くちさけ 


「あんたさぁ、甲斐性もないくせによく浮気なんかできるよね。どうせ小汚いスナックの誰にでも股開くような女だと思うけどっ」

 仕事から帰ってそうそう作業着を脱ぐ間もなく淳平は妻のさつきに嫌味を言われた。

「な、何のことだよ。浮気なんてしてないよ」

 夕食の準備中だったのか、包丁を持ったままのさつきの手を警戒しながら淳平はしらを切る。

 興奮のあまりその手を振るので、「包丁置けよ。危ないよ」そう注意すると、さつきが激しくそしり続けながらもテーブルの上に包丁を置いたのでほっと息をついた。

 付き合い始めた頃は清楚な顔立ちの美人だったが、結婚後は眉間の皺とほうれい線が二十代後半とは思えないほど深く険しくなっている。

 まるで鬼だ。それに比べてあの娘は本当にかわいい。

 ビールを飲むと頬が染まる歩美の顔を淳平は思い浮かべた。いつも淳平のつまらぬ愚痴を聞いて慰めてくれる行きつけのスナックにいる娘でママの姪だという。

 歩美とは体の関係がないという意味で正真正銘浮気ではなかった。だが、淳平は歩美に本気に恋をしていた。だからそういう意味でも浮気ではない。

「わたし知ってんのよ。山田さんとこの奥さん、あんたと若い女がコンビニで買い物してんの見たって言ってたわ。すごく仲良さそうだったって」

 確かに三日ほど前、偶然コンビニで歩美と出会った。その時同じアパートの住人に見られたのだろう。淳平は歩美にばかり気を取られ全く気付いてなかった。山田と言えばさつきがスピーカーと称している主婦だ。淳平は心の中で舌打ちした。

「ただのスナックの女の子だよ。たまたま出会っただけさ。俺は常連だし、そりゃ向こうは愛想よくするよ。

 俺だってにこにこされりゃ悪い気はしないし、そういうことだ」

「はんっ、何がそういうことだか。

 だいたい店以外で愛想よくする女っておかしいんじゃない。だってバカ男に勘違いされたら困るでしょ。

 だから金目当てか、ヤリたいだけの淫乱女なのよ。

 バカだバカだと思ってたけど、それに引っかかるなんてほんとあんた大バカよね。その女きっとヤルのが目的だったんでしょ。だってあんた金持ってないもん。何回ヤッたの? 一回? 二回?」

「ったくおまえってゲスだな。一回もヤッてないよ」

 夫を見下げ鼻で笑うさつきの目を淳平は睨んだ。

「あはは。あんたなんて相手にされてないってことか。それはそれで情けないわね。誰でもヤル女にまで相手にされないなんて。情けなすぎて笑えるわ」

 淳平の視線に対抗するように、さつきは大口を開けて馬鹿笑いした。

 相手にされていない――

 今まであえて考えないようにしていた言葉を突き付けられ淳平はかっとなった。

 不快な笑い声が頭の中で反響する。

 とっさにテーブルの上の包丁をつかむとさつきに向かって勢いよく薙ぎ払った。

 血を飛び散らしながら左右の頬が裂ける。大きく開いていた口がさらにぱっかりと開いた。

「ぎゃああああああっ」

 さつきの悲鳴を近隣に聞き咎められる恐怖がさらに淳平の手を動かした。素早く包丁を振り上げ、絶叫を上げるさつきの広々とした口の奥に差し込んだ。

 かっと目を見開きすべての動きを止めてさつきは後ろに倒れ込んだ。

 我に返ると淳平は口の中に包丁が突き刺さったさつきの死体の前に座り込んでいた。

 天井を見つめたままの目が今にも自分のほうに向けられそうで、押し入れからタオルケットを出して死体の上に掛けた。

 その時乾いた血が自分の手にこびりついているのを見つけた。手だけでなく顔や作業着にも飛び散っていることに気付いた淳平は脱衣所で作業着を脱ぎ捨て念入りにシャワーを浴びた。

 服を着替えた後、食器棚や箪笥の引き出しを引っ掻き回し、さつきが保管している生活費や預金通帳、へそくりなど探し出して集め、当座の着替えとともにバッグに詰め込んだ。

 その間、隣近所の住人や警官が駆けつけてくることはなかった。時間帯がちょうど夕食で賑わっている頃で幸運にもさつきの悲鳴が聞こえなかったのかもしれない。すぐ黙らせたのもよかったのだろう。

 身支度を整え終えると淳平はそっと玄関ドアを開け、頭だけ出して周囲を窺った。各部屋から漏れてくる子供のはしゃぎ声やテレビからの爆笑が聞こえるだけで誰もいないのを確認し、外に忍び出ると音を立てないよう鍵を掛けた。

 もう一度ぐるりを見廻し、淳平は借りたままの社用車を止めた駐車場へと急いだ。


                 *


 さっさと逃亡するつもりだったのに淳平がその店にバンを停めたのは腹の虫が鳴ったからだった。

 スナック『いずみ』は開店していたがカラコロと音の鳴るドアを開けると歩美だけが手持無沙汰な顔でカウンターの奥に立っていた。

「あれ、いずみママは?」

「彼氏と旅行」

 歩美はつまらなさそうに答える。

「ああ、あの――」

 こくりと頷く歩美を見ながら淳平はたまに見かける羽振りのいい老人の顔を思い浮かべた。

「それで歩美ちゃんが一人で店番を?」

「そうなの。わたし一人だと心細いから休業にしようって言ったのにもったいないからって。でもきょうはまだ誰も来ないんだ。淳さんが初めてよ。

 で、何飲みます?」

 頭の中でひらめくものがあり、淳平は歩美に顔を近づけた。

「店閉めて俺たちも旅行に行かないか」

「えっ? えー?」

「俺さ、さっき嫁と喧嘩して家出してきたんだよ」

 淳平は横の椅子に置いたバッグを指さし、「もちろんニ三日したら帰るつもりだけどさ、面白くないから温泉にでも行って息抜きしようと思ってたんだ」と笑った。人を殺した後によくこんなにすらすら嘘が出てくるもんだと自分でも感心しつつ、死体が見つかるのもニ三日の問題だろうと覚悟も決めた。それまで好きな娘と楽しめればいいと。

「うーん。でもなあ――どうしよ――」

「行こうよ。どうせ儲けになるほど客なんか来ないよ。なっ」

「ん、わかった。でも帰ってきたら一緒にママに謝ってね」

 歩美がペロッと舌を出す。

「わかってる。俺が無理に誘ったんだって謝るよ。そうそう土産もちゃんと買ってな」

「うふふ、そうと決まれば誰も来ないうちに早く店閉めなきゃ」

 腹ごしらえは後でもいいよなと思いながら、スイッチを切ってスタンド看板を引き入れている歩美の尻を淳平はじっと見ていた。


                 *


「わたしが一緒なの、奥さんにばれたらまた喧嘩になるんじゃないの」

「大丈夫だよ。そのために遠くの温泉に決めたんだから。帰りは途中で降ろすよ。ばらばらで帰れば誰もわからないって」

「だといいけど。

 で、本当にわたしが決めちゃっていいの?」

 スマホで宿の検索をしていた歩美は運転席の淳平に顔を向けた。

 もうすぐ夜が明ける時間帯だがまだまだ空は暗かった。夜通し運転を続けている淳平の目の下に隈ができているのがナビの照らす光でもはっきりとわかる。

「うん、いいよ。どこかいい宿空いてるかな? 予約できたらいいね?」

「平日だからわりと空いてるみたい。当日予約でも十分いけるわ」

 歩美はネットで予約を終えると、あくびをした。

「眠ってもいいよ。俺に付き合わなくったって」

「いいの。淳さんが運転してくれてるのにわたしだけ眠れない」

「優しいな歩美ちゃんは。うちの嫁なんてさ、後部座席でいびきかいて寝てるよ。着くまでまったく起きないんだから」

「結婚すればわたしだってきっとそうなるよ」

 そう言ったのは勘違いされないためだったが、「俺は歩美ちゃんが嫁なら許せる」と淳平は目尻を下げた。

 淳平のことは嫌いなタイプではなかったが妻帯者だ。この男との幸福を求めるならばいろいろと困難が生じるだろう。それを乗り越えてまでも一緒になりたいとは思わなかった。

 でも――

 歩美は窓ガラスに映る街路灯に浮かんだ自分の顔を眺めながら心の中でため息をついた。

 カップルが別々の部屋を頼むなんておかしいだろうと、さっき二人部屋を一つ予約した。自分の意志で決めたことだが他意はない。

 だが淳平は何と思うだろう。

 同室にしたのだから肉体関係を了承したと思うに決まっている。いや、ついてきた時点でそう思われているかもしれない。

 勢いで来ちゃったけど、やっぱ来なきゃよかった。

 歩美は淳平に悟られないよう深く静かに息を吐いた。


                 *


 休憩に立ち寄った道の駅は平日の朝にもかかわらず結構賑わっていた。

 歩美はトイレを済ませると花壇の前にあるベンチに座り淳平を待つ。

 売店の中では子育てを終えた年代の女性グループが笑い声をあげ楽しそうに談笑していた。

 五人いる中の一人が真っ赤なワンピースを着てマスクをつけている。店内のことなので外からははっきり見えないが、他の女性たちとは異質な感じがした。

 仕方なく付き合ってるママ友ってとこかな。

 マスクの女は談笑に加わらず、じっと外に顔を向けていた。こっちを見ている気もしたが、視線がどこを向いているのかそこまではわからない。

「お待たせ。焼き立てメロンパン売ってたから買ってきたよ。あと缶コーヒーでよかったかな」

 淳平が戻ってきて白いビニール袋を掲げた。

「ありがとう。おいしそう」

 手渡された袋からパンを取り出し、遠慮がちに離れて座る淳平に渡す。プルトップを開けて缶コーヒーも渡すと、「気配り上手だな」と淳平は感心した。

「そんなことないよ。連れてきてもらってるんだからこれぐらいしなくちゃ」

 メロンパンを頬張りながら淳平は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 気があるようなことを匂わしたつもりはないが何を言ってもそう聞こえてしまうような気がして、歩美はそれ以上何も言わず視線を逸らせコーヒーを飲んだ。

 マスクの女がまだこっちを見ている。

 他人にどう思われようと気にする理由はないのだが、男女が離れて座っていることに違和感があるのかもしれないと、不自然さを消すため歩美は淳平のほうに尻をずらして近づいた。

 それを横目で見る淳平の頬が再び緩むのに気付き、自分で泥沼に足を突っ込んでいるんだと情けなくなった。もうこうなった以上は仕方ないと歩美は覚悟を決めた。

「ふう食った、食った。さ、行こうか。ゴミ捨ててくるから先に車に戻ってて」

「わかったわ」

 袋と空き缶を持ってゴミ箱に向かう淳平の後姿を見送って、会社のロゴが入ったバンに向かっていると女性グループも駐車場にやってくるのが見えた。

 詮索するような目付きでこっちを見ているような気がするが、やましい気持ちがそう見せるのだと歩美は自意識過剰を笑った。その証拠に彼女たちはきゃあきゃあと声を上げ、次は誰が運転するのか国産の高級車の横でじゃんけんをし始めている。

 だが、マスクの女だけはじっとこちらを見つめていた。被さった前髪が影になり相変わらず視線の先はわからない。だが確実に自分を見ていると歩美は感じた。

 むかつくなあ。わたしたちがどんな関係でもあんたには関係ないでしょうに。

 頭にきて女を睨み返す。

 運転手が決まったのか、女性たちが次々と乗り込み車が動き出した。軽快な走りで駐車場を出て行く。

 だが空いたスペースにマスク女だけ取り残されていた。

「え、なんで――」

 わけが分からず呆然とする歩美のもとに、「ごめん、ごめん」と淳平が駆け足で戻ってきた。

「ね、なんかおかしいのよ。あの人、みんなに置いてかれたみたい――」

 歩美が指すひとさし指につられて淳平が顔を向ける。その先にはマスクをした赤いワンピースの女が立っていた。

「あっあれは――」

 その女が勢いよくマスクを引き剥がした。耳のあたりまで裂けた口がぱかっと開き、血にまみれた歯列と真っ赤な舌が見える。

 歩美より先に淳平が情けない悲鳴を上げ、それに重なるように歩美も悲鳴を上げた。

 それが合図のように女がこっちに向かって走ってくる。

 逃げる淳平に手をつかまれ、歩美も一緒に走り出した。

「生きてたんだ――生きてたんだ――」

 うわ言のように呟く淳平に、「どういうことっ、ねっ、あれ何っ」と歩美は追いかけてくる女を振り返った。

 徐々に距離を詰めてくる女の開いたままの口から血とよだれが糸を引いていた。見開いた目は歩美を捉えて離さない。

 背筋が怖気立ち足元がもつれ歩美は転んでしまった。繋いだ手が離れる。

 そこに女が追いついた。

 淳平は固まったかのように突っ立ったままだ。

 女がゆっくり近づいてくる。

「わたしのかお、きれい?」

 裂けた口で何を言っているのかわからなかったが歩美にはそう聞こえた。首を横に振り、すぐ思い直して縦に振り直す。

 歩美の上に女が馬乗りになった。

「おまえもきれいにしてやるよっ」

 そう言うなり歩美の口に両手の親指をこじ入れ口角をつかんで左右に引き裂いた。

 絶叫が自分の耳をつんざく。

 激痛に意識が遠のく中、震えながら地面にくずおれる淳平が見えた。


                 *


 歩美の悲鳴に集まった野次馬が通報したのか、しばらくしてパトカーと救急車が到着した。

 血にまみれた歩美のそばに警官が駆け付けた時、彼女のそばには手を血で汚した淳平がしゃがみ込んでいた。

 淳平は歩美への傷害罪で現行犯逮捕され、その後すぐ、妻の殺害も発覚した

 淳平は殺人を自供したものの歩美の件に関しては否認した。だが、いくら見たことを説明しても誰も信じてくれなかった。

 歩美は何度も形成手術を受け、顔を元に戻そうとした。だが縫合しても傷はすぐ化膿し、どんな抗生物質を処方しても防ぐことはできず、頬が閉じることはなかった。


                 *


 一人の少年が夕暮れの路地を歩いていた。もっと早く帰るつもりでいたのだが友人の家でゲームに熱中しすぎてこんな時間になってしまった。

 最近この小学校区内で不審者情報のメールが回覧されている。学校からも母親からも注意を受けていた。

 空はまだぼんやりと明るいが周囲は薄暗くなってきている。

 少年は足を速めた。

 等間隔に並ぶ電柱の街灯が次々と点灯し始め、ブロック塀に鈍い光を落とす。

 吐き気をもよおすような臭いがどこからか漂ってきた。死んだ動物の臭い? そう思った時、数メートル先の電柱の陰に女が立っていることに気付き、心臓の鼓動が激しく高鳴った。

 一歩近づくごとに臭いが一層きつくなり、嘔吐くのを我慢しながら足早に通り過ぎる。

「ぼく」

 後ろから呼び止める女の声は首筋の産毛が逆立つほど異様な響きをしていた。

 気付かないふりをして歩を速めたが、だんだん足音が近づいてくる。

 たまらず振り返ると目の前に女が立っていた。

 少年をじっと見つめる顔が街灯の光に浮かんでいる。

「わたしきれい?」

 にっこり笑う両頬が裂け、爛れた肉から血膿が糸を引いて落ちた。

 女は呆然と立ちすくむ少年の口に両手の親指をこじ入れると左右の頬をいっきに引き裂いた。



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