鬼の村


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 閉じ込められてからどれだけ時間が過ぎたのだろう。暗闇の中では今が昼なのか夜なのかもわからない。

 目覚めた時、金属製の首輪をつけられ鎖で繋がれていることに気付いた。手足は自由だが頑丈な首輪を外すことができず、本当の自由はない。

 だるくて気分が悪かった。寝ていても起きていても身の置き所がない。

 あいつに何かを飲まされたせいだ。

 命に別条なかったとはいえ、戸惑いと怒りを覚える。

 寝かせた体を再び起こし、壁にもたれた。

 何も見えなかったがひんやりした空気と埃臭さで土蔵の中だとわかった。

 炎天下に繋がれるよりはいいかと思ったが、何も見えない真っ暗闇の中とどちらがましなのかもう一度考えてみる。

 どのみち危険な状況に変わりない。

 ああ、こんなことになるとは思ってもみなかった。

 あの日、あの時、あの登山で木村と出会ってしまったことがそもそも間違いだったのだ――


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 私は登山が趣味で、ハイキングコースに毛の生えたような初心者用の山登りが好きだった。単独で登ることもあったが老人や子供が参加するイベントもかなりの数をこなしていた。上級者向けの山には興味がなく、仕事に明け暮れる毎日のストレス解消ができたらそれでよかった。

 あの日、初心者向け登山のイベントにいつものようにひとりで参加していた。

 上級者を目指さずとも歩き続けていれば自ずと健脚になる。のんびり歩いているつもりが、他の参加者よりもずいぶん早くゴールに着いた。

 木村とはそこで出会った。

 あいつは頂上から見える町並みを眺めながら汗を拭いていた。

 私が着くと振り返って「おっ、早いですね」と笑った。

 どこか地方の出身なのか、少し訛りを含んでいる。牧歌的で悪くない人だとその笑顔が表していた。

「そちらこそ」

 隣に並んで汗を拭く。

 お互い名字を名乗り合った後、据え付けの丸太でできたベンチに腰掛けた。

「広尾さんは今回初めてですか?」

 彼の質問に私は首を縦に振り、

「この山はね。でも登山が好きで、こんなイベントには何度も参加してますよ」

 と返事して、リュックの中から小さなペットボトルの茶を二本取り出した。

「それでは今度は中級者向けの山に挑戦ですか?」

「いえいえ。このくらいの山で十分です。極めるつもりありませんから。木村さんは?」

 一本差し出すと木村は嬉しそうに頭を下げた。

「僕、こういうイベントの参加は初めてなんですよ。でも実家が結構な山ん中で、子供ん頃は走り回ってました。

 こっち来てから運動不足になったんで参加したんです」

「ああ、だから脚が強くて到着が早かったんですね」

 二人が話している間に参加者たちがどんどんゴールしてくる。

「そうだっ。今度の夏休み、実家に帰るんですけど、一緒に山登りしませんか。僕んちに泊まってください。たいした食べもんありませんけど味は最高ですよ」

「いやあ、おいしいものには惹かれますが、きつい山はちょっと」

「ははは、全然きつくないですよ。この山よりも低いくらいです。ただきちんとした道がないと言うか、足場探しながら登るんです。かといって危険はないですよ。熊や猪は出ませんし」

「へえ、面白そうですね。でもほんとですか? 危険動物が出ないって」

「僕の村には動物避けのお守りがあるんですよ。だから大丈夫」

 にこにことした気持ちの良い笑顔にほだされ、木村と約束を交わしてしまった。


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 夏季休暇を利用して早朝に駅で待ち合わせをし、私は木村の実家があるという村に旅立った。

 話題が豊富で話し上手な木村のおかげで長時間の旅も苦にならなかった。乗り継ぎを繰り返し、途中で買った駅弁を楽しみながら誰もいない秘境の駅に降り立ったのは午後三時過ぎだった。

 そこから公共の交通手段がないということで、村から四駆車が迎えに来ていた。

 運転手の朴訥そうな大男が深々と頭を下げるのを見て、木村の身分が相当なものなのだと内心驚いた。と同時に泥が激しくこびりつく傷まみれのジープを目の当たりにし、これから走るであろう険しい道のりに恐怖した。

 だがそれは杞憂に終わった。深い山中の狭い切通や水溜まりの多い地道を、枝葉を跳ね飛ばしながらも顔色一つ変えず走行する運転手に頼もしささえ感じるようになっていた。

 三時間後、尻の痛さに辟易した頃、夕焼け空に浮かぶ山々に囲まれた村が木々の隙間から見えた。

 小さな集落だが豊かに栄えていることが雰囲気でわかる。

「あそこが僕の家です」

 木村が指さした家はその中で一段と大きく、屋敷も蔵もそれを囲む塀もみな真っ白で、夕焼けに赤く染まっていた。

 屋敷では木村の両親と姉が迎えてくれた。誘われたとはいえ厚かましくやってきた私を木村に似た優しい笑顔でもてなしてくれる。

 笑顔は木村家だけのものかと思ったが、顔見せに訪れた村人たちもみな気持ちの良い笑顔をしていた。

 山深い田舎の人間は偏屈だとずっと思っていたが、それは私の偏見だった。


 次の日の朝、木村と一緒に村を囲む山の一つに登った。

 木村家の後方にある山で、他の山々に比べ確かに標高は低かったが、足場を探りながら道なき急斜面を進むのは結構難渋した。

 途中、苔むした大きな岩にもたれ休憩した。

「見た目よりきつい山だね」

 私は汗を拭きつつ荒い息を整えた。

「そう?」

 木村は平然としていた。持参した水筒から金属製のコップ二つにお茶を注いでいる。その一つを手渡してくれた。

「思ったより急だよ。僕もいろいろ登ったけど、こういう山は初めてだ。登山が趣味だなんて言ってた自分が恥ずかしいよ」

 そう言って、私は冷たいお茶を飲み干し、「ところでほんとに危険な動物がいないみたいだね。ていうか、他の生き物も見ないな、鳥の声もしないし、糞や足跡もまったくない。ね、動物除けのお守りってどんなの?」と訊いた。今後の登山のために自分も欲しかった。

 木村は破顔した。

「そんなものないですよ。実はこの山、動物がいないんです。鳥や虫も」

「えっ?」

「ここは我々の神の山ですから――」

 木村が言うにはこの頂上に小さな祠があり、そこに村人の信仰する『神』を祀っているらしい。そのせいか生き物はいないというのだ。

 神を祀る山は各地にあり、山自体がご神体という山もある。だがそこに生き物が存在しないなどという話は今まで聞いた事がない。

 そんなわけないだろうと内心で苦笑しつつ「すごい神様なんだね。じゃ、よそ者なんか登っちゃだめなんじゃないの?」と私は木村に訊いた。

「ほんとはね。でも――」

 木村は自分のコップに入った茶を捨てた。

 その時、背後からがさがさと音がした。

 振り向くと木立の間からつるんとした肌の赤い顏がいくつも見えた。額に二本の角と、かっと開いた口の中の上下に二本ずつの牙がある。

 鬼?? うそだろ――

 木陰から出た数人の鬼がゆっくり私のほうに向かってくる。

 とっさに逃げようとしたが足がもつれて転んだ。立ち上がろうとしても身体が言うことを聞かず立ち上がれない。

 木村の優しい笑顔が私を見下ろす。

 何をする気だ――そう訴えたいが、目がだんだんと霞んでくる。

 視界が閉ざされる瞬間、自分を見下ろす鬼たちの顔が木村の背後に見えた。


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 ごとごと音がして土蔵の冷たい暗闇に光が差し込んだ。眩しさのあまり目を細め、鎖を鳴らせながら開いた引き戸に顔を向ける。

 逆光に誰か立っているが顔は見えない。

「飯ですよ」

 その声は木村だった。

「こ、これはどういう事なんだっ」

 飛び掛からんばかりに激しく訴えたが首輪が喉を圧迫し、痛みで声がかすれた。

「知らないほうがいいですよ」

 近づいてきた木村が頭上に手を伸ばす。裸電球が薄暗い光を放つと同時に私は息を呑んだ。

 山で見た鬼が立っている。

 鬼は木村の声で「食べてください」と握り飯の載った盆を差し出した。

 何が入っているかわからない。

 茶の入った湯呑に数秒、躊躇してから首を横に振る。

 鬼はふっと笑った。

「毒は入っていませんよ。生きていてもらわなきゃ困りますから」

 そう言われたが、この状況に抗議する意味でも拒否したかった。だが、目の前の握り飯はうまそうに光っている。腹の虫が騒いだ。

 我慢できず盆を受け取ると握り飯にかぶりついた。絶妙な塩加減がうまい。握り飯の横には二切れの卵焼きもあった。箸がないので手でつまんで食べた。甘じょっぱくてこれもおいしい。涙が頬を伝うのがわかった。

 袖口で涙を拭きながらそばに佇む木村の様子を窺った。よく見ると鬼の顔は面だった。頭の後ろに結ばれた紐が見える。ぽかりと空いた二つの穴の奥にちゃんとした人の目が覗いていたので私は安堵した。

「木村さん。これなにかの冗談だよね。この村特有のちょっと手荒な歓迎会みたいな? 十分堪能したから、もうやめてもらってもいいかな」

「そう思いますか?」

 人の目は鬼の奥で揺らぐことなく私を見つめる。

「じゃ、こんなとこへ閉じ込めて私をどうするつもりなんだっ」

 盆を投げつけると木村はそれをうまくかわした。落ちた皿と茶をぶちまけた湯呑が割れ、盆がからからと回っている。

「広尾さんは生贄になるんですよ。おにがみ様の」

「なんだよ、それっ。生贄ってなんだよ。

 お、おまえ、最初からそのつもりで私を誘ったのかっ」

 木村はふふと笑った。

「こんなこと許されるわけないだろ。私は家族に誰とどこに行くってちゃんと報告してるんだ。帰ってこなかったらこの村へ調べに来るぞ」

「いやだなぁ。広尾さん。あなたには家族や親しい友人なんていないじゃないですか。初めて会った後に全部調査したんですよ。だから約束を履行したんです。

 でももし、誰かに伝えていたとしてもこの村はちょっとやそっとで探せません。一般に把握されているのは僕たちが降りた駅までですから。そこからこっちは誰も存在を知りません」

「まさか」

「そのまさかです。世間に知られていないことなんていくらでもありますよ」

 木村はそう言うと電球のスイッチを切り、出口に向かった。

「そうそう、排泄はそこのおまるにして下さい」

 逆光に浮かぶ影が少し離れた壁際を指さす。

「ま、待ってっ」

 私の声に振り返ることなく、影は重々しい音を立てて扉を閉めた。


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 ――気付くと、壁にもたれて座ったまま折れたように眠っていた。

 軋む身体を伸ばす。節々が痛くて呻き声が出た。腹が減り過ぎて胃も痛い。

 あれからどれだけ時間が過ぎたのか、まったくわからなかった。

 ごとごとという音とともに引き戸が開く。

「おにぎり持ってきたよ」

 木村の声ではない若い男の声がした。

 裸電球が点くと顔が見えた。やはり鬼面が張り付いている。

 盆を置くのを待ちきれず、私は両手に握り飯をつかんで頬張った。

「喉詰まるよ」

 鬼は一緒に持参したポットのお茶を湯呑に入れながら笑った。

 指についた飯粒の一つ一つをついばむ私の前に湯呑を差し出す。握り飯がなかなか胃に落ちず、水気を欲したが、目の前のそれを取る気にはなれなかった。

 いよいよ生贄にされるのか。

 その茶に眠り薬か毒が入ってるんだろ。それとももう握り飯の中に――

 そう思っても言葉にできず、鬼面の奥の目を見つめることしかできない。意外にも澄んだ瞳をしている。

 その鬼が私の意を察し、くすくす笑った。

「大丈夫だよ。どっちにも薬なんて入ってないから。だって祭りはまだまだ先だもん」

 嘘か本当か迷ったが、どのみち死ぬのだ。思い切って湯呑を受け取り、茶を流し込んだ。うまい茶だった。

「米も茶もうまいな」

 思わずため息が出た。

「でしょ。この村はいい米できるし、いい茶葉もとれるんだよ」

 土蔵にこんなふうに閉じ込められていなければ、一緒に楽しく笑ったであろう。それくらい鬼の声は明るく軽快なものだった。

「それにテツさんの姉さんの炊き方もうまいしね」

「テツさん?」

「あんたを連れてきた人。姉さんはアサコさん。お茶を入れたのも玉子を焼いたのもアサコさんだよ。その玉子焼き、おいしそうでしょ」

 盆には玉子焼きの皿も載っていた。手でつまんで口に入れる。ネギが入っていた。

「うん。うまい」

 鬼の目が玉子焼きに注がれている。

「食うかい?」

「だめだよ。これはあんたの分だもん。

 うらやましいよ。ぼくたちめったに姉さんの玉子焼きなんて食べられないもん」

「そうか。私はもういいから食べていいよ。腹が空きすぎて胃が痛くてね。もうやめておくよ」

 もしかしてこの鬼は私の味方になってくれるかもしれないと算段をつけた。

 鬼がうまそうに玉子焼きを頬張る。

「君の名前は?」

「タモツ――あっ、名前言っちゃあいけなかったんだ」

「へえ、なんで?」

「鬼は人の名前名乗っちゃあいけないんだ。だって鬼だから」

「でも、それお面だろ。本当の鬼じゃないじゃないか」

「お面つけたら鬼になるんだ。だから人を生贄にしてもいいんだよ。だって鬼だもん」

「それ、どういうことなのかな」

「うーん。この村のことは人に話しちゃいけないんだ――でも――まっいいか。玉子焼きのお礼だよ。

 ぼくのおじいちゃんから聞いた話なんだけど――



 昔々、この辺り一帯で飢饉が起こり、村も壊滅の危機にさらされた。

 村人たちはみな信心深く、一生懸命神仏に祈願するも願いは届かず、まったく救われない。

 神や仏がだめなら鬼にすがろうではないか。

 村の山には偉い坊様に封じ込められたという岩屋の鬼の伝説があった。村長【むらおさ】をはじめ、村人たちはその鬼に祈ろうと決意したのだ。

 だが、その山には今まで誰も入ったことがない。危険を承知で長のみが入山した。

 一晩過ごしたのち、村に戻ってきた長はえらくやつれていたが、おにがみ様のお告げを皆に伝えた。

「人の血を我に捧げよ」

 村人たちは誰が贄になるのかと怯えたが、長は他所の村人を贄にするという。戸惑う村人たちに、これすべておにがみ様のお告げなのだと力強く言い放った。

 長と十数人の選ばれた男たちはおにがみ様の下僕【しもべ】となるべく鬼面を彫り、鬼となって隣村との境の山中で人の来るのを待った。

 どこの村も食糧難、食べられる木の根や草を探しに隣村の女が山に分け入って来た。

 鬼たちは女を捕らえて岩屋の前に差し出した。

 おにがみ様はたいそう喜び、女の体を八つ裂きにしてその血を浴びうまそうに飲み干したという。

 満足したおにがみ様は肉を村人たちに分け与えてくれた。

 それが鬼を崇め、血を捧げたことへの見返りだった。

 その後も山中に入ってくる隣村の人々をおにがみ様に捧げ続け、やがて山を恐れ人が来なくなると直接足を伸ばし遂に隣村を根絶やしにしてしまった。

 そしてこの村は生き延びた。

 村人たちは岩屋の前に祠を立て、おにがみ様に深く感謝した。

 そして感謝を忘れ祟られないようにするために、年に一度祭りを行い崇め奉る約束をした。たとえそれが人の肉を喰らわなくてよい豊作の年であっても。

 村人たちはごく普通の人間だったが、自分たちがおぞましく恐ろしい行為をしているとは考えなかった。なぜなら、それを行っているのは『鬼』だからである。



 ――だから祭りの準備をするときは、みんな面をつけて鬼になるっていうわけだよ」

「な、なるほどそういうことか――普段はみんな普通の人たちなんだね。あっ、もう一杯お茶もらえるかな?」

 タモツと名乗る鬼は湯呑を受け取るとポットの茶を注いだ。

 己の末路を想像すると震えが止まらない。落ち着くために飲もうとした茶だが結局喉を通らなかった。

 食器を盆の上に片しながらのんきに鼻歌を鳴らしているタモツに「人肉を食った者がもう普通の人間であるはずないだろうがっ」と叫んでやりたかった。

 だが、今そんな事を口に出して反感を買ってはならない。もし出すなら願い事だ。

 じっと見つめる私に気付き、タモツが顔を上げる。

 面の奥の瞳は澄んでいたが何の感情も読み取れず、言っていいものかどうか迷った。

 いや、イチかバチか思い切って言ってみよう。

「ねえタモツ君。面を外してもらえないかな。祭りは先なんだろ。いまはまだ鬼にならなくてもいいじゃないか。わけもわからず理不尽な目に合ってこのまま生贄になるなんて私をかわいそうだと思わないか。せめて少しの間だけでも鬼じゃなく人と触れ合いたいよ」

 涙を浮かべて懇願してみた。

「えーっ、うーん――ほんとはダメなんだけど――でも――わかった。いいよ。そのかわりテツさんには絶対内緒だよ」

 よし。彼にはまだ希望が持てる。

 タモツが面の紐を解くと下からまだ少年の面影が残った色白の若者の顔が現れた。

 嬉しいよと伝えると無邪気にほほ笑んだ。

 まるで聖堂の壁に描かれた天使のようだった。


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 つながれて三日が過ぎた。タモツの話ではあと二日で祭りの日が来るという。盆を持ってくるのは木村、タモツのほか、体格のいい男や年嵩の女の時もあった。もちろん面をつけているので顔はわからない。私に話しかけることもなく淡々と盆を運び、溜まった排泄物の始末をし、空になった盆を持って帰る。

 あれから木村も言葉をかけることはなかった。

 唯一の頼みの綱はタモツだけだ。

 タモツは非常に同情的だった。私の身の上話――幼い時に両親に死に別れ天涯孤独の人生――を聞き、結婚どころかまだ恋人もできないうちにこんな状況に置かれていることを私自身よりも嘆き悲しんでくれた。

 逃がしてくれないか何度も頼もうとしたが、そのせいで警戒されチャンスを失ってしまうかもしれないと考えるとうかつに口に出せない。

 どうにかして彼のほうから逃亡させてくれる気になってくれるといいのだが。

 きょう教えてくれた情報は、祭りは夜中に行うということだった。

 松明を持った鬼の行列が生贄の入った籠を担いで山の祠まで運ぶのだそうだ。主要な鬼以外は立ち入りできないが、タモツは子供の頃から隠れて見ていたらしい。

 祠の前には俎板岩と呼ばれる大きくて平たい岩があり、生贄はそこでまず首を切られ血抜きをされる。樽に溜められた血はおにがみ様の供え物で、残った肉体は内臓と骨を除き、村人たちで均等に分けるのだという。肉はほんの少しずつだが、それをいただくと無病息災で村はいつまでも栄えるというわけだ。

 内臓や骨も乾燥させ粉にして薬にする。それは村の共有物として大切に保管される。生贄になった人へ畏敬の念を込めて無駄にするものは何一つないという。

「ぼく本当はいやなんだよ。広尾さんが生贄になるの。この村のやってることは間違ってると思う。でも、ぼくみたいなやつがとやかく言ったって代々伝えられてきたこと変えられるわけない。あきらめるしかないよ」

 そう言ってタモツは鬼面をかぶる。

 微かな希望の光は消えてしまった。


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 太鼓の鳴り響く微かな音で目が覚めた。

 もう祭りの夜なのかと思ったとたん、身体が芯から震え始めた。痛いくらい心臓が激しく打つ。

 いやだいやだいやだいやだ。死ぬのはいやだ。しかもこんな死に方っ――

 鎖をむちゃくちゃに引っ張った。首輪を外そうともがいた。だが、指と首に傷を作っただけだった。

 いやだいやだいやだいやだああああああ――

「うわあああああ」

 声の限りに泣き叫んだ。喉が切れたのか、流れ込んだ鼻水に血の味が混じる。

 もうどうにもならないのか。もうすぐ血を抜かれ、ばらばらにされてしまう。こんなことがあっていいのか。

 引き戸の開く音がした。ごとごとという音に引導を渡された気がした。

 いまこの瞬間ぽっくり死ねたらいいのに。

「広尾さん」

 タモツだった。

 くぐもった声は鬼の面を被ったままだからだ。もう面を外してくれることはないのか。

「タ、モツ君――」

「もう名前呼んじゃだめだよ。きょうのぼくはもう鬼なんだからね。はいこれ」

 電球のスイッチを入れて盆を差し出す。

「御酒だよ。体の中を清めるんだって。これ飲んだら今度はお風呂で外側を清めるからね」

「なあタモツ君。木村さんに会わせてもらえないか。お願いだ。頼む」

「んー、木村さん祭りの準備で忙しんだよね。ほかのみんなも。それに誰に命乞いしても無駄だと思うけど」

「なあ頼む。頼むよ。逃がしてくれ。君だって私を哀れに思ってるんだろ」

 タモツに縋って泣いた。大の男がみっともないとわかっていたが、そんなことは言ってられない。

 タモツは面を外した。

「ぼくだって悲しいよ。友達なんてほかにいないし」

「じゃ、一緒に逃げよう。こんな村にいちゃだめだ」

 タモツは盃の入った盆をそっと床に置いた。

「広尾さん。ぼくは逃げられないよ。バカだからこの村から出ちゃいけないんだ。頭のいい人だけが村の外で勉強して、いい学校出て帰ってくるんだ。ぼくみたいなやつは一生村から出られないって木村の長老に言われてる。だから逃げない」

 確かにタモツは口が軽い。村の外で秘密をばらされないためにそう言い含められて育ったのだろう。

 もう終わりだ。

 体の力がすべて抜けた。

「でも――やっぱり広尾さんは逃がしてあげるよ」

「えっ?」

 思わず顔を上げた。

「かわいそうだし――友達だもん」

 タモツは微笑むとポケットから鍵束を出し、その中の小さな鍵を選ぶと首輪を外してくれた。

「いいのか」

 私は急に頼りなくなった首を擦った。

「うん。

 早く行ったほうがいいよ。外へ出たら土蔵の裏へ回って、民家の陰を選んで進んでね。

 たくさん火がある明るい場所にみんないるから、暗いほうに向かって。そっち側に村の出口あるから。おにがみ様の山と反対方向だし今なら誰もいないと思うよ。まさか広尾さんが逃げるって思ってないだろうし。

 そこまでたどり着いたらとにかく山道をずっと下っていけばいいよ。

 でも来た時見たと思うけど、きちんと整備された道じゃないし、深い森になってる。外の人間が入ってこられないようにわざと迷路みたいになってるんだ。とにかく下りを意識して、油断すると迷うから気を付けてね。

 駅まですごく時間がかかるけど、そこまでいければ何とかなるよ。がんばってね」

「わかった――

 でも、やっぱり君も行こう」

 手を差し出したが、タモツは静かに首を振る。長老の言うことは絶対だと思っているのだろう。

 誘うのをあきらめて私は土蔵を出た。

 久しぶりの外気をゆっくりと胸いっぱいに吸い込む。

 だが、外で聞く太鼓はより大きく不気味に鳴り響いていて自由を味わっている暇はない。

 夜空に満月が浮かび、辺りを青白く照らしていた。こちらにとっては好都合だが、逆に見つかりやすくもある。

 注意しなければ。

 私は周囲を確かめてそっと裏に回り込んだ。


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 タモツが教えてくれた通り、暗いほうに向かって民家の陰を進んでいくと誰にも見つかることなく村の出口に到達した。道と呼べない山道はすぐ森の中に溶け込み険しさを増したが脚には自信がある。このままうまく逃げられそうで心が逸った。だが、油断してはいけない。

 遠くに見える松明の動きからはまだ私の脱走に気付いていないと判断できた。だがばれた時、あっちの脚力を考えれば一瞬で追いつかれるに違いない。

 姿を隠しつつ、しかも迷わないよう細心の注意を払って一歩一歩下った。


 今自分はいったいどこにいるのか――

 月光を頼りに確かに私は山を下っていた。

 だが、同じところをぐるぐる回っているような感覚に焦ってつい向きを変えてしまった。

 その時はまだ下ってさえいれば大丈夫だと余裕さえあったが、朽ちて苔むした倒木がさっき目にしたものと同じだと知った時、すでに自分が完全に迷っていることを悟った。

 私の逃亡はいくら何でももうばれていることだろう。

 タモツはどうしているのか。彼が逃がしたことは一目瞭然だ。うまく言い逃れしてくれていればいいが、あのこのことだ。聞かれれば素直に自分のしたことをしゃべってしまうに違いない。私のためにひどい罰を受けるのはかわいそうだが、今は人の心配をしている場合じゃない。もしかしてこのまま遭難してしまう可能性もある。まったくもって本末転倒だ。

 ああ、腹が減った。喉も乾いた。あの握り飯とお茶が飲みたい。今までうまいものをいろいろ食ったが真っ先にあれを思い浮かべるなんて皮肉なものだ。

「あっ」

 急に地面がなくなり斜面を数メートルすべり落ちた。

 落ち着け。落ち着くんだ。

 激しく尻餅をついたが幸いどこにも怪我はなかった。気ばかりが急いてパニックになりそうだ。叫び出したい衝動にかられたが、そんなことをすれば自分で見つけてくれと言ってるようなものだ。

 遭難も嫌だが生贄にされるのはもっと嫌だ。

 立ち上がると深呼吸して息を整えた。

 木の上に登って方向を見定めようかと考えていた時、微かな人声が聞こえた。十数メートル後方に松明の火が三、四灯揺らいでいる。慌てて腰を落として身を縮めた。

 のろのろしていたら捕まってしまう。とにかくこの場から離れなければ。

 腰を曲げたまま頭を低くし、足元に注意して松明の反対方向へ移動した。

 だが、私の進む距離よりも松明の動きが早い。まだ見つかってはいなかったがすぐ後ろまで迫ってきていた。

 見つかるのも連れ戻されるのも時間の問題だ。

 とにかく逃げられるところまで逃げてやろう。

 そう決心して木々の間を縫って思い切り走った。枝に顔を打たれても、倒木や根っこに足を取られ転んでもすぐ立ち上がり走り続けた。下っているのかなんてもうどうでもいい。捕まりたくない。ただそれだけだ。

 突然目の前の木の間から松明に影を落とした鬼が現れた。

 ああ――もうおしまいだ。

 絶望のあまりその場で膝が崩れた。

「まだこんなところにいたんですかあ?」

 のんきな声が上から降ってくる。

 顔を上げると面をずらしたタモツが私を見下ろしていた。


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 安心している暇はなかった。

 見つからないよう松明を消し、タモツに連れられて急いで山道を逃げた。

 頭に鬼の面を載せたままのタモツは月明かりの中でも足が速くてついていくのに難儀したが、捜索隊の松明が完全に見えない場所まで来るとやっと心から安心できた。

 だが、駅に送ってくれているのではなさそうだ。

 私の考えを悟ったのか、

「今頃はきっと駅のほうにも探しに行ってるから、今夜は身を潜めておくほうがいいと思うよ」

 タモツは息も切らさないで「明日の朝早く山を下りればいいよ。明るくなったらそれだけ動きやすいし。

 でも、もしまだ探してたら見つかるかもしれないけど――」

 無邪気な笑顔を私に向けた。

「あの――君、大丈夫だったのかい」

 私はと言えば息も絶え絶えにずっと気になっていたことを訊ねた。

「え、何が?」

「私を逃がしたことだよ。木村たちに叱られただろう?」

「ああそれ? 鍵を落っことしたって言ったら、いったんはみんなにすごく怒られたけど、広尾さんを先に探さないといけないからって、もうそれどころじゃなかったよ」

 ふふふと笑って歩くのを再開したタモツの後ろから、もう一つ気になっていたことを聞いてみた。

「生贄が逃げたら祭りはどうなるんだろう?」

「うーん。今晩は中止かな。

 でももし明日、広尾さんが見つかったらその夜に行われるよ。だって準備は整えられてるもん。生贄が決まっている限り、祭りはいつになっても必ずやるんだ」

「じゃあもし逃げ切ればどうなる?」

「うーん。今までそんなことなかったからどうなるかわからないなあ。たぶん広尾さんをとことん追いかけると思うけど。だって村の秘密知られてるからね。

 だから広尾さんはもう自分の家に帰れないよ。誰にも知られないよう姿を隠さないと。

 そしたら仕方なく新しい生贄を探すんじゃないかな。

 でも、身内のいない人を見つけるのも、誰にもわからないように連れてくるのも結構大変みたいだから、テツさんまた苦労するだろうなあ」

 タモツの木村を労う深いため息を見て、私は複雑な思いに駆られた。

 一体この男はどちらの味方なんだろう。このまま信用していてもいいのだろうか。

 自分で逃がしておきながら私を捕らえたと、この村での自分の低い評価を上げようとしているのではないだろうか。

 黙ってついて来ていることがひどく愚かに思えた。

「なあ、タモツ君。一体どこに行くんだ。私たちは今どこにいるんだ」

 信頼を疑っている事がばれないようできるだけ何気なく訊いたつもりだった。

 立ち止まったタモツが振り返る。

「広尾さん、もしかしてぼくが怖いの?」

「い、いや、そんなことはないよ――」

 動揺を隠せず、声だけでなく全身が小刻みに震えた。

 タモツがくすっと笑った。

「ぼくね、広尾さんが好きなんだ。初めて見た時から」

「え? それはどういう――」

 これはつまりカミングアウトで、だから逃がしてくれたという意味なのだろうか。だから信頼してもいいと?

「初めて広尾さんの顔を見た時すごく胸がときめいたんだ。子供の頃、初めて祭りを覗き見た時みたいに」

 どういう意味だ?

「ほら、今みたいな顔見るとわくわくする」

 タモツは楽しそうに笑った。

「こ、こっちは命がかかってるんだぞ。ふざけないでくれ」

 頭に血が上りかっとなったが、タモツは冗談を言ってるのではなかった。にこにこと細くなった目の隙間からじっと私を見ている。

「うわあ、すごくいい顔してる。人って怯えるとどうしてこんなに面変わりするんだろう。

 みんなそうだった。あきらめていても俎板岩に載せられたとたん、一気に顔が変わるんだ。

 ぼく、その顔を見るのが大好きだった――」

「や、やっぱり。お前、私を木村たちに渡すつもりなんだろ――」

 思わずへなへなと座り込んでしまった。感情が制御できず滝のように涙が溢れてくる。

「テツさんには渡さないよ」

 えっ? 

 突然、前頭部を激痛が襲った。

 わけがわからず痛みに耐えながら目を上げる。

 タモツが大きな石を両手に持ち上げて笑っていた。

 月明かりに浮かんだ石の黒い染みが自分の血だと理解した時、再び石が振り下ろされ、そのはずみでタモツの鬼の面が地面に落ちた。

「あのまま逃げられてたらよかったのにね」

 三度目に石を振り下ろす時、タモツが至福の笑みを浮かべた。


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 痛みが意識を引き戻した。一瞬気を失っていたようだ。

「ああよかった、死んでなくて。死んだらもうこの顔は見られないからね」

 タモツが黒く染まった石を振り上げる。

「や、やめてくれ」

 逃げようにも全身の痛みでもう動くことができない。

 面を着けてもいないのにタモツの顔は冷酷無残な鬼そのものだった。

 その鬼が私の腹にまた石を振り落とす。

 ぐぼっ。

 血の混じった吐しゃ物が口から噴き出た。

 もう何度目なのだろうか。身体のあちこちを順に打たれ、今は腹を執拗に狙ってくる。

 やめてくれ。いっそ殺してくれ――

 そう叫びたかったが、小さな子供のように怯えすすり泣くことしかできなかった。

 タモツにとってはそれが愉快でたまらないのだろう。私の顔を覗き込む目がきらきらと輝いている。

「次はどこに落とそうかな」

 ボールでも拾うかのようにいそいそと石を持ち上げ、顔に狙い定める。

 息を呑む私を見て、さも楽しそうに笑い「うそうそ、まだつぶさないよ。だって面白い顔が見れなくなるもんね。

 んー、どこにしようかな。もう一回お腹に――

 ――やっぱり顔にしよう」

 タモツは泳がせていた石を顔の真上に戻し、思い切り振り落とした。

 とっさに避けたが側頭部に当たり、その激痛で目の前が暗転して気が遠くなる。痛みが脈打ち、そこにタモツの楽し気な笑いが追い打ちをかけた。

 だが急に笑い声が止まった。

「テツさん?」

 辛うじて薄目を開けると松明を持った鬼たちに囲まれ、驚いた顔のタモツとその腕をつかむ木村が見えた。

 とうとう見つかったか――

 薄れゆく意識の中で失望と同時に安堵を感じている自分もいた。

「面倒をかけてくれましたね」

 木村が私の顔を覗き込む。

 あんたに言われたくないよ。

 そう言い返したくても声が出ない。

 だが、木村への憤りがまだ消えていないことが生きている証のようで嬉しかった。

 それもじきに終わる。このまま気を失えば私は確実に生贄にされ、もう二度とこの世を見ることはないだろう。

 最後まで気力を保ち、縁もゆかりもない者たちに一体何をされるのか、なぜそれをされなければいけないのか、恐怖に脅かされながらもきちんとこの目に焼き付けなければならない。そして死してなお恨みつらみを募らせ私自身が鬼となり、いつか必ずこいつらに目に物見せてやるのだ――そう強がってはいたが、ともすればふっと闇のほうへと引きずられそうになる。

「大丈夫ですか?」

 心配そうな木村の声に一瞬意識が戻った。

 何が大丈夫ですかだ――

 唾でも吐いてやりたいが、だんだんと木村の声も周囲の喧騒も遠ざかっていき、今度こそ確実に闇の中へと引きずり込まれていった。


                 11


 目覚める度に私は自分の置かれている状況を把握しようと努めるのだが、できないまま何度も深い眠りに落ちていた。座敷に寝かされていること、誰かが常に側に座っていることだけは朦朧とした頭でも何となくわかった。

 見張りがついているのか――こんな体では逃げることなどできないのに。

 いつ祭りが始まるのか、いつ生贄にされるのか、眠っていても不安と恐怖がまとわりついている。

 いや、もしかして私はすでにこの世の者でなく、死んでまでも怯え続けているのかもしれない――


 ――ごりごりという何かを擂る音で目が覚めた。

 きょうはいつものようにぼんやりとではなく意識がはっきりしている。

 ここはどこだ。私はどうなったんだ。

 首をひねるとひどい痛みが全身を走った。それでもなんとか辺りを見まわす。

 左側の枕元に座る女の横顔が見えた。

 木村の姉?

 乳鉢で何かを一心不乱に擂っていて、目覚めた私に気付いていない。

「アサコさん?」

 彼女がぴくっと顔を上げ私のほうを向いた。

「ああよかった。やっと気が付いたのね」

 膝でにじり寄ると私の額からずれていた濡れタオルを手に取り「わたしの名前をご存じだったの? 哲夫が教えたのかしら? 

 改めてご挨拶を。朝子といいます」

「あ、いや、木村さんじゃありません」

「じゃ、保ね。あのこったらほんとお喋り。贄に名前は教えるなといつも言っているのに」

 体を起こそうとした私を制し、朝子がくすくす笑う。

「まだ動けないですよ。そのまま寝ていてくださいね。ちょっと哲夫を呼んできます」

 絞り直したタオルを私の額に置くと朝子は座敷を出て行った。

 開け放された障子の向こうは手入れの行き届いた庭だった。最初ここに来た時に通された座敷とは違い、屋敷の奥に位置していることが何となくわかる。

 枝ぶりのいい松の上に青空が広がっていた。

 何もかもが嘘だったのではないか、そう思えるほどのどかだ。

 しばらくすると廊下を足音が近づいてきた。

「やっと目覚めましたか。よかったです」

 障子の陰から木村が顔を出す。優しい表情で口調も柔らかだがこいつは信用できない。いったん消えていた怒りが沸々と湧き上がってくる。

「よかったですじゃない。一体どれだけ私を弄べば気が済むんだ。いっそあのまま――意識のないまま生贄にしてくれればいいものを。

 回復させて、元気にさせてからなんて、お前らどれだけ残酷なんだ。この村の人間なんてみんな地獄行きだっ」

 今度こそ言い返せた。だが、急に上半身を起こしたため全身に痛みが走る。

 呻きながら伏せる私の背に木村が手を添えた。

「無理しちゃいけません。見えている傷はだいぶふさがりましたが、肋骨が折れているし内臓も傷付いてます。

 さあ横になってください」

 腹立たしいが木村に優しく布団を掛けてもらうと、どうしようもなく涙が流れた。

「私は――私はいったい、いつ生贄にされるんだ?」

「広尾さんはもう生贄じゃないですよ。急遽変更になったんです。おにがみ様を崇める祭りからおにがみ様交代の儀式に」

「交代?」

「保ですよ。あなたのおかげで今年は新しいおにがみ様が生まれました。僕の代で交代の儀式ができるだなんて何ともありがたく嬉しいことです」

「保君? 彼がおにがみ? 私を逃がした罰なのか?

 ――彼に何をしたんだ? 保君は大丈夫なのか――」

 結果保にはひどい仕打ちをされた。だが、監禁されている時、私に優しく接してくれたのは彼だけだ。しかも逃亡の手助けもしてくれた。もしあのまま私が迷わず山道を下れていたら本当の救世主だった。

 その保がおにがみとは。どうなるのかわからないが罰としてもひどすぎないか?

 抗議しようとしたが、その前に木村に制された。

「あなたを逃がしたからじゃありませんよ。彼は生まれながらに鬼だったのです。正真正銘の鬼。僕たちのように面を被らなくてもね。この村の誰も、彼の身内でさえ気付いていなかったことをあなたのおかげで判明したんです」

「鬼――」

 私を襲ってきた保の顔を思い出した。確かに彼は鬼だった。

「で、保君は?」

「おにがみ様になったのですからおられるべき場所に」

「そうか。かわいそうに。ただでさえ狭い村から出られないのに、その上さらに岩屋に閉じ込められるなんて」

「ずいぶんお詳しいのですね。保が教えたんですね」

「ああ、まあ――」

「確かに彼は優しくていいこです。彼の両親や僕の父、もちろん僕たち村の者みんな、彼をいいこであると同時に役立たずだと思っていました。

 ですが、鬼だったとは――

 この村では何十年かに一度、生まれるのです。人間性に欠ける子供が。

 そういう子は動物を残虐な方法で殺したり、身内にひどい暴力をふるったりして早くから鬼だと明らかになるのですが、保はそういうことが全くなかったので誰も気づきませんでした――

 ですが、あなたの哀れな姿や怯える顔が引き金になったのでしょうね。あのこの眠っている残虐性を起こしてしまった――

 あ、広尾さんが悪いと言ってるわけではないですよ」

 当たり前だ、と心の中で毒付いた。事の始まりはあんたなんだと。だが、こんな状況で相手を不愉快にさせては自分の身が危ない。

 言葉にはせず、ため息で紛らわせた。

「私は結局、保君に助けられたんだな」

「そうです。いろんな意味でおにがみ様に助けられたんです」

 含みを持ったような木村の言葉に少し引っかかったが、保のことが気になった。

「帰る前に保君に会いたいよ。今度は彼が閉じ込められてるんだろ? 

 私は彼を助けることはできないけど、優しくしてくれたお礼と私にしたことは怒ってないと伝えてあげたいんだ」

「ああ気持ちはわかりますが、もう保には会えませんよ。彼はもうおにがみ様ですからお山の岩屋にいますが、あそこは祭以外立ち入り禁止の場所です」

「でも――」

「心配いりません。保もちゃんとわかってると思います。きっとあなたを救えて喜んでますよ。

 あ、それから。

 広尾さんはもう帰れませんから、そこのところご理解ください」

「は?」

 聞き間違いとは思ったが、心臓の鼓動が大きく速く打ち始め、全身の痛みがぶり返してきた。

「だってこの村の秘密を知っているのですから当たり前でしょう?

 帰れると思うなんて広尾さんも考えが甘いですね」

「なっ――」

 やっぱりこいつは信用できない。

「木村さん。たのむ。帰っても絶対喋らない。約束する。もし喋ったとしても――いや絶対喋らない、喋らないよ、でももし喋ったとしても、この村の存在は誰からもわからないんだろ? だったらいいじゃないか」

「だめですよ」

「もしかして私を来年の生贄にするつもりじゃないだろうな。保君が言ってた、生贄を探すのは大変なことだって。

 だから来年まで飼っておく気なのか――」

 木村は憐れみを込めた目でくすっと笑った。

「違いますよ。そんなに怯えなくても大丈夫です。あなたはもうこの村の大切な住人なのですから。

 意味が分からないって顔してますね。だから、さっきから言っているのに。おにがみ様に助けられたって。

 つまり、あなたは私たちと同じものを口にしたということです」

 私は咄嗟にさっき朝子が一生懸命擦っていた乳鉢を振り返った。中には白や灰茶色をした粉が入っている。

「ま、まさか――」

 そういえば、目覚める度、薄いスープのようなものを飲まされていたのを思い出した。あれは保が言っていた骨や内臓を乾燥させた薬なのか。

 胃が裏返るほどの吐き気を催し、口を押さえた。

 木村が苦笑し、呆れたように首を横に振る。

「あれだけの傷を負わされて、医者もいない中、普通そんなに早く癒えませんよ。おにがみ様のお力です。

 貴重な薬を提供したんですから、ありがたく思ってください。

 どうせ帰ったってあなたの居場所なんてもうないでしょうし、誰も心配なんてしやしませんよ。この世に行方不明者なんてごまんといるんですからね。

 だからこの村でずっと末永く暮らしてください、『お兄さん』」

 障子に影が映り、盆を持った朝子が入ってきた。

「哲夫ったら。広尾さんが疲れてしまうでしょ。まだまだ養生が必要なんですからね。無理させないで」

「はいはい、すみません」

 木村が立ち上がる。

「さあさあ、広尾さんも少しでもこれを食べて、また休んで、早く元気になって下さいな」

 そう言いながら近づく朝子に木村が何かを耳打ちし座敷を出て行った。

「いやだ、哲夫ったら――」

 朝子は呆然としたままの私を上目遣いで見ると頬を赤く染め、小さな土鍋の入った盆を枕元の傍らに置いて腰を下ろした。

「頑張ってできるだけ食べてくださいね。そうすればもっと早く回復しますから」

 細く美しい指で鍋の蓋を開ける。おいしそうな匂いが漂ってきた。中には肉入りの粥が湯気を上げている。

 果たして私は食べられるだろうか。

 朝子はいそいそと木匙に肉と粥を掬うとふうふう吹いて私の口元に近づけてくる。

 料理上手な朝子のことだ。きっと上手に味付けをして美味いに違いない。何もかも忘れさせてくれるくらいきっと――

 私は目を閉じ、餌を求めるひな鳥のように口を開けた。


                 12


 負傷した広尾が木村家に運び込まれた頃、保は哲夫を含む鬼たちに囲まれ山の祠へと向かっていた。

 松明を持ち白装束に身を包んだ鬼たちが黙々と登っていく。

 前を見ても後ろを見ても広尾を乗せた籠の行列がなかったので、すでに祠の前に運ばれているのかもしれないと保は思った。

 下働きばっかりで大切なことはいつも蚊帳の外だったが、今回こうやって祭りに参加させてもらえるのは広尾を発見した褒美なのかもしれないと考えた。

 だが、どうして自分は赤装束を着せられているのだろう。哲夫に訊ねたかったが、重々しい雰囲気がして訊くのを躊躇った。

 一番後ろの暗がりをついて来る白装束を着ていない三人の鬼たちに気付いた。面だけの鬼は普通祭りには参加できない。それもいつもとは違っている。

 岩屋に近づくと周辺に灯された篝火が昼間のように明るく照らしていた。

 俎板岩の上には広尾の姿がなく、かといって祭りが中止というわけでもない。

 岩屋の前の祠には新しいしめ縄が張られていた。保は毎年祭りを覗き見ていたがこんなのは初めてだった。風に揺れる紙垂が赤いのもいつもとは違う。

 なんだかおかしい――

 保が身の危険を感じた時にはもう遅かった。鬼たちに両脇から羽交い絞めにされ、俎板岩の上に無理やり寝かされた。

「ちょっと待って。テツさんどういうことなの?」

 祠の周囲には篝火に揺れる鬼の顔が並んでいたが、どれが哲夫なのかもうわからない。誰一人として保に口をきく者もいない。

「まさか、ぼくが生贄? 違うよね。だってぼくはこの村の鬼だもの」

「そうだ。鬼だ」

 聞き慣れた声がした。後ろにいた面だけの鬼が一人、俎板岩の横に近づいて来た。

「おじいちゃん?」

 それに対しての返事はなかったが、小柄な背格好や見慣れた普段着が確かに祖父だった。その背後に男女の鬼もいる。

「お父さん? お母さん?」

 やはり返事はない。女の鬼が隣の鬼の腕に縋りついて立っている。

 わけがわからないまま保の両手両足が岩の四方に打たれた鉄杭に縄で固定された。

「待って。広尾さんは死んだの? だからぼくが代わり? それともあんなことした罰? 

 ごめんなさい。もう二度としません。だから許して下さい。お願いします。

 おじいちゃん。お父さん。お母さん。助けてっ」

 三人の鬼は体を捩って抵抗する保をただ黙って見つめていたが、祖父の鬼が一歩前に近づいた。

「保や。お前はきょうからおにがみ様になるんだよ。わしらの家からおにがみ様が出るなんてなんとありがたいことか。立派なおにがみ様になり、この村を末永く守っておくれ」

 おにがみ様が村人の間から生まれることがあると、祖父から聞いた話を保は思い出した。

「はあ? ぼくがおにがみ? ふざけるな、くそじじいっ」

 さらに四肢を捩って暴れたが拘束された体は自由にならなかった。

 白装束を着た一人の鬼が数人の鬼たちに無言で合図を送る。鬼たちは頷くとそれぞれの役割を果たすため移動した。

 一人の鬼が暴れる保の頭を押さえた。次の鬼が汚い言葉を罵り続ける保の口の中にやっとこを突っ込み舌をつかみ出す。次の鬼がその根元を小刀で切り落とした。

 女の鬼の膝が崩れ落ちるのを隣の鬼が支える。

「おにがみ様に呪い言を吐かれる前にその舌を切り落とさねばならない」

 祖父が誰にともなく囁いた。

 頭を押さえている鬼が保の頭を傾け、口からあふれる血を小さな甕に流し入れる。

「おにがみ様の血を無駄にしてはならない」

 祖父が囁き続ける。

 痛みに呻き苦しむ保が鬼たちを睨むように目を見開いた。だが、錐を持った鬼がその両目を左右順に突く。言葉にならない絶叫が山にこだました。

「邪眼に睨まれる前にその目を潰さねばならない。

 人声を聞き我が身を振り返らぬようその耳を閉じねばならない」

 火箸を持った鬼がそれを保の耳の穴へ順に突き刺し鼓膜を破る。

「そして逃げ出さぬよう四肢を落とさねばならない」

 鉈を持った鬼が両腕、両脚の付け根を切り落とした。

 出た血はすべて甕に溜められた。

 息も絶え絶えの保はもう叫ぶことも呻くこともできないようだったが、肩と太腿の切断面に火を当てられ簡単な止血を施されると再び咆哮を上げた。

 その後大人しくなった保を二人の鬼が岩屋に運び込んだ。ござの敷かれた一畳ほどの地面に保を寝かすと格子戸を閉め厳重に鍵をかけた。

「あのこ、死んでしまいます」

 一部始終を見ていた女が鬼面の内から涙声を響かせる。

「それでいいんだ。それで完了なんだ。

 あれはもうわしらの子でも孫でもない。おにがみ様だ」

 祖父がそう言い聞かせた。

 その横を血甕を持った鬼が通り過ぎる。

「おいっ。それをどこへ」

 慌てて祖父が呼び止めた。

「木村様のお屋敷に――」

「どういうことだ。それはわしらのものだ」

 おにがみ様の血肉は生贄から採れたものより遥かに効能の優れたこの上ない薬となる。

 そしてその血肉はおにがみ様の家族に返されることになっていた。

「朝子様のご所望ですよ」

 哲夫の声が横から現れ、甕を持った鬼に目配せすると一礼して鬼が去った。

「――朝子様が言うなら仕方ない」

 祖父が呻くようにうつむいた。

「肉もいただきますが、あなた方の分もちゃんと分けてお返ししますので心配しないでください」

 俎板岩の上では切り取った四肢の皮膚を剥ぎ、肉を削ぎ取る作業が手際よく行われていた。

 爪、骨を含めすべて二等分されて二つの盆の上に並べられている。

 作業が済むと鬼が盆の一つを持って祖父たちの前を通り過ぎ、山を下りて行った。

 哲夫がもう一つの盆を持ってきて差し出す。

 祖父は両手でそれを受け取った。朝子に持っていった盆とほぼ同じ量だが、受け取った盆にはただ一つしかない保の舌が入っていた。

 祖父は哲夫に深々と頭を下げ、忙しく立ち働く鬼たちにも同じように礼をした。保の両親もそれに倣う。

 鬼たちはいったん手を止めて保の家族に黙礼すると後始末に戻った。

 外の篝火が岩屋の中をまだ仄かに照らしていた。

 いまだ息のある保が苦しみに呻き、蟻に集られた芋虫のように頭を持ち上げては身悶えしている。

 火に浮かぶその影には二本の角がはっきりと映っていた。


                 了

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