Gifted.new(something = ('A'..'Z').to_a)

Actions speak louder than words.




 もの寂しげに過去をみるな、

 それは二度と戻って来ないのだから。


 抜け目なく現在を収めよ、

 それは汝だ。


 影のような未来に向って進め、

 怖れずに雄々しい勇気をもって。


 - ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー

  ハイペリオン、ロマンス (Hyperion, a Romance. 1839)


     〆


 アリエスが母の形見である導剣を売り払う決心に明確なきっかけはなかった。

 ただ、学生の本分を終えた時に普段よりも疲れていなかった事と、明日が休みであった事–––この二つは理由と言えるのかもしれない。この近辺では数少ない古導具店は、どういうわけか学院の寮から随分と離れた場所にあるため、寮で暮らす学生の身分では気軽に行くことも適わないのだ。

 因果の清算を待ち侘びるアリエスが乗り込んだタクシーは、暮れなずむ夕陽に背を向けて街を走る。

 後部座席の端に座った彼女は特にすることもなく、窓から見える街並みを眺めていた。

 夕陽に燃える建物が作る影は深く、夜の訪れを心待ちにしているようだ。久々に寮の外へ出たが存外、心は躍らない。家路を辿る人々の足取りは緩やかで、通りに面する店のいくつかはすでに店じまいさえ始めている。

 目につく人々、車に乗った者たち、誰もがすでに明日を考えているようで、アリエスからするとその光景は祭りの終わりめいていた。

 アリエスはため息を吐き出し、膝に置いた導剣に視線を落とす。細身の刃を収めた白い鞘には植物の蔓めいた金の装飾。翼を思わす左右非対称の鐔と、護拳と一体になった引き金が備えられた柄。芸術品めいた精緻な意匠さえもがアリエスにとっては忌々しい。

 その芽吹いたばかりの若葉のようにか弱い美しさを内包する装飾を見ているだけで、怒りが心の底から沸き立つ。満ち足りていたはずのかつての日常を埋め、まだ余りある煮立った泥のような激情。

 アリエスは唇を噛み締め、ぎゅっと導剣の鞘を握り締める。絡まる蔓のような装飾が指に食い込み、さらなる熱と苛立ちを生んだ。

 長かった眩い日々は、振り返ってしまえば短いはずの怒りに打ち震えた日々によって打ち砕かれ、全てが暗い思い出に塗り替えられる。

 何度も鮮明に思い出す情景。今だってあの裏切りを忘れはしない。いつだって、ふとしたきっかけで心を掻き乱す暗い記憶を捨てるためにこそ、アリエスは今日ここにいる。

 全てを断ち切るのだ。今日ここで。

「お客さん、着きましたよ」

 ふと声に意識を引き戻され、暗い笑みを浮かべていたアリエスは弾かれるように顔を上げた。

 運転席に座る初老の男が怪訝そうにアリエスを見つめている。居心地の悪さを感じたアリエスはお礼も手短に会計を素早く済ませ、逃げるように車外へと飛び出した。

 運転手は去り際まで疑るような目をアリエスに向け続ける。不愉快な運転手だ。何よりそこまで不審に思われるほど、自分が酷い表情をしていたという事実がたまらなく不快だった。

 片手に導剣を、もう片手に鞄を提げた彼女は、夕暮れの街並みを一度見渡す。

 この街に来て二年になるが、その歳月のほとんどを学院の敷地で過ごしてきたアリエスには見慣れない光景だ。ましてやここは学院のある都市部リキッドーアとは運河で隔てられた導術文化の色濃く残る田舎も田舎のヒュジウォーシャ。

 学院の鐘楼から街の全景を眺めたところで視界の端にしか映っていなかった場所に、今アリエスはいる。どうも現実味がなかった。

 石畳と煉瓦造りの建物たち。導術時代の名残が色濃く残る情緒的な街並み。想像していたよりも旧い風景は、しかし想定以上にアリエスの胸を何一つ高鳴らせなかった。

 門限まで時間もない。手早く済ませてしまおう。

 意を決するように、アリエスは背を向けていた建物へと向き直った。

 特筆するべき真新しさはない、何とも面白みのない店だ。他の建物と似たような外観をしているが、どうも店にしてはこじんまりとしていて、鳴く閑古鳥さえいない。

 ショーウィンドウには綺麗に磨かれた導具類が陳列されているが、夕陽に染まった金属部分の輝きもこの有様では却って物悲しい。

 軒先にぽつんと掲げられている看板には、質素な筆記体で店名が記されている。

「古導具店アンダンテ、ね」

 牧歌的な名前だが、そのように悠長に構えていていいものなのか見ているアリエスが不安になってしまう。少なくとも他人が心配する程度には景気がよさそうには見えない。

 専門の古導具店なら信頼できる買値を提示してくれることを期待したのだが、これは見誤ったかもしれない。先のタクシーの一件もあって憂鬱になってくる。

「まあ、悲観してもしょうがないわね。査定だけでもしてもらえばいいし」

 呟き、アリエスは踏み出す。

 濃厚な幻素(エーテル)の匂いが鼻についた。様々な性質を持った幻素が綯い交ぜになっている。無秩序に掻き乱れ、縺れ合った臭気は鼻腔を刺すような感覚をアリエスに与えた。

 有り体に言えば、不快だ。

 これでは嗅覚本来の機能が大幅に阻害されると判断し、アリエスは自身の幻素の知覚閾値を下げる。混濁した幻素の発生源は間違いなく目の前の古導具店だろう。

 一度ゆっくりと深呼吸。ドアを開き、アリエスは古導具店へと踏み入る。

 同時に幻素の臭いが鼻腔に張り付いた。先程よりも濃い。恐らくは導術用の薬品のものと思われる清潔すぎる臭いと導具に差された油の重みのある臭いが加わり、胸の中頃に違和感が溜まり込む。

 西日がショーウィンドウ越しに真っ直ぐ射し込む店内、橙に染まったフローリングの床にアリエスの細長い影が投じられていた。綺麗に整列する棚に佇む剣や槍などの導具も夕陽によって、深い陰影が刻まれている。

 店構えに倣うかのようにひっそりと佇む導具たち。時が進み方を忘れてしまったように、無音だけが空間に浸透していた。

 不気味さは不思議と感じない。微かな身動ぎによって制服から零れる衣擦れの音が耳についた。

「すいませーん」

 呼びかけてみるが、返事はない。引き延ばされたアリエスの影の先に見えるカウンターには人の姿もなかった。いないのだろうか。

 不審に思いつつもアリエスは店の奥へと進んでいく。両側の棚に飾られた導具たちはアリエスを拒まず、それと同じくらいには迎えていないようだった。

 奥に並ぶ棚には導術関連の書籍に導術書、媒体となる木の根や薬草、動物の部位なども並べられている。随分と手広く扱っているらしい。

 一歩踏み出す度に、ローファーの裏で板張りの床が軋む。不気味な音に混じり、ペン先が紙を引っ掻く音が聞こえた。

 アリエスは眉を顰め、足早にカウンターまで進む。無人のカウンター、その右手側の端に人影があった。窓際に置かれた小さな丸い机についているのは黒いエプロンをかけた華奢な影。椅子に座り、頬杖をつきながら万年筆を走らせていた。

 傍らには壁に立てかけられた導剣。熟し切った柘榴の果実を思わす鮮やかな赤いショートヘアーの華奢な少女だった。アリエスとそこまで歳は離れていないが、エプロンをつけているので恐らくは店員だろう。

 呼びかけようと口を開きかけた時、カウンター側から床の軋む音が聞こえた。

 店の奥へと繋がる通路にかけられた紗幕の隙間から、ぬっと大柄な身体が出てくる。アリエスよりもずっと背の高い筋肉質な男性だった。浅黒い肌に彫りの深いエキゾチックな顔立ち、そして白髪もあって、年齢が判然としない。

 血を溜め込んだように紅い瞳がアリエスに向けられ、薄い唇が微かに笑みの形を刻む。枯れ木を揺らすそよ風のような色気を孕んだ微笑みだ。

「いらっしゃい。待たせちまったな」

 低く、それでいてよく響く、深みのある声で気さくにアリエスを迎え、男は億劫そうにカウンターまで歩み寄ってくる。導術士らしからぬ軍人めいた体付きだが、あの少女と同じエプロンを身につけている辺り彼も店員なのだろう。

「ようこそ、アンダンテへ。俺は店長のイルマだ」

「……アリエス、です。アリエス=グノーシャス」

 店長という言葉に一瞬言葉を失う。古導具店の店長というのは職人めいた老人か、学者めいた線の細い中年男性辺りを根拠もなく想像していた。

「その制服、大鐘楼の生徒さんか」

 大鐘楼――アリエスの通うヒルダー導術学院を多くの者はそう呼んでいる。

「ええ、まあ、そんなところです」

「珍しいお客さんだ。橋がないから大変だっただろ?」

「まあ、そんなところです」

 アリエスが今いるヒュジウォーシャはセントイヤ運河によって、学院のあるリキッドーアとは隔てられている。ドラゴニア大橋は運河を跨ぐ交通の要所であったのだが、一ヶ月ほど前、反技術派の武装勢力によるテロで崩落していた。

 アリエスにとってだけでなく、誰にとっても迷惑極まりない話だ。

 ふと、視線を感じて目を向けると、窓辺の席に座る店員と目が合った。キラキラと星の破片を散らしたような虹彩が美しい蒼の瞳は、すぐに机へと戻される。

 アリエスを見ていたのだろうか。

「それで、今日はどういったご用件で?」

 怪訝な顔をしているとイルマから問いが投げかけられる。

「ああ、そうだったわ。実は、この導剣の査定をお願いしたいの」

 言って、アリエスは片手に持っていた導剣をカウンターにそっと置いた。

 途端にイルマの目が大きく開かれ、唇の片端が釣り上がる。

「ES/MDS−HD02――エントラバーシリーズの二〇五四年後期モデルか。こりゃまた随分な骨董品だ」

 その声は心なしか弾んでいるようだった。大人の落ち着きと子供の無邪気さが混在しているようで不思議な表情だ。

「有名なもの?」

「繊細な装飾と実利的設計を両立させた導具デザイナーのエリュシデと、斬新な導式構築で有名だった導式設計士タキノデの合作だ。今から数えて三五年前の作品か。製造元はKVC社。今はフィッツァート・エグゼクティブに吸収合併されたイストキャピタ皇国の導具製造会社だな。拡張性に難はあったが、鐔部分に宝珠を嵌め込む直列方式が当時としては画期的な手法として有名だった。この三代前から導術回路に竜種ではなく塔鯨の幻素線(エーテライン)を用いていることも話題になったはずだ」

 謳うようにイルマは語る。導具の情報がここまですらすらと出てくる辺り、古導具商としての知識は相当のものなのだろう。

 アリエスは導術を扱う側の人間であり、導具に関してはそこまで詳しくない。車を運転する者が、どういう理屈で車が走っているのか、はっきりと理解していないのと同じだ。どのように使えばいいのかは分かっているが、それ以上のことはほとんど知らない。

「エシュシデの競合会社との専属契約にタキノデの急死、その上製造元が吸収合併されて、トドメに利権問題って具合にいろいろあって、八年ほど前にサポートがほぼ打ち切られていたんだが、まだ現役を務めてるとはな」

 言いながら、イルマは無骨な指先で鐔の中心に嵌め込まれた蒼い宝珠に触れ、導式を虚空に転写する。映し出された記号の羅列をイルマは指先で滑らかに繰っていく。

「きっとどこか故障していると思うのだけれど、値に響くかしら?」

「故障ってぇと、何か誤作動が起こるのか?」

「ここ最近、幻象(インスタンス)の組成が緩いの。同じ術莢を使っているはずなのに、見て分かるほど崩壊しやすくて」

 導式を次々と流し見していたイルマが手を止め、細い顎に指先を引っかけた。爪が短く、ごつごつとした職人らしい指先だ。

「物自体に目立った傷も少ねぇし、導式基盤も多少手を加えられているが、大きな異常は見られねぇな。内部に異常があるんだとすると、少し調べるのに時間をもらうことになりそうだ。試しに一度、いつものように使ってみせてくれないか?」

 促され、アリエスは導剣を手に取る。アリエスの肌に馴染む柄の心地は食い込むようで不快だった。アリエスの導術士としての時間は常にこの導剣と供にあったのだ。忌まわしい記憶と手を握り合い、いつまでも付きまとっている。

 別れの時はもうすぐそこまで迫っているはずだ。

 剣を床に向けるようにして両手で柄を握り、アリエスは一度深呼吸をする。

 集中。研ぎ澄ます。全てが遠ざかっていく。カウンターの店主が、並べられた導具たちが引き離され、板張りの床さえ消えたような感覚。

 空白の只中にあるような、無に浮遊する点になったような、充足の浮遊感。宝珠の記憶領域に保存された導式を検索し引き出す。周囲の幻素が活性化し、空白の世界に励起された粒子の煌めきが生まれた。

 もちろん錯覚だ。

 アリエスは変わらず場末の古導具店にいて、周囲に煌めく光はない。ただ、そんな気がしているだけだ。自身の意識を導剣に集中させ導力を注ぎ込む。

 導式変換。人間に分かる言語で記述された式が宝珠によって幾何学的な模様で描かれた導陣(レリーフ)に変換され、虚空に転写される。術莢に詰め込まれた幻素が導式に充填され、仄かに青い光を放ち始めた。排出された空術莢が床に落ちて澄んだ音を立てた。

 駆動。青い燐光を散らしながら円陣が回転を始める。

 引き金に指をかけ、もう一度アリエスは深く呼吸した。肺に溜まった空気と一緒に雑念が吐き出され、新たな空気が取り込まれる。

 いつもそうするようにアリエスは一息で引き金を引いた。

 取り込まれた水の幻素が導式に組み込まれた指示に従い動き出す。

 具現化した水がアリエスの周囲で渦を巻く――はずだった。螺旋状にアリエスの周りをうねるはずの水は導式から放たれ一周するよりも早く、弾ける。水を飛び散らせることもなく、先端が燐光を撒き散らし、次から次へと光へと戻っては消えていく。

 まるで花火。

 時を遡るように水は光へと還り、根源たる導陣(レリーフ)まで遡る。

 仄かに青い光を放っていたはずの導陣はいつの間にか色を失い、空回り。やがてその姿を保つこともできず、静かに霧散した。

 耳が痛いほどの沈黙。店主たるイルマは観察するように静かな目でアリエスを見つめていた。いつの間にか机で作業していた細身の店員もアリエスに視線を向けている。

 分かりきっていたことだ。最近はずっとこんな調子だった。それでも導術士の目の前で、導術の学院に通っている自分が、こんな初歩的な導術を失敗するという現状は耐え難いほどの恥辱。

 自然と全身を流れる血液が忙しなくなり、嫌な汗が肌をじっとりと湿らせた。耳まで紅潮していると、鏡を見るまでもなく自覚する。

「どう?」

 半ば自棄になり、いっそ開き直った体で強気に笑いアリエスはイルマに返答を促した。

 腕を組んだイルマは困ったような微苦笑だ。

「いや、どうって言われてもな。正直、初心者がよくやる幻象消滅(インスタンスブレイク)そのまんまだったっつぅか……」

「私のせいだって言いたいわけ!?」

 今にも噛み付きそうなアリエスにイルマは思わず一歩下がる。

「つい最近までこんなことなかったのよ!? 私が突然幻素(エーテル)の操作さえまともにできないヘタクソになったってこと!?」

「いやいや……。決してだな、そういうつもりで言ったわけじゃあ、ねぇんだよ……いや、ホントに」

 威嚇するように睨み付けてくるアリエスを宥め、イルマは助けを求めるようにペンを走らせている店員に目を向けた。

「ユラハ、ちょっとお前も試しにやってみてくれるか?」

 呼ばれた少女はぴたりとペンを止め空とぼけたような顔を上げた。虹彩が散らされた蒼の瞳は美しいが、しかしどこか眠たげだ。

「ん、いいよ」

 女性にしては少し低い声でユラハを答えて立ち上がると、足早にアリエスの方へ歩いてくる。

 華奢な体付きに極端な撫で肩、アリエスよりも身長は低く、小動物めいてさえいた。

「借りるね」

 一言断って、ユラハはアリエスから導剣を受け取る。

「使えるか?」

「まあ、きっと。そこまで変わってはないんでしょ?」

 ユラハの声は淡々としていて、どこかマイペースだ。気のない返事をしながら、宝珠によって転写された保存導式の一覧を眺めている。

「幻素伝送路が今時の光学式じゃなくて、生物由来ってことぐらいか。基盤は違うが、他と同じように使えば、他と同じように動くはずだ」

「杖(ロッド)型じゃないのは苦手なんだけど、まあ、苦手な光学式じゃないから五分ってとこか」

 くるっと導剣を弄ぶように一回転させ、さっと一瞬振るう。同時に導術が発動。一瞬で構築された導式が燐光を放ち、剣の切っ先から水の鞭が撓った。

 鞭はユラハの正面の棚に陳列されている短剣に絡みつき、釣り竿のように導剣を引くと引き寄せられる。水の鞭が解け虚空を舞った短剣をユラハは危なげもなくキャッチし、鞭は一滴の雫も散らさず流れるように切っ先へと吸い込まれ、燐光を放っていた導式も静かに霧散した。

 一瞬の出来事。ムダのない洗練された導術。初歩的な導術ならば、これくらい出来て当然だとも言える。

 まさに模範的な動作だった。

 引き寄せた短剣を手の中でくるくると回しながらユラハは感情の含まれていない目をイルマへ、そしてアリエスへ向けた。

「こんなとこ?」

「何か違和感は?」

「伝送路に劣化があるのか若干遅延してる。でも、少し癖はあるけど、聞き分けのいい素直な子だよ」

 ふっとユラハは微かに笑う。小動物を可愛がるような穏やかさだ。

 古導具商にとっては導具も愛玩動物と同じようなものなのかもしれない。しかしアリエスはそんなことに関心を向けてなどいられない。

 目の前の店員は当然のように導術を扱えた。これでは問題が導剣ではなく、アリエスにあるということになってしまう。事情を知らない二人から見れば、導術を使えない理由を導具になすりつけていると思われかねない状況だ。

「何かの間違いよ! 私だって、今まで普通に導術が使えていたのよ! それが突然使えなくなるなんておかしいじゃない!」

 アリエスの剣幕にイルマもたじろぐ。

「わ、分かってるよ。別に誰もあんたが嘘をついてるとは思っちゃいねぇから――」

「ただ少し向こうの方が巧かっただけに決まってるわっ!」

「ちなみにだけど、私は専門外だから、水の導術」

 わざわざ余計な情報を付け足してくる店員のユラハを睨み付けるが、彼女は誤魔化すように肩を竦めてみせる。感情のぶつけどころとしてあまりにも手応えがなく、アリエスがイルマを睨むと、彼は困惑した様子で曖昧に苦笑した。

「と、とにかくだ。今まで使えていた導術が突然使えなくなるなんてのはどう考えてもおかしい。それは確かだろ。一晩こいつを預かってもいいってんなら、査定ついでに少し導具に問題がないか、調べておいてやるよ」

 イルマの提案に今にもカウンターを飛び越えて掴みかかりそうだったアリエスは身を引き、腕を組んで思案する。他で査定を頼むにしても、問題を抱えている導具では大した値もつかないだろう。明日は級友と供に導術の実験をする予定も入っているのだが、それは学院で貸し出している導具を代用すれば問題ない。

「いくらでやってくれるの?」

「これはサービスの一環だ。無料でやってやるよ」

「貴方に見つけられるの? 古導具商でしょう?」

 アリエスの問いに、イルマはにっと得意気に笑ってみせた。

「導具への造詣は文字通り古導具商の商売道具だ。その辺の修理屋よりも信頼してもらってもいいくらいだぜ、うちは特にな」

 イルマは得意気に言うが、正直疑わしい。接客態度もいいとは言えず、軒先で鳴く閑古鳥さえいないような寂れた店の何を信用しろというのか。

 しかし、無料で調べてもらえるというのなら、悪い話でもないだろう。あまり期待はできないが、頼んで損をすることもないはずだ。

 アリエスは一度息を吐き出し、イルマに向き直る。

「いいわ。それは置いていく。それじゃあ、また明日、今日と同じくらいの時間にお邪魔するからよろしくね」

「ああ、大切に預からせてもらうよ」

 古導具商はしっかりと頷く。

 大切に。どうしてか、その言葉がやけに耳へ張り付いた。

 バカらしい話だとさえ思う。アリエスにとって、その剣は忌まわしい記憶を呼び起こす重りでしかないというのに。


     〆


 母が大切にしていた導剣をアリエスへ贈ってくれたのは、彼女が九歳になった日のことだった。

 あの日の記憶は今でも、蒼穹の下に広がる向日葵畑のように鮮やかな色合いで焼き付いている。

 宝物である導剣を母が託してくれた。それは母が自分を認めてくれたことを意味するようで、嬉しくて照れくさくて、それ以上にとても誇らしかった。

 今思えば、母は導術士として決して優秀ではなかった。それでも幼いアリエスにとって母の導術は奇跡の御業であり、母の起こす奇跡を目にする度アリエスは小さな胸を高鳴らせた。

 いつか母のように導術を使えるようになりたいと気付いた時には考えており、教えてくれるように何度も母にせがんだ。

 母が導剣をアリエスへ贈る。それはこれから導術を教えていく母の決心を意味していた。

 導術を自由自在に操る自分の姿を想像しては頬が緩み、身につけた導術で何をしようかずっと考えていた。導術を使えれば何でも出来る気がしたし、出来ないことは何もないのだと勝手に思い込んでいた。

 何より一つ覚える度に、一歩憧れの母に近づけた気がして、嬉しかったのだ。

 母はアリエスにとっての誇りであり、目標だった。

 強く、優しく、美しく、アリエスを誰よりも愛してくれる母。

 あの人のようになりたい、とアリエスは心の底から願っていた。そして同じくらい、母が誇れる娘であろうと誓っていた。

 誓うだなんて大袈裟なのかもしれないが、当時の彼女はそう思っていたのだ。

 母から贈られた導剣は、アリエスにとって想いの象徴でもあった。


     〆


 リキッドーアの噴水広場。ベンチに腰を下ろしたアリエスは両手で顔を覆っていた。

 子供の騒ぐ声、近くの店の張り上げた客引きの声、道行く雑踏の楽しそうな話し声――全てが綯い交ぜになって、アリエスの耳朶を鬱陶しいほどに叩き続ける。

 晴れ渡った空の真ん中、真っ白な太陽から放たれる光は何と押しつけがましいことか。

 平和を絵に描いたような風景。街全体が放つ楽しげな雰囲気さえ忌々しいと感じてしまうほど、今のアリエスの気分は最悪だった。この世の終わりを迎える日でも、もう少し前向きでいられるだろう。

 それくらいの憂鬱。有り体に言うと死にたい気分だ。

 アリエスは今日、予定通り仲のいい級友たちと導術の実験を行った。忌々しい母の形見の導剣ではなく、学院の貸し出している導短剣を用い、新たな導術を試すはずだったのだ。

「なんで、できないのよ……」

 両手で顔を覆ったまま、項垂れたアリエスは呻くような声を漏らす。

 導術をアリエスは使えなかった。アリエスよりもずっと成績の悪い級友が扱えた導術を、アリエスだけが唯一失敗したのだ。

 貸し出されている導具を使ったのは初めてだったが、幻象消滅(インスタンスブレイク)の様子はいつもと変わらなかった。導具は違うというのに消滅の仕方は同じ。それは問題の在り処がアリエスにあることを、残酷なまで克明に示していた。

「やっぱり、そうなのよね……」

 認めたくはない。それでも認めざるをえない。

 昨日、古導具店の店員が導術を容易く扱った時点で予感はしていた。本当はそれ以前から、不安もあったのだ。

 認めたくないから、ずっと導剣のせいにしていた。

 今まで店に持っていくことを後回しにしていた理由も結局そうだ。導具に異常がないと言われ、現実を突き付けられることが怖かった。

 理由は分からない。だが、事実なのだろう。

 アリエスは導術を使えなくなっていた。

 導術士になることを夢見て、また導術士になれると信じて疑わずに生きてきた彼女にとって、それは死の宣告同然だった。

 鳥だと思い込んで生きたきた魚よりも惨めだ。魚だったのなら、まだ海を泳ぐこともできただろう。アリエスは飛ぶことさえできない鳥なのだ。容易く倒れてしまいそうな木の枝のような足で、これからずっと地面を跳ねるように歩いて生きるしかない。

 何と弱い生き物か。

 導術士としての道を断たれたアリエスは、他に進むべき道を知らなかった。思い描くことさえできなかった。

 アリエスに残されたのは白紙の地図のみ。

 家出同然に故郷を離れ、導術学院の寮に入った。今はもう帰るべき家もない。

 導術を扱えない以上、学院に残ることはできない。この先、どうやって生きていけばいいのかも分からない。

 今まで当然のように立っていた足場がなくなったような感覚。アリエスは今、落ちていた。どこまでもどこまでも終わりなく落ち続けている。いずれは地面に叩きつけられて死ぬが、その死に場所たる落下地点さえ見えない真っ暗闇。

 もういっそ死んでしまおうか。

 飢えて死ぬよりも、ずっといいようにも思える。

 ゆっくりと深呼吸をして、アリエスは顔を上げた。

「あ、起きてた」

「――!?」

 途端に脇から声が聞こえ、アリエスは弾かれるように顔を向ける。

 アリエスの隣にはいつの間にか、少女が座っていた。柘榴の果実を思わす目に痛いほど鮮やかな赤い髪。虹彩を散らした蒼い目は驚いたように丸くなっている。

 麻で編んだ薄手の開襟シャツに色褪せたスキニージーンズ、エプロンこそつけていないが間違いない。あの古導具店の店員だった。

 買い物帰りなのか抱えた紙袋は膨れ、葱がはみ出ている。

「あんたいつからいたの?」

「いつからって言われても、まあ、ちょっと前?」

 どうにも相手に流されないマイペースな話し方だ。飄々としているというよりも、声に含まれる感情が希薄というべきだろう。

「あんた、えーと、古導具店の……」

「ユラハ。その節はどうも」

 言って、ユラハは小さく頭を下げる。彼女なりの礼なのだろう。

「何の用?」

「別にこれといっては。ただ見知った顔がこの世の終わりのような絶望オーラを放っていたから、どうしたのかなって思ってさ」

 何とも淡々とした口調。表情からは感情さえ読み取れない。

 仏頂面というよりも無表情だった。顔立ちは整っている部類ではあるが、人形のような印象は抱かない。感情表現を気怠く思っているような、寝起きの猫らしいという表現がしっくりくる。

「慰めなんかよしてよ」

「言われなくても、そんな気は全然ないよ。ただ、今にも死にそうに見えたから念のためね」

 ユラハは紙袋の中を漁り、中から林檎を取り出すと麻のシャツの裾で表面を磨き、少しだけ観察するとそのまま豪快にかぶりついた。

 客を相手にしているとは思えない物言いに一瞬気色ばみそうになるが、虚しくなって止めた。目の前の店員に何を言っても手応えはなさそうだ。カーテンにハイキックをした方が、まだ景気もいいだろう。

 ため息を吐き出し、アリエスは自身を宥めるように前髪を掻き上げた。

「そんな風に見えた?」

「少なくとも私はそう見えたけど」

 今にも死にそうだったのは間違いないかもしれない。少なくともアリエスはこの先のことを考えて打ち拉がれていたし、いっそ死ぬしかないのでは、とさえ考えていた。

 導術が使えない。

 その事実はアリエスにとって死と何ら変わらなかった。

「ま、生きてるならいいんだけど。預けてる子を引き取るなり、売るなり決めた後は自由に死ぬなり生きるなり。今死なれると所有権の問題でいろいろ手続きが面倒になるんだよね、うちが」

「世知辛いこと言うのね」

「よく言われるよ」

 さらっと答えて、ユラハは軽やかに立ち上がる。腰に佩いた導剣がベルトの金具に触れて澄んだ音を鳴らした。

 柄の下部に逆向きのトリガーが取り付けられ、柄頭には赤い宝珠が嵌められている。剣にしては刃渡りが少し短いが、幅の広い剣だ。ユラハは身長もどちらかといえば低く、何より身体が薄く華奢なため、余計にその導剣が無骨に感じられた。

「私はこれから店に戻りますけど、よければ一緒にどうですか? 査定結果出てますよ」

「……ああ、あれは売るわ」

 一瞬の躊躇の後、全てを諦めるために絞り出した声はアリエスが思っている以上に譫言めいていた。

 もともと売るつもりではあったが、これは全く意味が違う。アリエスは今、母の残像を振り払うためでなく、導術士としての道を自ら斬り捨てるために導具を売ろうと決めた。

 アリエスの答えに、ユラハは片眉を上げる。明らかに訝しんでいた。

「それはアタシたちとしては構わないけど、何かあった?」

「……何にもないわよ。何にも、ね」

 ユラハの追及を逃れるための言葉は別の意味合いとなって、アリエスの胸に突き刺さる。

 何もない。アリエスの手には、もう何もなかった。

 泣きそうだ。漏れそうになる嗚咽を、俯き下唇を噛んで堪える。

 アリエスの旋毛の上でユラハのため息が転がった。

「あー、別の導具でも導術が使えなかったりでもした?」

 呆れたような彼女の声に、アリエスは弾かれるように顔を上げる。目の前に立ったユラハは腰に手を当て、面倒そうに頭の後ろを掻く。

「な、んで……」

「お節介になるけど、そういうことなら店長に一度会った方がいんじゃないかな。多分、悪いことにはならないからさ。少なくとも、あの子ははまだ、貴女と一緒にいたいと想ってくれてるよ」

 あの子。あの店主も目の前の店員も、導具がまるで生きているかのように表現する。アリエスの思いなどそっちのけで、導具の想いを主張する彼女たちの価値観はどこか突き抜けていて、いっそ清々しいものにさえ感じた。

 この者たちにとって、導具こそが最も尊重されるものであり、人間の意思など二の次でしかないのだろう。アリエスは心の片隅で何となくそれを理解した。そもそもとして根本から、それこそ世界の見え方が違う。

 恐ろしくはなかった。ただ、きっとこれから先、どれだけ導術に関わろうと理解できる日は来ないだろうという確信めいた予想だけが彼らとの間に横たわる。

「貴女はもともと導具商を目指していたの?」

 そんな質問がアリエスの口を衝いて出たのは、リキッドーアからヒュジウォーシャへ向かう電車内でのことだった。人で溢れる車内、隣で吊革に掴まっていたユラハは閉じていた目を開き、空のように鮮やかな青い瞳をゆっくりとアリエスに向ける。

「違うよ?」

 随分と簡素な否定。

 彼女はマイペースというよりも口下手なのだと、ようやくアリエスは気付いた。しかも自覚がない。

 質問には答えるが、訊かれた以上を答えようという意識がないのだろう。

「じゃあ、導式構築の方?」

「ううん」

「……じゃあ、何を目指してたの?」

「目指すってわけでもないけど、専攻していたのは攻性導術。アリエスとそう変わらないんじゃないかな」

「そうだったの? じゃあ、なんでまた、古導具商になんて」

 アリエスのさらなる質問にユラハは少し困ったように滑らかな頬をかき、人混みに埋もれてしまいそうな窓に映る景色へ目を向けた。

 太陽の降り注ぐ街並み。鉄筋とコンクリートの建物が居並ぶ現代的な都市。導術時代の面影を色濃く残すヒュジウォーシャとは一切合切の趣を異とする有り様が広がっている。

「なんで、って言われると、まあ、いろいろあったとしか答えようがないんだけど。いろいろ、あったんだよ、いろいろ」

 ぽつぽつとユラハは言葉を紡ぐ。言葉を濁しているようには思えなかった。ただ、本当にそうとしか言い様がないので、そう話しているような曖昧さ。

 昨日目の当たりにしたユラハの導術がアリエスの脳裡を掠めた。あの時は感情的になってしまったが、彼女の導術の腕前は大したものだ。彼女が使ったのは初歩的な導術だったが、しかし基礎中の基礎であるからこそ、その腕前は如実に表れてしまう。

 組成の緻密さと素早さ、幻素の扱い、導術の滑らかさ――何から何まで、アリエスよりも優れていた。彼女は水の導術が専門ではないと言ったが、それでもアリエスの上を行っている。しかも初めて触る導剣で、だ。

 優秀な導術士である彼女がお世辞にも繁盛しているとは言えない寂れた古導具店で働くことになった経緯など、アリエスにはとてもではないが想像できない。確かにいろいろとしか言い表せない紆余曲折があったのだろう。

「ふーん、いろいろあったのね」

「そう、いろいろ、なんだよ」

 何とも収まりどころの悪い会話だとアリエスも分かっていたが、不思議と居たたまれなさはない。なんとなくユラハがどういう人間か、分かってきたからだろう。

「そういうアリエスはなんで導術学院に?」

「……何って普通に導術士で食べていくためよ」

「今時導術なんてアナクロな技術、大して儲からないよ?」

 たまに言うことが世知辛い。ユラハにその気はないのだろう。

「昔からの夢だったからよ」

「そのためにわざわざ、遠路遙々大鐘楼に?」

「…………」

 どうやら、アリエスがこの街の生まれでないことは気付かれているらしい。

 堅い口調で誤魔化してはいるが、アリエスの言葉はまだ多少訛りが残っている。分かる人には出身まで分かってしまうだろう。今までにもそういった相手は少なからずいたので、そこまで驚きはしなかった。

「まあ、そんなところね。一年前に親の反対を押し切って、半ば家出同然でここまで来たの」

「今時編入なんて珍しい。じゃあ、それまではどっかの導術士に師事でもしてたとか?」

「いなかったわよ、そんなの。強いて言えば母親だったんでしょうけど、母は導術士としては大成できなかった人だし」

 ユラハの目が少しだけ大きく開く。彼女なりの驚きの表情なのかもしれない。

「それ落第したらどうするつもりだったのさ?」

「考えもしなかったわよ。導術士として食べていくのに、今のままじゃいけないって思って、それしか考えてなかったから」

 アリエスは導術士として生きていきたいと漠然と夢想していた。そのための研鑽を欠かさなかったわけではないが、導術士として生きていけるようになるまでの道筋をあまりしっかりは考えていなかったのだ。

 ただ優れた技能を持っているだけではないけない。名うての導術士の弟子という肩書きも、名門の導術学院を卒業したという経歴もなければ、何一つ信用などされず、まともな仕事に就くことはできないのだと、アリエスはずっと知らなかった。

 かつては引く手数多だった導術士は技術の勃興によって繁栄を簒奪され、それまで担ってきた多くの役目からも放逐された。専門性と必要性、その悉くが何一つとして釣り合っていない。

 結局、先程のユラハの言葉が現実だ。

 普通に暮らしていくのなら、導術など全く必要ない。導術を学ぶために費やす時間をもっと別なことに向けた方が有意義だろう。

 分かっていながら、アリエスはどうしても導術士としての人生を捨てられなかった。

 結局、アリエスはそれ以外の生き方を知らなかったのだ。

 だからこそ、その道さえも鎖されかけた時は絶望だってした。その道がまた開かれようとしている。少なくとも彼女はその可能性がある、とアリエスに言った。

 多くを語ることを避けた彼女は、水先案内人としてアリエスを導いてはくれた。

 寂れきった古導具店の主、イルマの前へと。

「ようこそ、アンダンテへ」

 屈強な肉体に似合わないエプロンをかけた長身の男は涼しげな目を細め、渇いたそよ風のように笑った。二人を隔てるカウンターにはアリエスの剣が横たえられている。まるでアリエスが来ることを予期していたように、始めからここに剣はあった。

 イルマは半袖のシャツから伸びる枯れ木の幹めいた浅黒く太い両腕をカウンターにつき、アリエスと向かい合う。紅い瞳は穏やかで、冬の山のような途方もない静謐を感じさせた。アリエスがどれだけ声を張り上げようと、その声音を全て吸い込んでしまうような茫漠さだ。

「まさかユラハが人を連れて帰ってくるとはな。いつの間に友達になったんだ、あんたら」

「帰りに偶然会っただけだよ」

 素っ気なく答えながら、ユラハはそそくさとカウンターの奥へと引っ込んでいく。買ってきた生ものを収めに行ったんだろう。

「レイヴァスさんから分けてもらった術莢、ガレージにしまっておくよ?」

「あー奥の棚に置いといてくれ」

 手早くやり取りを終えたイルマがアリエスへと向き直る。

「査定も調査も結果は出てるが、どっちから訊きたい?」

「異常があったのかどうかから教えてちょうだい」

「分かった。じゃあ、まずこれを見てくれ」

 イルマは導剣の鐔に埋め込まれた宝珠に指先で触れ、虚空へ導式基盤を転写させる。

 何度見ても、アリエスにはさっぱり意味が分からない記号の羅列だ。イルマの爪が短い無骨な指先がさらさらと導式を繰っていく。ぴっと止まった指先が踊り、範囲指定した記述が別窓で拡大表示される。恐らく問題の原因だと思われる文字列の色が赤色に変わり強調された。

「実際異常はあったよ。導術発動の際に実行される導式に組み込まれた、このファンクションが原因だ」

「ファンクション……?」

 聞き覚えのある単語だが、何を意味するものなのか、アリエスは覚えていなかった。

 アリエスが無知なわけではない。導具を用い導術を行使するだけの導術士は、その多くが導具に関してあまり詳しくはないものなのだ。

「ああ、導術を発動をする時、幻素(エーテル)調整モジュールの融和化関数が実行されるようになっているんだが、これが正しく機能していないことが異常の原因だ。融和化関数は導術発動のために取り込んだ幻素を引数として取り、これらを導術に用いるのに相応しい状態へ調整するものだ。まあ、本来であれば、の話だがな」

「導式基盤に手を加えた覚えはないのだけれど」

 今までアリエスは導式基盤を手違いで開いたことはあれど、編集を行ったことは一度たりともない。下手に手を加えていいものではないと分かっているし、導術を扱えなくなる前後で限れば開いてもいなかった。

「ああ、導式自体に問題はなかった。問題があったのはソフトウェアじゃあなく、ハードウェア。幻素に対して実際の処理を行うために伝送路が経由する調整器の方が故障をしててな、そっちはこちらで直しておいた。多分もう普通に使えるはずだ。故障の原因は単純に経年劣化だな」

 言って、イルマは導剣をアリエスへと差し出した。試しに使ってみろ、ということなのだろう。

 アリエスは内心疑わしく思いつつも導剣を手に取り構えた。いつも以上に心を落ち着かせ、幾度か柄を握り直してから、ぐっと引き金を引く。

 同時に宝珠から展開される導陣。円形の紋章に術莢から幻素が供給され、青い光を放ち始める。

 駆動――回転。燐光が散らされる。今までよりもずっと早い。

 導式から水が放たれ、アリエスを取り囲むように螺旋を描き出す。導式に設定された通りの動き。水は乱れることもなく、導術は完璧に発動した。

 驚きにアリエスは言葉を失う。導剣を握る手は震えていた。悲しみではない。喜びに全身の肌が粟立った。背筋が甘く痺れるような感覚。

 ずっと忘れていた小さな達成感。一つの導術を完全に発動させる喜びが熱量となって全身を駆け巡る。

 駆動の限界を迎え、アリエスを取り囲んでいた水が幻素へと分解されていく。異常による予期せぬ崩壊ではない。導式に設定された時間を超過したことで起こる強制的な停止処理だった。元よりこの導術は水の幻素を用いた導術を練習するための実用性がない導術。設定された時間内導術を維持させられるかどうかを試すためのものだ。

 分解された幻素が青い燐光となって、アリエスの周囲を舞う。その光の向こうで胡散臭い店主は満足そうに笑っていた。

「どうだい? 何か違和感はあるか?」

 問う声には、そんなことは絶対にないという確信さえ感じる。よほど自分の技術に自信があるのか、とも思ったが、その自信に見合うだけの技術があるのも確かだと、今のアリエスなら分かった。

 完全に直っている。導剣はかつての性能を取り戻していた。

 アリエスは自分が握り込む導剣を見つめる。導術を使える。導術士としての道は途絶えてなどいなかった。

「直ってるわ。少なくとも導術は使えている」

「だろ? ま、俺の手にかかれば、これくらい朝飯前だよ」

 上機嫌に鼻を鳴らすイルマ。しかし、そこでアリエスは一つ思い当たる。

「でも、ちょっと待って。私は他の導具でも導術が使えなかったのよ? それはどうして? 私が使った別の導具も壊れていたということ?」

 その指摘にイルマの得意気な顔が一瞬強張り、逡巡を誤魔化すように頭をかいた。

「あー、それか。やっぱそこに気付くよな」

「何? その原因も分かってるの?」

 アリエスが一歩イルマとの距離を詰めた。鋭い眼差しにイルマは視線を彷徨わせるが、すぐに決心がついたのかアリエスの目をじっと見つめ返す。

 いつの間にか表情は引き締まり、切れ長の目が赤い輝きを宿していた。

「……あんたにとって、あんまり気持ちのいい話じゃないかもしれんが、それでもいいか?」

「どうせ知らなきゃいけないことよ。ちゃんと教えて」

 アリエスの目も真剣だった。目を背けてはいられない。向き合わなければ導術士として生きていくことはできないだろう。確信さえしている。その気持ちは伝わったのかイルマは静かに、しかし強く頷くと、ゆっくり薄い唇を開いた。

「最初に言っとくとな……本当に怒らないか?」

「怒らないわよ」

「……ホントにか?」

「いいからさっさと教えなさいよっ!」

「分かったよ……。じゃあ、言うが、あんたの幻素を操る能力は素人同然だ」

「はぁ!?」

 アリエスの声にイルマの肩がびくりと震え、素早く数歩引き下がった。

「ほら! だから確認したじゃねぇかよっ! 怒らないかって!」

 アリエスよりも遙かに身長のある屈強な男が怯えて肩を縮めている姿は何とも女々しい。異国風の整った顔立ちが泣きそうに歪んでいる様はより一層惨めだ。

「怒ってないわよ! ただ聞き返しただけ!」

「刃物持って睨むんじゃねぇよ! おっかねぇな!」

 呆れたようにアリエスはため息を吐き出す。確かに剣を持って怒鳴るのは些か剣呑だったかもしれない。少なくとも今この場面を第三者が見た場合、アリエスは明らかに危険人物だ。

 心を落ち着け、導剣をそっとカウンターに戻すと、イルマはおっかなびっくりといった風情で恐る恐る自分の手前まで導剣を引き寄せた。相当怖がらせてしまったようだ。

「それで、どういう意味なわけ?」

「そのまんまの意味だよ」

 気を取り直すように咳払いをしたイルマは、先程までの落ち着いた声音を取り戻していた。しかし、あの女々しい様を見た後だとむしろ滑稽だ。

「導剣の異常の原因はさっき言った関数だ。この関数は幻素を扱った処理の際に必ず実行されるようになっていた。だけどな、この処理は本来導具が行わないはずのものなんだよ」

「……どういうこと?」

「順を追って説明しよう。導術を扱う際の順序は端的に言えば、導式から導陣への変換、導術に必要な幻素の供給、そして発動、だ。ここいら一連のプロセスは演算装置である宝珠による変換と、必要分の幻素をパッケージ化した術莢によっと単純化されてるから、あんたは考えたこともないだろう。あんたの問題はこの導術に必要な幻素の供給の部分だ。自身の体内幻素、所謂導力を用いて導具を操作し、読み込ませた導式を駆動させていく。言ってしまえば簡単なことだが、やり方に問題がある。あんたは自身の導力で強引に幻素を導陣に押し込んでいる。それも相当力任せに、な。だから発動した導術の組成が崩れ、簡単に幻象消滅(インスタンスブレイク)を起こしちまう」

「ちょっと待って。どういうこと? そのやり方が間違っているっていうの?」

「はっきり言うと、すごく間違ってるかな」

 カウンター奥の紗幕の隙間から出てきたユラハが、アリエスの問いに答えた。アンダンテの店名が刺繍されたエプロンをかけたユラハは、のんびりとした足取りでイルマの隣に並び立つ。

 早く続きを聞きたいというのにユラハは片手に持った食べかけのチョコバーにかじりついている。どうにもペースの読めない子だ。

「導力による幻素の充填は促すものであって、無理矢理押し込めるものじゃない。そこが、すぐに消滅する原因だよ。精製された幻象(インスタンス)の組成が緩いから幻素のロレンス力の影響をすぐに受けて、あっという間に消滅」

「そういうのって基礎中の基礎なのに、学院で教えねぇの?」

「アリエス、編入らしいから。基礎は出来てるもんだと思われてたんじゃないかな」

「はーん、なるほどねぇ。出来る奴にしか教えない導術学院の弊害って奴かねぇ」

 二人はのんびりと話しているが、アリエスはそんな会話がほとんど耳に入ってなかった。

 アリエスは自分が学院でも優秀な方だと認識している。少なくとも成績では常に上位だ。アリエスにとって導術は自身の価値の多くを担っている。その導術において、そもそもの基礎が間違っているという指摘は、冷え切った刃を臓物に直接突き立てられるようなものだった。

 全身が内側から引き攣り、内臓の底から血の気が引いていくような感覚。ふらつきそうになる脚を必死に押さえつけるが、頭はぐらぐらと揺れている。

 立ち方さえ忘れてしまいそうな思考の渦がアリエスを掻き混ぜた。

「私は、導術の基礎もできてないような半端者だったってこと……?」

 絞り出した声は掠れていた。喉を通る空気が砂のようにざらざらとしている。

「今時、導具の補助を借りて導術を使うってのは、むしろよくある話だ。自分用に調整した導具じゃないと術を使えない奴だって少なくない。むしろ、こいつのように導具を選ばず導術を使える方が珍しいくらいだろうよ」

 イルマがユラハを指差すが、彼女は変わらず空とぼけたような表情をしている。

「初歩的な部分に問題があるのは確かだが、あんたの導術に関する腕は実際大したもんだ。そこまで悲観することでもないんじゃないか?」

 どこか楽観的にイルマは語る。アリエスの周りにも、自分用の導具でしか導術を使えない者が少なくはなかった。学院の教師の中にだっているくらいだ。

 ただ、自分がその初歩的な間違いにも気付かず、今まで過ごしていたことは衝撃的であり、また彼女の自信を深く抉っていた。

「むしろ今、気にかけるべきは、そんな機能を誰がつけたか、じゃないか? あんたがつけたってわけじゃなさそうだしよ」

「ええ、私はそんなもの今まであることさえ知らなかったけれど……」

「あんたの中に、夜な夜な導式基盤を弄れる天才めいた別人格がいないんだってんなら、他の誰かがあんたのために準備してくれたんだろうよ。心当たりはあるのかい?」

 アリエスは首を横に振る。

「前の持ち主とかはどうだい?」

 さらなる問いに、アリエスは思い至る。導剣の前の持ち主は母だ。

 母から導剣を譲り受けてから、他の者にはほとんど触らせていない。

 どれだけ疑っても、それはつまり、そういうことなんだろう。

 黙り込んだアリエスの顔を見て、イルマはふっと穏やかに微笑んだ。

「心当たりは、あるみたいだな」

 イルマはカウンターの上に横たわる導剣に触れる。鞘に絡みつく蔓を模した金細工の意匠を爪の短い無骨な指先でなぞった。

「詳しく聞くつもりはない。ただ、この導剣の調整は明らかにあんたのためのもんだ。他人の導術のクセや特徴を理解し、それに合った調整を加える、なんてのは並大抵の労力じゃない。それだけの想いが込められているのは確かだ、誰のものかは知らないがな」

 分かっている。アリエスは分かっていた。

 きっと調整を施したのは母だろう。誰かに依頼したのかもしれない。それでも間違いなく、母がアリエスのために行ったのだ。

 ただ、それを認めたくなかっただけにすぎない。自身が導術士となることに反対した母が、そのようなことをしてくれたという事実から目を逸らしているだけだ。

「あんたがこの導具を売りたいって言うんなら、悪くはない値で買い取ることもできる。ただ、この導剣に誰かの想いが秘められていることを知った上で、もう一度考えてほしいと俺は思っている」

「大事に使え、とでも言いたいわけ?」

「そういうことじゃあないさ。あんたがどうするかはあんたが選択すべきだ。他人の想いに縛られる謂われはない。骨董品としての価値がほとんどの導剣を、未来の導術士が無理に使ってやる必要性もないだろうよ。何なら、あんたの新しい導具に同じ機能を追加してやってもいいさ。どんな選択をしても、出来る限りサポートしてやるつもりだぜ。ただ、そうだな、その導具に込められた想いがあったことだけは覚えておいてほしい」

 結局、指図をするつもりはなく、全部自分で決めろということなのだろう。

 アリエスは横たわる導剣を見つめる。

 頭の中で反響する少女の声。かつて母に導術を請うた自分の声。

 あの頃、アリエスにとって導術は希望だった。母の操る水の導術を見る度に、いつかは自分も、と思い描いたものだ。

 忌まわしき記憶を呼び覚ます象徴たる導剣。握り込む度に思い出しては胃の奥底で汚泥のような怒りが煮立った。だが、如何なる時も傍にいてくれたのも、間違いなくこの導剣だ。

 アリエスの導術士としての日々は常にこの導剣と供にあった。

 例えこの導剣を手放そうと忘れることはないだろう。アリエスが導術士として生き続ける限り、何度だってこの導剣を思い出す。

 過去に纏わる物を斬り捨てたところで、過去はずっとアリエスと在り続ける。

 何も変わりはしない。変わる必要さえないのかもしれない。

 母はアリエスのために導剣へ細工を施した。

 そして母は導術士になるという夢に反対した。

 二つの事柄はどちらも事実だ。アリエスは一つの事柄に感謝し、もう一つの事柄には変わらず怒りを抱いた。それでいいのだろう。

 この導剣に、アリエスの導術士としての日々に寄り添い続けた思い出と、未だに苦々しい忘れたい記憶、その二つが内包されているように、一つの色だけを見つめ続ける必要はないのだ。

 過去に縛られる必要はない。だが、過去にあった想いまで忘れるべきではないだろう。

 アリエスは静かに息を吐き出し、そして微かに頷いた。

「そうね。なくなったからって、消えるものでもないんでしょうね」




 店を出ると、昼下がりの通りの穏やかで眩い光景が、アリエスの目を灼いた。

 のんびりと行き交う人影は疎らだったが、それぞれが思い思いに過ごしている。誰にも急かされず、気の向くまま自分の時間を生きる様は、どこか眠たげながらうららかだ。

 微睡むような日常は、導術時代の文化を色濃く残すこのヒュジウォーシャらしくも思えた。

 腰に手を当て、街並みを眺めるアリエスの腰には金の蔓が絡みつく意匠を凝らした細身の白い導剣。

「結局、あんたたちは何がしたかったのかしらね」

 独り言のようにアリエスは苦笑交じりに零す。見送りのため、一緒に店を出ていたユラハは不思議そうに眉根を寄せた。

「何のことかな?」

「無料で修理して、その上導具を売らないようにしたり、古導具商の仕事にはとても思えないけれど?」

 くすりと笑い、アリエスは悪戯っぽく聞き返す。

 少なくとも今回の一件で店側の利益は一つもなかっただろう。むしろ手間ばかりで、導具を修理したことも考えると明らかに赤字だ。

 アリエスの指摘にユラハは「あー」と笑みの交じった声を出す。

「実際、店長は買い取りたい気持ちもあったと思うよ。あの人、導具の骨董品とか大好きだからねー」

 店のショーウィンドウ越しにユラハはカウンターにいるイルマの姿を見た。

 アリエスは先程知ったのだが、最近負った傷が治りきっていないらしく、億劫そうに椅子へもたれかかっている。

「買い取りたいクセに、売る気がなくなるようなこと言って、あんたたちホント不思議ね」

「アタシもそれは常々思ってるけど、ま、それがうちの営業方針だから」

 ユラハは腰に下げていた導剣を鞘ごとベルトから外し、その表面を愛でるように優しい手つきで撫でた。まるで小動物を扱うようだ。

「導具にはいろんな人の想いが込められてる。古導具だったら尚更の事。今まで使ってきた人の想いが導具には染みついている。古導具商の仕事は、導具に込められた想いを次の使い手に託すことだってのが店長の考えだから」

 アリエスの剣にもまた、母の想いがあった。母がアリエスの夢を否定した今でも、かつての母が込めた想いは導剣の中で生き続け、アリエスを導き続けている。

 アリエスはこの古導具商たちが導具を生き物のように扱う理由を、なんとなく理解できたような気がした。彼らは導具を通して、想いを込めたであろう人たちの想いを見ていたのだろう。

「物言えぬ導具たちの言葉を伝えることこそが古導具商の仕事。だから、これでいんじゃないかな」

 表情が希薄だったユラハの顔がほんの少し和らぐ。

 唇の端が少しだけ引き上がり、眉を微かに上げた変化は、彼女にとっての笑みなのだろう。

 持ち主の意思など構わず、導具に残留するかつての想いを何よりも尊重する者たち。何と不思議で、勝手な人たちだろうとアリエスは思う。しかし彼らの真っ直ぐさは愛おしくもあった。

 アリエスにも自然の笑みが零れる。

「ホント、変な人たちね」

 彼らのお節介のお陰で、まだしばらくは、この剣と供に歩み続けることになりそうだ。

 いつかこの導具が、アリエスの手から離れようとも、想いは導剣の形を模り、アリエスの心に残留し続けるのだろう。

 それが悪いことだと、今は思わなかった。


A.E.2079.06.22 - A11 is well that ends well.

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