祈甕 ~いのりがめ~

  

  

「ここがそうか」

 平山は作業着のポケットに手を突っ込んだまま古い空き家を見上げた。

 ひと昔前の木造二階建てで、侵入されないよう玄関には大きな板が張り付けてある。

 内藤という名札を付けたスーツ姿の若い男がうなずく。

「はい。お父さんが先日亡くなってようやく処分できるって娘さんが言ってました。施設に入っていたんですが、先に亡くなった奥さんとの思い出の家だからって処分を拒んでいたそうで――」

「家は住まなきゃ意味ないのにな。ところでそっちは?」

 空き家に隣接する古い木造の小屋を顎で示すと内藤がボードに挟んだ書類をぱらぱらとめくった。

「ああ、物置です。もちろんそこも一緒に解体してくださいとのことで――」

 平山はしばらく物置小屋をじっと見ていたが、引っかかりを覚えて入口に近づいた。

「依頼主はここに出入りしてるんかな?」

「いいえ、娘さんは他県に嫁いでますし、お父さんは娘さんのお宅に近い施設にいたとかで誰も出入りはしていないはずですよ。依頼も電話のみですし」

 隣に立った内藤に平山は小屋の入口にぶら下がる大きな南京錠を指さした。

「なんですか?」

 のんきな顔で内藤が首をかしげる。

「だからぁ、このでっかい南京錠、やけに新しくないかって言ってんの。誰も出入りしてないんだろ?」

「あ、ほんとですね。どういうことでしょう」

 内藤は数枚の書類に何度も目を通してから「これについて何も指示がないですけど――全部処分ってことでいいと思います」と顔を上げた。

「わかった――でもちょっと気になるな。一応、中を確認しとくか」

 一瞬面倒臭そうな表情を浮かべた内藤を尻目に自社の軽トラから工具を取ってくると、いとも簡単に南京錠を破壊した。

 立て付けの悪くなった引き戸を無理やり開けると、中からひどいにおいが流れ出てきた。

「おえっ」

 内藤が嘔吐いて口を押さえる。

 平山も目に染みるほどのにおいに躊躇したが、鼻と口を押さえ思い切って敷居をまたいだ。

「平山さん、においが服に染み付きますよ。僕、いやです。入りませんよ」

 口を塞ぎくぐもった声で宣言する内藤に、片手を上げて了解の合図を送ると薄暗い中を奥に進んだ。

 ところどころ床が抜け、その穴から雑草の伸びた物置には、壊れた家具や昔の家電用品などが詰め込まれているのが見えるだけでにおいの原因は何もない。

「床下で野良猫か野良犬が死んでるんかもな」

 内藤にそう伝えつつさらに奥に進む。

 汚れで変色した不用品の山まで辿りつくと足を止めた。

「なんだ、これは」

「なんですか。何かあったんですか」

 恐る恐る入口を覗き込んでいた内藤だったが、平山が返事しないことに業を煮やし「もうっ」と文句を吐きながら入ってきた。おえおえと何度も嘔吐きながらそばまでくる。

「いったいなんすかっ」

「これなんだ?」

 タメ口になっている内藤を気にもせず、平山は目の前のものを指さした。

 蓋をガムテープで幾重にも巻いて厳重に閉じた大型の青いゴミバケツだった。まだ新しいものだ。

「ただのゴミバケツでしょ」

「それはわかってるよ。こんな新しいのおかしくないかって言ってんだ。他の不用品と明らかに違うだろ。さっきの南京錠も新しかったし。誰か出入りしてんじゃないか」

「えーっ、ここにゴミを不法投棄してるってことですか? ったく、油断も隙もない」

 内藤はポケットからスマホを取り出しながら入口に向かう。

「ただのゴミなら錠なんかかけないと思うけどな――」

 平山はそう独り言ち、腕を組んだ。

 内藤が戻ってきた。

「上に問い合わせたら、構わないから処分してくれってことです」

「わかった。じゃ、とりあえず中を確認するか――」

「ええっ? もう確認ばっかりいいじゃないですか。きっと生ゴミです。そのまま運び出しましょうよ」

「そんなわけにはいかないよ。車に防塵マスク積んでるから二つ取ってきて」

「二つって、まさか僕も」

「あたりまえだろ。あんたにも確認しといてもらわないと」

 内藤は泣く泣く車から使い捨ての防塵マスクを取ってくると、二人がかりでガムテープをはがしにかかった。

 テープの最後の一巻きになり、平山はべっとりと糊のついたそれを慎重にはがしてから内藤を見た。

「開けるぞ」

 うなずく内藤を見て取っ手を持ちゆっくりふたを回す。

 まず最初に来たのは臭気だった。腐敗臭と生臭いにおい、そこにツンとするアルコール臭が混ざっている。

 防塵マスクを通過してくるきついにおいに身震いしながら、安価な使い捨てマスクでも持っててよかったと思った。

 だが、ふたを取り外した平山の目にもっとひどいものが飛び込んできた。

 バケツいっぱいに満たされた赤黒い液体の中に丸坊主の生首が仰向けで浮かんでいたのだ。半開きの瞼の隙間から白く濁ってへこんだ眼球が覗き、液体に浸かっていない額や鼻、頬は腐敗して黒く変色していた。

「うわっ」

 驚いてバランスを崩した内藤がバケツの縁をつかんでひっくり返した。

 慌てて身をかわした平山は「何やってんだ」と悲鳴のように怒鳴ったが、呆然とした内藤が床を指さしているのに気づいてそっちに目を向けた。

 入っていたのは生首だけではなかった。

 切り離された四肢と胴体もぶちまけられた液体の上に転がっている。

 白っぽくふやけているが細い腕や脚、豊かな乳房に毛の剃られた陰部を見て一目で女性だとわかった。

 腰を抜かした内藤は何度も嘔吐を繰り返し、それでも床を這って入口に戻っていく。

 ぽたぽたと床板の穴に流れ落ちていく液体の音を聞きながら平山はしばらく動けなかった。

 遠くで内藤の声がしている。

「――さんっ。平山さんっ」

 名を呼ばれて我に返り、慌てて外に出た。

「もう何回も呼んでたんですよ。大丈夫すか? 一応警察に電話しましたから」

「あ、ああ――」

 マスクを外して袖で汗を拭う。拭いても、拭いても汗が噴き出してくる。

 すでに平静を取り戻し会社に報告している内藤を見て、案外こいつのほうが度胸あるのかもしれないと思った。


                 *


 知らせを受けた最寄りの交番から一人の若い巡査が現場の確保に来た。

「通報されたのはあなたたちですか」

 そう訊ねる巡査に嬉々として返事をしたのは内藤だった。

 浮かれたように説明しているのを見て平山は苦笑を浮かべた。人の不幸を面白がっているわけではなく、一生にあるかないかの出来事に舞い上がってしまっているだけだとわかっている。今は、だ。あと数時間すればあの臭いや遺体の表情、凄惨な肉塊を思い出してきっと飯が喉を通らないだろう。夜は眠れないかもしれないと思うと気の毒になったが、それは自分も同じだと思った。

 そうこうしているうちに次々と警察車両が到着し、現場は慌ただしい雰囲気になった。

 近隣から野次馬たちも集まり、スマホで写真を撮っている連中たちを巡査が整理し始めた。


「きょうは大変でしたね。でも、平山さんのせいですよ。あれもこれも確かめるなんて言うから」

 警察署からの帰り道、あたりはすっかり暗くなっていた。

 車のライトがひっきりなしに行きかっている大通りを内藤と並んで歩く。

「俺は見つけられてよかったと思うよ。あのままただの生ゴミで処分するとこだったんだから、あの娘も浮かばれるだろ――毛を剃られて爪も剥がされて、女の子なのにかわいそうに。

 しかも火酒に漬け込まれていたとは」

「火酒って何ですか?」

「ま、言わば焼酎とかウイスキーとか度数の高い酒のことだよ。何するつもりだったのか知らんが、こんなのを猟奇事件っていうんだろうな。

 ああ、きょうは疲れた。内藤君、どっかで飯でも食ってくか、おごるぞ」

 平山の問いに内藤は目を伏せ、首を振った。

「いや、いいです。ちょっと食欲ないですから」

 平山は心の中で、ほらねと独り言ちる。

「無理にでも食っとかないと持たないぞ。明日も仕事だろ。こんなことあったからって休めないぞ、お互い」

 そう言うと、

「そうですね。でも嫁が飯作って待ってると思うんで。無理にでも食わされますから大丈夫です」

 と内藤は笑った。

「へえ、若いのにもう嫁がいんのか? うらやましいな」

「もうすぐ子供も生まれます。平山さん、奥さんは?」

「今はいないよ。息子連れて出てったからな」

「あ、なんかすみません」

「気ぃ遣われると逆に虚しくなるな――

 まあ当分の間、あの家は触れないだろうから、許可出たら電話くれよ。じゃ」

 笑いながら手を上げると内藤が頭を下げた。

 一歩踏み出したとき、クラクションが鳴った。大型のワゴン車が歩道に横づけし、助手席側の窓が開く。

「すみません。平山さんと内藤さんですよね」

 運転席に見覚えのある顔があった。

「はい。えっと、確かあの時のお巡りさん」

 内藤が答えているのを聞いて、添田だったかなと現場の確保に来た巡査の名を思い出す。

「あの、もう一度署まで来てもらえませんでしょうか。ちょっと聞き忘れたことがあるらしいので」

「えーっ! 明日じゃだめですか? きょうはもう疲れたんで」

 内藤が明らかに面倒臭いという口調で答える。

「申し訳ないです。記憶の新しいうちにということで、所轄の刑事さんに頼まれたんですよ。私がお送りしますので、よろしくお願いします」

 内藤がちらっとこちらを窺うので仕方ないなと肩をすくめた。

 添田が降りてきて後部のスライドドアを開き、「どうぞ」と促す。

 内藤が乗り込み、平山も後に続いた。

「あれ、そういえば、お巡りさん私服なんですね」

「ええ、もう勤務終わりましたから」

 内藤の言葉にドアを閉めようとしていた添田が笑う。

「わざわざすみませんね。この車だってお巡りさんのでしょ」

 平山もそう言いながら、ふと何か引っかかった。制服警官がいくら勤務外だからと言って私服で迎えに来るものだろうか。それもマイカーで?

 もし刑事が指示するなら勤務を終えた添田ではなく勤務時間内の警官にするのではないか? もし関係者として添田が指示されたのだとすれば、彼は勤務を延長して制服とパトカーで迎えに来なければならないのでは? 

 それとも警察というところはこちらが思うほど形式ばったものではないのか?

 あれこれ考えていると何かを持って近づく添田の手が目の端に映った。

 それがスタンガンだとわかった瞬間、バチッという音とともに激痛が走って気が遠くなった。続けて音がし、内藤の悲鳴が聞こえてきたが、平山にはどうすることもできなかった。


                 *


 車の揺れで目が覚めた。

 猿轡を噛まされ、手足を細い針金で縛られている。隣には同じ姿の内藤がまだぐったりしていた。

 フロント窓から見えるヘッドライトに浮かぶ景色で、ここが山中だとわかった。しかも絶えず身体を揺らす未舗装の道や荒れ放題の雑木林が誰も来ないような奥深い山中だということを示している。

「祈甕をだめにしやがって」

 平山は暗い声がしたほうに目を向けた。

 独り言かと思ったが、ルームミラーにこちらを睨む添田の目が映っている。ナビの明かりに照らされ瞳が青白く光っていた。

 いのりがめ? なんのことだろう。

 とっさに理解できなかったが、自分たちにかかわっていることはただ一つ――

 あれはお前の仕業だったのかっ。

 添田に向かって怒鳴ったつもりが呻き声にしかならず、ミラー越しにただ睨み返すしかない。

 俺たちをどうするつもりだ――

 あれを発見しただけで犯人の正体がわかったわけではなく、こんなことをされなければ添田の仕業だと気付かなかったのに。

 がたんと車体が大きく跳ね、大きく身を振られた。その揺れで荷室から大量の瓶のぶつかる音が聞こえてきた。ゴミバケツの中身を思い出し、それらが酒瓶だと平山にはわかった。

 自分たちの行く末を容易に想像でき、拘束を解こうと必死でもがいた。だが、針金が皮膚に食い込み、痛みが増しただけだった。

 車窓のずっと先はヘッドライトの光を吸い込むほどの闇が広がっている。その闇に向かって車はずっと走り続けていく。

 くそっ。

 あきらめず針金と格闘しているとすすり泣きが聞こえてきた。内藤が目を覚まし平山に涙目を向けている。きっと助けてくれと訴えているに違いない。

 そうしたいのはやまやまだがどうすればいいのか。

 あんたのせいだと非難されているようにも思え、平山は内藤から目を逸らせた。

 カーブを繰り返し、山中の闇を走り続けた車はやがて止まった。

 深い雑木林に囲まれた草っ原がヘッドライトに照らされている。

 エンジンを付けたまま運転席から降りた添田がバックドアを開けた。

 カチッと音がして添田の額に装着されたライトが車内に広がる。平山は眩しさに目を細めつつ荷室を覗き見た。

 やはり中身の入った一升瓶や大型のペットボトルが大量に積まれてある。他にも道具箱にシャベル、たらい、バケツ、水のペットボトル、新聞紙に包まれた数本の柄――先は見えないが鉈か鋸などの刃物かもしれない――があった。

「面倒がらないで初めからここでやればよかった。そしたらお前らに見つけられることがなかったのに。

 でも、あれは腐ってた。どっちにせよ結局失敗だったんだ。ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。

 早くしないと、あいつが――あいつが――」

 添田は大きなブルーシートを取り出し、抑揚のない声で呪詛のように独り言ちながらヘッドライトが照らす地面にそれを広げ始めた。

「早く――早くしないと間に合わない――早く――」

 逆光で表情は見えないが、繰り返し聞こえる暗い声に怖気が走る。だが、どうすることもできず、荷物を降ろして着々と準備を整える添田を黙って見ているしかない。

 シートの真ん中を広く開け、その周囲に荷物が配置されていた。剥がされた新聞紙の中はやはり鉈や斧で刃がライトの光を反射して光っている。

 添田は荷を下ろし終えた後、バケツの一つにペットボトルの水、別のバケツに瓶の中身をなみなみと注いだ。

 再びゴミバケツの中身を思い出した平山に絶望が押し寄せる。

 シートのそばにシャベルを突き立て添田が車に戻ってきた。勢い良く後部ドアが開き、胸ぐらを引っ張られて地面に叩き落された。下草の隙間から濃厚な土のにおいがする。やっと外に出られても逃げ出すことができず、作業着の後ろ襟をつかまれて否応なしにシートのほうへと引きずられた。全身を激しく捩り抵抗してみたが無駄だった。さすが警官だと感心するほどの強い力であっさりシートの隅に転がされた。

 頭を上げると内藤が同じように車から引っ張り出されるのが見えた。泣きながらも必死で抵抗している。若い力で体を捩る内藤に添田は苦戦しているようだった。

 あいつだけでも逃げられたらいいのに。

 そう心から願ったが、内藤はスタンガンを当てられ、ぴくりとも動かなくなった。

 肩に担がれシートの真ん中に転がされた内藤は死んだようにぐったりしていたが、胸や腹が上下しているので平山はほっとした。

 だが、始まりはこれからなのだ。

 添田が道具箱からペンチを取り出し、針金を切って拘束を解き始めた。

 起きろ。起きるんだ。逃げるなら今だ。

 平山は内藤に向かって叫んだが、猿轡を噛まされているのでただの呻き声にしかならない。

 手を止めた添田が平山を見て鼻で笑った。

 手足を自由にすると今度は鋏を取り出し、衣服を切って裸にし始めた。

 平山はただ見ていることしかできない自分を歯がゆく思いながら、たとえ呻き声でも呼びかけることを続けた。同時に手足の拘束を解こうともがいてもいたが、少しも緩むことがなかった。

 添田は内藤を真っ裸にした後、髪を引っつかんで根元から切り、雑な坊主頭にしてから剃刀で丁寧に剃り出した。

 猿轡を外し、続けて眉毛、ひげ、腋毛、陰毛も剃毛し、小さな鋏で睫毛や鼻毛まで、あらゆる毛と毛をすべて内藤から取り除いた。

 平山は自分の見た死体の様を思い出す。

 何してるんだ?

「毛は不浄なんだよ」

 平山の心を読んだかのように剃毛を終えた添田がそう言って笑う。再び手足を針金で拘束して馬乗りになると「爪もなっ」とペンチを使って手の親指から爪をはがし始めた。

 悲鳴を上げ内藤が目を覚ました。芋虫のように体をうねらせて暴れたが、添田は暴れ馬を乗りこなすように落ちることなく、一本一本手指の爪をはがしていく。両手が終わると向きを変え足の爪もはがした。

 内藤の悲鳴と抵抗は痛みと疲労で徐々に弱くなり、ただ咽び泣くだけになっていた。

 その悲痛な声に耳を塞ぐこともできず、平山はシートに顔を伏せた。

 すべての爪をはがし終えた添田が立ち上がり、かき集めた服の端切れを使ってシートの中に散らばる髪と爪を手早く外に掃き出した。

 その端切れも下草に放り出すと今度は道具箱から釘抜を取り出し、また馬乗りになる。

「――助けて――ください――お願い――します」

 泣きじゃくり懇願する内藤を無視し、顎を押さえつけて口に釘抜を突っ込んだ。

「歯も不浄なんだよ。

 おい、おっさん、目伏せてないでちゃんと見てろ」

 添田が釘抜をこじる。

 獣の咆哮のような悲鳴が暗い木々の間に響いた。歯茎をつけたままの前歯がぼとりとシートの上に落ちた。

「ああっ、ああ、あぁぁぁぁ」

 白目を剥いた内藤の身体が上下に大きく揺れる。添田は揺れに身を任せ落ちることなく、口から血の唾液を溢れさせている内藤を見下ろしていた。

 もうやめてやれ。

 呻く平山の顔から涙と鼻水が止めどなく流れ落ちた。

 せめて意識がなくなってからやってやれ。

 添田が再び内藤の口内に釘抜を差し込む。

 顔を伏せた平山の耳に再び凄まじい悲鳴が飛び込んできた。

「おっさん、見ててくれよ。次あんたの番には恐怖心が二倍三倍になるんだからさ、よっ」

 添田のかけ声とともに鈍い音が鳴り、震えの止まらない平山の目前に歯がついたままの血にまみれた歯茎が飛んできた。

「こんなこと、殺してからやってくれって思うだろ? そうはいかないんだ。痛みと恐怖を味わった肉や血を漬け込むことが一番大事なんだよ」

 釘抜の動きを止めることなく添田は語り続ける。

 内藤は目玉を裏返し気を失っていた。落ち窪んだ口元は老人のようだ。

 添田は釘抜を置くと内藤の脚を引っ張り、下半身をシートの外側に出してから横臥させた。

 今度はいったい何をするつもりだ。

 呻くだけの平山には内藤の背骨の浮いた白い背中しか見えない。

 道具箱まで戻った添田は大きな注射器と二本のサイズの違うオレンジ色の管を取り出し、水のバケツとともに持ってきて内藤の尻の前にしゃがみ込んだ。

 太い管を肛門に挿入する。

 添田は注射器に水を吸い上げ、尻の割れ目からぶら下がる管に接続すると腸の中へ注入していく。それを何度も繰り返し、内藤の下腹部がぱんぱんになると慌てて身を引いた。

 汚物が音とともに噴き出ず。

 糞便のにおいが山の静かな空気と混ざりあった。

 数回繰り返し中身を出し切ってしまうと、今度はバケツの酒を再び注入し始めた。

 洗浄と消毒をしているのだといやでもわかった。

 腸を終えると細い管を尿道に差し込み膀胱を洗浄し始めた。

 いつ目覚めたのか、内藤のすすり泣きが聞こえてくる。何とか哀れな若者に寄り添ってやれないかと身を捩って近づこうとしたが、ほんの数十センチ動いただけで添田に気付かれ、舌打ちしながら蹴り戻された。

 誰でもいいからここで起きていることに気付いてくれないだろうか。山中の不審な光を見つけてくれないだろうか。

 平山は心の底から祈り奇跡を願ったが、こんな山深い場所へ誰も来るはずがないとわかってもいた。

 だが――すすり泣きの間に遠く車の音が聞こえた。

 平山の心は一瞬沸き立ったが、すぐ空耳だと思い直す。誰も来るはずのない場所だからこそ添田はここを選んだのだ。

 しかし、木々の間にちらちら映る光が見え、それがだんだん近づいてくると車のエンジン音も大きく聞こえて来た。

 きっと山の管理者が見回りに来たに違いない。神も仏もいるのだ。

 ワゴン車の隣にヘッドライトを点けたまま車が止まる。平山は明るさの増した光に嬉し涙の浮かぶ目を細めた。来たのは軽トラのようだ。

 運転席側のドアが開き、人が降り立った。

「おいっ」

 声で男だとわかった。

 添田は手を止めて固まったように動かない。

 平山は助けを求めて叫んだ。呻き声にしかならないがこの異常な状況は理解してくれるだろう。

 だが――

「よお川野、やっと来たか」

 添田が作業を再開しながら笑った。

「久しぶり」

 首にタオルをかけたつなぎ服姿の男が光の中に入ってくる。

「ほんと久しぶりだな。お前から連絡来たんでびっくりしたよ」

「ニュース見たんだ。添ちゃんがやったって一発でわかった。野次馬整理してるとこ映ってたから」

「ああ、笑っちゃうよ。

 で、結局失敗だったし」

 状況が呑み込めず平山はただ唖然としていたが、二人の会話で助けが来たわけではないのだとわかり、再び絶望が押し寄せた。

「どこまで進んだ」

「中を消毒したところだ。で、あれあったか?」

「繁爺の家にあったこと思い出して、見つけて持ってきた」

「繁爺の家? あの廃村にまだ残ってんのか」

「爺さん死ぬまで残ってたから。他の家はみんな潰れてぼろぼろだったけど」

「そっか、村に残ってた甕なら大きさもちょうどいいしな。で、使えそうか」

 そう尋ねながら添田がシートの真ん中に内藤を引きずり戻した。

「だから持ってきたんだ。どろどろだったからちゃんと水洗いもしてきた」

 川野が荷台の紐をほどき、人ひとりが十分に入る大きさの大口甕を二個、慎重に降ろした。木蓋も降ろして横に置く。

「じゃ、そこの酒で消毒してくれよ。

 あっ、ヤバいな――足りるかな? そいつの中もまだ洗わないといけないし」

 平山のほうを顎でしゃくり添田は袖口で汗を拭くと大きく息を吐いた。

「心配いらない。酒もあっちこっちで買い占めてきた。添ちゃんだけに出費させんの悪いから」

「そっか、ありがたいよ。失敗した分、費用がかさんでたんだ。はじめからお前に協力してもらえばよかったよ」

「オレにこれが必要だとわかっていたら、だろ?」

「まあそうだけどな」

 フフと笑いながら添田が平山に近づいて来る。

 ついに自分の番なのか。

 震えが止まらない平山はぎゅっと目を閉じた。

 だが、添田はそばに座ると煙草をふかし始め、甕を消毒している川野を遠い目で見つめた。

「あいつの母親は病気なんだ。末期癌だよ」

 は? そんなこと知るかっ。

 平山は頭に来て添田を睨み上げた。紫煙の奥の目の下にはどす黒い隈が出来ている。

「俺の婚約者も癌だ。余命半年あるかないか」

 だから何だってんだっ。

 平山のうめき声を無視して添田は続ける。

「祈甕って言うんだよ。俺たちのいた村では」

 いのりがめ? さっきも言ってたな――いったい何なんだ?

「マムシ酒ならぬ人間酒さ」

 疑問が聞こえたかのように添田は平山を見下ろしてそれに答えた。

 三度ゴミバケツの中身を思い出す。

「治らない病に効く薬だよ。村に代々伝わる秘薬さ。あんたらが見つけたあれがそれ。慌てて作ったんで失敗したけど今度はちゃんと成功させる。

 彼女をまだまだ死なせたくないんだ。

 こんなことに巻き込んで申し訳ないとは思うよ。でもあれを見つけたことが不運だったとあきらめてくれ」

 添田は下草の茂みに煙草を押し付けて立ち上がり「終わったか?」と川野に声をかけた。

「おう」

 消毒し終えた甕を立てて川野が首のタオルで汗を拭いた。

「じゃ、穴掘るか」

 場所を決めると添田は軍手をはめ突き立てていたシャベルを取って穴を掘り始めた。川野も自車の荷台からシャベルを取り出し添田の隣で穴を掘る。

 二人は子供の頃の思い出話に花を咲かせながら深々と穴を掘り進んだ。

 何が祈甕だ。身内の命が大事なのはわかる。でも他人の命を奪ってまでやることか。しかもこんなひどいやり方で。あいつら狂ってる――

 平山は心の中で毒づくもそれ以上抵抗できない自分が情けなかった。

 半分意識のない内藤はすでに正気を失っているようにも見える。「もうすぐ子供が生まれる」と嬉しそうに話していたことが遠い昔のようだ。

 穴から這い出た川野が服をはたきながら、

「腹減った。コンビニで食いもん買ってくる」

 そう言って軽トラに乗り込み、元来た道を戻っていった。

 走行音が去ると添田の荒い息遣いだけが聞こえてきた。


                 *


 腹ごしらえをした添田と川野は掘った穴に甕を入れ、蓋をした口の部分だけを出して土で埋めた。

 祈甕を一定の温度で保存するつもりだろう。それにここに埋めておけばよほどのことがない限り人にも見つからない。

 一度失敗したことで慎重になっているのだと思った。

 軍手を外し、ペットボトルの水で手を洗った添田は斧を持って内藤のほうに向かった。

 近付いてきた添田に気付きへこんだ口を歪める。

 平山にはそれが笑っているように見えた。やはりもう正気ではないのだ。

「そいつもう狂ってんのか――もっと怖がったほうがいいけど――まあこれでもいいエキス出るには出るか。でも女だったらもっとよかったのに」

 傍らでたらいに酒を張る川野がつぶやいた。

「贅沢言うなよ。あの失敗した女も手に入れるまで苦労したんだからな」

「ごめん、ごめん」

 二人の笑い声を聞きながら、内藤よ、せめて完全に狂っていてくれと平山は願った。

 だが、斧の先で軽く頬を突かれると内藤が大きく震え出した。今から自分に起こることを狂った頭でも理解したのだ。

 あまりにも憐れで平山はむせび泣いた。

 添田はいきなり斧を振り下ろさなかった。

 いつどこを切り落とされるのかわからない恐怖を煽っているのか、見せつけるように斧を振り回し、頭や胸、腕や脚に軽く宛がった。時々今にも切り落としそうな勢いで大きく振り下ろし、その度に内藤の身体は硬直した。

 祈甕の効能を上げるためなのだろうが、その緩急のついた動きが平山には踊っているように見えた。

「そのやり方、よく覚えてたな」

 空きバケツを持ってそばにしゃがんだ川野が感心している。

「おじいがよくやってたの見てたからさ。まさか自分がやることになるなんて思ってもみなかったけど」

 はははと笑った瞬間、添田は内藤の首めがけて大きく斧を振った。

 その一瞬を決して見るまいと誓っていた平山だったが目を閉じる暇もなかった。

 添田は素早くバケツを受け取り切断面から噴き出す血を溜め、川野は生首を拾い上げてたらいに浸した。

 首のない内藤の身体はまだ痙攣している。

 人間のすることじゃない。

 平山は二人の行いにさらなる恐怖を感じながら空嘔吐きを何度も繰り返した。

 バケツに溜まった血を甕に移し替え、添田は鉈を使って死体を解体し始めた。

 平山は見ないように目を固く閉じた。だが耳は塞ぐことができない。肉と骨を叩き切る湿った音が否応なく飛び込んでくる。

 狂えるものなら早く狂ってしまいたい。

「おいっ」

 川野の急な呼びかけに思わず目を開ける。

 目の前に内藤の顔があった。

 恐怖に歪む萎んだ口と眉毛も睫毛もない白目を剥いた顔はもう知っている内藤のものではなく、じきに自分もこうなるのだと思うと震えが止まらない。

「早くしろよ」

 添田に急かされて川野は笑いながら平山から離れ生首を甕に入れた。血溜まりの跳ねる音と底に当たったぼんっという鈍い音が地面を通して響いてくる。

 切り取られ、たらいの中で清められた腕や脚を運ぶ度、川野はいちいち平山に見せつけてから甕に放り込んだ。

 あいつらの思い通りになるものかっ。

 平山は目を閉じ全身に力を込め、恐怖を抑え込もうと努力した。

 びちゃりと何かが頬に触れ、思わず目を開ける。

 川野が陰茎と睾丸を持ってぶらぶらと揺らしていた。

 意志に関係なく再び体が震え出し、どんなに抑えようとしてももうどうにもならなかった。

 添田の低い笑い声が聞こえた。

 最後に胴体を放り込むと、二人は甕に瓶やペットボトルの中身をたっぷり注ぎ入れた。

 木蓋を閉じ、ビニール袋をかぶせ紐で口周りを厳重に括り付ける。その上に土をかけると目印に丸い石を置いた。

 一仕事終えた添田たちは汗を拭き、大きく伸びをして深呼吸した。その表情には後悔も反省の色もない。

 平山は呆けた顔を仰向けた。

 白み始めた空が目に映る。

 二人は休むことなく、汚れた道具を洗い清め始めた。

 平山は一瞬、ほんの一瞬だけ期待した。

 もしかしてひどく疲れて、もうやめるのではないかと。

 祈甕が一つできたのだ。これで満足するのではないかと。

 だが、添田も川野も帰り支度をしているわけではなかった。新しいブルーシートを敷き、きれいになった道具を並べ、次の準備をしている。

 思い出したくないのに内藤に行われた一連の事が頭に浮かぶ。

 あれをすべて、今度は自分に行われるのだ。 

 準備が整ったのか、添田と川野が同時に平山を見た。表情のない顔に目だけが爛々と輝いている。

 怖い怖い怖い――

 体の震えが止まらない。

 もう終わりだ。今から始まる。

 平山はもう一度空を仰いだ。

 すでに夜は明けていたが、空には灰色の雲が一面に垂れ込め、ひとすじの陽の光も差すことはなかった。

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