アヒル男
児童公園にある公衆便所の脇に巨大なラバーダックがあった。
全身が黄色でくちばしがオレンジ色のお風呂に浮かべるアヒル型のあれだ。
巨大と言っても公園に設置しているゴミカゴより少々大きいくらいで、芝生の上に直接置かれている。
遊具という様ではなく、何のために置いたものなのか誰もわからなかった。
最初にラバーダックに近付いたのは三歳くらいの男児だった。いつもお風呂で遊ぶあのアヒルが大きくなってそこにある。
「ママー、みてぇ」
嬉しそうに顔をほころばせ、男児はアヒルを指差し母親を呼んだ。
ママ友とともに駆け付けた若い母親は「なにこれぇ。かわいい」と歓声を上げた。
全員がスマホを取り出し、ラバーダックを囲み写真や動画を撮影し始めたその瞬間、黄色い胴体の下に人の脚が生えアヒルが立ち上がった。左右からは腕も生え、その右手には斧が握られていた。
あっと驚く間もなく斧が風を切り、アヒルの目前にいた男児の首が飛んだ。赤い断面から白い骨が見え、血がびびゅっと噴き出す。
あまりに突然で、みな何が起こったのか理解できずに突っ立ったままだったが、男児の体が地面に倒れるとまずその子の母親が悲鳴を上げた。
金切り声で我に返ったママ友たちが慌てて我が子を抱き上げ、クモの子を散らすように逃げ出した。
息継ぎを忘れ悲鳴を上げ続ける男児の母親はもう正気を保っておらず、血濡れの斧を持ったアヒル男が目の前に来ても逃げようとしない。
アヒル男は母親の顔面を斧で薙ぎ払った。鼻から上が湿った音を立てて地面に落ち、両眼がぐりりっと裏返った。
立ったままの母親の体を蹴り倒したアヒル男は幼い娘を抱いて逃げ惑う母親の背中を追いかけ始めた。
無我夢中で逃げる母親は砂場にあったおもちゃのバケツに足を取られて転び、作りかけの砂山に母娘ともども顔から突っ込んだ。砂の詰まった口で泣き叫び出した娘を抱きしめ母親は起き上がろうとした。
その後ろに追いついたアヒル男は目の前に並ぶ二つの頭を斧で一気にはね飛ばした。
驚愕の表情を浮かべたまま飛んだ母親の生首はボールのようにバウンドしながら砂場を転がり、砂にまみれた娘の泣き顔がそれに追いつく。
首の断面から血を噴き出しながら母親の体が砂場に倒れた。それでも娘の体をしっかりと抱きかかえたまま離さなかった。
砂場が赤黒く染まっていく。
騒ぎを聞きつけ、公園横にある交番から警官が駆けつけた。
逃げてくる母親たちが公園内を指さしアヒルアヒルと口々に叫んでいるがまるで要領を得ない。
だが、血の付いた斧を振り回しこっちに向かって走ってくるアヒル男を目にして状況を把握した。無線で応援を要請した後、拳銃を抜いて「止まれ」と警告する。
だがアヒル男は止まらなかった。銃にひるむことなくぐんぐん向かってくる。
やむを得ず発砲したが、弾は黄色い体にめり込んだだけでアヒル男が倒れることはなかった。
それどころかスピードを加速し、あっという間に目前に来たアヒル男に拳銃を握った両手首を切り落とされ、頭のど真ん中に斧を叩きつけられて警官は絶命した。
血と脳片の付着した斧を警官の制服に擦り付け拭き取っている最中、アヒル男に再び弾が撃ち込まれた。
もう一人の警官が震えながら銃口を向けている。
アヒル男は斧を握り直すと警官に向かって走り出した。
自分に向かってくるアヒル男に一瞬ひるんだものの、すぐ体勢を立て直して銃を構えた警官だったが、走り寄る異形の者に我慢できず背を向けて逃げ出した。
アヒル男が斧を振り投げる。
音を立てて飛んできた斧が警官の背中に突き刺さり、血泡を拭き前向きに倒れ込んだ。それでも起き上がろうと足掻く警官の上にアヒル男が馬乗りになった。背中に刺さる斧に全体重をかける。ごぎっという音がした後、警官は動かなくなった。
植え込みの影に座り込んだ若い母親が枝の隙間からそれを見ていた。悲鳴を漏らさないように指をきつく噛み締めているが体の震えは止まらない。横にはベビーカーも隠してあった。生まれて三か月の息子が中で寝ているがそろそろミルクの時間だ。
まだ起きないで。お願い泣かないで。。
母親は祈った。だが願いは届かず、腹の空いた赤ん坊がぐずり始める。
まだだめっ。
母親は心の中で叫びながら枝の隙間から再びアヒル男の居場所を確認した。
警官の上にいたアヒル男は斧とともに消えていた。
もういないとほっと胸を撫で下ろす。逃げ惑う他の人たちを追いかけて行ってしまったのだ。そう安心してベビーカーを振り返った。
「ひぃっ」
アヒル男が中を覗き込んでいた。母親の悲鳴に返り血を浴びた顔を上げる。
不穏な空気を感じ取ったのか、赤ん坊が大きな声で泣き出した。
母親は座り込んだ脚が失禁のために生暖かく濡れているのにも気づかなかった。
アヒル男がベビーカーの中に斧を振り下ろす。
「いやあああああ」
慌てて立ち上がった母親が息子に覆いかぶさろうとしたが遅かった。
一撃で小さな頭は潰れ、血にまみれたただの肉塊になっていた。ベビーカーに顔を突っ込み泣き叫ぶ母親の後頭部にも斧を振り下ろした。頭蓋骨の砕ける音がして泣き声は止んだ。
アヒル男は母親の体をばらばらに切断してすべてをベビーカーの中に詰め、そこから滴る脂の浮いた血が植え込みの根元に沁み込んでいくのをじっと見ていたが、近づくパトカーのサイレンに顔を上げた。
「武器を捨てて両手を上げなさい」
公園の入り口に集まった警官隊の隊長が叫ぶ。
アヒル男は右手に斧を持って突っ立っていた。左手にはベンチで居眠りして逃げ遅れた老人の薄くなった白髪頭をつかんでいる。
老人はあまりのショックで脱糞し白目を剥いて気絶していた。
「武器を捨てなさいっ」
再び隊長が叫ぶ。
アヒル男は斧を老人の首に叩き込んだ。
遠巻きに公園を取り囲んでいる野次馬たちから悲鳴が上がる。
老人の生首を持ち走り出したアヒル男は悲鳴を上げ散らばって逃げる野次馬たちに生首を投げた。それは弧を描き、スマホを持って撮影に夢中になっている若者の頭にヒットした。
倒れた若者へ馬乗りになりアヒル男が斧を振り上げる。だがいくつも銃声が聞こえその手を止めた。たくさんの弾丸が黄色い体にめり込んでいたが、痛くもかゆくもなさそうに立ち上がると公園のそばを流れる川に向かって走り出した。
「追えっ、逃がすな」
警官隊が走り出した。
アヒル男は川に飛び込むと器用に手足を動かして泳ぎ出した。
隊長はすぐさまボートの用意を命令した。
川岸を追いかける警官隊をぐんぐん引き離しアヒル男は川を下っていった。
絶対逃がすものか。
泳ぎの得意な警官の一人が飛び込んで距離を縮めていく。
あと少しで届きそうなところで、アヒル男が振り返りざまに斧を振った。
目を剥いたまま生首が飛び、鮮血で川面が赤く染まる。
「早く追いかけろっ。見失うなっ。ボートはまだかっ」
隊長の怒号が飛ぶ。
アヒル男はゆうゆうと川を泳いでいく。
誰もが派手な黄色を見失うはずがないと思っていた。
だが、ほんの数メートル先でその姿は掻き消えてしまった。
捜索隊のボートが川面にたゆたう弾痕だらけのラバーダックを発見したのは見失ってから五時間が経過した頃だった。
場所は姿が消えた位置からそう遠くないところで、警戒しながら確保したもののラバーダックの中には誰も何もいなかった。
それ以前に腕や脚を出していた穴がない上、人が入れるような形状をしていなかったのである。
あれはいったい何だったのか――
死者十名、軽傷者一名を出した残酷な事件は容疑者を特定できず数年が経ち、あまりの残虐性から都市伝説と化した。
だが、実在の事件の証拠としてラバーダックは今も警察に保管されている。
はずだった――
「ねえあれ見て。超ウケるんですけど」
繁華街を歩く高校生カップルの彼女が街路樹の横にある大きなラバーダックを指さした。
「確かあんなアヒルの都市伝説あったな。誰かがそれまねて置いたんじゃねーの」
彼氏がスマホで写メを撮りかけた瞬間、アヒルの胴体からにゅっと腕と脚が生えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます