第2話 問題提起、その2

 優花はシャワーヘッドに似たホースの先を持ち、レバーを握った。少し間を置いて水が吹き出したのを確認し、花壇に向けて威力を調整する。総延長十メートルはあろうかという巻き取り式のホースは三分の一ほどしか伸ばされておらず、用具倉庫から持ってくる手間を考えたらじょうろを使った方が楽だったかもしれないと優花は密かに後悔した。同時に小学校卒業時からほとんど成長していない、枝のように細い自らの手足を忌まわしげに見つめる。優花には自分が周囲からどのように見えるのかよくわかっていた。

 優花は未熟児として生を享け、小学校に入るまでは入退院を繰り返していた。風邪をこじらせて肺炎になったことも何度かあったが、中学に入るころにはそんなことも減って、やっと同級生と同じように学校生活を送れるようになったのである。しかしそれでも体は思うように成長せず、「制服を着ていなければ高校生に見えない」という驚きとからかいを含んだ台詞はとうに聞き飽きていた。見た目にたがわず平均を大きく下回る体力と腕力も相まって、家族も先生もクラスメイトも皆彼女を非力な守るべき存在として扱い続けてきたが、ある時から優花はそれが我慢ならなくなった。確かに身体は貧相だが、優花はもう子供のころほど弱くはない。勉強に関していえばむしろ優秀なくらいで、近頃は風邪だってほとんど引いていない。他より少し背が低くて肉付きが悪いだけなのに、周囲の人間が優花を見る目は小学生のころからほとんど変わっていなかった。何かしようとするとすぐに「大丈夫か」と問われることも、苦労していると見るやすぐに誰かが手を差し伸べてくることも、自分だけがいつまでも赤ん坊扱いされているようで嫌で嫌で仕方がない。普通の人が普通にできることは自分にもできる。そう信じたい優花にとって、「可哀想」という理由で手を貸されることは屈辱以外の何者でもなかった。

 先ほど声をかけてきた秋人もそうだったのだろうと考えて、優花は不快なため息をつく。秋人とは去年に引き続き同じクラスだが、話したことはほとんどない。彼はお人好しで優しい性格ではあるけれど、急いでいるときに友人でも何でもない優花に助けを申し出たりするかと言えば、普段ならノーだろう。それでもわざわざ立ち止まったということは、優花が普通以上に苦労しているように見えたということだ。そんな結論に至り、思わずむっと唇を尖らせた。

「あれ、末永まだやってたのか?」

「……中谷君」

つい三十分前に聞いた声がまた背後から聞こえる。丁度思い出していたこともあって驚いたが、優花は努めて平静を装って振り返った。秋人は先ほどと変わらない制服姿でスクールバッグを提げ、後ろには同じくクラスメイトの黒川徹の姿もある。徹の方はなぜか顔と毛先が濡れていて、首から下げたスポーツタオルでそれを拭っていた。

「部活は?」

「あー……今日は用事あったの思い出して抜けてきた」

「黒川君と一緒の用事?」

「まあ、そうだな」

優花は部活に行くと言って走り去った秋人がまだ制服姿で、かつ同じ部活の徹を連れていることを素直に疑問に思っただけだったが、秋人が一瞬言葉を詰まらせたことで訳ありだということは察しがついた。しかし特に仲がいいわけでも興味があるわけでもないので、優花もそれ以上追及するつもりはなかった。

「へえ、末永って美化委員だったっけ?」

一通り水気を拭いた徹が優花が持つホースに目をやる。

「うん」

「俺去年やってたんだ。そのホース地味に重いよな」

優花は心の中で嘘つき、と呟いた。身長一九〇センチで運動部らしく全身に筋肉をまとった徹にとってはこんなホースの一つや二つ軽いはずだ。「地味に重い」というのは優花が持つ場合を想定して出た言葉である。

「全然、大丈夫」

「いや、それは嘘だろ」

無表情で切り返した優花に秋人が小声で突っ込んだが、優花は聞こえていないふりをしてホースを巻き取り始めた。二人に背を向けて、言外にこれ以上の会話を拒否する。

「優花ー、おわったー?」

頭上から声が聞こえた。三人が見上げると二階の教室の窓から身を乗り出して手を振っていた女子生徒が一瞬固まって、そして恥じるように手を下す。

「あれ、中谷君……と黒川君?」

中庭には優花しかいないと思い込んでいたらしい若菜が照れたように笑いながら首を傾げる。優花は努めて柔らかい笑顔を作って彼女に手を振り返した。

「たまたま会って、ちょっと手伝ってもらったの」

秋人や徹に対する時の無味乾燥な口調とは正反対の優し気な声色でそんなことを言った優花に、男二人は思わず顔を見合わせる。若菜は特に驚くことも疑う様子もなく優花の言葉を飲み込んだ。

「そうなんだ。二人とも優しいね」

「別に何にもしてないけどな」

微笑みかけられた秋人は謙遜とも事実ともつかないことを言ったが、徹はぎこちなく目をそらす。普通は不自然な反応だと思うだろうが、そうしたくなる気持ちも優花にはなんとなく理解できた。篠崎若菜はいわゆる美少女だ。肌は正に雪のように白く、長身ですらりと伸びた四肢と整いすぎた顔立ちは黙っていれば人形のようにも見える。日本人離れした胡桃色の髪は緩く波打って背中を覆うほど長く、日に透けて飴色にきらめく様は神秘的ですらあった。そんな少女に笑みを向けられて照れるというならむしろ自然である。

「もう終わるから昇降口で待ってて」

「うん、優花の鞄も持って行くね」

「お願い」

優花は若菜が引っ込んで窓に施錠したのを確認し、手早くホースを巻き取った。水道に接続していたもう片方を取り外し、巻き取り台の側面に引っ掛けてから急いでホースを仕舞いに行こうとする。

「ちょっと待った」

突然ホースを徹に奪われた。行動を妨害されて苛立った優花は反射的に彼を睨み付けたが、徹は悪戯めいた笑顔で奪ったホースを隠すように後ろ手に持ち替える。

「聞いてたでしょう?

 急いでるから、返して」

「急いでるなら手伝う。「ちょっと手伝った」ことになってるんだろ?」

鬼の首を取ったように先ほどの優花の言葉を持ち出す徹に、優花の目はさらに不愉快そうに細められる。徹は誰に対しても面倒見のいい好青年ではあるが、裏を返せばお節介でもあり、さらに言えば空気が読めない子供のようなところも併せ持っていた。去年からこうして優花のすることに手を出して露骨に嫌がられることもしばしばだったのだが、全く堪えていないらしい。優花は自分と話すときに若干背を丸め、子供相手にするように目線を近づける徹が苦手だった。

「ああ言うのが一番自然だっただけ。だから本当に手伝ってもらわなくても大丈夫なの」

「でも俺返す気ないし、こうしてる間にも篠崎来ちゃうんじゃないか?」

心の底から面倒なやり取りに辟易した優花は秋人に助けを求めようと視線を移したが、徹と一緒の用事があるなどと言った割に口を出す素振りはない。むしろ「仕方のない奴だ」とでも言いたげに口の端に笑みをのせて傍観していた。

「ほら末永、早く置いて来よう」

「ちょっと!」

勝手に歩き出した徹を止めようとしてつい叫んだ優花に、彼は楽しそうに笑う。まるで徹と自分の喜怒哀楽が反比例しているようだと思いながら、優花は後を追った。足の長さが違いすぎて普通に歩いているだけでも優花を大きく引き離せてしまう徹は、優花が小走りになって追いかけてくるのを笑いながら背後の秋人に振り返る。

「秋人、悪いけど待ってて」

「わかった。下駄箱の前にいる」

「了解」

秋人は当然のように応じて二人を見送ったがその時の彼の表情はなんだか子供を見る親のような穏健さを滲ませていて、優花は彼の余裕な態度を呪わしくすら思った。

 中庭から校舎に入ったあたりで徹が歩調を緩めたおかげで優花は彼に追いついた。右手にスクールバッグを持ち、肩からエナメルを提げた上で反対の手にホースを持っているというのに、やはり全く堪えた様子はない。徹が持つと何もかもが小さく軽そうに見えるような気がして、優花は知らずにうつむいた。彼にとっては自分など風が吹いたら飛ばされそうな小さな子供なのだろうと思ったら、隣を歩くことがみじめに思えたのだ。

「末永は、なんでそんなに自分でやりたいんだ?」

「っ……」

心の中を見透かされたのかと錯覚して優花が肩を震わせる。かろうじて足は止めなかったが、歩調が乱れてつんのめった。

「っと、大丈夫か?」

「……平気。ちょっと足がもつれただけ」

立ち止まって優花を支えるような素振りをした徹の腕を躱しながら、彼女は冷静に自分に言い聞かせる。徹は単に手伝いを固辞したことを疑問に思っているだけで、何も深く考える必要などない、と。

「特に理由なんてない。自分でできることは自分でやりたいっていうだけ」

「そっか、末永は努力家だもんな」

「……そんなこと言われるほど仲良かった覚えはないんだけど」

優花は徹に対する皮肉と、彼の発言に対する素直な感想を述べたつもりだったが、言われた徹は不思議そうに首を傾げ、どんぐりのような丸い瞳で優花を見つめた。まるで優花が要領を得ないことでも言ったようだ。

「だって末永いつも頑張ってるじゃん。勉強でもなんでも」

「頑張ってるって?」

「いや、具体的にどうって言うのは難しいんだけど。なんでも「ちゃんと」やろうとして頑張ってる……っていうか」

見た目だけは大人のようなのに、徹の言葉は稚拙で言いたいことの半分も伝わっては来なかった。それでも言葉の中にからかいや哀れみの類は一切含まれておらず、優花のことを好意的に解釈しているということだけは理解できる。しかし、去年から始まって今の今まで徹を含めて手を貸そうかと申し出る者を無下に断り続けてきた自覚のある優花にはそれこそ納得できない解釈だった。

「黒川君は私に腹が立ったりしないの?」

「なんでだよ?」

「親切にしようとしてるのに迷惑そうにされたら、普通は気分が悪いでしょう」

優花がそう言うと彼は一瞬呆気にとられたような顔をして、その後喉を震わせるようにしておかしそうに笑った。その拍子にエナメルとホースがぶつかって、カチャカチャと軽い音が放課後の誰もいない廊下に反響する。

「自覚あるならもっと上手いこと断ればいいのに」

「やんわり断っても聞いてくれない人が多いからああなっただけ」

それは優花にとってはずっと前に結論の出た問題だった。どうやら見た目のせいで児童にしか見えない優花を助けることに義務感を感じている人が多いようで、言葉を濁して断っても「遠慮しなくていい」とますます相手をやる気にさせてしまうのだ。だったら最初からはっきり迷惑だと伝えて、ついでに不快感を植え付けることによって二度と声を掛けられないようにした方が彼女自身気楽なのである。優花がそんなことを思い返しているうちに徹がドアの前で足を止めた。そこから外に出れば目の前が用具倉庫なのだが、彼は両手が塞がっているのでノブを持つことができないのだと気付いて優花は咄嗟に右手を伸ばす。

「あっ!」

その手が徹の手に触れた。彼はどうやらスクールバックを手首に引っ掛けて右手を空けていたようで、優花の手とぶつかった瞬間にひっくり返ったような大げさな声をあげた。ほとんど何も入っていなそうなバッグが軽い音を立てて廊下に落ちる。優花もまた驚いていたが、それは手が触れ合ったことよりも徹の奇声によるところの方が大きかった。

「ごめんなさい」

「いっ……いや、俺もごめん」

見上げた徹は焦った様子でそっぽを向いていて表情はうかがえない。そして彼は鞄を拾うと、逃げるように勢いよくドアを開けて外へ出た。優花も倉庫の鍵を取り出して後を追いかける。勝手口から出た先は校舎の裏側に当たる場所で、日当たりが悪いせいかそこに植わっている桜はまだ五分咲きといった風情で風も冷たく感じられた。

「じゃあここに置いて」

「ああ」

先ほどまではずっと優花を見ていたどんぐり眼はくるくると動揺したようにさまよっていたが、徹はしっかりと返事をしてホースを倉庫の棚の上に置いた。あとは昇降口に向かいながら鍵を職員室に戻せば全て完了だ。

「黒川君、頼んでないけど手伝ってくれてありがとう」

「いいよ、俺がやりたくてやったんだし」

優花としては結局最後までさせてしまった以上礼をしておこうというくらいの気持ちで言った言葉だったが、徹は赤くなった耳を隠すように触れながら嬉しそうに眉尻を下げた。強引で察しの悪いところは子供のようだと思ったのだけど、言葉一つで大いに喜ぶところは犬に似ていると考えながら、優花は毒気を抜かれてしまったように一つ息を吐く。

「行こう。篠ちゃんと中谷君待ってる」

「うん」

帰りは優花が先を歩いた。時折話しかける徹の声は明らかに弾んでいて、歩調は優花に合わせているので決して追い抜くことはない。ドアの前で手に触った時にはあれほど動揺していたというのに好意を隠す気すらない徹の振る舞いに、優花は少し呆れ、そしてほんの少しだけ申し訳なく思った。

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