第34話 悪霊の棲む家

「悪霊の家だろ? 知ってるよ。知らないやつなんかいないんじゃない?」

 そう証言したのは通りすがりの少年だった。


 除霊師を生業とする私は、依頼を受け、この家へとやって来た。

 一見すると何の変哲もない一軒家だ。しかし、普通の人間の目には見えない気配――「邪気」とでも呼ぼうか――そんなどす黒いものが家全体から立ち上っている。これほどに強い気を放っていれば、霊感の無い人間であってもこの建物から異質なものを感じ取ることもあるだろう。

 門の前に立ち外観を確かめていた私は、視線を感じて振り返った。そこには抑えきれない好奇心を両の目に宿した少年が、私のことをじっと見ているのだった。

「私に何か?」

「おじさんこの家に用事? 入らない方がいいよ」

「この家のことを知ってるのかい」

「悪霊の家だろ?」

 少年の声が少し弾む。

「知ってるよ。知らないやつなんかいないんじゃない?」

「有名なんだね」

「悪霊が出るんだよ、みんな言ってるよ。昔バスの事故で死んだ人が幽霊になって棲みついてて、近付いた人を呪い殺すんだって」

 少年に怯えている様子はない。自分の知識を披露したくて仕方がないという顔だ。

 「入っちゃ駄目だよ」と念押しして去って行った彼の背を見送り、私は家へと向き直る。

 入らないわけにもいかない。これが私の仕事なのだから。



 事前に借りておいた鍵を使って玄関ドアを開ける。黴のにおいが鼻を突いた。

 家の中は荒れ果てていた。物が散乱しているわけでも、破壊されているわけでもない。人の管理を失った家特有の荒廃に蝕まれている。少年は「昔」といったが、それはたった十年前のことだ。十年前までここには、どこにでもいる平凡な家族が、平凡で幸福な日々を送っていた。

 私は二階へと階段を上がる。邪気が濃くなるのを全身で感じる。胸の悪くなるのを堪え、廊下を曲がった先、目的のドアを開けた。

 ――いた。

 前情報の通り、そこには女がいた。部屋の隅に蹲っている。長く伸びた髪の間から口元だけが見える。青白い肌。乾いた唇は常に動きなにごとかを呟いている。

「こんにちは」

 声をかけたがぴくりとも反応しない。今、彼女に私は認識されていないらしい。仕方なく、彼女の対面になるよう、壁に背を向けて腰を下ろした。

 ……それからどれくらいの間、彼女の呟きを聞いていただろうか。

 ほとんどまともな言葉は聞こえないが、かろうじて聞き取れるワードがいくつかあった。

 「ゆるさない」「のろってやる」「じごくに」「さなえ」「うらぎった」……。

 不意に。本当に突然、彼女は顔を上げて私を見た。前髪の隙間から血走った目が私を見据えた。

「だれ」

 女のものとは思えないしゃがれた声だ。

 私は答える。

「私は霊媒師だ。依頼を受け、ここへやって来た」

「れいばいし?」

 ぐっ、ぐっ、と彼女の喉から奇妙な音が漏れる。笑っているのだと気付くのに若干の思考が必要だった。

「むだ。わたしはずっとあいつをのろうの。ゆるさない、あのおんな、ゆるさない」

「それは、谷山早苗さんのことだね?」

「そう!」

 突然張り上げられた声はひどく割れ、ざらついた響きで私の耳へと届く。

「あのひのばすで、あのおんな、さいごにわたしをおしのけて! じぶんだけ、たすかった! わたしをうらぎって!」

 叫ぶ勢いで天井を仰いだかと思うと反動のままに床に倒れ伏す。また顔は見えなくなり、潰れた音だけが髪の間から漏れ聞こえる。

「ゆるさない、じぶんだけなんて、ゆるさない。しんでもゆるさない。あいつ。さなえ」

 私は思わず目を瞑った。あまりに痛ましい姿だった。彼女はこの十年ずっと、憎しみにとらわれ続けているのだ。


 救ってやりたいと、そう思った。

 依頼人が私に望んだのと同じに。


「三池里香さん」

 私は彼女の名前を呼ぶ。

「事故から十年が過ぎた。どんなにつらい出来事でも、どんなに苦しい事故でも、人はそれを乗り越えていかなければならない。分かっているんだろう?」

「いやだ」

 彼女は呻く。

「ゆるさない、ゆるさない、ぜったいにゆるさない」

「許してあげなさい」

 私は説く。


「もう、自分を許してあげなさい」


 沈黙が落ちた。ゆっくりと、震えながら、彼女は身を起こす。呆けた形の唇は言葉を見つけられていない。

「事故だった。事故だったんだ。君一人が生き残っても、誰も君を責めはしない。早苗さんだって君を責めない。だから君も、君自身を許してやるんだ」

「あ……あ……」

「悪霊なんて最初から、どこにもいない。いないんだよ、里香さん。つらくても君は、生きていくんだ」

 彼女の目から、一粒の涙が零れた。それはすぐに堰を切って流れに変わる。

 彼女は泣いた。友人に庇われて生き延びてから十年の間、家族の説得も聞かず一人閉じこもり、空想の世界に身を置いた彼女は、ようやく友人の死を悼んで泣いた。

 私は彼女を救えたのだろうか。

 里香を助けてあげてと私に頼んだ、あの悲しい霊の願いを叶えてあげられただろうか。




 その後、その家に悪霊が目撃されることはなくなったという。

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怖いかもしれない話 海田アルフ @kasugano

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