絶対値Xな相関
@hajime0101bo
第1話 問題提起、その1
好きな人がいます。それだけなら、なんともありきたりなこと。
好きな人に、好きな人がいます。これもまずまずよくあること。
でも、「好きな人の好きな人の好きな人の好きな人が自分です」なんてことは、後にも先にも私だけでしょう。
日誌を書き終えて、小走りで中庭を駆け抜けようとした秋人の足が止まった。巻き取り式のホースを重そうに両手で持ち、引きずるような足取りで花壇に近づく優花を見つけたためだ。よく言えば華奢、見た目の印象そのままに形容するならば子供のように頼りない体格の優花にはそれなりの重労働なのだろう。四月の中頃だというのに額が少し汗ばんでいるように見えた。
「末永」
秋人が声をかけると、じっと花壇を睨んでいた優花が顔を上げて不思議そうに秋人を見た。なぜ彼が自分の名前を呼んだのか全く分かっていないらしい。
「手伝おうか?」
「平気、あと少しだから」
秋人が親切のつもりで口にした言葉に被せるようなタイミングでぴしゃりと返事をして、優花は花壇まで残り五メートルほどの道のりをまた黙々と歩きだす。彼女の性格からしてきっと断られると思っていた秋人も、この対応にはさすがに苦笑した。優花とは昨年も同じクラスで、小学校高学年と言っても通用しそうな見た目と裏腹の自立心の強さを垣間見ることは多々あったが、これほど強い口調で拒絶されたのは初めてだった。
「中谷君は部活でしょう。早く行ったほうがいいんじゃない?」
「まあね。じゃあ、水やりがんばって」
優花が花壇のわきにホースを置いたのを見届けてから、秋人は軽く手を振って走り出す。上履きがタイルで舗装された通路をこする乾いた音がした。背中に視線を感じながら、それを振り切るように校舎に駆け込んで体育館につながる渡り廊下を突っ切る。隅に設置された冷水器でバスケット部のマネージャーが水を汲んでいるのを見た秋人は、自分が想像以上に遅刻していることに気づいて走る速度を上げた。とっくに集合時間を過ぎた部室に人影はなく、代わりに脱ぎ捨てられた制服や鞄が無造作に散らばっている。毎日大騒ぎしながら練習着に着替えるのに、ほんの三十分ずれただけで時間から置き去りにされたように静まり返る運動部の部室棟はなんだか不気味で、シャツのボタンを外す手が焦った。
「あ、秋人来た」
「うわっ」
背後に急に現れた声に驚いた秋人がジャージを取り落とす。声の主はそれを笑いながら床に散乱した荷物を慎重に躱してロッカーに歩み寄り、何かを探し始めた。
「なんだ、徹かよ」
「悪いか。つーか驚きすぎだろ」
徹は、呆れた様子で振り返る。その顔を見た秋人はせっかく拾い上げたジャージを再度手放し、思わずといった様子で後ずさった。右頬にべったりと血が付着している。
「な……なんだそれ」
「ああこれ?
先輩と衝突してさ、でももう止まってるから平気だよ」
試合形式の練習を始めた途端に衝突事故を起こして徹は鼻血を出し、ぶつかられた先輩は手首を捻ったらしい。よく見ると徹は右手の甲にも乾いた血がついていて、鼻血を適当に拭ったきりろくに処置をしていないことは明らかだった。
「なあ、ここって氷嚢ないっけ?」
「さぁ。橋爪先輩ならわかるんじゃないか?
それよりお前は顔と手洗ってこい」
雑然と物を詰め込んだロッカーを漁り、誰のものかもわからないユニフォームや古いビブスを引っ張り出している徹は秋人の言葉を無視して氷嚢を探し続ける。正確には無視というより聞こえない振り、探しているというよりは探している振り、だということは秋人にもわかっていた。
「……徹、気まずいのはわかるけど、怪我させたと思ってるならそれはちゃんと謝れよ」
ロッカーに頭を突っ込んでいて聞く耳を持たない徹の背をつつく。徹としては体育館には味方がいないから戻りたくないのだろうが、味方でないからといって敵でもないことは秋人にはわかっていた。だからこそここで逃げを打つのはよくないと説得しようとしたとき、ドアを軽くノックする音がした。
「黒川、いる?」
徹が動きを止め、はっと短く息を吐く。それは小さなため息のようでもあり、軽蔑から来る嘲笑のようでもあった。声の主はマネージャーの橋爪だ。呼ばれた本人は床にあぐらをかいて応える様子がないので、代わりに秋人が返事をした。
「はい、います。
入ってもらって大丈夫です」
「……よかった。血まみれのまま走ってったから、みんな心配してるよ?」
ドアを開けた彼女は徹の姿を確認して一瞬安堵したように表情を緩めたが、すぐに目を伏せて迷うように目線をさまよわせた。どこか遠慮がちで、探るように慎重に言葉を選んでいることがわかる。本来は姉御肌で後輩に変な気を遣う人ではない分、割れ物に触れるように優しげな声色は違和感しかもたらさなかった。秋人はそんな橋爪の様子から、自分が考えているよりも事態は深刻なのかもしれないと考えた。
「その顔何とかして部活戻りなよ。トシも全然軽傷だし、大丈夫だから」
拗ねたように正面のロッカーを見つめていた徹の眉が微かに動く。トシという名前に反応したのは明白で、秋人は自分の予感が当たったことを知った。
「……戻りません」
決して強い口調ではなかったように思う。感情の凪いだ、静かな声だった。しかし、普段は明るく活発な徹の無表情は妙な凄みがあって、橋爪が半歩後ずさる。すぐ横にいた秋人も部屋の温度が少し下がったように錯覚した。
「俺、今日は帰ります」
「でも……」
「トシさん……部長には謝っておいてください。すみません」
一度食い下がった橋爪の度胸を、秋人は心の中で大いに讃えた。それでも徹が聞く様子はなく、立ち上がってユニフォームを脱ぎ捨てる。態度も言葉も行動も全て使って橋爪の言葉を退けようとするかのように、彼は頑なだ。しかし、別に徹は橋爪を嫌っているわけではない。それが彼女に伝わっていればいいと、祈るように秋人は橋爪に目配せした。
「すみません、俺も今日はやめておきます」
「……うん、わかった。ありがとう、中谷」
秋人の視線の意図を正しく汲んだのかは確かめようがないが、橋爪は真っ直ぐ目を合わせて秋人にだけ分かるように小さく頷いた。自分ではさらに徹の態度を硬化させてしまうと思ったのかもしれない。結局一度も目を合わさなかった徹を一瞥して、後ろ髪引かれるようなそぶりをしながらも部室を出ていった。プレハブ製の部室棟を駆ける軽い足音は滑るように遠ざかり、すぐに聞こえなくなる。外界との接点が閉ざされた部室には沈黙が訪れ、隣接する柔道場から伝わる微かな振動を感じ取れるほどに何の濁りもない無音の空間となった。制服に着替えようとしていたはずの徹も、いつの間にかじっとアルミのドアを見ている。先程までの無表情は消え、僅かに苛立ちと罪悪感を滲ませた変な顔で橋爪の残像を見つめていた。
「あの態度はないだろ」
「だってさ、普通自分で追ってくるだろ。何でカノジョ寄越すんだよ、意味わかんねえ」
「直接話しても結局口論になるか、お前が掴みかかるかだろ。それがわかってて追いかけて来るやつはいない」
「だったらなおさら橋爪先輩に来させる意味わかんねえだろ。つーか、あの人もなんで来たんだか」
「わけわかんねえ」と呟きながら制服を手繰り寄せた徹は適当に積み上げられた中からシャツを引っ張り出した。秋人も着たばかりのジャージを脱ぎ、きっちり畳んだ制服に再び袖を通す。徹はここ一ヶ月ほど部長の広前俊也と対立していた。去年は問題なく付き合えていたのだが、三年が卒業してひとつ上の代が幹部になった途端に折り合いが悪くなったのである。原因は部活に対するモチベーションの違いであり、「たかが部活」というスタンスの広前と「されど部活」と考える徹の間に形成された溝は日に日に深さを増していた。
「今日だって、拾える玉だったのにキャッチしたんだ」
「それで勢い余ってぶつかったのか?」
「そ。流石にコーチも怒ってたけど、トシさんには全然響いてなかった。運が悪くて怒られたくらいにしか思ってないと思う」
広前は不真面目なわけではない。部長を任されるほどの技量も人望もある。ただ、運動部に求められがちな負けず嫌いや根性といった要素とは無縁の性格なのだ。達観していると言い換えてもいい。旧学区の公立ではトップの偏差値を誇る高校で、運動部所属でありながら学年屈指の成績を誇る頭脳明晰な彼には見えてしまうのだろう。部員の実力、練習時間、コーチの力量、学業との兼ね合いなどから導き出されるチームとしての限界が。どうせ全力でやっても県予選すら突破できないのだから必要以上の努力は無駄でしかない。それよりも将来に直結する受験勉強や資格試験の方が重要だ、というのが彼の考えだ。
「確かにそれは部長も悪いけどさ、もうちょっと考えた方がいいと思うぞ」
「何を?」
「部長が橋爪先輩を寄越した理由」
秋人がそう言うと、徹は訳がわからないといった様子で聞き返した。
「俺と話したくないからだって言ったの秋人じゃん?」
「それは追ってこなかった理由」
そう切り返された徹はしばらく考えるようなそぶりを見せたが、結局着替え終わっても答えは見つけられなかったようで「わかんねえ」と秋人の方を見た。十中八九そう言うと思っていた秋人はわざとらしく大きなため息をつく。
「あのさ、部長と橋爪先輩は付き合ってるんだぞ?
彼氏が怪我したんだから普通心配するだろ?」
「してたよ。駆け寄って来てたし」
「じゃあなんで他の部員じゃなくて、橋爪先輩がここに来たんだと思う?」
「それはトシさんが行けって言ったからじゃないか?」
「なんで部長は他の誰かじゃなくて橋爪先輩に行けって言ったんだよ」
「それはー……」
普段通りならマネージャーは怪我人に付き添って保健室に行くはずだ。しかし橋爪は徹が来てからすぐに現れた、つまり広前に付き添うことはしなかったということである。二人が付き合っていることを鑑みれば、これはあまりに不自然だった。
「……わからん。なんでだ?」
これだけヒントを出したにも関わらず、徹はきょとんとして首をかしげて見せた。秋人の口から本物のため息が出る。
「……本当に絶望的に鈍感だな。部長は心配だったんだろ、徹のことが」
「は?」
呆けたようにポカンと口を開けて徹が固まった。彼の中では、広前は自分と直接話すことを恐れて恋人を差し向ける腰抜けだったのだろう。確かにわかりづらい優しさではあるが、直接現場を見ていない秋人にも察することができたのだから当事者だった徹には気づく機会があったはずだ。徹の真っ直ぐで裏表のない性格は間違いなく長所だが、それと表裏一体をなす突き抜けた鈍感さは時に致命的な弱点でもあった。
「お前が思ってるほど、部長は悪い人じゃない。ただ、現実はスポ根漫画ほど簡単じゃないってことだ」
「……うん」
つい今しがたまで苛立ちを露にしていた徹は、萎れたように大人しくなってうなずいた。彼は直情型でいつも感情を剥き出しにしている分、こんな風に察しの悪さによって短絡的な行動を取って後悔することも多かった。
「行こう。どっちみち今日は戻らないんだろ?」
「……そうだな」
まだなにか考えているようだったが、秋人に促されて徹も鞄を担ぐ。雑然として物が溢れ、喧騒に置き去りにされたような、時が止まったような部屋を二人揃って抜け出した。
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