんの小さなネジでしかなかった自分にとって今というのは、生まれて初めて突き動かされる本能の行動だった。
彼女が欲しい。
ただそのためだけに、雄也は動いていた。
何者も自分を止めることはできないのだ。
「ははっ」
思わず笑みが浮かぶ。彼女とともに同じ時間を、同じ空間で過ごせるかもしれない未来に希望が湧き上がる。胸を躍らせ、鼓動を高鳴らせる。全身が軽い。だがそれは浮ついた気持ちだからではなかった。
漸く、自分にも生きる目的ができたからだ。
満天の星、満月、その壮大な宇宙空間から見える光の一つ一つが自分の背中を押してくれている気がした。
街灯の少ない路地裏。閑散とした住宅街の一角。
古ぼけたアパート。
雄也はいつも見上げていた場所に立ち止まり、顔を上げた。
彼女は今日も、空を見上げている。地上はそれほどでもないが、二階付近は風があるのかカーテンがなびいていた。だがそれでも、長い髪を揺らす彼女の姿が見えた。
愛おしい。
たった二週間で自分の渇いていた心に潤いを与えてくれた彼女が、愛おしい。
「君の隣にいたい」
ぼそりと呟いた言葉を噛み締める。「僕を隣に立たせて欲しい」
胸が躍る。全身が緊張と喜びで震える。昨夜から何度も反芻していた言葉を繰り返す。クサイ台詞がかった言葉など、彼女には必要ないはずだ。ただストレートに思いの丈を告げれば良い。
大丈夫。彼女は受け入れてくれる。
拳に力を込め、武者震いで震える足を叩く。
そしていざ、彼女の住まうアパートへ足を進めようとしたときだった。
ざあっ。
風が吹いた。思ったよりも強い風だった。思わず目を背け、舞い上がる砂煙から眼球を守った。
「……あれ」
目を開けたとき、それまでいたはずの彼女の姿が消えていた。緊張が走る。昨日までよりも早い時間にきたというのに、彼女は寝てしまうのではないか。寝ているところ、ましてこんな夜中に訪れるのは心象が良くないのではないか。
計画が崩れそうになる。
だめだ、急がなければ。
雄也は無我夢中で走り、アパートの階段を駆け上った。誰も錆を取り除いていないのか階段が軋む。下手すると朽ちて壊れるかもしれない、そう思うも、足を止めることはできない。
もしここで足を止め引き返してしまったら、また片思いの日々が続いてしまう。今日という日を逃せば、またずるずると告白できない臆病無しに戻ってしまう。
階段を上りきり、目指すは一番奥。
緊張はピークへと達していた。告白をして成功する自分、逆に失敗する自分、喜ぶのか悲しむのか、その結果がこの先にある。成功すれば彼女の隣で星空を見上げ、失敗すれば二度とここには立ち寄らない。そう、自分の中でルールを決めていた。
明日の自分は、ここにいるのかいないのか。
ごくり、と、唾を飲み込んだ。彼女の部屋の前まできた。ドアの四隅を見る。朽ちかけの古いインターフォン。部屋番号。ポストには何日も放置しているのか手紙や新聞が押し込められ皺になっていた。
手紙のうちの一つを見る。
長谷川唯子様へ。
「唯子……」
率直に、良い名前だと思った。そしてこの日初めて、彼女の名前を知った。何度も心の中で反芻する。唯子さん好きです。唯子さん愛してます。唯子さん、唯子さん、唯子さん……。
意を決して、雄也はインターフォンを押した。ぶー、と、低い音が室内に広がるのを聞く。
だが、数秒をおいても部屋の中で動きが感じられない。二度、三度とインターフォンを押しつけた。返事はない。動きもない。焦りが広がる。寝てしまったのか? それとも、体の調子が悪くて動けないのか? いや、もしかすると難聴を煩っている可能性も。
まさか、彼氏と一緒に――。
そこまで思考したとき、思わず伸びた右手がドアノブを回した。がちゃ、と、ドアが抵抗無く開いた。
不用心だ、と思う反面、背徳感よりも好奇心に突き動かされてドアをすり抜け、中に入った。多少乱雑にされているが、女性物の靴、ブーツ、サンダルが目に入った。男物の靴は無い。安堵のため息を吐く。
中に身を乗り出し、唯子さん、長谷川唯子さんと声をかけた。
奥の方で、微かに音が聞こえる。だが音といっても風の音のようだった。自分がいつも見上げる窓のある部屋か。
お邪魔しますね、と、聞こえもしないほど小さな声を上げ靴を脱いだ。
キティちゃん柄のパジャマが廊下に脱ぎ捨てられている。その横にはぬいぐるみ。可愛らしい装飾の置物。廊下を進み、ダイニング。小さなブラウン管テレビ、白いテーブル、写真が好きなのか友人と撮ったと思われるものが額に入れて飾られていた。
綺麗な人だった。
想像以上だ。
否応なしに期待で胸が高鳴る。この人と一緒の世界を生きていけるなら、他に何もいらない。そう思えた。このまま一生、朽ち果てるまで彼女と添い遂げたい、と。
そして、ダイニングの奥へと雄也は進み、『寝室』とプラカードのかかったドアノブに手をかけた。
ノブを回し、ドアを開け、そして、
――紐で首を吊っている彼女の姿を見た。
強い風に煽られ、その異様な姿が微かに揺れていた。そして、風に乗って漂ってくる悪臭に堪えられず、雄也はついにその場で吐いた。二度、三度と嘔吐き、胃液さえも全て吐き出した。
腰が抜けて動けず、ただ小さく身震いするしかなかった。それだというのに、視界は彼女から離すことができない。ぎぎっ、と、揺れ軋む天井の音が鼓膜を震わせる。全てが異質だった。全てが別世界の出来事のように思えた。何も思考したくなかった。何も感じたくはなかった。これが現実であると信じたくなかった。
思いを募らせていた彼女のなれの果て。
あんなにも綺麗に思えた星空の光が、今では彼女の暗い影を増幅する忌々しい物に思えてならない。
なぜ彼女が。
どうして。
いつも見上げていた彼女の姿は、既にこの状態だったのかもしれない。そう思えば辻褄が合う。毎日毎夜星空を見上げ、一時も動く様子の無かった彼女。疲れるだろうに座ろうともしない彼女。ただ一点を見続ける彼女。何日も放置されたポストの中身。常に開けられたままの窓。
ぶわり、と、涙が溢れた。
なぜ彼女はこんなことになったのだろう。なぜ死ななければいけなかった。
もう少し早く気づけば良かったのか、それとも、知らずにずっと眺め続けることが幸せだったのか。
様々な思いが込みあがってくる。
なぜ彼女は、なぜ、なぜ……。
「――っ!」
また、風が吹いた。風は室内にまで入り込み、彼女の体を強く揺り動かすと、
どん!
彼女の体が、首から真っ二つに切断されて床に落ちた。頭部と体が別々の場所で転がった。どれだけの時間宙づりになっていたのか。体は至る箇所が排泄にまみれ、淀んだ体液を未だに流し続けていた。四肢は曲がり、悪臭を放って動きを止めた。
愛おしい人の、歪んだ最後。
死に際、彼女は何を思ったのだろう。この星空を見上げたのだろうか。
雄也は重い腰を持ち上げ、彼女に近付いた。こんな何もない自分に、ほんの短い時間でも生きる目的を与えてくれた彼女。窓際にたたずみ、星を見上げていたその姿は綺麗だった。
「長谷川、唯子……」
彼女の名前。愛おしく、何度も呼びかけた。「唯子さん、愛してる」
胴から離された頭部、その顔面が体液が入り交じった床に密着していた。雄也は少しだけ逡巡し、優しく抱き上げた。
塗れた長い髪の毛を掻き分ける。苦しかったのか、下唇を噛み締めたままの状態で、彼女の表情は凍っていた。肌は青白く、眼球が少し飛び出していた。先ほどの落ちた衝撃だろう、鼻が曲がり、色の変色した血が流れていた。
写真の中の彼女とはまるで違う顔だった。
だが、それでも雄也は綺麗に思えた。遠くから眺めるでしかなかった彼女を、今こうして間近で見られる喜び。
恐れも驚きも、今はない。湧き上がるのはただ、愛おしいという気持ちだけ。
「唯子、愛してる、ずっと好きだった、ずっとずっと」
抱きかかえたまま、窓際に立つ。「君が好きだった、星空だよ」
胸に抱きかかえた彼女を、窓の向こうが見えるように回した。首の根本から止めどなく固形化した血液とリンパ液が垂れてくる。雄也はそれを抑えながら、彼女の隣で星空を見るという昨日までの目標を達成した喜びに浸った。
「ずっと、ずっと一緒だよ。愛してるから、ずっと」
ずっといつまでも、星空を見よう――。
晩秋を過ぎたある日、管理者不在の古いアパートから腐乱した女性の遺体が発見されたとニュースがあった。
女性の名前は長谷川唯子。年齢は二二歳。近くの大学に通う四年生。
……と、思われる。
彼女の所持していた物品からそう判断された。
死因は絞首による窒息死。死後三週間が過ぎていたため腐乱が進み、至る箇所が朽ちて現物を止めていなかったが、部屋の中に遺書らしきものがあったため自殺したのだろうと思われた。
しかし、自殺にしては不可解な点も多く、なにより頭部が無くなっていることに気づいて事件性を表明。聞き込み調査をし、犯人の所在を追っているという。
雄也はラジオを聞きながら、空を見上げ続けていた。
満天の星は数多の光の集合体。人間の瞳は光を検出するが、強い光を視覚すると小さな光を掻き消す性質を持つ。都会の中、ビルの光やネオンの光を浴びてしまうと星の小さな光など消えてしまう。
だからこそ、雄也は都心部を離れて山奥へときていた。雑木林が鬱蒼と茂り、長年に渡って誰の手にも染まっていない自然の山だった。
ここなら、星空を見る絶好の場所だと思えた。
彼女が大好きな、星空を。
「唯子。今日は流星群が見られるかもしれないって」
ラジオで先ほど、そう告げていた。五年に一度の流星群らしい。
「楽しみだな」
胸に抱く彼女は無口に、だが喜んでいるように思えた。何も言わずとも心は聞こえる。そんな気がした。愛し合っているからこそ、お互い言わずとも知れることがある。自分はこれほど愛しているのだ、彼女も気持ちを理解してくれている。
彼女の頭部は徐々に腐乱が進み、ついに片目を失っていた。皮膚は青から紫へと変わり、ところどころからウジが湧いている。雄也はそのウジを一つ一つ丁寧に除けるのを日課にしていた。少しでも彼女が彼女としての形を残し続けられるように。
だが日に日に、彼女の形状は土へ帰ろうと変化していく。
それはどう努力しても抑えることはできない。
医学の知識など持ち得ていない雄也だった。人の死の定義は人の形を無くした時だと信じてやまなかった。できる限りのことをやった上で、それでもなお彼女の形が消えてしまうならば。
覚悟はできていた。
人目のない、この山奥に来たのもそのためだった。
着の身着のまま食料も持たずにきたが、一つだけ忘れずに持ち出した物があった。
「唯子がいなくなったら、必ずすぐに追いかけるからね」
彼女をこの世から引き離した、最後にして最強の物。「ここなら木がいっぱいだから」
彼女の最期を見届けた後は、星空を見上げたまま死ぬ覚悟があった。
この、紐で――。
星空を見上げる君へ ラミア @Lamia1982
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