君の名前

水嶋 祐哉

君の名前

 五年前に日本を襲った超巨大地震、その地震で大勢の人が亡くなった。日本の首都東京は壊滅状況となり、翌年の元旦日本の首都は東京から京都に移された。

 東京に住んでいた僕たち家族も当然、超巨大地震の影響を受けた。地震発生時刻、僕は中学校の部活で汗水たらしていた。すぐそこに迫っていた三年生最後の大会インターミドル、僕は二年生ながらその微力を貸すことになっていた。僕は幼い頃からバスケをやっており、僕の通う小さな中学校でもその力は大いに通じた。実力主義だった部活は、僕の力を心よく受け入れ、先輩も後輩の僕に抜かれないように練習から真剣になり、インターミドルへはかなりいい状態で向かっていた。しかし、その熱気は一つの出来事で全てが消え去る。

 部活中に地震に襲われた僕は、顧問や学校の先生の指示で避難場所まで逃げた。当然その時はパニックだったし、自分でも何をしていいかわからなかった。天井から落ちて来た電灯で足がつぶされたり、身動きが出来ない仲間が大勢いた。もちろん助けようとする人もいたが、大半はパニック状態でそれに構う余裕がなかった。僕もその中の一人だった……。

 学校の校庭には大勢の生徒がいた。いや、学校関係者以外にも近くに住んでいるであろう人が大勢押し寄せる。当然小さな学校の校庭には収まりきらず、道路にも避難してきた人は溢れていた。大きな悲鳴の中にはわが子を探す声や、両親を探す声も混じっていた。

僕の家族は両親のほかに、兄が一人いた。父親はIT企業に勤めており、家からは車で通勤。母親は、近くのスーパーでパートをしている。三つ上の兄は電車で一時間ほど離れた高校に通っていた。兄は僕が悪さをして両親に怒られていると、いつも助けてくれた。勉強が出来なくて困っていた僕に簡単に教えて、自分のことより常に僕のことを考えてくれていた兄のことが僕は大好きだった。しかし、超巨大地震で東京はおろか、関東圏の交通網は完全に麻痺していた。僕は校庭に大勢の人が集まる中を抜け、家に向かう。帰る途中には塀が崩れていたり、電柱が倒れていたり、家が崩壊していたりと散々な光景だったが、僕の中には家に帰れば誰かいるという期待があった。しかし、その期待は無残にも破られることとなる。そう、僕の家も崩れて原型がなくなっていたのだ。僕は慌てて家に近づき、両親と兄を呼んだ。しかし、返事は返って来ない。

 崩れて原型のなくなった家の周りを何周かしている間に、母親の働いているスーパーに行くことにした。もしかしたら家に帰っていなかったかもしれないし、勤務時間だったかもしれないと希望にすがる思いだったのだ。しかし、スーパーもひどい有様だった。頻繁に来ていたわけではないが、店内の棚は全て倒れ、蛍光灯は割れ、足の踏み場もない。店の人だろうか、青いエプロンをした女性がいたので「お母さん、伊藤光代は知らないか」と尋ねると、「今日はもう帰りました」とぶっきらぼうに答えられた。女性はあたりをきょろきょろとしきりに見渡していて、僕に構っている暇はないのだと感じた。

 結局母親を見つけることもできず、僕は中学校に戻る。中学校には僕がいない約三十分の間にさらに多くの人が押し寄せていた。僕はその人たちの間をするすると抜け、仲間のいるもとに向かった。一年と四か月通った中学校は、もう僕の知っているところではない。校舎も体育館も、校庭すら形を変えて僕を迎え入れる。たった一つの地震で、こんなにも街は、人は変わってしまうのだ。

 地震発生から何時間たっただろうか。僕がいる中学校は明かりもなく、ただ暗闇に大勢の人が群がっているだけだった。ちらほら見える小さな明かりもいつまでもつかわからない。今日はずっとこの暗闇の中で過ごさないといけないのかもしれない。

「こちらは陸上自衛隊、物資の提供に来た。こちらに一列で並び、食料をもらってください」

 突然校門の方から大きな声と、眩しいライトの明かりが辺りを照らす。その声で大勢の人がそちらを向くが、身長が低い中学生の僕には何が起こっているかわからない。しかし、「おお、自衛隊が来てくれた」「これで安心だ」という声を聞く限り、今の状況よりは良いことが起っているのだろうと思った。

 突然の声から十分くらい経つと、だんだん人混みがある方向に流れていることがわかった。それは校門の方で、希望に満ちた声も聞こえる。一時間ほど人混みに流されると、大きな車と迷彩服を着た大人が十数人立っていた。彼らはなんだかものを渡しているみたいで、それをもらった人は嬉しそうに見えた。配られているのがパンと水とわかったころには僕が自衛隊員の前まで来ていた。僕は何も言わずに両手を差し出す。が、僕に渡されたのはパンでも水でもなく、憐みの顔だった。

「申し訳ない。もう食料が底をついてしまったんだ……。なんたって人口の多い関東圏すべてに物資の提供をしているんだ。本当にすまない……」

 僕はみんながもらっているものをもらえないことがわかると、その場からすぐに立ち去った。当然僕の後ろにも何人か人が並んでいたわけだが、その人たちはものすごい罵声を自衛隊員に浴びせている。

 僕は周りの人から食料を分けてもらおうと考えた。どうせ限られている物資なのだから、その決まった数を全員で分ければいいのだと思うのだ。

「あの、パンと水、少し分けてもらえませんか?」

 僕は近くでパンを食べていた大人に声をかける。その人は自衛隊からもらったパンを大事そうに抱えながら食べていた。

「もらえなかったのか? しょうがない、半分やるよ」

 その人は心よく僕にパンを半分分けてくれた。ペットボトルの水も二人で分け合い、その人は本当にいい人に思う。

「お兄さん、優しいですね」

「いや、そんなことないよ。みんなで助け合って生きる、それは当たり前のことだろ?」

 僕はその人の目を見ながら話すと、彼も僕の目を真剣に見ながら返してきた。

「そうですね……、貴重な食料ありがとうございました」

「気にするな、また何かあったら俺のところに来るといいさ。力になれるかはわからないけど、一緒に考えることくらいは出来るだろ」

「はい、その時はお願いします」

 そう言って僕は心よくパンを分けてくれた人のそばから立ち去る。今が何時かわからないが、疲労がピークに達していて軽く目を閉じると海の底に落ちるように眠ってしまった。

 次の日、僕は朝日が昇るとともに起きた。昨日は疲れがたまっていて、学校のグランドに何も敷かずに寝てしまったようだ。一夜たった今日も学校は大勢の人で溢れかえっていて、今から数時間前に地震があったことを思い出させる。ほとんどの人がもうこの時間に起きていて、もしかしたら寝ていない人も大勢いたかもしれない。普通に考えればこの状況で寝られる方がおかしいのだ。

 声の雑音がやむことはなく、だんだん昨日物資を運んで来てくれた自衛隊や、国の悪口が飛び交うようになった。「日本のトップがしっかりしてない」だの、「自衛隊は自分たちを助けるためのものではないのか」などもう聞きたくないような言葉しか発していなかった。それを二時間も聞いていた僕は、もう日本は終わったのだと悟る。そして一人でもいいからこの場を離れて遠くに行こうと決心した。もちろん仲間にも声をかけたが、親を探す、そんな危険なことは出来ないなどと言われて断られてしまった。

 僕はもう一度家に帰ってみる。もしかしたら家族の誰かが帰ってきているかもしれない。昨日と同じ道を歩き、僕は家に向かう。しかし、家についても誰かが待っているということはなかった。そして、僕は原型をなくしてつぶれている家を後にして震災の被害が少ない関西へと向かって歩き出した。

「お兄、どこ?」

 僕は十五分ほど歩いてからそんな声が聞こえた。弱くか細く、今にも消えそうな声だ。

「お兄、どこにいるの?」

 今にも泣きだしそうなその声は、必死に自分の兄を探しているようだった。ふと辺りを見渡してみると、小さな女の子がしゃがんで瓦礫の下をのぞき込んでいる。

「ねえ君、何をしているの?」

 僕はその少女に声をかける。

「お兄を探しているの。昨日までずっとそばにいたのに、急にいなくなっちゃったの」

 少女の悲痛な叫びが僕の心の奥深くまで響いた気がした。

「お兄ちゃんの特徴は? 一緒に探すよ?」

「特徴? わかんない……。お兄は……」

 少女は両手で交互に頭を叩いているが、兄の特徴は思い出せないらしい。

「じゃあ君の名前はなんて言うのかな?」

「わたし? わたしは、えっと……」

 少女はまたしても黙りこんでしまう。もし僕の通っていた小学校や中学校に通っていたらわかるかもしれないと思ったが、それもだめだったらしい。

「そっか。無理に思い出さなくても大丈夫だよ。そのうち自然と思い出せるはずさ」

 そして僕は少女と二人で彼女の兄を探すことにした。手がかりは何もないのでとにかく探してみる以外の選択肢はない。

「この辺はだいぶ探してみたけど見つからなかったよ。あの時は一緒にいたんだよね?」

「あの時? あの、とき……。あ、の、と、き……」

 バタンッと突然少女は倒れ込み、僕はすぐさま駆けつける。

「お、おい、大丈夫? どうしたの?」

 しかし返事が返ってくることはない。そういえば初めて会った時もすでにふらふらだったかもしれない。僕は彼女の兄を探すのに必死で彼女のことを全く気にかけていなかった。もし昨日からずっと探していたのなら、疲労も溜まっているはずだ。今はそっとしておくのが良いのかもしれないと思い、僕は彼女をそっと隅に寝かせた。

 僕は彼女が気を失っている間に彼女が見える範囲内で捜索を続けていた。しかし、見つかるのは瓦礫に挟まれて身動きの取れなくなったであろう人の足や手などしかなかった。見つけるたびに声をかけるが、返事が返ってきたのは一度もない。それを見るたびに昨日の地震の恐ろしさとともに、自分の家族のことが心配になった。両親や兄がこんな風になっていたらと考えると……、いや大丈夫だ。僕の家族は全員生きている、今は離れ離れになっているけどいつかきっとまた会える日が来ると考えるようにしていた。そうでもしなければ僕の自我がどうかしてしまいそうだったのだ。

 やっと彼女が起きると、僕はこの辺をくまなく探したがいなかったと伝えた。本当の意味は、この辺りに生存者はいなかったという意味だが、それは自分の心の中にとどめておく。

「君はこれからどうする?」

「わたし? わかんない」

 僕は早くこの街から抜け出したい理由がある。パンを分けてくれたお兄さんのように良い人もいるが、この混乱で頭が完全にパンクしている人も大勢いる。そんな中にずっといたら僕まで頭がおかしくなってしまいそうだったから早くこの街を出たかった。

「僕はこれから関西の方に向かおうと思うけど」

「わたしは、どうすればいい?」

 僕に決める権利はどこにもないことは重々承知の上だ。しかし、彼女を見ているとなんだかほっておくことが出来ない。

「じゃあ僕と一緒に来なよ。つらい旅にはなるけど、この街にいるよりかは良いと思うよ」

 これはあくまでも僕の主観であり、実際にそうだとは限らない。しかし、現状況を見る限りはそれがベストな判断だと思うのだ。

「わかった。ついていく」

 少女は僕の手を握ってきた。それを僕もギュッと握り返して歩き始める。僕たちの生活をめちゃくちゃにした超巨大地震。今までの生活は一瞬でなくなり、隠れていた人間の本性がむき出しになる。一つの出来事が起こした悲劇。それに対して僕たち人間は多くの犠牲と人間性を失うことで乗り越えようとしていた。


「なあ、自分の名前くらい思い出せたか?」

 僕と少女はあちらこちらに転がっている瓦礫を避けたり、乗り越えながら歩いていた。僕の右手は少女の左手をギュッと握っていて、彼女もそれを握り返している。

「思い出せない」

 彼女は首を左右に振りながら僕の質問に答えた。

「そうか、思い出せないか。なら仕方ない。君もずっと『君』とか『ねえ』じゃ嫌だろ? 仮でも名前を付けよう」

「わたし、なんでもいい……」

 僕の話には興味ないのかそれとも本当にどうでもいいと思っているかはわからない。しかし、僕がずっと名前で呼ばないのは違うと思って提案したのだ。名前がないのは人間として扱われてないのと同じように僕は感じる。だから僕が彼女のことを名前で呼びたかったのだ。

「どうしよっか……っとその前に、まだ僕の名前教えてなかったね。僕は伊藤傑っていうんだ」

「ふーん」

 やっぱり僕の話には興味ないのかな。返事も雑だし、第一顔すら見てくれない。もしかして嫌われているのも。

「あはは……。じゃあ今度は君の番だけど、どうしよう」

 彼女は僕の話などどうでもいいというように握っていた手をふりほどき、スタスタと歩いていく。つい最近までしっかりと舗装されていて、多くの車が通ったであろう道を。

「んー、何か好きなこととかないの?」

 何も記憶がないというのはなかなか大変なものだ。まだ僕が彼女を知っていないからマシなのかもしれないが、もし昔を知っていたら思い出を共有出来なくなってしまうのだ。

 彼女はまたしても無言。何かを考えているのかもしれないが、その背中からは何の意志も感じられない。

「これは困ったな。本当にどうしよう」

 僕は独り言のようにつぶやき、少し空を見ながら歩いた。

「おし、決めた。君はこれから『ミキ』だ」

 僕は彼女のことをずっと『ねえ』とか『君』と呼んでいた。そして『君』と言う言葉を反対に読んでみたのだ。自分としては情けない話だが、全く良い名前が浮かんでこなかったのだ。そして最終手段を使わせてもらった。

「……うん」

 小さな背中から返ってきた小さな返事。これでなんだか僕との距離が縮まったように感じた。

 ぐぅっとお腹が鳴る。僕たち二人は朝から何も食べずに関西に向けて歩いていた。道路標識にある『大阪』『京都』を目指してひたすら歩いていた。が、車や新幹線でもかなりの時間がかかるのに、人間の足だけでたどり着こうなんていまさらながら無謀だと思う。

「お腹減った」

 僕の後ろを歩くミキが小さな声で言った。服も地震の時から着替えることも出来ず、お風呂に入ることも出来ない。そして何より、食べるものもない。

「そうだね、どうしよう」

 中学校にあのまま残って居れば、自衛隊がまた来て食料を提供してくれるのだろう。しかし、僕は二度とあんな光景は見たくなかった。僕たちのような被災者のために頑張っている人に、助けられている人が罵声を浴びせるなんて信じられない。普段は隠れている人間の本性のようだった。

 ぐぅっと再びお腹が鳴る。さすがに丸一日何も食べていないと力が出ない。それにもう日もだいぶ沈んできている。今日はこれ以上進むのは大変だろう。

「あ、コンビニ……かな?」

 僕がそんなことを考えながら歩いていると、右手前方に屋根が抜け、つぶれているコンビニを発見した。辺りには様々なものが散乱している。雑誌やペットボトル、携帯の充電器や中身の飛び出したお菓子など実にいろいろだ。簡単に手を付けられる場所にはほとんど何も転がってないが、瓦礫をどかせば何とか今日を生き延びることは出来そうだ。

「おし、あそこに行くぞ。何か食べるものがあるかもしれない」

 僕はコンビニを指差してミキに言った。彼女は何も言わずにコクリと頷き、僕と一緒に数百メートル離れたコンビニを目指して歩き始めた。

「僕が何か食べるもの探すから待ってて」

 いくら食べるものがありそうとはいえ、ガラスの破片が散らばっている近くにミキを連れて行くことは出来ない。ミキには二十メートルくらい離れた場所で待機してもらった。

 天井が落ちて来た時の影響か、ガラスの破片はかなり広範囲に散らばっている。中心の方に行けば陳列するための棚がいっぱい倒れていて、とてもじゃないがこの中から食料を探すのは諦めようかと思ってしまう。しかし、僕たちは食べないと生き残ることは出来ない。本当だった万引きで捕まるような行為だが、今は緊急事態だから仕方ない。そもそも警察だってこんなことに構っている暇はないだろう。僕の良心が音を立てて崩れ去るようだったが、ガラスの破片が散らばる中、瓦礫や棚を押し上げて食べられそうなものを探す。瓦礫の重みでほとんどのものが潰れている。そんな中でもまだマシなものを見つけて僕はミキの元へと戻った。

「はいこれ、パンとジュースね。ちょっと潰れてるけど食べられると思うよ。まあそれにこんな事態だから諦めるしかないけどね」

 僕は苦笑いをしながら、少しばかりか完全に潰れてしまっているパンを渡す。これでもだいぶマシなものを選んできたつもりだ。他のものは袋が破れていたり、中身が完全に外に出てしまっているものばかりだったのだ。

「うん」

 ミキはそれだけ返事をしてパンの袋を開ける。見た目からしてイマイチなパンやジュースのことは何も言わない。それどころは会話すらしてくれない時もあるが、パンを食べているときの顔はありがとうって言っているみたいだった。

 ミキはパンを食べ終わると目がうつろになってきた。今日はかなり歩いたし疲れが溜まっているのだろう。僕は近くにある瓦礫をどけて、人が一人寝られるスペースを作った。

「ほら、ここ。ここで寝ていいよ」

 僕は優しい笑顔で言い、ミキはそこに身体を倒して横になる。そしてすぐに目を閉じて静かに呼吸しだした。

 僕はそれを見届けた後、自分の食料を探しにまたコンビニの方へ向かった。ミキには出来るだけいいものをあげたかったが、あれくらいのものしかなかった。僕のことは正直どうでも良い。でもミキのことは大切にしないといけない。昔からの知り合いでも、クラスの同級生でもないけど、なぜだかそう思ってしまう。

 ここから関西まではどれくらいかかるのだろう。想像もつかない。逆に今日一日でどれだけ歩いてきたのだろう。街が原型ととどめてないから何とも言えないけど、なんだか知っているところのような気がする。僕は結構活発で、遠くまで自転車で出かけることをしていたので、自分の住んでいる街くらいなら大体わかる。ってことはまだ僕たちは全然進んでないってことになるな。自転車で行けるくらいの距離しか進めてないのだ。これは……、先が思いやられる。

「ん……」

僕はいつの間にか寝てしまっていたらしい。僕が起きると、手から昨日探し集めた食料とその他の生活用品が転がっていた。生活用品と言っても、単に使えそうなものを集めただけだった。簡単な袋や懐中電灯など必要最低限のもの以外何もない。

「あれ、ミキは?」

 僕は昨日ミキが寝たはずの方を見たが、そこにミキの姿はなかった。僕はハッと起き上がり、辺りを見渡した。すると少し遠くに小さな影を発見する。

「ミキ、そんなところで何やってるんだ?」

 僕は朝一で声が出ない中、遠くにいるミキに話しかけた。しかし、ミキからの返事はなく仕方なく僕がそこまで行くことにした。

「ねえ、何やってるの?」

 僕の足音に気づいてかミキが僕の方を振り返ったが、何もしゃべらずただ振り返るだけだった。僕はそれを見て「そう」とだけ言った。僕とミキの間にはまだ大きな壁があるのかもしれない。積極的に話しかけても返事が返って来る確率は低い。でも少しは考えていることがわかってきたような気がする。

「ほらこれ、今日の朝食分な」

 僕は手提げ袋の中からおにぎりを二つ取り出した。見つけたのは合計十八個。そのうち十個は潰れていて、昨日の夜に僕が二つ食べた。実際二つじゃ食べ盛りの僕には全然足りないが、どこでまた食料を見つけることが出来るかわからないため残しておくのは重要なことだった。そして僕も潰れているおにぎりを二つ、手に取って食べる。

「食べるものはおにぎりがあと十二個、パンが五つにお菓子が三袋。飲み物はペットボトルが三つしかなかったよ。これで何とか次の食料調達まで乗り切るしかないね」

 食べられないものを含めれば数えきれないほどのものが散乱しているのだが、人が食べるものとなるとそれなりの状態を保っていないといけない。そして選ばれたのが袋に入っているこれらのものだった。ミキは何食わぬ顔でおにぎりをほおばっているが、本心はどうかわからない。今は僕の言うことだけ聞いていて、自分の主張を一切しない。そんな彼女に僕は不安を抱かずにはいられなかった。

「おし、それ食べたら出発しよう。もしまたコンビニとか食料が売ってそうなところがあったらその都度食べられそうなものを取っておこう」

 自分で言っていてひどいなと感じてしまった。落ちているものを食べる、そんなこと絶対にしないと思っていた。売っているものを買って食べる、それが当たり前。だが今は生き残るためにどんなものでも食べるしかない。自分が苦手なものでも、多少潰れていても食べなければ生きていけないのだ。

 僕たちは今日も歩き始める。遠い遠い関西の地を目指して歩き続ける。途中でスーパーのようなところがあれば食料を調達し、多くの人が避難している場所を見つければいろんな情報を聞いた。自衛隊の人によれば関東はかなりの被害が出ていて、特に東京は壊滅的な被害らしい。そこで多くの人が大阪や京都に避難しているとのことだった。手段はいろいろあったが、船で避難している人が大多数らしい。行きは物資を運び、帰りは人を運ぶ。そんなことを毎日何往復もしているとのことだった。

「どうする? 僕たちも船で移動する?」

 船での移動は安全だし確実だった。しかし、毎回と言って良いほど暴動が起きる。誰が先に大阪や京都に行くのかで争いが絶えないらしい。船に乗れた者は優雅な気持ちになるだろうが、残された者たちはどうだろうか。どんな気持ちで次を待てばいいのだろう。僕にはそこまで考えることはできなかった。

「船、嫌」

 ミキが久しぶりに僕の質問に答えてくれた。そしてやはりミキも僕と同じ気持ちなのだろうか、人々の争いを垣間見るより二人で時間をかけて歩いて行く方がよっぽどいいらしかった。僕たち二人は自衛隊員に教えられた方へ歩いて行く。西へ、西へ。一日数時間歩けば足はパンパンになり、これまでの疲労が蓄積されているのがわかる。でも歩みは止めない、いくら遅くても進めば見えて来るものがあるから。

「大丈夫か?」

 毎日の疲労が目に見えてわかるようになると、ミキは歩いてもすぐに腰を下ろしてしまう。

「おんぶしてやるよ。さ、おいで」

 そうなると僕は決まっておんぶをして歩いた。一日でも早く関西につかなければこっちの命に関わる。どうしても一日の距離を伸ばしたかったのだ。

太陽が山に隠れそうなとき、僕はミキをおんぶしながら大通りを歩いていた。片側三車線ではあったが、そのうち外側の二車線は家などが崩壊して通れない状態だった。だから僕は道路のど真ん中を一人、ミキをおんぶして歩いていたのだ。

プ―と突然車のクラクションが後ろから鳴る。僕は突然のことで肩までビクッと反応してしまった。今まで何日も歩いてきたけど、車が通る何て初めてだったのだ。

「おい兄ちゃん、どうしたんだ?」

 僕が後ろを振り向くと顎にひげをボーボーに生やしたおじさんが窓から顔を出していた。

「あっ、僕たち、関西を歩いて目指しているんです。国が出してくれてる船はいろいろと暴動が起こっているらしいので」

「おお、兄ちゃんも関西に行くんかい。でもさすがに歩いて行くのはキツイで。なんなら乗せて行こうかい?」

 窓から顔を出したおじさんはニッと笑い助手席を指す。

「えっ、良いんですか?」

「ああ、いいさいいさ。丁度わいも大阪に戻るとこだったんや、ついでやついで。ほら早く乗って来んかい」

 軽トラに乗った気前の良いおじさんは僕とミキを心よく車に乗せてくれた。

「すみません、本当にありがとうございます」

「ええねんええねん、気にすんなや。それに幼い嬢ちゃんと兄ちゃん二人じゃ夜道は歩けんやろ」

「はは、そうですね……。ところでおじさんはなんでこんなところ走ってたんですか?」

 僕は助手席に座り、ミキは僕の上に座っている。ミキの身体は小さくてとても軽かった。

「それは困ってる人が大勢いるから食べもんを届けに来たっちゅう簡単な話や。わい、東京に弟が住んどってん。地震後テレビ見とったら大変な騒ぎやと思ってな、弟探すついでにありったけの食べもんも持っていったんや」

「そうだったんですか。それで弟さんは見つかりましたか?」

「それがな、まだ連絡すらついてないねん。携帯も繋がらんし、あいつは今どこほっつき歩いとるんやろな」

 おじさんは笑いながら言ったが、僕の脳裏には家や瓦礫で押しつぶされた人の手や足などが浮かんだ。そして急に吐き気がして窓を開け、外に向かって吐く。

「急にどないしたん?」

「す、すみません。ちょっと吐き気がして……。もう大丈夫です。気にしないで下さい」

 僕の上に座っているミキも僕の顔をみようとしてくる。

「大丈夫だよミキ。何でもない」

 そう言ってあげるとまた前をじっと見つめ始めた。僕はこれまで多くの死体を見てしまった。ミキにはなるべく見せないようにしてきたが、少しは見てしまったかもしれない。腕や足以外が潰れ、外に助けを求めるかのように手を伸ばしている死体。足が潰れ腕だけで必死に逃げようとしていたであろう死体。瓦礫の中で幼い我が子を守ろうとしていたであろう死体。いろんな人々が僕の中に流れ込んでくる。必死に助けを求める声、それが今にでも僕の鼓膜を破りそうなほど聞こえてくる。僕は、どうしたら……。

 心優しいおじさんに連れられ、僕たちは何とか目的地であった関西の地に着くことが出来た。本当だったらまだ何日もかかる計算だったし、食料の心配もあった。それを車一つですべて解決してくれたのだった。

「ほいよ、ここが大阪駅や。わしはこの近くに住んどるけど来るか?」

「いえ、ここまで乗せてきてもらってさらに甘えるわけにはいきませんよ。ありがとうございました」

 僕はそういってシートベルトを外し、車のドアを開ける。ミキが下りると僕の身体は解放感に溢れた。いくらミキが軽いといっても何時間も上に乗っているとつらい部分があった。

「そうか、気ぃつけてな」

 おじさんは僕たちに手を振って車を走らせ街へ消えて行った。全く知らない土地で僕たちは何をすればいいのだろう。とりあえず食料はおじさんに少し分けてもらったけど、安心して寝られる場所が欲しいな。僕たちは何をしていいかもわからずにただ歩いていた。

「あれ……」

 僕の隣を並んで歩いていたミキが前方を指差す。そこには大阪市役所と大きく書かれていた。

「うん、あそこに行ってみよう」

 僕とミキは再び歩き出す。東京が壊滅的な被害を受けた今、日本最大の都市として動いているのはこの大阪だろう。そこの市役所に行けば何かしらの情報は手に入るはずだ。そんなことを思いながら僕たちは市役所の自動ドアから中に入った。


 まさかこんなにいいところを紹介してくれるなんて思ってもみなかった。それも家賃はタダなんて、とても信じられない。僕たちは今、とあるアパートにいた。このアパートは被災者のために用意されたもので、市役所の職員が車で一時間ほどかけて連れてきてくれた。僕たちのような両親が行方不明な子供が主に集められているらしい。

「ここが今日から我が家だ。これで安心して寝られるね」

 僕はミキの方を見るが、彼女は部屋に一つしかない窓から空をボーっと見ていた。広さ六畳に子供二人、少し狭いと感じるけど、部屋に何もないだけまだマシだ。それに屋根があるってだけでもう極上の気分だ。僕たちの大阪生活がこの部屋からスタートする。

 太陽がまだ南にあるというのに僕たちは寝てしまった。布団も何もないこの部屋で静かに数時間寝た。僕が目を覚ますと太陽はオレンジ色に輝いている。何時か知ることは出来ないが、夕方だってことはわかる。さあ、これからの生活をどうしていくかを考えなければならない。

「ん……」

 僕がそうこう考えているうちにミキも起きて来た。長い髪を左右に揺らしながらふらふらと僕の方に向かって来る。

「といれ……」

 一言ボソッと言うと、僕の方に倒れ込んできた。仕方なく僕はトイレの場所まで運び、便座に座らせた。少しすると水が流れる音が聞こえ、中からミキが出て来る。

「おやす、み……」

 そして再び僕の方へ倒れ込む。ミキを静かに床に寝かせ、僕は今後のことについて考えることにした。まずどんなことをしようとお金がなくては何もできない。トイレや風呂は家にあるからラッキーとはいえ、それ以外は何もない。まずは食べ物か、それが必要だ。僕は散歩をしようとふらふらっと外を出歩く。すると、『アルバイト急募集』と言う張り紙を見つけた。年齢は高校生以上からということだったが、僕はすぐにその会社に向かった。

「あの、僕を雇ってください!」

 会社に入るなり僕はいきなり頼み込む。今日こっちに来て、お金も何もない状態では普通に暮らすなんて無理だ。だから僕は一刻でも早くお金が欲しかった。

「坊主、そんなに慌ててどうしたんだ?」

 会社の中から大きな男が一人出て来る。縦にも横にも大きな男は、この会社の社長だということだった。

「おおそうかそうか、それは大変やったな。いいぞ、それなら坊主をここで働かしてやる」

 僕がここまで逃げてきたことを全て話すと、社長は心よく受け入れてくれた。明日から早速働くこととなったが、帰り際に社長から僕とミキのために服をくれた。

「それ持っていき。うちの息子と娘が子供のころ着てた服や。そんなボロイもんでもあった方がいいやろ」

「ありがとうございます」

 僕は両手に袋を一つずつ持ち、アパートまで帰っていく。食料はあと一食分しかないけど、それでも何とか生き延びるしかない。明日になれば働くことでお金がもらえるのだから。

 家に帰ると僕は、社長からもらった袋を床に置く。片方は僕の服で、もう片方はミキの服。これまでも何度か服を着替えてきたが、ほとんど地震直後の格好から何も変わってなかった。と言うより、服なんてものが簡単には見つからなかったのだ。あったとしても破れていて使い物にならないものばかりだった。だからこそ、社長にもらえた服はとてもありがたく感じられた。僕の出会う人会う人はいい人ばかりだ。

 次の日から僕の仕事生活が始まった。仕事中は家にミキを置いてきて、彼女は家に一人でいる。何をしているかはわからないが、毎日おとなしく待ってくれていた。

「ただいま」

 僕が家を出るのは午前八時、途中に休憩を挟むと一旦家に帰る。ミキの様子を見に行くのだ。そしてたまに社長の自宅に招いてもらい、昼食を一緒させてもらう。午後の仕事を終えて家に帰ると、午後六時。まだ十四歳だからと言って勤務時間は短くしてもらっている。毎日七時間半の勤務だ。それだけ働いて、一日一万円ずつくれる。僕たちの事情を知っているため、日払い制にしてもらい、給料も他のアルバイトより多くしてもらっている。さらに社長にはご飯に連れて行ってもらったり、家具などをプレゼントしてもらったりととにかくお世話になっている。感謝しても感謝しきれない。

 ミキの生活は、家にずっと引きこもっているだけ。何をしているかと思えば、空をボーっと見上げている。この家に来てからずっとそうしている。僕が聞いても答えてくれないところは今までと同じで、一緒にいても僕が一方的に話しかけているだけである。

 あるとき、僕は社長から学校の話を聞いた。今、公立の学校は授業料なしで避難民を受け入れてくれるらしい。僕は中学校二年の年だし、ミキは小学校三年生の年だと前に言っていたことがある。僕は別にいいとして、ミキには学校に通ってほしい。

「ミキ、学校に行かない?」

 その日家に帰るとすぐに聞いてみた。授業料がタダなら僕たちも通うことが出来る。案外日本の政府も捨てたものではない。

「勉強、きらい」

「大丈夫、わからないところは教えてあげるから。ね、学校に行こ?」

 半ば強制的にミキは九月から近くにある小学校に通うことになった。ランドセルから文房具まで、またしても社長が全部用意してくれた。教科書は小学校から無料で配布されるし、通常の学校生活だけなら何とかなる。

 初めて学校に行った日、僕が仕事から帰ってくるとミキが部屋の隅で小さくなっていた。

「どうしたの?」

 僕が問いかけても首を横に振るだけで何も答えてくれない。毎日の仕事で僕も疲れていたので、そんなに気にすることもなく眠ってしまった。

 しかし、次の日もその次の日も僕が帰ってくるとミキは同じ場所にいた。三日目ともなるとさすがに心配を隠すことは出来ない。僕はもう一度聞いてみる。

「どうしたの? 何かあった?」

「……うん。みんなが、わたしを変な目で見て来る」

 変な目、とはどういうことだろうか。イマイチ理解が出来ない僕は「そっかそっか」と言いながらミキの頭を撫でてやることしか出来なかった。

 翌日、僕は会社の電話を借りてミキの通う小学校に電話させてもらった。そして担任につながると、「東京が地震で大きな被害を受けたことは子供たちも知っています。しかし、避難してきた人たちがぼろぼろの服を着て街を歩いていることや、食べ物を店から盗んでいることが頭の中から離れないのでしょう。あいつもその仲間だと思ってしまい、敬遠してしまうのでしょうね」と言われてしまった。僕は直ちに仕事を中断して、ミキがいる小学校に行った。そしてミキのクラスに行き、授業中にも関わらず勝手に教室内に入った。もちろん教師からは激怒されたが、ミキをこんなクラスに置いておくわけにはいかない。

「ミキ、帰るぞ」

 僕は周りからの視線を痛いほど感じながらミキの手を引っ張り教室から出ていく。もうこんな学校にミキを置いておく必要はない。ミキが苦しんでいるのならやめてしまった方がいい。そんなことが通じたのか、はたまたギュッと握った手が痛かったのかわからないが、ミキは涙を流していた。

「これからは僕が勉強を教えるよ。僕も頭はよくないけど、出来る限りのことはするね」

 その日からミキは僕の働く会社に来るようになった。何かを言うわけでもなく、するわけでもなく、ただ座ってみている。社員さんから「可愛いね」「何してるの」と聞かれても何も答えない。数日経てば質問の嵐はやみ、オブジェクトのような存在となっていた。社長夫妻はミキと何度か会っていたため、ミキもよく口をきいていた。

 三年半経つと、ミキは中学校に行きたいと言ってきた。この三月が過ぎればもう中学生に上がる年だ。小学校までの勉強は、買って来る漢字ドリルやら計算ドリルなどで僕が教えながらやっていた。ミキはなかなか頭が良いようで、僕が教えるとすぐに出来るようになってしまう。だから小学校までの過程はほとんど教えることが出来たはずだ。たぶんだが中学校に行っても通じるくらいの学力はあるだろう。

「そうか、じゃあいろいろ揃えないといけないね」

 中学校に行くためには制服も必要だし、バックも必要になって来る。お金が結構必要になって来るが、僕はこの三年半で少しはお金を貯められたはずだ。必要な出費は仕方ない。それにミキが行きたいというのだから行かせてあげたい。

「おし、わかった。勉強頑張れよ」

 僕は制服からなんでも買ってあげた。もちろん高いものは買ってあげられなかったけど、貯金を崩して多くのものを買った。家の壁にはセーラー服がかかっている。これまでは本当に十代の子供が二人暮らしているのかと思ってしまいそうなほど殺風景だったが、制服があるだけでとても華やか見えた。

 ミキの入学式には僕の他にも社長夫人が来てくれた。社長宅も五年前に妹さんの方が中学校の入学式だったらしい。こんなにも早くまた中学校に来るとは思っていなかったと言っていた。ミキが中学生になったということは、僕は高校三年生になったということだった。本当は今年受験勉強を頑張らないといけない年だったが、僕はもう勉強ではなく働いている。これがいいのか悪いのかはわからない。でもあの時は選択肢が一つしかなかったのだ。でなければ生きていくことすらできなかった。

「ミキ、おめでとう」

「……うん」

 三年半経った今でも僕との会話はまだあまり成立することはない。しかし、最近はミキの方から話しかけてくることが増えた。

「じゃあ二人並んで校門の前に立ってごらん。写真撮ってあげるわ」

 奥さんがそういってカメラを構える。僕はミキの手を引き校門の前に行く。大勢の親子で溢れかえる中、僕たちは兄妹に見えたかもしれない。血は繋がってないし、一緒にいたといってもたった三年半だけだ。けどその三年半はここにいる誰よりも密度の濃いものだと思っている。仕事で疲れていてもミキの勉強はしっかりと見ていたし、寝落ちしそうになると頬を叩かれもした。社長がユニバーサルスタジオジャパンに連れて行ってくれたこともあったし、ミキが作ってくれた料理を食べたこともあった。僕にとってはどれも大切で、一番なんて決められない。ミキと一緒にいられるのが一番幸せだったのだ。

「はーい、撮るよー」

 僕はニッと笑いカメラに向かってピースをする。気のせいだろうか、撮る瞬間にミキが何か言ったような……。

「ミキ、何か言った?」

「何も言ってない!」

 なぜかふくれっ面になっていた。僕、悪いことしたかな?

 その後ミキの中学校生活は順調に見えた。小学校の時みたいなことが起きたらどうしようかと心配していた僕が馬鹿に見えるくらいに何もなかった。初めての定期テスト、小学校へは行かず僕と二人で勉強してきたことが通じるか、大切なテスト。

「見て、九十点も取れた!」

 テスト返却の日、ミキは嬉しそうに言ってきた。まともに勉強できていたわけでも、環境が良かったわけでもない。それでもクラスで五番目に入る学力をミキは持っていた。

「さすが、ミキはやっぱり出来る子だな」

 僕は頭を撫でてやった。テストでいい点を取るより、友達を作って仲良くしてくれていることが嬉しかった。家でずっと一人空を見つめていた少女は、ついにみんなの輪の中に溶け込むことが出来たのだ。

「えっと、その……」

「ん? どうした?」

「何でもないっ!」

 ミキは何か言いたげだったが、結局何も言わずにどこかに行ってしまった。

 ミキが中学校に通ってからはさらに思い出が増えた。初めての体育祭に文化祭。合唱祭やミキの学校生活を知ることのできた二者懇談。家でも学校でも物静かなのは変わらなかったが、友達が多くいるとのことだった。勉強がよくでき、みんなからよく質問を受けているらしい。「よっぽどいい親御さんに育てられたんですね」と言われたときはなんだか恥ずかしくなった。

「ミキも明日から二年生だな」

「うん、ここまであっという間だったよ……」

 三月末、僕たちはそんな話をしていた。東京壊滅から約四年半、僕たちはようやくここまで来ることが出来た。東京から関西へ歩いていこうなどと無謀すぎることから始まり、軽トラのおじさんや社長などにもお世話になった。多くの人に助けられてここまで来たのだ。

「今日で地震から五年、もう五年も前の話なんだな」

 僕の記憶にはまだ鮮明に残っている。瓦礫の下に挟まれた人、助けてくれた自衛隊に罵声を浴びせる人。記憶をたどればそんな人たちが無限にあふれてきそうだ。しかし、ある時を境にミキのことで埋め尽くされる。そう、大阪にきたときからだ。楽しこともつらいこともたくさんあったけど、ミキがいるだけで僕は幸せだった。

 深い眠りにつき、目覚めると太陽がもう昇っていた。

「おはよう、もう七時半だよ」

 僕はハッと飛び起き、ミキの作ってくれた朝食を急いで食べる。出勤まで三十分を切っている。いつもより三十分遅い起床だ。僕は急いで朝食を食べ、仕事に行く準備をする。

「ねえ、傑。今日何の日かわかる?」

 突然にミキが話しかけて来る。

「え、なんか特別な日だっけ?」

 僕に思い当たることは何もない、と言うより今はそれどころではない。

「わたしたちが出会った日だよ」

 作業を中断して、僕は黙ってミキの目を見た。

「あのね、ずっと言えなかったんだけど……」

「ん、なに?」

「えっとね、……ありがとう」

 頬を赤く染めているミキの頭を僕は黙って撫でた。そしていつもより浮かれ気分で会社に出勤した。

 記憶をなくし心を閉ざしていた少女が、自らの手でその重い大きな扉を開けたのだった。仮の名前を持つ少女は、今再び歩き出す。

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君の名前 水嶋 祐哉 @Mizushima_you

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