第36話 2008年(2)

2008年8月15日(金)  天気:晴れのち曇り 最高気温:33.1℃


 昨日、早めに寝た甲斐あって、体調はばっちりだった。

 準々決勝第2試合、浦添商高対慶応高の一戦を観るために、私は甲子園球場へ向かった。試合開始30分前には席についていた。やはりこれくらい余裕をもって来たほうが、気持ちよく観戦できる。

 アンジーとは現地集合の約束だったが、芦屋で朝までお楽しみになったのか、試合開始に間に合わなかった。


 浦添商高が初回にいきなり1点を先制すると、その後は1点ずつを取り合い、6回終了時点で2対1。息が詰まるクロスゲームとなった。

 アンジーが来ることを忘れかけていた時、アンジーがやって来た。周囲の男性たちの視線が、グランドではないところに向いたので、『あっ、アンジーが来たな』とわかった。

 アンジーが席に着くと、隣のおじさんは大胆に開いた胸元を見て、動揺していた。私は、アンジーの左手の薬指を見て、動揺していた。指輪をしていた。それも、大粒のダイヤがあしらわれた指輪だった。

「今朝、プロポーズされたの」

「えっ……えっ……ええっ?」

 幻聴かと思った。そうであってほしいと思っていた。

「返事はしなかったけど、これはもらっておいたわ」

「そ、そうなんだ……」

「こっちはどうなの?」

「何が?」

「何がって、この試合よ試合。いい試合なの?」

「ああ、試合の話ね。すっごく見ごたえのある試合よ」

「そうなんだ」

「そうよ。それで、どうするつもりなの?」

「何が?」

「何がって、プロポーズのことよ。他にないでしょ」

「どうしようかな。まだ決めてないわ」

「そうよね……。そんな簡単には決められないわよね」

「決めたわ。この試合に勝ったら、プロポーズを受けることにするわ」

「えっ?」

「私のためにもちゃんと応援してよね」

「わ、わかった」

 地元出場校を応援するための観戦が、アンジーのプロポーズの行方を応援する観戦になった。

 そして、7回の裏、慶応高が一気に2点をとって逆転した。浦添商高を応援する一塁側スタンドからは悲鳴にも似た落胆の声があがった。アンジーもその一人だった。

 私はそれほどショックを受けなかった。

「まだ、8回と9回の攻撃があるから大丈夫よ」

 そうアンジーに声をかけた。アンジーは何も返事をしなかった。


 私の言った通り、8回の表に浦添商高が1点をとり同点に追いつく。アンジーは隣のおじさんと抱き合って喜んでいた。

 その後、両チーム一歩も譲らず、3対3の同点のまま試合は延長戦となった。


 運命の延長10回。浦添商高はスクイズを見事に決めて勝ち越しに成功する。あとは10回の裏を抑えれば浦添商高の勝利だ。アンジーはプロポーズを受けることになる。野球に詳しくないはずなのに、アンジーは勝ち越しても浮かれることなく、真剣な眼差しで試合の行方を見守っていた。


 あとアウト3つ。あとアウト2つ。あとアウト1つ……。

4対3。クロスゲームを制したのは浦添商高だった。ゲームセットになるとアンジーは、

「明日は試合ないのよね?」

「うん、準決勝は明後日だから」

と確認し、席を立つと、

「町子、気にしないで」

と言い残して、校歌を聞くこともなく甲子園球場から去って行った。


 8回の表に同点に追いついた時、10回の表に勝ち越した時、私は喜びきれていなかった。むしろ、7回の裏に逆転された時に心の奥で喜んでいた。それを、アンジーはわかっていた。でも、私を責めることはなかった。アンジーも同じような経験があるのだろう。どうして友人の幸せを素直に受け入れられないのだと、自分を責めていた私を許してくれた。


 浦添商高の球児たちを、一塁側で応援していた人たち全員を、私は裏切ってしまった。


 感動の涙だと思ったのだろう。泣いている私を、いつの間にかテレビカメラが近距離で撮影していた。全国放送されているのだろうか。自己嫌悪の真っ只中にいる姿を……。私にとってはちょうどいい罰なのかもしれない。




2008年8月16日(土)  天気:晴れのち曇り 最高気温:33.5℃


 神戸港から出港した、大型クルーザーの船上で、アンジーと俊之さんの結婚式が行われた。

 俊之さんはアンジーと同い年で、ブライダルコンサルティング会社を経営している青年実業家だった。


 私以外の参列者は、俊之さんが招待した人ばかりだった。

 アンジーはそんなことまるで気にしていないし、俊之さんもアンジーのそういうところに惚れたのだと思う。

 アンジーの良さは、口に入れた瞬間にとろけるウニのように、すぐにわかる。噛めば噛むほど味が出てくるスルメタイプの私とは違うのだ。


 披露宴も大型クルーザーの船上で行われた。もちろん、友人代表スピーチは私がやるしかなかった。

 私はアンジーと飲みに行くと必ずナンパされたこと、密かに結婚貯金をしていたこと、動物愛護団体の一員で休みの日の多くをボランティア活動に費やしていること、カラオケで歌うクイーンメドレーがおもしろすぎること、一人だと電気を消して眠れないこと、年賀状は毎年手書きで送ってくること、と最初は何を話せばいいのかわからなかったが、次から次に話したいことがでてきた。


 披露宴のフィナーレは圧巻だった。出港してからずっと、上空をヘリコプターが飛んでいるなと思っていたら、クルーザーの上部デッキにあるヘリポートに降下してきた。カメラマンも乗っていて、式の模様を撮影していたようだった。

 そして、アンジーと俊之さんがヘリコプターに乗り込むと、二人はそのままハネムーンへ行ってしまった。


 独りぽつんと私を残して……。




2008年8月17日(日)  天気:曇り 最高気温:32.6℃


 浦添商高の準決勝戦。至る所から、沖縄の方言が聞こえてくる。

「チバリヨー(頑張れー)!!」

 私も大声を出して応援した。


アンジーに先に結婚されるとは夢にも思ってもいなかった。それどころか、正直言って、アンジーはモテるけれど、結婚できない女だと思っていた。安心していたとさえ言ってもいい。結婚貯金なんてするだけ無駄なのにと心の中で笑ったこともあった。

だから、親しくしていたわけではない、と言いきれない自分もいる。


 でも、私はアンジーのことが好きだ。それは、断言できる。


昨日の結婚式は本当に素敵だった。皆が幸せになる、名作映画を見せてもらったような気分になれた。

アンジーのウエディングドレス姿は、ハッとするくらいキレイだった。俊之さんは幸せ者だ。

今頃、ドバイのビーチでハネムーンを満喫していることだろう。


 私は甲子園球場で浦添商高を応援し続けた。


「負けるなー!!チバリヨー!!」


 何度も何度もそう叫んだ。



                                  完

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木下町子と夏休み達 桜草 野和 @sakurasounowa

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