第10話
「二人は、戻ってきてから一緒にいること多くなったよね?」
「ああ、そうだな」
周知の事実の再確認に何の意味があるのか。いや、本当は分かっている。だけどそこまで踏み込んでくるのならば俺は。
「そのこと自体は、永野君に話し相手が増えたのは良いことなんだけど。でも、時々教室に帰ってきたら様子がおかしい時がある……よね」
「そうかな?」
とぼけるという行為は誰しも経験したことがあるだろう。胸の中に悪魔が宿る感覚だ。最も身近な裏切りの種子。
「……今朝は、自転車乗れたでしょ?」
「今だって乗れる。これは一日動き回って痛み出しただけだ」
「うそだよ、そんなの」
絞り出すような否定の言葉だった。人の言うことなら何でも信じると思っていたけれど、水上もやはり普通の人間だったようだ。
「気のせいだよ」
「私、永野君の体のどこに異変があったか一つ一つ覚えているの。今日は頬と左足。二日前は腰と小指、その前は――」
「元々俺は全身傷だらけなんだよ。どっかを庇って行動してれば代わりにどっかが痛みだすもんだ」
実際傷だらけなのは間違いない。監禁中に受けた暴行は主に殴打が多かったが、きつくはめられていた手錠の擦傷とか、逃走の際に裸足で逃げたので足元も血だらけになっていたりもした。
しかし、実際のところ目に見える傷はほとんどが塞がっている。だから本当は包帯や絆創膏も取れても良い頃なのだが、事件後も少しずつ傷を負い続けているので、そのまま巻いていた方が傷が目立たないのだ。
……そういうところも含めて、水上は俺の様子を観察していたのか。まったくお人好しが過ぎる。絶対に損な役回りだ。
思えば最初に会ったときも、こいつは俺のことを気にかけていた。俺は人生を死ぬために生きていると考えているので、大抵のことは死へと通じる道だと思い受け入れられる。そのために多くのことに鈍感で無頓着で、だから孤独でいることが多かった。
いわゆる悟り系男子の悪い方向に進化を遂げたのが俺なのだ。この退廃的な思想はデカダンスという主義に分類されるらしい。とにかく固執せず、生を憂いている。
俺がこういうことを散々彼女に言い続けてきたにも関わらず、水上は今日まで俺の傍を離れなかった。普通はあんな説法の対極のようなことを毎日語られたら会うのが嫌になるはずなのに、その幼稚さ(と俺は判断した)にあきれ返ったこともある。
――それで結局一年を共にして、周りにもセットものように思われるようになってしまった。あの事件が無ければ今もそうした関係が続いていたのかもしれない。
でも、もうそんな生活には戻れない。俺は一条を元のかたちに戻してあげなければならない。そして俺たちはあの男の影に付きまとわれなければならず、何よりもお前を昔のように見ることができない。
この辺りは街灯もまばらで女の子が一人で歩いていると不安な場所なので、水上たちから離れるのは気が引けた。ただその一方で、この話はここでしっかり線引きをしておきたいとも思っている。
俺は覚悟を決めた。
「水上、お前一人で何でも助けることはできないんだ」
「え?」
俺は立ち止まった。そうすることで左足の痛みは治まるし、面と向かって水上と話せる。そしてこの後、お互いに別々に歩みだすための区切りとなる。
「俺は誘拐され、監禁され暴行されて、もうお前と同じ道を歩むことはできない。それを感じ取って今もこうして連れ添ってくれているなら、お前もいずれ俺みたいになってしまう」
「――っ」
「学校での暮らし方を指図する気はないが、少なくとも俺と距離を置けばもっと楽しい高校生活を送ることができる。これは間違いない」
何かを言おうとした水上を制して俺は言葉を続ける。ここまでは俺が水上を気遣っているとように思えるだろう。でも、それだけでは駄目なのだ。自分のために距離を置こうとしていると水上が知れば、純粋なこいつは更に介入してくるようになるだろう。昼休みのやり取りで俺はそう悟った。
「……そんなの、永野君が決めることじゃないよ」
「そうだな。お前にはまだ見えていないから判断に迷うところがあるのかもしれない」
「うん、見せてくれないことがあるから離れないよ」
あの時の、昼休みに俺のに殴られることを覚悟したときの目を水上はしていた。その輝きを直視できないと思ったが、心の決まった今はとても美しいものに見えた。
でも、お前に見つめられている限り俺に、いや、ここにいる全員には破滅の未来しかない。それでも寄り添っていれば幸せだんて、そんな歪な心の強さは、俺には無い。
だから、お前を絶望に突き落としてやるしかない。
「なら、教えてやるよ。その代わり約束だ。誰にも言うな」
「……うん」
俺は一条を見る。今まで蚊帳の外だった彼女にも関わることだからだ。当の本人は目をつぶって腕組みをしていた。心情はうかがい知れないが、暴れるような気配はないのでこのままにしておこう。
そうして俺は、自分の中に残っていた常識とかちっぽけな倫理観とかを、捨てた。
「一条は、俺の言いなりなんだよ」
「―――――」
その時、俺は人の瞳から希望が消え去る瞬間を見た。未熟な水上でも連想できうる地獄を用意したつもりだったから、それは当然の反応だった。
「監禁されていたとき、犯人の男に一条が犯されているのを見て、俺の中で何かが壊れたんだ。背徳感っていうか、俺みたいな日陰者が一条みたいな高嶺の花を征服したい気持ち分かるか?
これってあの監禁犯と同じ気持ちだと思うんだ」
実際は一条に肉体的被害はなかった。犯人は一条を椅子に縛り付け、その目の前で俺に暴力を振るうことを日課としていた。それはまるで何か見世物のような様相で、一条に特等席を用意しているかのようだった。
ただ、あの時の一条の様子が違っていれば、俺はこんなにも彼女を守ろうなんて気は起きなかったかもしれない。
俺は尚も話を続ける。
「最後の日、本当は俺一人であの地獄から逃げ出すつもりだった。でもこいつがあまりにも醜く助けを乞うから条件付きで連れて行ってやることにした」
「……」
「提示したのは俺に隷属するという条件だ。最初は驚いてこちらを罵倒してきたが、自分の汚らしい身なりをみて最後は折れた」
「あとは今お前がしている想像通りさ。まだ癒えていない傷を引きずって無理やり復学させ、そして――」
「……もう、いいです」
聞いていられなくなったのか、水上から制止される。まだ俺の傷の下りに関しての説明ができていないのだが……。
水上は肩を震わせながら下を向いていた。飛び込んできた情報を頭が上手く処理できていないかのようで、少し壊れた機械のようにすら見え、とても痛々しかった。
一条は普段と変わらなかった。先ほどと比べて目こそ開けど無表情で事の成り行きを見守っている。本当は辛そうにしてくれていると俺の話の信ぴょう性が増すのだが、彼女にも迷惑のかかっている話なので何も言えない。
「一条に気が向かないようにSM紛いのことをしてカモフラージュしてきたのだけど、少しやりすぎだった。今後は必要最低限に抑える」
「……」
「教員に告発しに行ってもいいが、その後の一条の居場所についても考えてやってほしい」
遠まわしに暗黙のルールを用いて釘を刺す。女子にとって、その体が散々凌辱されていたと周知になれば、最悪一条が自身の命を絶ってしまう危険性まである。仮にその部分を外部に漏れないよう条件をつけたとしても、マスコミやインターネットによる追及は免れない。
それしても気になることがある。俺自身のことだ。俺の喋り方は演技なのだが、それにしても自分で話していて違和感しかない。もっと自然に話せると思ったのに、どうして……。
「……せめてもの慈悲で、この関係も卒業までと約束している」
一瞬だけ自分のことに気を取られて間が空いてしまった。最後の詰めのセリフを慌てて口にする。
「だから、もう卒業まで首を突っ込んでくるな」
「……分かりました」
聞きだせるか不安だった同意の言葉は、意外に容易に聞きだすことができた。しかし、上手くいったのだろうか?
俺のした話は、客観的にみればまったく一貫性のない虚言である。しかし、監禁事件という異質さと、それによって歪になった学校での人間関係がその曖昧さを闇で覆ってくれている。
そして何より、俺の話に一条が口を挟んでこないというこの状況。水上を除いてここに正常な人間がいないことが事態を決定的にしている。
”普通の人間が俺たちに関わるな”
それは驕りなどではなく、むしろ相手への気遣いと諦観の情がある。俺たちと水上とでは絶望的なまでに世界が分断されてしまっているのだと実感させられるのだ。
それは純真な者、正しい者ほど心に刺さり、こちらへの歩みを躊躇わせる。そして一度止まった足は二度とこちらへ踏み込んでくることはない。
「……それだけだ。じゃあな」
最後に脅し文句を言うだとか、逆に詫びを入れるだとか、そういうやりとりは蛇足でしかない。相手には俺の言葉が効いていて、頭の中には自分の足場がぐらついていることへの恐怖しか残っていない。冷たく突き離してそれでお終い。
別にこれ以上口にすれば気持ちが変わってしまいそうだからとかではない。
――案の定、水上は追いかけてはこない。その場に縫い付けられたかのように立ち尽くしている。近くにはコインランドリーがあり見通しは良いので、ここでなら別れても不安はないだろう。
はあ、とため息が自然と漏れる。疲れたのだろうか。こんなこと何でもないと思っていたのに。
「…………」
……とりあえず、これで水上とは縁を切れるはずだ。俺もあいつとのことは忘れる……忘れるのが、礼儀だ。
ため息をついたとたん、急に夜の寒さが体に染み入ってきた。思わず、両肩を搔き抱く。
「…………」
いや、だってそうだろ。あいつが他の友達と仲良くしているところに、俺だけがこの一年間の思い出を胸に残しているなんて、そんなの迷惑だ。
「…………」
あれだけ自分を貶めたんだ。高校生で性的倒錯者なんてどう繕っても関係は破綻するしかない。というか学校にいられないかもな。仮に嘘を看破されたとして、あれほどの人権を無視した戯言を空ぶいて、一体誰が許してくれる?
「…………」
そもそも、何が悪かったんだ。俺にとって距離を取ることと守ることは同じ意味を持つ。水上を守るために関係を断ち、一条をこちらへ来させないためにこの身を捧げた。悪いことなんて何もないじゃないか。
「こんなの……」
「歯、食いしばりなさい」
急に背後から声がして、驚いて振り返ると同時に思いきり顔面を殴られた。
顔の器官が全て内側にめり込んだかのような衝撃のあと、天地がひっくり返り、雲がカビのように浸食した空が視界全面に飛び込んできた。
「え……なに」
ぶっ倒れたことは分かったがその原因が分からない。後頭部と左頬にじわじわと焼きごてでも当てられたかのような猛烈な痛み。何か見た気がするのだが。
「そのまましばらく寝てなさい。無理に起きようとしたら今度は蹴る」
その物騒な物言いでようやく気づく。ああ、一条の奴、ついて来ていたのか。
途切れていた糸が一気に繋がる。俺は水上と別れて、周りの状況すら把握できないほどに自分の内側に没頭していた。そして心の声ですら他人の言葉みたいに感じていた。
守ることと遠ざけることが同義だと俺は言ったが、正確には等しくなんかなかった。大切なのは結果だ。何かが終わったとき、遠くに行って安心するか、守ることができて安息できるか。
それはつまり、最終的な到達点として俺は彼女のことを……。
「……いったぁ」
「いや、それ俺のセリフだよな」
「あたしだって人を殴るのは初めてだったんだから」
「あ? 叙述トリック? 殴ったことはないけど叩いたり縛り付けたり汚したり辱めたりは日常茶飯事ですっていう……っ」
そこまでまくし立てたところで股間にトーキックが入り、声も出せずに悶絶する。神様助けて。
「とにかく、殴られた理由は分かっているわね?」
「……分かりません」
次は尻にトーキックが決められた。先ほどの変態大演説に引けを取らないみすぼらしさを俺は発揮していた。
それにしても、今まで黙っていたくせになんなんだこいつ。
「今のあたしは自分がまだ分からない。あまり他人に気も使えないし、頭の回転も鈍いの。だから下手に話してあなたの計画をぶち壊したくなかった」
「ああ、それはありがとう」
「……でも、あたしは鏡君を殴らないといけない。だってこれでもう、あなたを傷つけられるのはあたしだけになってしまったのだから」
…………。
俺は、傷つけるという行為に負の感情以外の感情なんてあるのだろうかと気になった。少なくともあの監禁犯にはそんな情はなかったはずだ。
地面に大の字になりながら、それでは一条の今日までの行為はどうであったかと考えてみる。
「それで、殴られた理由は分かったかしら?」
「…………いや、少し待ってよ」
俺の思考の展開はトーキックの恐怖によって中断された。えーと、一条が俺を殴る理由。一条が怒る理由か。
「ん、いや、でもな……」
「なに? 言ってみて」
「嘘でも、非処女だって思われたこ――」
まるで鉄槌のような激しい踏みつけが俺の腹部を襲った。目玉が飛び出るかと思ったし、涙は流れていたかもしれない。
「最低。一生彼女とかできないんじゃないの?」
「…………すみませんでした」
口に血の気配すらこみ上げてくる状態で、俺は混濁した意識のなか、星に焦点を合わせていた。
「一人だけ、守れていないのよ」
「え?」
俺と星々との間に割り入ってくる一条。鼻は赤く、手は所在無げ。そして俺の両足を跨いで立ち、こちらを見下ろすその顔は初めて見る顔だった。
「一人だけ、守れていない」
一条はそのまま腰を下ろし、地面に膝をつきながら俺の上半身を起き上がらせる。俺は心と体が悲鳴をあげていて抵抗できなかった。
「その一人を守りたいの――」
抱き上げられた体が誰かに包まれて、俺はようやく先ほどの答えを見つけた。
そういえば、一条に傷つけられた後は、いつもこうして抱きしめられていた。
哀しみや慈しみがごちゃ混ぜになって、俺は生まれて初めて、人前で声を出して泣いた。
第一章「遠ざけて泣いて守られて」完
続
奪われて泣いて抗って 井草結城 @rememba
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