午後四時二十三分。また、あの電車で

髙橋螢参郎

第1話

 駅は何かが始まる場所なんだと、物心付いた頃からずっと思っていた。

 本当の遠くへ行く時は大抵まず駅に行く。新幹線はもちろん、飛行機や船にしても発着所まで出向かなければならないし、日帰りでないのならば車はその間障りになるだろう。だから電車だ。

 小さかった僕は手荷物が重い、疲れるなんて随分と文句を言っていたらしいけど、電車の持たせてくれるあの期待感についてだけは、今でもハッキリと思い出す事が出来た。

 どこかへ行く。それはいつだって神聖な儀式の筈だ。

 時としてここで命を断つ人も居るが、もしかしたらそれも希望の裏返しなのかも知れない。行くには違いないのだから。

 そんな人達が、場所が、独り紛れ込んでいる僕の事を知ったらどう思うのだろうか。

 反対側のホームから降りて来た疲れ顔の人々は、いつだって何も応えてくれはしない。少し遅れてこちらのホームにも車両が着くなり、まばらな人を根こそぎかき集め、足早に出て行った。

 午後四時二十三分。今日も僕は、どこへ行く宛ても無くこの特急電車に乗る。


 いつもの乗り場からボックスシートの窓際へと真っ直ぐに滑り込むと、僕は学校の荷物を足下に降ろした。向かい合う四席には僕以外誰一人として座っていなかった。朝会社へ人を吐き出し、夜に回収する。ここはそれだけの駅だ。

 事実外を眺めても、目を引くものなど何もなかった。スプロール化現象、というのを中学生の時に習った記憶があるけれど、まさにそのいい見本で、駅から少し離れるとすぐに畑が広がり始める。暗闇に抗うネオンの明かりも見当たらないこの街は、確かに退屈だった。

 それでも僕はどこかへ行くつもりでこの電車に乗った事はない。そうとだけ話してみたところで、一見あまりに矛盾した行為の意味をすんなりとは理解してもらえないだろう。

 第一、どうやら僕以外には見えていないらしかったのだ。

 ガタン、と一つ大きく揺れると同時に、景色がトンネルの暗闇に吸い込まれた。随分と長いトンネルで、特急でも通過するまで三分かかる。

 車窓が鏡の様に車内の様子を映し始めると、そこには僕の代わりに本来映らない筈のものが映り出す。いつだって背中を丸めて、寂しそうに座っている女の子の姿だ。時代遅れの髪型と制服も、今ではもうとても昔の様に懐かしく感じられてしまう。

 僕がガラスを人指し指で軽く叩いたのに気付くと、嬉しそうに手を振って近付いてくる。椅子の上に正座し出すその様子は、やはりずっと無邪気な中学生のままだった。

「こ・ん・に・ち・は」

 と、彼女はその一音一音を子供に教え込む様にゆっくりと口を開いた。けれど、その声は僕にも聞こえてこない。

 このたった三分間の為だけに、何度も何度も同じ電車に乗っていた。


 簡単に言ってしまえば、彼女は向こう側に行った筈の人だ。

 それも僕が発ったこの駅の、この線、多分、この時間の電車に飛び込んで。もしかしたら日によっては車両すらも一緒なのかも知れなかったが、確認する気には三年経った今でもなれなかった。

 その反面何がきっかけで彼女に気付いたのかは、もう完全に覚えていない。ただ確かなのは、高校に入ってから一度だけ全くの偶然として、この電車に乗り合わせたという事だけだ。

 彼女は今とは比べ物にならないほど落ち込んでいた。どこかへ行くつもりがどこへも行けず、誰にも気付いてもらえないのがどんな気持ちなのかは、単なる顔見知り程度だった筈の僕を見つけた時の、あの必死な表情を見れば嫌でも解った。

 ……さて、三分間を使って僕らがどうしているのかと言うと。なんて事は無く、いつだってただのおしゃべりに充てている。

 お金の無い年頃の男女がするのと同じで、その内容はご近所のニュースや、趣味の話、それと同窓生の近況とか、知らない人が聞いても全く意味を為さない様なくだらないものばかりだ。難しい話をするのに三分は短いし、笑って過ごすだけならばどうでもいい話でも充分事足りる。

 彼女の声はこちらに全く聞こえないが、僕の出す声や音はある程度向こうに聞こえるらしい。但しあくまでガラスに伝わる振動としてであり、直接話しかけるには窓に密着して喋るくらいの事をしなければならなかった。人が少ないとはいえ流石に誰も乗っていない訳ではないので、この方法は割と早くに止めてしまった。

 やはりこういう時一番便利なのは筆談だ。間違いがないし、予め要点をまとめておけばそれだけ時間を有効に使える。加えて僕は、自分の言いたい事をその場その場で口にするのが苦手だ。この世の会話は全て筆談になってしまえばいいと、半ば本気で思っているフシすらある。

 まずは主なトピックスをいくつか書き並べた紙を見せて、その中で一番深く知りたい話を指差してもらう。後は僕がそれについてもう少し説明を加えたところで、彼女の唇を読んで会話する。あまりだらだらしていると時間はあっという間に過ぎていくから、基本的にはイエスかノーか、ハッキリとした一問一答を重ねていく事が多い。三分で足りなければ、僕が翌日もこの電車に乗る。それだけだ。

 最初は押し付けがましいかな、と自分でも思ったけれど、彼女は僕のどんな話にも目を輝かせて楽しそうに聞いてくれた。変化に乏しいであろう向こうの世界からすれば、そういうものなのかも知れない。

「い・つ・も・あ・り・か・と・う」

 僕が黙って首を振ると、彼女は申し訳無さそうに笑った。

 次第にトンネルの終点が近付くと、最後に決まってもう一言何かを伝えようとする。その時に限って慌てているのか、とても早口に。

「い……」

 そしていつも言い終える前に、鉄橋を焦がすぎらぎらとした夕焼けが彼女の影を横殴りにかき消していくのだった。

 後は隣の駅に着くまでその意味を考えて、財布に余裕があれば少し遊んでからまた電車で帰る。無ければ、自転車を盗んで夜道を延々と漕いで帰る。どちらも、大きな駅なればこそ容易い。

 元来た道を。その繰り返し。

 不毛と知りながらも、僕は中学の頃から彼女の事が好きだった。


 数日後、僕はまた件の特急に乗り込んだ。

 最初の内は毎日の様に通い詰めていたけれど、別途特急料金のかかるこの電車に乗り続けるのも、高校生の身には正直厳しいものがある。

 いっそ学生定期でも買ってしまえば良かったのかも知れないが、隣の駅まで行く理由は他人からすれば無いに等しい。学校も、友達も、ここに来る為のバイトも。恐ろしい事に、あのつまらない街で僕らはほぼ一切を完結していたのだ。

 そんな事を考えてしまうと、尚更車窓の彼女の哀しさが際立つ。

「と・う・し・た・の」

 何でもない、とちぎったノートの端に書いて見せる。文章でも、案外嘘をつく事は難しい。

 尚もこちらを心配そうに見つめ続ける彼女の視線を遮る様にして、僕は本日のお品書きを窓ガラスに押し付けた。

○中学の時オゲレツ大百科の異名をとった浜田にも、遂に彼女が。

○田中と大野さんが別れた。原因はなんと大野さんの浮気。

○塩谷が高校を辞めて東京で美容師になると言い出した。

○中国で曹操のものとされる墓が見つかる。

 我ながら今回は面白いネタが多いなと思っていたのだけれど、彼女が指差したのはこの内のどれでもなく、僕の顔だった。

 僕は紙を膝の上に置くと、両手を交差させ×印を作ってやった。

 それは何も自分について語りたくない、というだけの事では無かった。

「本当に何も無いよ」

 そう書いても彼女は首を振るけれど、これが事実だ。

 学校に行って、噂を集める為だけに人と話し、バイトを淡々とこなして、ここへ寄った後も大抵は真っ直ぐ家へ帰る。ダイヤが違う休みの日も、他に割いていた時間をバイトで埋めている程度の違いでしかなかった。

 こうして彼女の姿が僕に見えているのも、実は僕らの間にあまり差が無い事の証左なのかも知れない。要は風や水と同じだ。流れないものは次第に澱んでいく。無謀と嘲りながらも、僕には塩谷の様な勇気なんて一生かかっても出ないのだろう。そういう意味では、尊敬に値する。

 でも、皆が皆どこかへ行ってしまったら残された人はどうなるのか。

「大丈夫、僕はこっちにいるから」

 今度は赤インクを指に擦って、即席の拇印付きだ。

 彼女は「あ・り・が・と・う」と困った様に笑って、僕の指紋にいたずらっぽく小さな指を重ねてみせた。手話が出来ればと考えた時期もあったけれど、今ではもう、これ以上何も望まなかった。

「いて……し……」

 今日も彼女の言葉はぷつりと途切れた。いつもいつも何を言おうとしているのだろうか。何度も見ている内に多少は解読出来る様になったけれど、やはり最後だけがどうしても解らない。

 そんなに大切な事ならば、もう少し早めに言っておけばいいのに。

 僕は今日も自転車を漕いだ。暇な時にいくつか放置自転車をストックしておけばもっと便利なのではないか。

 闇夜にまたたく赤いパトランプに怯えながら、そう考えた。


 奇跡を求めてしまうのは子供の証拠だろうか。

 確かに僕は行き詰っていた。部活にも行かずぶらぶらと、夜遅くに遠くの駅から自転車を盗んで帰って来れば誰だって不良になれる。自転車については幸いバレてはいなかったけれど、親からは色々と言われた。

 受験や、勉強だとかそういうのはまだいい。学生という肩書きを背負っている内は避けて通れない道だ。むしろ塾を隣の駅に選ぶ事で交通費を親からせしめる事が出来ると気付いた時は、学歴社会に謝辞すら述べてやりたいくらいだった。どうして最初からこうしなかったのだろうか。

 けれど、これまでの事を問い詰められた時に僕は閉口する外無く、そしてそんな自分が許せなかった。

 遊んだ、なんて絶対に言いたくもないし、わざわざ辻褄が合う様に悪い事を捏造するのもバカバカしい。かといって強情を張って答えずにいれば、他人は勝手に想像をあらぬ方向へと膨らませてしまうだろう。

 どうして大人は説明の付かない事を、そのままにしておいてくれないのか。電車に乗ったって、どこにも行かない奴は居る。そういう人は電車そのものが好きなのかも知れない。あまりによく電車に乗るのでそんな勘違いも一度や二度されたけれど、仮に好きだったとしても、好きな理由を人に説明出来るものなのか。

 とりあえずはそれも考えない様にする。少なくともバイトからは解放されたし、これからは塾という大義名分を背負って堂々と彼女に会いに行けるのだから。ああ、自転車だって盗まなくていい。

 いっそ浪人でもしてしまおうか。僕はそこまで本気で計画していた。


 そんなある日、僕の望む奇跡は起きた。

 いや、奇跡とするにはあまりに不謹慎かも知れないが、それは到底僕の与り知る事ではない。ぐわん、と一瞬宙に浮く嫌な感触がしたかと思うと、いつもの電車はトンネルの半ばで急停止していた。

 車内アナウンスからしばし遅れてざわめき始める乗客の中でさえ、僕は慌てふためくよりも先に奇跡を感じていたけれど、彼女は自分の時の事を思い出してしまったのか、強く唇を噛んでいる。

「お・し・さ・ん・か……」

「大丈夫、落ち着いて」と僕は紙を貼り出した。

 そんな事より、神様が与えてくれたとしか思えないこの大切な時間を、少しでも有意義に使いたかった。生き急ぐ人達の怒号が鬱陶しかったけれど、それを差し引いてもチャンスだ。いつもの味気ない一問一答なんか止めて、三分では話し切れない様な事を好きなだけ、思いっきり話そう。

 そう決めて塾で使う筈だったノートを後ろから何枚も破ってやると、僕はペンを握り締めた。こういう時に限って何を言えばいいのかすんなり出て来ないのがもどかしかったが、それも一つの答えだな、と手を動かし始める。

「聞いてみたかった事ってある? どんな事でもいい」

 きっとたくさんあるに違いないと確信して、僕は紙を見せた。

 どんな些細な事でも、今なら時間を気にせず全部答えてあげられる。最低でも十分、上手く車輪にでも絡まっていれば一時間はこのままかも知れないのだから。

 彼女はまだおじさんの事が気になっているらしかったが、「気の毒だけど、見ちゃダメだ」と書かれた紙を見てこくりと頷いてみせた。

「と・こ・い・く・の」

 どこいくの、と。彼女の開いた口は確かにそう象っていた。

「どこにも行かないよ、ここにいる」

 しかし彼女は首をふるふると振ると、窓枠を指差した。どうやら電車、と言いたいらしかった。やはり電車に乗るからには、どこかへ行くものなのだと彼女も思っているのだろう。

 僕は紙の端に「塾」とだけ手早く書いた。今度のは嘘じゃない。

「ま・に・あ・う?」と彼女は心配そうに首を傾げた。

「大丈夫。振り替えもあるから」実際はどうか知らなかったが、少なくとも僕の責任によるところではないから、大丈夫だろう。

「た・い・か・く?」

 これには悩んだ。退学、ではなくて多分大学なのだろうけれど、いずれにせよ答えに窮する質問だった。

 正直、僕は何も考えていなかった。浪人するにしてもするならばいつかは大学に行かなければならないし、地元でこのまま就職するなら塾は行ってもしょうがない。ここは適当にでも、頷いておくしかなかった。

 ……もっと他に話すべき事はあるのに。

 僕は強くそう思ったが、彼女の興味深げな表情を目の当たりにすると変に話題を切り替えるのも少し抵抗があった。彼女は興奮したのか、少々早口めに喋った。

「とうきょう?」

「どうかな。そんな頭良くないし」

 僕は何度か行った東京についてあまりいいイメージを持っていなかったけれど、中学生の女子にとってはやはり憧れの地なのだろうか。原宿、渋谷、新宿。そう言えば、彼女は修学旅行にも行っていないのだ。

「とうきょう、いいな」

「そうでもないよ、多分」

「いいよ。せったいいい。いかないの?」

 まるでとっとと行って欲しいみたいな言い方に、僕は少し傷ついた。

「僕が居なかったらどうするの?」

 書きながら自分でも、蝶の羽を毟っているという自覚はしていた。

 人間は誰かから知覚されているからこそ人間でいられるのだ。もし世界中の人々が結託して誰かを無視したら、その人はいとも簡単にこの世から消えるだろう。昔、そんな妄想をした事がある。

 つまるところ、僕は彼女に二度死ねと言ったのに等しかった。それなのに、彼女は手を振って気丈に笑ってみせるのだ。

「きにしないて。おうえんしてる」と。

 僕はまた一つ自分の愚かさを思い知った。

 彼女と違って、僕はいつだって僕の事しか考えて来なかった。かわいそうな彼女の為にと、他の事にありったけの免罪符を貼り付けては封印してきた。でもそれは、逃げ回る為の言い訳に過ぎなかったのだ。

「と・う・し・た・の……?」

 気付けば、両の頬を止め処なく涙が伝っていた。

 心配そうに見つめる彼女に宛てて「大丈夫、大丈夫」と紙に書くけれど、筆跡が書いた先からどんどん滲んでしまう。その度に「大丈夫」の数を増やしては、また次々と消えていった。どうやら僕は、文章書きには向いていないらしい。

 彼女も哀しそうな顔をしながら、車両の先頭を向いて口を動かした。

「あの人も、誰かに気付いてもらえるといいね」

 おぼろげな記憶の中にある彼女の声で、そう聞こえた気がした。


 それからというものの、僕はとりあえず塾には行く様になった。

 もちろん乗るのは相変わらずあの電車だ。前よりも僕は自分について喋る様になっていた。あれだけ嫌だった塾でも悪友が出来たし、彼女は僕らのしでかした馬鹿話にも笑ってくれた。

「きょうもかんはってね」

 人は変わっていく。否が応にもそう気付かせてくれたのは、いつまでも変わらない彼女だった。もともと時間を余らせていた僕は彼女のエールを背中で受けて、それなりに勉強する様になった。

 出来ない人の分まで代わりにやるなんて、これまでそんな事は無意味だと思っていたけれど、やってみると決して悪い事では無いのが解る。

 二人で笑って過ごした最後の一年間が、何よりの証拠だ。


 高校三年の三月、遂にその日はやって来ようとしていた。

 荷物を粗方ダンボールに詰め終えて、驚くほどがらんとしてしまった自分の部屋を前に、僕はしばし立ち尽くしていた。まるで僕の気持ちをそっくりそのまま代弁しているかの様で、居住まいが悪かった。

 明日、僕は東京へと向かう電車に乗る。晴れて大学生になれたこの春からは、遠く見知らぬ地へ行き、独りで暮らすのだ。

 東京以外に住む人が東京へ行く事は多いけれど、その逆は極端に少なくなると、誰かから聞かされた記憶がある。全て承知の上で抜けられない罠にでも引っ掛かりに行く様な、妙な気持ちになってしまう。一度決めた事とは言え、彼女の顔を思い出せば思い出すほどに気持ちが揺らいでいくのが判った。

 それでも僕は、前へと踏み出さなければならない。

 僕は結局一晩中、最後の三分間にだけ思いを馳せ続けた。


 午後四時二十三分。これから僕は、この特急電車で街を発つ。

 いつもの様に二駅の間を行って戻って来る様な、単純な話ではない。もしかしたら、二度と帰って来ない事だって有り得るのだ。

 車窓を走って行くつまらない街も、今度こそ不可逆の流れにいる。随分と生意気な事を言ったという自覚もあったけれど、それでも彼女を殺して閉じ込めたロクでもない所だと。今はそう思う事にした。

 そんな景色もすぐ闇に消える。彼女は最後まで変わらぬ姿で、鏡映しの座席にちょこんと腰掛けていた。合格した次の日には入学案内をこっそりと持ち出して彼女に見せたけれど、その時の嬉しそうな顔を、僕はこの先一生忘れられそうに無い。

「行って来る」

 僕は予めそう書き込んであったポストイットを一つ、窓に貼り付けた。

 今度は比喩じゃなくて、ぴらぴらとガラス面にぶら下がったままだった。弱粘性ですぐに剥がれてしまう代物だ。これくらいの悪戯を、今日は、今日だけは許して欲しい。

 彼女は黙って頷いた。それがどういう事かは、とうに説明して解っている筈だ。それなのに、僕も彼女も早速涙ぐんでいた。

「カッコ悪いな、僕」

 もしもの時の為に書いておいたものだったけれど、彼女は困った様に笑ってみせただけで否定はしてくれなかった。仕方が無いなと、僕も無理をして少しでも笑っておいた。

「大丈夫だよ。何も怖くないよ」

 ガラスが細かく震えたのを聞き、錯覚したのだろうか。彼女の唇に合わせてそう音が鳴った様に感じたのだ。

 車内を見回しても、今日は同じ車両に誰も居ない。悪いと思いながらも窓に口と顎を密着させると、彼女はその上にそっと唇を重ねてきた。

 ……そういうつもりじゃなかったんだけど……なんて言い訳する時間も惜しい。僕はそのまま大声で話し始めた。

「ありがとう! 絶対、絶対戻って来るから!」

 僕はすぐに耳を着けた。すると、やはり聞こえて来るのだった。

「うん! その時は東京の話、いっぱいしてね! 約束だよ!」

「約束する! 君も、必ずここに居てくれよ!」

 奇跡には多面性がある事を、僕は今始めて知った。起きてしまったものとまだ起こっていないものの狭間、つまりこの瞬間にこそ輝くものがある。そして、僕らはこの瞬間と瞬間が連なり合った、連続の間に生きているという事。そう思えば思うほど、僕は周りにも構わず叫び続けた。

「君の事が好きだった!」

「知ってる! ごめんね、気付くのが遅くて……」

 彼女の泣き顔を最期に、あの暖かかった三分間の闇が次第に裂けていく。これからは冷たく鋭い光の中を僕は駆けて行かなければならない。

 いつも言いかけていた彼女の言葉が、最後の最後でやっと判った。

「いってらっしゃい」

「ああ、行って来ます」

 僕と彼女は確かにそう言葉を交わした。

 水面に照り返した夕陽が、窓に映る彼女の輪郭をいつまでも僕の目に焼き付けていた。

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