第5話 芸術

 嬉しそうに男は絵を描いていた。技巧面においても、主題においても卓えているとは言えない画力だ。しかし、別にかまいはしない。いや、そもそもうまい下手などを問題にすることすら思わなかった。自身が筆を動かすとそこに今まで存在しなかったものが現れる。ただ、それが面白かった。絵の具のにおいをかぐ。集中力がわいてくるのが分かる。

 普段の男であったなら、自身の有能性を示すために目立つ場所で描いていただろう。だが、絵だけはそもそも有能性など思いもよらなかった。

 そんなあるとき、一匹のキツネが通りかかった。キツネは、男に近づいてきて声を上げた。「なんだい、これは」と。キツネは、森の奥に住んでいた。当然ながら、平面に描かれる森の全容など見たことがなかった。そこに驚きを覚えたのだった。男は、見ないでくれ、見せるために書いたんじゃないんだと恥ずかしそうに笑いながら答えた。

 キツネは、興奮していた。キツネは森の中でも好奇心が強い動物であった。また、キツネは森の中でも虚栄心の強い動物だった。

「人間。この絵は是非、ほかの動物にも見せるべきだ。だってそうだろう。私たち、森の動物たちは絵なんて全然見たことがないのだからね。それに、この描かれているのは、この森だろう。鳥になった気分だ。こんな風に上から見たことがない。」

 キツネは男を褒めちぎった。キツネの腹は、これを動物たちに宣伝して人間の芸術にも通じているキツネとしての名声を高めたかったかにすぎない。

 男は、心がむずかゆかった。自身のために描いたものが、これほど喜ばれると思ってもみなかったからだ。人生で味わったことのないような幸せに包まれたいた。男は、自身の大切にしているもの、大切にすべきことにまったく考えが及んでいなかった。次にとった行動が、自分にとってどういう顛末につながるかわからなかった。幸せとは麻薬であった。

 男は言ってしまった。「勝手にすればいい」

それから連日は、男の元に動物たちが絵を見にやってきては、「初めて絵を見れた」「森って広いと知ったよ」「森を上から見たことないだって。想像で描いたのかい」などと褒めちぎった。

 時折、鳥がやってきて、「こういうことをされると困る。俺たち、鳥が独占している風景だぜ。この風景を語ってやることで俺たち鳥は、ほかの動物から尊敬を得ているし、食べ物を分けてもらっているんだぜ。簡単な気持ちでわかりやすく伝えられたら、俺たちがくいっぱぐれてしまうじゃないか」と文句してきた。

 男は、幸せの絶頂であった。次々と褒めてくれ、鳥たちはくいっぱぐれると批判までしてくるほどである。自身の絵の才能が開花した勘違いしてしまうのも無理がなかった。幸せの中、似たような森の絵を描き続けた。しばらく、幸せだった。

 あるとき、一日誰も来ない日があった。これほど不安になったのは、森に来てから初めてだった。その翌日も誰も来なかった。絵が評判になるまで、男のもとを訪ねるもの動物はいなかったのだから、前に戻っただけである。しかし、男は全世界から否定され、拒絶されたと震えが止まらなかった。孤独に耐えれず、何が起こったのかと、今にも倒れそうになりながらも森を歩きだした。

 答えは簡単に見つかった。キツツキだ。キツツキは、男の真似をして自分も何か作れば評判になると彫刻を始めたのだった。最初は、キツネの彫刻を作りあげた。木の形を自分の意のようにするのは想像していたより簡単だった。キツツキは、キツネにその彫刻を贈りつけた。キツネは、すぐさま森の動物たちに自慢を始めた。「いやいや、私も驚いた。まさか、私の姿を彫刻にして贈ってきてくれるなんて。頼んでなんかいないんだよ。これは本当さ。嘘だと思うならキツツキ君に聞いてくれ。」

 キツネは、自身の名声の高まりに震えた。このままいけば、理想のオオカミのような森のだれもが一目置かれる存在になるのも夢ではない。キツネの声は大きくなった。森の動物たちは、キツネの尊大な態度には嫌気がさしたが、自身の彫刻を作ってもらいたいと考え、一時我慢してキツネをおだて、キツツキに紹介してもらった。キツツキの周りには長蛇の列ができていた。


 男は、すべてを知った。キツツキを殺してやる。人生で初めて、本気の憎悪であった。しかし、前に味わった幸せをもう一度味わいたかった。男は、必死にこらえ新しい作品作りにいそしんだ。

 ここからの男は多作であった。大胆な躍動感に満ちたキツネ、光の変化していく中にたたずむリス、夢の中で見た現実と大きくかけ離れたヘビなどを次々と描いては、森の動物たちから「こんなものは見たことがない」と称賛を得続けた。複数の角度から見たクマを一つの画面に収めてみたり、まったく同じシカを画面に何十匹も書いてみたり、落ち葉でサルを描いてみたり、牛のフンで馬を描いてみたり、考えられることは何でもやった。

 発表した瞬間、みんなが褒めてくれた。幸せを得れて満足した。だが、しだいに、男は動物たちがまだ口々に賞賛している最中にも、早く新しいものを描かなくては、忘れられる。と不安感にさいなまれ、幸せもすぐに消し飛んでしまった。まだ、新しいものを描けているときは良かった。すくなくとも一瞬、幸せになれたのだから。

 

 男は、唸っていた。もうすでに、男の発想は限界を迎えていた。もはや、考えつく処女地は存在しなかった。どこもかしこも、自分がすでに描いてしまった後だった。男は、唸った。もはや、だれも「新しい」と言ってくれない。新しくなければだれも見向きもしない。自分の技巧が高くないことを知り尽くしているからこそ、新しいものを作らなければならないのに。男は、焦った。


「キツネの体に森と海がダンスしているのをコウモリが食べようとしている絵」


「クマとリスが交わりながら、ヘビが死んで、生まれている絵」


「木が捻じ曲がり、空と混ざって太陽が落ちてイヌが笑っている絵」


「ワシとネコが仲良く、大空でメダカに排泄されている絵」


 男は、新しい絵を描き続けた。動物たちは誰も絵を見てくれなくなっていた。時たま、見てくれた動物はこういった。「意味が分からない」



森は、男に尋ねた「男よ。絵は描かないのか」

男は、静かに言った。「自分の高尚な絵を動物・畜生の分際が理解できるはずがない。描いてどうする。誰も理解できない絵を描いてどうする。描いてどうする。描いてどうするのだ」


 男は、炎に画材を投げつけた。絵の具のにおいがあたり一面に広がった。昔は、好きなにおいだった。筆を持つだけで気が楽になった。じっとりとした絵の具のにおい。筆を走らせると画面の世界が変化した。幸せとともにあったにおい。

 

 男は、そんな過去があったことを思い出せなった。今の男にとって、絵・絵の具・筆は、自身の孤独の象徴だった。絵の具のにおいがあたり一面に広がった。


 男は、一人で吐いた。

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クズ人間の森 対馬守 @iburahimu

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