行動主義の文学
鹿江路傍
行動主義の文学
「そもそも、小説に心理描写なんて必要ないんだ」
先生はそう言った。倫理学を教えている時と同じ口調だ。
「そんなことないですよ。というか、心理描写が全くないと、小説として成り立ちませんよ?」
「そうかな? ああ、ここでいう心理描写は地の文で心情を吐露するような奴のことだ。行動を描写することで心情を表すことは否定しない、むしろそれこそが重要なんだ」
先生は熱っぽく語る。先生の講義はよく脱線することで評判だ。この前の概説の講義でも、本筋とは関係のない所に力を入れすぎて、全然授業が進まなかった。
「行動、ですか?」
「そうだ、行動こそが重要なんだ。人間の内面は行動を語ることによってのみ把握できるのさ。心理学で言う徹底的行動主義って奴だね」
「でも、わたしはそうは思いません。その時、キャラクターが何を思い、どう感じ、考えたのか、はっきりと示すことも必要です」
「それがいけないんだ。心というものははっきりと断言できるものじゃあ断じてないね。だからこそ、行動を描写することで間接的に示すのさ」
「繊細な感情の機微は、行動だけでは示しきれませんよ」
「それなら、登場人物に『月が綺麗ですね』とか『死んでもいいわ』とでも言わせておけばいいだろう。それでも足りないというなら、情景描写に投影すればいい」
先生は一気にまくし立てて、はっと我に返った。こほん、と咳払いをする。これでも、三十路をとっくに過ぎているのだ。
「どうしてそこまで、心理描写を否定するんですか?」
「人間の内面という奴はね、誰にも知ることはできないからだよ。他人の心はもちろん、自分の心さえも、自分の行動から推測しているのに過ぎないんだ。だと言うのに、小説じゃあさもわかった風に描かれる。それが嫌なのさ」
先生は幾分落ち着いた声で言った。ただ、最後の方はまた熱を帯び始めていた。
「どういうことですか?」
「いいかい、僕たちは人の心がわかっているように振舞っちゃいるが、そんなのはとんだ勘違いだ。君は僕の心が読めるかい? 読めるとしたら、それは僕の仕草や表情、言葉、要するに行動から推測しているだけに過ぎない」
まあ、確かに、とわたしは同意した。先生は「そうだろう?」と言って、さらに早口でまくし立てる。
「そして、自分の心の動きがわかる、なんて言うのも大まちがいさ。悲しいから自分は泣くのだ、と僕らは思っているが、そうじゃない。泣いているから自分は悲しいのだ、と推測しているに過ぎないってわけだ。わかるかい? 感情が先にあって行動するんじゃない。行動が先にあって感情を認識するんだ」
「それは、おかしいですよ。悲しいけど泣かない、そういうこともあります。この場合、行動がないのに感情が生まれているじゃないですか?」
わたしの反論に、先生は何ら動揺しなかった。先生の薄い唇から、すぐさま反駁の言葉が紡がれる。
「いいかい、それはかつて自分が似た状況に遭遇した際に涙を流したか、あるいは他人がそういう状況に遭遇した際に悲しみを表す所作をしたのを見ていた経験があるからさ。悲しくなるべき状況に置かれているのだから自分は悲しんでいる、そう推測しているに過ぎないってわけだよ。わかるかい?」
「言っていることはわかりますけど……」
わたしは口ごもる。その隙を、この先生は逃さない。
「僕らは確かな心というものが存在すると思い込んでいるだけなのさ。本当の感情って奴は、行動から推察することしかできないあやふやなものだ。だと言うのに、地の文でそれを断言しちまう奴があるか。それは無粋でさえあるんじゃないか?」
「……一概にそうだとは言えないと思いますが」
「ふむ、どうも君とは意見が合わないようだね。まあいいさ。君がどう行動し、何を考えるかは君の自由だ。……それで、何の用件だったっけ?」
ほんの数分前に用向きは伝えてある。先生が会話に熱中し始めると、いつもこうだ。
「期末レポートの相談です。近代文学における倫理観について、というタイトルの」
わたしはずっと片手に持っていたレポートの草稿を手渡す。先生は無造作に受け取った。
「ああ、そうだったそうだった。――どれどれ」
先生は草稿をパラパラとめくった。十秒もかからなかった。
「まあ、いいんじゃないか。この調子で書いてくれれば単位はあげられるよ。……それにしても、わざわざこんなことの確認に来るなんて、君は律儀だね」
「そんなことないですよ」
わたしは先生から返してもらったレポートの草稿を、丁寧にショルダーバッグにしまう。それから先生にお礼を言って、教官室を後にする。
ただ、扉を閉める前にこう言っておいた。
「先生。――先生はもっと、心と行動の関係について、考えたほうがいいと思います」
「おや、そうかな。……まあ善処するよ」
――この時、わたしがどういう感情を抱いていたかは、書かないことにする。
行動主義の文学 鹿江路傍 @kanoe_robo
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