古導具店『アンダンテ』

思案間善太

序章

古導具店『アンダンテ』

 例えトビウオであろうとそれが魚である以上、鳥の思想は理解できない。

 分かりきった当然の事実。しかし、その事実に直面し思い知らされた時、彼を深く失望した。

 彼我の間に横たわる溝は広く、深く、決して越えることのできないものであると理解した時、彼は歯痒さと苛立ちに頭を掻き毟り、目に見える物全てに憎悪した。

 魚がどれだけ水面に波紋を刻み、空に身を躍らせ陽光に白銀の飛沫を撒き散らそうが、決して空には届かない。何一つ痕跡など残せず、故に 空を往く者の世界は理解できないのだ。

 それまで彼の中で蟠り続けていた不快感をようやく彼自身は知覚し、その由来さえも認識した。

 魚の群れに誤って産み落とされた鳥。彼は自身をそう再定義した。魚に囲まれて過ごしたところで、鳥が水の中で生きる術を見つけられるわけがないのだ。窒息の時は目前にまで迫っている。

 正さなければならない。この世の手違いを修正しなければいけない。

 あるべき高次の存在に戻らなければ、彼は下等な種族によって圧殺されてしまう。

 思い知らせるのだ。忌むべき魚たちに自身が本当に高次の存在であったことを。


     ◇


 正午を前にユラハの退屈は臨界を極めつつあった。

 インクと薬品と油が交じり合う雑然とした臭いに溢れかえった店内の最奥でカウンターに頬杖をかいたユラハは物憂げにため息を吐き出す。いつも通りという表現が憚られるとはいえ、いつも通り退屈な午前中だった。

 寂れた店内に人の影はなく、もっと言えばここ三日間、客がいたという形跡さえない。当然だ。来ていないのだから。古導具店『アンダンテ』の日常風景と称してしまっても何一つ誤解が生まれ得ない午前中だった。

 入念な整備を受けた上、綺麗に磨き抜かれ次の持ち主の手に渡るための準備を完全に終えた導具たちはその候補に相見える機会さえなく、整然と並べられた陳列棚の肥やしとなっている。

 導術書や薬品たちもしばらくは棚の被る埃を肩代わりする以外の仕事がなさそうだ。

 埃の肩代わりという意味では自分も大して違いはないと気付き、ユラハはもう一度大きなため息を吐き出す。時間を持て余し、少女は会計用のカウンターの上に置いていた読みかけの参考書に指をかけ、ぱらぱらと意味もなくページを捲って弄んでみるが、その手慰みさえいよいよ飽きてきた。

 カウンターの裏に置いていた自身の導剣を手に取り、鐔部分に差し込まれた弾倉を引き抜き、指先でくるりと回して導剣へと叩き込む。恐らくはこの世でも特に下から数えた方が早い部類のくだらない暇つぶしだ。

 店内には変わらず店主の趣味の曲が流れ、一昔前の女性歌手の透き通った歌声がしんみりと寂れた店内に染み渡っている。

「暇だなぁ」

 頬杖をかき、一言零す。彼女にとっては聞き慣れたエンジン音が転がり込んだのは、ちょうどその時だった。

 少し引き攣ったエンジン音は店の脇を抜けて、そのまま裏手へと回り込み停まる。何度も耳にした音の動き。紛れもなく店の車が裏の駐車場に戻されたものだった。

 後ろで纏められた紅い後ろ髪を尻尾のように振って、彼女は後ろを顧みた。簾のかけられた入り口、その先には店主の居住スペースがある。

 女性の悲鳴にも聞こえる甲高い金属音。裏口の蝶番は随分と古いのだ。

「おかえりー」

 ユラハは間延びした声で正体の分かりきった人物を迎えた。帰ってきた店主が軽やかな足取りで板張りの床を踏みしめる。鼻唄まで歌い、随分と上機嫌の様子だ。

 何かあったのかと鮮やかな青い目を瞬かせ、ユラハは細い身を捩ってカウンターの奥を覗き込む。

 ぼさぼさの白い髪を後ろで纏めた浅黒い肌の長身。間違いなく店主だった。逞しい腕で膨れ上がった紙袋を二つ抱えている。

「おう、導具を扱わせたら右に出る者なしの天才導具技師イルマ様のご帰還だぜ」

 簾を腕で押し退け、カウンターに顔を出した店主はふっと枯れ木を揺らすそよ風のように笑う。

 黒いエプロンの上部にプリントされた店名のロゴが分厚い胸板に押し上げられ、歪んでいる姿は何度見ても圧巻だ。

「随分機嫌がいいね。神龍遺跡並みの掘り出し物でもあったわけ?」

「お、分かるか?」

「そりゃ、そんなパレードみたいに高らかな鼻唄歌われてたらね」

 分かりやすい店主にユラハは苦笑する。それで分からない方が無理というものだ。

 店主のイルマが機嫌をよくするのは大抵導具絡みだ。そして今は導具の出張査定の帰り。分かりやすすぎる。

「それがその掘り出し物?」

「ん? ああ、こいつぁ違うよ。いらなくなった術莢(カートリッジ)を譲ってもらったんだ」

 脇に抱えていた紙袋をイルマがカウンターに置くと、チャラチャラと騒々しい金属音が袋の下から溢れ出た。

「属性と階は?」

 気怠げだったユラハの目が変わる。

「いろいろ、だな。ほとんど二〇式のアンティークだが、保存状態は悪くない。ま、デバッグ用のアソートセットって感じか」

「宝石箱より実利的でずっといいよ」

「宝石はお前、売ったら金になるだろ」

「売った金で術莢を買うんだから、手間が省けていいんじゃないかな」

 二十代にもならない少女らしからぬ現実的な返答をしながらユラハは膝に載せた紙袋の中を漁る。弾丸とよく似た形状の術莢を摘まみ上げて矯めつ眇めつ眺める彼女の目はそれこそ精緻な硝子細工を見ているかのように輝いていた。その横顔だけならば間違いなく年相応の少女のそれだ。

 ユラハの分かりやすい反応に、今度はイルマが微かに苦笑する。呆れと安心が入り交じった、穏やかな笑みだった。

 ふとイルマが時計に目を移すと、すでに十二時を過ぎている。

「とりあえず昼飯でも食いに行かねぇか? 今日は美味いとこ連れてってやるぜ?」

 摘まんだ術莢を指先で弄ぶユラハの透き通った青い目がイルマを見上げた。

「どうしたわけ? 今日は機嫌だけじゃなくて気前もいいんだ」

「この前の厄介事の報酬が振り込まれたんだよ。せっかくだし奮発して、な?」

 親指と小指で輪を作る店主へ冷ややかな目を向け、ユラハは大仰に撫で肩を竦めた。

「そうやって底の抜けたバケツみたいに入った金をすぐ使うから、うちはいつだって経営不振手前なの分かってる?」

「勤勉な従業員のために、袖はあるうちに振っておこう、と思ってよ」

「そうやって軽はずみに振って袖がなくなるから不振なんだけどなぁ」

 反省の色が全く見えない雇用主にユラハは盛大にため息を吐き出す。何故未だにこの閑古鳥も寄りつかない店が成立しているのか、疑問でしかない。

「じゃあ、なんだ? 一緒に来ないのか?」

「それとこれは話が別。振られた袖には、引き千切るくらいの気概で掴みかかるのがアタシの信条なんで」

 にっとユラハは猫めいて悪戯っぽく笑った。




 古導具店『アンダンテ』のシンプルなロゴを貼ったワゴン車がイルマとユラハを乗せて軽快に走る。

 アンダンテのあるヒュジウォーシャは破導大戦以前、所謂旧世紀時代の文化を色濃く残す。煉瓦造りの建物が並び、車道は石畳。未だにガス灯が残っている場所も多い。

 レトロチックな情緒溢れる瀟洒な町並みと称されることもあるが、実際に住んでいるユラハからすれば不便な田舎だ。不便さは石畳の凹凸に揺れる車体が、今まさに彼女の薄い臀部に響かせてさえいる。

 そもそもとして車が走る場合を想定していないのだから当然だろう。時代に取り残され、技術文化が浸食してこようとも断固として在り方を崩さない。職人のように意固地を通す町なのだ。

 周囲から拒絶され、ひっそりと佇む信号機はすっかり縮こまっているようにも見える。

「美味しいものって言いましたけど、どこに行くんですか?」

「そうだなぁ。アシュマラ亭でも行くか」

「んー、ブルズワイア料理かぁ……今はラジュデン料理を食べたい気分なんだけどなぁ」

「ラジュデン料理だとイマリ堂か? 行って帰ってくるだけで昼休みが終わる。却下だ」

「えー、アタシ、店長が仮縫いの袖を無理して振ってくれるって言ったから来たんだけどなぁ」

「仮縫い言うな。そしてこういう時ばっかり調子よく店長とか呼ぶんじゃない」

「でも、少しくらいアタシの希望に応えてくれてもいいと思うんだけどなー。ほら、アタシ、この前イディリアナさんへの借りを返すの手伝ってあげたじゃないですか?」

 それを言われてしまうと、イルマには反論のしようがない。

 行く先の信号が赤く点灯し、車を緩やかに停めたイルマはハンドルを握り締め、ゆっくりと息を吐く。ここは一つ、大人としての余裕を見せるべきだろう。しかし、彼は気付いていない。一度食い下がって時点ですでに十二分すぎるほど、大人の威厳が失われている事実に。

「……フレブリバ料理でどうだ」

 イルマの提案にユラハはくすりと大人しく笑う。

「ま、悪くないチョイスですかね。じゃ、運転手さん、霜月亭までお願いしまーす」

 さりげなくこの近辺で一番高い店を指名してくる辺りユラハは抜け目がない。彼女は金周りの事に関しては一切の油断がないのだ。

 ユラハとイルマは十歳ほど歳が離れているのだが、こういった狡猾さの面に限っていえば、ユラハが常に上手である。この差は今後も埋まりはしないだろう。

 行く先が決定し信号も青になり、イルマは観念して車を再度走らせる。まずは報酬を近場のCMID端末から引き下ろさなければならない。

「あれ、そういえばさっき言ってた掘り出し物って結局何だったの?」

「ん? ああ、導槍だよ。パーレイングループの秀作グローバンクラックの二〇一八年モデル。しかも前期型」

「二〇一八年ってことは破導大戦の真っ只中? よく残ってたなぁ」

「まあ、持ち主が元軍人だったからなぁ。なんでも終戦時のごたごたの時にこっそり持ち帰ってたらしい。しっかし、あの殺しても死なないどころか、ブッ刺さった凶器そのまま引き抜いて、危ない方を向けて返してきそうだったレイヴァス爺さんがぽっくり逝っちまうたぁな。なんだか未だに実感湧かねぇよ」

 レイヴァスはアンダンテにもよく足を運んでくれていた常連客だ。

 一年前、ユラハがアンダンテで働き始めたばかりの頃から何度も顔を合わせており、よくしてもらっていた。彼の突然の訃報はユラハにとっても驚きであり、当然悲しみもした。

「形見の品をよくもまあ譲ってもらえたね」

「爺さんの遺言だったらしい。家族に導術士もいないし、このまま使わないで置いておくくらいならってことでよ。まあ、知り合いとはいえ数学界でも有名な人の一品をタダで譲ってもらうのは気が引けたから、ちゃんと査定して買い取らせてもらったわけだけど」

 イルマの話を聞きながら、ユラハはなんとなく後部座席を顧みる。三人掛けのシートには麻布で包まれた棒が横たえられていた。

「これがその導槍?」

「ん? ああ、傷をつけるなよ」

 イルマの注意に返事をしながら、ユラハは身を乗り出して槍を掴み寄せ、麻袋を掻き分けて覗き見る。冷たい金属製の柄だった。薄い手の平の皮に吸い付くような冷たい握り心地に心が微動する。

 鈍色で統一された飾り気のない見た目はまさに軍用のそれだ。麻袋で包まれた先端の反対側にはユラハの拳ほどの白い宝珠が取り付けられている。年代物ということもあり、宝珠の輝きはくすんでいるが、元来はもっと透明感があったのだろう。

「相当の掘り出し物だったみたいだけど、そんなに優秀な導具なの?」

「それぞれが主とする役目が異なる以上、導具の優劣は一概に判断できないものだが、特にそいつぁ顕著だ。一丁のみで運用できる一般的な導具とは、その根幹からして用途を違えている」

「そんな特殊なものなの?」

「本来、組織的な戦闘において術兵ってのは少数での状況戦や地形戦、市街戦などゲリラ的な戦いを得意とする遊撃の花形だ。その少数で立ち回る戦闘が基本の術兵を群体として運用するために作られたのが、グローバンクラックだ」

 導具を語るイルマの口に澱みはない。まるで聴き慣れた歌を口ずさむかのように、言葉が次々と滑らかに紡がれる。

「北の大国ノストシー帝国軍が考案したファランクスっていう運用法でな、術兵中隊を個の処理装置と見做し、複数の演算装置によって一つの儀式級導術を発動させるっつってよ。それまで最前線で敵のケツ蹴り上げていた術兵隊そのものを、後方から敵さん目がけてサプライズプレゼントをぶっ込む一種の戦略兵器に変えちまおうっていう目論見があったんだ」

「はぁ……そりゃまたパワフルな速達便だけどさ、結局上手くいったわけ?」

 そう問いかけるユラハの目は訝しげだ。近代の導術士の近接個人戦闘に馴染むユラハからすれば、あまり興味も湧かない話なのかもしれない。

「そりゃあんたらが学院で寝物語にした世界史で習った通りさ。今じゃ技術が世界を覆い、導術士だなんてステータスは履歴書にさえ滅多なことじゃ書かれないなものになっちまった」

「どう運用したところで、そもそもの土台で劣っていたってこと?」

「ま、言っちまえばな。組織戦闘において技術が生み出す数の暴力は圧倒的だ。その性質上、生来の素質、才能に依存し少数精鋭にならざるを得ない導術が勝てるわけはないのさ」

 だからといって、導術が技術よりも劣っているとも、イルマは思わない。

 戦場における優位性を奪われただけであり、それ以上でも、以下でもない。ただ、それだけの話だ。

「運用としちゃ日の目を見なかったが、この導槍グローバンクラック自体は秀作と呼んでいい一品だ。現代じゃ国際的な都合で高値がつきやすい希少なグリドナーガ鋼を全体に用い、導線には鏡虫の幻素線(エーテライン)。宝珠には当時ノストシーが秘密裏に養殖してい特殊な交配がなされたナーガの脳を採用している。んで極めつけがランディバリ加工ときたもんだ」

「そういう能書きはいいから、実際に使えるかどうかを教えてほしいんだけど。あとはどうして値打ち物なのか」

 せっかくの導具語りに水を差されたイルマがあからさまに顔を顰める。

 イルマにとってはこれからこそが語りたい部分なのだろうが、ユラハからすれば興味のない話だった。ユラハが聞きたい情報は、実用的かどうか、それだけだ。

 不服そうに舌打ちしたイルマは気を取り直すように頭をかく。

「演算一つやらせたら、現代導具さえ上回るスペックを出すが、それ以外はからっきしだ。マルチタスクを前提とした現代導術は単体じゃ扱えないし、デバッグ以上の役割はない。爺さんも導術のテストというよりも、数式を解くための補助具として扱ってたくらいだしよ。当時も単体戦闘能力の低さを問題視され、後期型以降のモデルは演算速度を犠牲に多少解決されたが、結果的にファランクスという運用法そのものの弱体化にも繋がった。前期型は特化した性能が近年再評価されてこそいるが生産数が少なく希少価値も高い」

「ふぅん。じゃ、アタシには用がない代物かな」

 実用性がなければ興味もなく、ユラハは導槍グローバンクラックを後部座席へと丁重に戻す。

「そりゃ協調性がこれっぽちもないアンタにゃあ縁がないもんだろうさ」

「なんで自分には備わってるみたいな体で言うかな、この人」

「そりゃ人望があるのは明らかじゃあないか?」

 得意気に笑うイルマに、ユラハは肩を竦める。

「社会性があっての協調性でしょ?」

「おいおい、まるで俺にはそれがないような口ぶりだな」

「可愛い従業員に対して協調性がないとか言ったり、自分はまともな人間だとか主張したりしないもんなの」

「ああ、よぉく分かった。少なくともあんたにゃそれがねぇってことがな」

 可愛げのない従業員だ。

 店の裏によく現れる野良猫に餌をやっている時間の方が、まだ充実している。

 くだらない話をしている間にも車は進み、最寄りのCMID端末まで辿り着いていた。これ以上愛想のない店員と話していても有意義なものにはならないだろう。

 路肩に車を寄せて停めたイルマはエンジンをかけたままドアを開けた。

「このご時世、わざわざ自分で引き下ろさないといけないなんて不便なもんだよ、相変わらず」

 ぼそっと零すユラハの言葉に、歩道に降り立ったイルマはドアに手をかけたまま振り返り、どこか自嘲気味に笑った。

「これはこれで味があるってもんさ」

「ホント、相も変わらず難儀なことで」

 諦め交じりにため息を吐き出すユラハを一瞥だけして、イルマは足早に雑貨店の前に設置されたCMID端末へと向かう。

 静かに佇む端末の真っ暗な液晶に触れると冷たい人工的な光が宿った。慣れた動作でキャッシュカードを差し込み口に挿入し、引き下ろし手続きを行おうとした途端、不快な警告音がイルマの耳を叩く。

『現在、CMIDシステムに深刻な問題が発生しています。システム復旧まで全ての取引、手続きはご利用になることができません。復旧目途、また状況などに関しましては貨幣局にお問い合わせ下さい』

「はぁ!?」

 合成音声による案内にイルマは思わず声を上げる。合成音声が一通りの案内を終えると液晶から光が失せ、そのまま物言わぬただの箱と化した。

「おい、おいおい! 寝てんじゃねぇよ! まだ昼間だぞ! どういうつもりだっ!」

 予想外の事態にムダだと分かっていながらも思わず端末をぺしぺしと叩くと、再び液晶が光を放った。覚えず勝ち誇った笑みが零れる。

『現在、CMIDシステムに深刻な問題が発生して――』

「それはもう分かってんだよっ!」

 分かりきった文句を垂れ流し続ける端末の前でイルマは項垂れる。何がどうなっているのか分からないが、こうなってはもうどうしようもない。

 やり場のない怒りに足取りも荒々しく、イルマは車へと戻る。座席に凭れ架かり、目を瞑っていたユラハはイルマが戻ってきたことに気付き目を開けるが、すぐに異変を察知し眉根を寄せた。

「どしたのさ。さっきまでの頭空っぽなハッピーさが欠片もないじゃん。どこに落としてきたわけ」

「落としてねぇよ」

「ああ、空っぽだもん落としようがないか」

「ちょっと静かにしてろ。今の俺は機嫌が悪ぃ」

 筋肉質な男に低い声で恫喝されても猫のように華奢な少女は一切動じない。

「まるで約束してたプレゼントとは違うものを贈られた子供みたいだ」

「それ以上だよ。CMIDシステムが停止してる」

「え!? CMIDが!? て、いやいや、いーやいや、イルマさーん。急にお金が惜しくなったからって、その言い訳は大人げないでしょ。いくらなんでも無理があるって」

 あまりにも信用していない従業員に少しだけ虚しい気持ちさえ抱く。

 普段の素行を振り返っても思い当たる節がない。印税が入ったばかりのユラハにご馳走を要求したことがいけなかっただろうか。それともユラハの導具を勝手に質へ入れようとしたことだろうか。どれもそこまで問題ではないはずだ。

「嘘じゃねぇよ。何ならお前が試してみろ」

「ふっ、よしんば使えなかったとしても、どうせなんかやらかしたのが原因でしょ。まあ、見てなよ。なんせアタシはちゃんとCMIDカード使える品行方正な若者だから。どこかの吝嗇が服着て歩いているような社会不適合者さんとは違ってね」

 ふんっと得意気に薄い胸を張ったユラハは颯爽と車から降り、ファッションモデルのように淀みない足取りでCMID端末へと進んでいく。頬杖をかいたイルマはその背中を面白くなさそうな顔で見送る。

「そのCMIDカードだって俺が用意させた名義偽造じゃねぇか」

 イルマの文句はユラハの背中には届かない。それでいい。後が怖い。

 端末の前に立ったユラハはCMIDカードを端末に挿入し、認証装置に細い手を翳した。

 悠然と勝ち誇った笑みを浮かべていたユラハの耳を不快な警告音が叩く。

『エラー。現在、紋章による個人認証が行えない状態です。復旧まで今しばらくお待ち下さい。現在CMIDシステムに深刻な問題が発生しております。システム復旧まで――』

「は?」

 眉を跳ね上げ、ユラハが地底から這い出るような声で聞き返す。しかし相手は機械だ。一通りの案内を終えた端末は、悪鬼めいた表情のユラハなど無視して待機状態へと戻ってしまう。

「おい、待て。何寝てんの。誰の前で寝てるか分かってるの?」

「はっはっはっはっは! ざまぁみろ! やっぱり使えねぇじゃねぇか!」

「うっさいっ!」

 車に乗ったまま高笑いを上げるイルマに怒鳴り声を投げつけ、ユラハはもう一度端末に向き合う。

「ふざけないでよ。これだから行政のサービスは嫌いなんだ。ほら、起きろ。あんたも公僕でしょ」

 ぺしぺしとユラハは端末を叩いて呼びかける。すると応じるように液晶が点灯した。

 人工的な味気ない光にユラハは、ふんと尊大に鼻を鳴らす。

『現在、CMIDシステムに深刻な問題が発生して――』

「…………」

 ユラハは何も言わない。ただその顔だけは冷たいほどに凪いでいた。

 風さえ吹かぬ海原。或いは噴火前の火山めいた、どこか物々しい静寂。

 そのまま眉一つ動かさずユラハは腰に佩いた導剣に手を伸ばす。

「お、おい! 待て! やめろ!」

 穏やかではないものを感じ取って駆けつけたイルマに後ろから抑え込まれ、ユラハは身体を捻ってもがく。

「いくら店長といえど、それだけは聞かない!」

「もともとそんなに従ってねぇだろ!」

 屈強な肉体を持つイルマが必死に止めようとするが、ユラハは強引にでも剣を引き抜こうとしている。その細身のどこにそれほどの力が宿っているのか、イルマでさえ全く分からない。

「こいつアタシに同じ事二回も説明したんだっ! アタシを同じ事二回言わなきゃ分かんないバカだって見做した! 機械の分際で! これを斬らずに何を斬れというのか! 機械が一体、どんな理由があってそんな舐めた真似をする!」

「そりゃお前機械だからとしか答えようがねぇよ!」




 ソーンチェスターの中心、リキッドーアには技術文化を象徴する鉄筋コンクリートの高層ビルが並び立つ。その偉容な峡谷の底、セルコヴァ通りの貨幣局前には不気味なほどの静寂と遠巻きの喧噪が不自然に混在していた。

 張り巡らされた規制線に阻まれながらも放送局の者たちやフリーのジャーナリストが押し合いへし合いカメラのレンズを一点に向け続ける。上りきらぬ陽光は高層ビルのガラスに弾かれ拡散し、増幅し、陰影の概念を希釈していく。

 上下左右の分別もなく、四方八方から鋭角に突き刺さる光はしかし大気を仄かな青に染め、空間の現実感を背面から削ぎ落とす。結晶化した幻素から削り出されたガラスは結晶の質が低ければ低いほど青味を帯びてしまう。技術の台頭を境に急造されたビル郡は、数々の利権が絡む上、談合が横行しているため、どれも質が低い。

 泥濘のように絡みつく野次馬と報道陣の群れを何とか抜けて貨幣局前に到着した黒塗りの車、その後部座席から長身痩躯が颯爽と出てくる。かっと突き立てるように高いヒールが地を叩く。

 黒と灰の縦縞のパンツスーツに包まれた細くすらりと伸びた豹めいた肢体。ダークグレーのワイシャツを纏った薄い胸元には貨幣局の紋章が刺繍された赤いネクタイ。

 癖一つない長髪は宵闇よりも深い黒。左目を隠すように前髪を流しており、右目の眼光は鋭い。

 全てが鋭利に構成された抜き身の刃のような女は周囲を見回し、詰めかける報道陣、安っぽいガラスの反射光、何より貨幣局そのものの現状に苛立ち、舌打ちをする。

 珪藻土の塀に囲まれた敷地、その奥に佇んでいるのは前面がガラス張りとなった現代的建造物。シンプルモダンな建物の静かな美しさは、しかしガラスの向こうで倒れる無数の遺体によって損なわれている。貨幣局が掲げる経済の透明性を比喩するガラス張りの意匠は、惨状さえも白日に晒してしまっていた。

「代表!」

 乱暴にドアを閉めた女性が歩み出そうとした矢先、警察官たちの濃紺の群衆を掻き分けて、血相を変えた少女が出てくる。

 亜麻色のセミロングを波打たせた、小柄な少女だ。黒いスーツを纏い、タイトなスカートを穿いている。まだ慣れないハイヒールで躓きそうになりながら、駆け寄ってくる少女に代表と呼ばれた女性はほとんど表情を変えず、眉だけを微かに動かした。

「ウィニーか。話は聞いている。それからどうなっている?」

 低い声で問いかける女性に、ウィニーは書類を抱えたまま一度ゆっくりと深呼吸して息を整える。

「依然膠着状態です。犯人からの声明も要求もまだありません」

「まあ、そうだろうな」

 浅く息を吐くように応じ、代表と呼ばれた女性は歩み出す。

 密集するパトカーと、その隙間に詰め込まれた濃紺の制服を掻き分け、悠然と女は進む。途中すれ違った警察たちに憎悪にも似た敵愾心を向けられても女は全く動じない。

 ただウィニーだけが申し訳なさそうに肩を竦め、仔犬のように後ろをついていく。

「ウィニー、周りを見てみろ」

「どうなさいましたか?」

「貨幣局のガラスはやはり他のビルの安物とは大違いだ。死体までよく見える」

 抑揚が乏しい声で冗談なのか本気なのかも分からないことを言われ、ウィニーは曖昧な返答をするに留める。

 先を行く代表は割って入り道を阻もうとする警察を手で払い、そのまま誘われるように市警の指揮車へと滑り込んだ。

 額を突き合わせ、緊迫した様子で話し込んでいた二人の壮年の男性が突然の闖入者に顔を上げる。

「やあやあ、エリゾン警部、相変わらず景気がよさそうですね」

「ステップホップ……何の用だ」

 白髪交じりの男性が億劫そうに応じる。事件を前に獲物を捕らえた肉食獣の如き精悍さを宿していた顔が一瞬にして老け込んだようだった。

「貴様、何者だ! 関係者以外が立ち入るんじゃない!」

 反面、エリゾンと話し合っていた男は座席を立ち上がり気色ばむ。それをエリゾンは手で制した。

「やめておけ。こいつは関係者だ。俺たち以上にな」

「警部! それは一体……」

 動揺する男を見て、彼女はくすりと笑うと胸に手を当て、優美な動作で粛々と頭を下げた。

「お初にお目にかかります。私は貨幣局直下の警備組織ダラーズの代表エイミー=ステップホップと申します」

「ダラーズ……!」

 忌々しげに男はその名を復唱する。

 貨幣局が擁する最強の私兵隊。一介の行政機関が持つには強大すぎる力を有した組織。

「何の用だ? まあ、大体分かっているつもりだがな」

「本件は現時点より我々の担当となります。市警の皆様には事件解決のため、我々に協力して頂きます」

「何を勝手なことをっ!」

「市長からはすでに許可を頂いております。ご覧になりますか?」

「ああ、後程拝見させてもらおう」

 諦観の滲む声で静かに応じ、エリゾンは関節を労るように緩慢な動作で頬杖をかいた。

「貨幣局の中枢が抑え込まれたことでCMIDシステムがソーンチェスター全域で停止している。立てこもりからすでに四時間が経過し、経済的損失は計り知れない。俺は今日カミさんから夕飯の買い出しを任されていてな、例え誰であっても今日中にCMIDシステムを復旧させてくれれば何も文句はないさ。そうすれば今晩のハヤシライスの牛肉が豚肉になることはなく、うちの娘に駄々をこねられることもなくなる。そして俺もシングルのペーパーでケツを拭く必要がなくなる」

「なるほど、それは一大事ですね。一刻も早く解決いたしましょう」

 くすりとダラーズ代表のエイミーは微かに笑う。目を細め、唇の端を不敵に釣り上げる動作が微笑みに分類されるのであればの話ではあるが、それは確かに彼女なりの笑い方だった。

「そう気軽に解決してくれると嬉しいんだがね。事態はあんたが思っている以上にまずいかもしれんぞ」

 言って、エリゾンは手元のタッチパネルを操作する。正面の液晶に表示されていた情報が切り替わり、貨幣局の現在の映像が映し出された。さらに各種情報がオーバーレイで表示されている。

「すでに聞いていると思うが、現在貨幣局全体には結界が展開されている。導術鑑識曰く、高度な数法結界とのことだ」

「単なる結界程度、幻素分離榴弾(EDG)でも撃ち込めば済む話だろう」

「あー、そいつぁやめておいた方がいいと思うぞ、多分だが税金の無駄遣いになる」

「どういう意味だ?」

 もう一度エリゾンがタッチパネルを叩き、再び画面の表示が切り替わる。

 貨幣局の実際の映像が消え、代わりに貨幣局の全体像を再現したホログラムが虚空に幻出した。貨幣局を包み込む球状の薄い膜。その情報の羅列が青白い羽虫のように光の尾を曳きながら四人の周りを飛び回る。

「これが一般的に言うところの高度な数法結界だったんなら、俺もあんたもお互いに嫌な顔を突き合わせずに済んだろうさ。うちにだって部付きの導術士がいるんだ。ただの結界の無力化はできる」

「ただの結界ではないというのは分かりきっている。要点を纏めて話せ」

「はいよ」

 ヤニの臭いが染みついた無骨な指がタッチパネルを叩くと、光が踊るように飛び回り集合し詳細な情報を表示する。

 その情報を斜め読みしてエイミーは舌打ちし、ウィニーは息を呑んだ。

「龍理(ろんり)クラスの数式だな」

「事実それそのものだと言っていい。部付きの導術士たちでさえ口を揃えて魔術師(ウィザード)級の結界と呼んだよ」

「魔術師か、時代錯誤のSFもいいとこだな」

 呆れたようにエイミーはため息をつき、指揮車の内壁に背中を預けた。

「幻素分離榴弾(EDG)を始め、幻素対抗手段(MCM)装置、対結界炸薬(ABE)などなど、各種対導術手段を同時にぶち込んでも無効化は不可能というのが導術士たちによる入念な解析の結果導き出された結論だ。理論上、ここら一帯を焦土と化しても貨幣局だけは無傷らしい」

「さすが私たちの職場だな。十全どころか、万全のセキュリティだ」

「鍵を忘れて戸を閉めないでもらいたいものだね」

 エイミーの皮肉にエリゾンは同じように応じる。

「それにしても……これだけの結界を展開できる者が、何故貨幣局に立て籠もっているんですかね」

「逆だぞ、ウィニー。ここだからこそだ」

 ぼんやりと零されたウィニーの独り言をエイミーの鋭い声が諫める。

「相変わらず察しがいいな。恐らくあんたの予測通りだ。あんたらがマモーナスと呼び習わすCMIDシステムの中枢演算装置。奴さんはそれを導具に転用して数法結界を展開してやがる」

「我々を管理する唯一無二にして絶対の経済の番人の演算力。なるほど、確かに龍理級の数式を操るのも頷ける」

「自慢は結構だが、どうするつもりだ? 破壊することも無効化することもできない結界内に立て籠もり、その目的も不明。さすがのダラーズでも手が出ないんじゃないか?」

「すでに手は打っているよ。我々は経済を脅かす全てに対する神罰代行人。出てこないならばひり出させてしまえばいいだけだ」

 片側だけの目に獰猛な光を宿し、エイミーはにたりと泥のように嗤った。




「いや、まあね、アタシも感情的になってしまったなって反省はしてるんだ」

「俺があと少し止めるのが遅かったらって考えると恐ろしくてしょうがねぇよ。最近は反技術派組織が事件起こしたりして、ただでさえ導術士に対する風当たりがキツいってぇのに」

 宝石のように滑らかな光沢と自然の温もりと無骨さが混在するカウンター席、イルマは隣に座るユラハの悪びれもしない形ばかりの反省に肩を竦める。

 破導大戦以後、脈々受け継がれる導術士とそれ以外の者の確執。

 歯止めの効かない反技術組織のテロ活動による世論の傾き。

 導術士の肩身は狭くなる一方だ。

「あんたみたいに後先考えない奴が多いから、うちの商品だって売れねぇんだろうよ」

「例え導術士が歴史の教科書に載ってる頃みたいに持て囃されたとしても、うちの品は売れないと思うけどね」

 ユラハはアイスコーヒーの注がれたグラスの表面に浮いた水滴を指先でつついて遊びながら、夢も希望もないことをさらりと言う。

「大体、中古の導具なんて、それこそ導具の需要が高まったら、生産数が増えてなおさらいらないでしょ。頭振ったらネジが二桁くらい常に落ちてくるような頭緩みっぱなしの妥協知らずな連中くらいしか、導術士にはならないんだから」

「へぇ、そいつぁ的確な表現だこと。言ってるのがその頭緩みっぱなしの導術士ってところが説得力あっていいね」

「は?」

 冷たく睨まれたイルマは肩を竦めて、目を逸らす。

 信じ難い話なのだが、イルマは雇い主でユラハは雇われている側だ。イルマにとっても信じ難い。

 しばし焦げ付いてしまいそうな視線を側頭部に感じながら、イルマは素知らぬ顔でアイスコーヒーを飲む。冷や汗が止まらない。ユラハはやがて興味を失ったように盛大なため息をつき、またグラスの表面の水滴をつつく遊びに戻っていく。

 若き女帝は何事においても気紛れなのだ。

 十歳ほど年の離れた小娘に戦々恐々する自らの惨めさを忘れようと、イルマはアイスコーヒーを飲み干す。空きっ腹にカフェインが染み渡っていく。

 こんなはずではなかったのに、と悔いるには、どのくらい時を遡ればいいのか途方もなくなってきた頃、店の奥から細身の中年男性が優雅な歩調で現れる。

「あーやだやだ、あんたたちったら相も変わらず不景気な会話ばっかり」

 酒に焼けた男声で妙にしなを作った口調。厚い唇に橙の口紅を差したこの男こそが喫茶店のマスターだ。

「少しは高いランチでも食う予定だったってのに、こんな大して美味くもねぇアイスコーヒー飲む羽目になりゃ景気のいい話も出なくなるさ」

「あんたいい度胸ね」

 青筋を立てるマスターの言葉など聞き流し、イルマは空になったアイスコーヒーのグラスを無言で差し出す。おかわりの要求だった。

 あまりの厚かましさに文句を言う気力も失せ、マスターは諦めてグラスにアイスコーヒーを注ぎ入れる。

「はぁーあ、これだから導術士って嫌なのよねぇ。自分の都合しか考えちゃいないんだから」

「端末が言うこと聞かないからって剣振りかざすなんて正気の沙汰じゃねぇよな」

「あんたのこと言ってんのよ」

「俺は導術士じゃなくて導具技師だ」

「どっちも同じようなもんよ。むしろ悪化してるってもんだわ。全く、屁理屈ばっかでやんなるわねぇ」

 店に訪れる度に繰り返される文句の言い合いは日常会話も同然だ。ユラハも特に興味は示さず、水滴をつつき続けている。

 若き女帝はしがみついているものを突き落とすのが大好きなのだ。それが人であれ、水であれ。

「しっかしCMIDがシステムダウンなんて、貨幣局は何やってんだよ?」

「あっきれた。今日はその話で持ちきりだってのに。あんたはもう少し世間に向けた方がいんじゃないの?」

「いいから教えろよ。何があったんだ?」

「どうもこうもその貨幣局に立て籠もってる奴がいんのよ」

「はぁ?」

 予想外の事態にイルマは思わず聞き返してしまう。マスターは取り出したリモコンで店内の隅に吊り下げられたテレビの電源を入れる。液晶に映し出されたのはニュース番組。生中継で貨幣局があるセルコヴァ通りの様子が映し出されている。

 張り巡らされた規制線。詰めかける各放送局のスタッフ。ただならぬ気配はキャスターの肩越しに見える光景だけでも伝わってきた。

『犯人が貨幣局に立て籠もってすでに三時間が経過しています。市警に包囲されてから犯人に動きはなく、緊張状態が続いています。貨幣局長インダスター=アーバイン氏の発表によると犯人の特定は出来ておらず、また声明も出されていないとのこと。犯人の目的は未だ不明です』

 マイクを握ったキャスターが張り詰めた声で状況を繰り返し説明している。得る情報を得てしまえば用もなく、マスターはすぐにテレビの電源を切った。

「ま、そういうわけよ」

「そういうわけって貨幣局には私兵隊がいんだろ? 何やってんだ?」

「そんなのあたしが知るわけないでしょ」

 素っ気なく答えて、マスターはまた店の奥へと引っ込んでいく。イルマ自身、その問いに答えが得られるとは思っていなかった。だからこそ、意味もなく思案は深まる。

 貨幣局お抱えの私兵はCMIDというシステムそのものに仇なす者たちを容赦なく処断する貨幣の猟犬だ。元傭兵、元軍人、元重刑者、そんな噂が出回る程度には戦闘のエキスパートだといわれている。

 流通と取引の透明化と不正なき経済の実現を標榜し生まれたCMIDシステムを担う一介の行政法人直下に属する自衛組織とされてこそいるが、その力は軍に匹敵するともいう。

 そんな大層立派な防衛力を抱える貨幣局がCMIDシステムの全停止という致命的な事態にありながら、それを野放しにしているのか。

 あまりにも不可解だ。

「まーただんまりで考え込んでるよ、この人」

「頭回した気にならないと死ぬ人種なのよ、こいつは」

「はー、そりゃまたエネルギーの無駄遣いっすね」

「聞こえてんぞテメェら」

 顎に手を当て貨幣局の真意を見極めようとしていたイルマが、言いたい放題の二人を鋭い目で顧みる。その瞬間、生温かい発酵食品の匂いに鼻腔を刺激され、イルマは勢いを削がれた。

 フォークとスプーンを持ったユラハの前には美味しそうな香りを孕んだカルボナーラ。何食わぬ顔で茹でたてのパスタをフォークで巻き取ったユラハは、イルマを見たまま口に放り込み、もきゅもきゅと口を動かす。

「お、お前そりゃ……」

「見ての通り昼飯」

 あっさりと答え、ユラハは十分に咀嚼したパスタを飲み込む。

 空よりも鮮やかな青い瞳には悪意こそないが良心もない。

「なんでお前だけ食ってんだよ! おいマスター! 俺の分は!」

「ないに決まってんでしょ」

 椅子を蹴立ててカウンターに乗り出すイルマへ、腕を組んだマスターがさらりと答える。

「俺ぁ客だぞっ!」

「十年もツケを溜め込んでる奴をウチじゃ客って言わないのよ」

「だからってこいつだけに作るとか鬼かテメェ! こいつだってCMIDカードしか持ってねぇんだから、金払えねぇだろ!」

「ユラハちゃんは後でしっかり払ってくれるものねー」

「ねー」

 優しく笑いかけるマスターにユラハも表情こそ変わらないが穏やかな声で応じる。

 驚くほど味方がいない。

「じゃあ、ユラハ、俺の分も後で払ってくれよ! それなら問題ねぇだろ!」

 必死に迫ってくるイルマにユラハは露骨そうに顔を歪める。まるで生ゴミの異臭でも嗅いだように不快そうだ。およそ十八歳が外で見せてはいけない部類の表情だった。

「うわ、この人従業員にタカりだしたよ。大人としての意地はないわけ?」

「意地で腹が膨れるかっ! なぁ奢ってくれよ! 来月の給料でお前の分も合わせて返すからさぁっ!」

「そういうのは今月の給料満額払ってから言ってくださーい」

 痛いところを突かれ、イルマはぐっと押し黙ってしまう。それを言われてしまうと何も言い返せない。そんなことすっかり忘れていた。忘れたかった。

「あんたまた未払いなの? あっきれたわー」

「うるせー! 払ったよ! 半分!」

「アタシがやり繰り上手だから何とかなってるけど、普通だったら人死に出かねないからね。アタシのお陰で一つの事件が食い止められてることに感謝すべきだよ」

「あんたが金ないくらいで死ぬかよ」

「何言ってんの」

 パスタを食べていたユラハの両目が鋭くイルマを捉える。空よりも鮮やかな瞳は今氷のように冷え切っていた。

「死ぬのはイルマだよ、アタシがイルマを殺す」

「はは、そいつぁどうも」

 もう渇いた笑いしか出てこない。




「やあ、ステップホップ女史。君から連絡をくれるのは珍しいな」

 端末から聞こえてくる声にはノイズが混じり、また劣化も激しく、性別さえ判然とはしない。。

 幻素波と電波を強引に相互変換し合い、通信を成立させている以上、音質に文句は言えないだろう。繋がっているだけでも奇跡だ。

「君たちの活躍はここからでもよく見える。ああ、実に、だ。随分と奔走しているようだ」

 劣化してもそれだけは最高の品質で届けられる嘲りに、エイミーは右目を細めた。

 吹き抜ける強風がエイミーの梳られた黒髪を引き千切ろうとするかのように弄ぶ。場所は高層ビルの屋上。転落防止用の柵もなく、建ち並ぶビル群と蒼い空だけが広がる風景は、まるで墓標だ。

 眼下で拡散する光は、水面の如く風景全体に青味を堆積させる。

 ビルの縁に立ったエイミーはゆったりと息を吐き出す。

「貴様の皮肉など時候の挨拶と大して変わらん。本題に入らせてもらうぞ」

「本題? さて、君を笑う以外の本題を僕は知らないんだがね? 他に何か、僕と話すことがあるかね?」

「シラを切るにしても、もう少し物を選ぶことだな。貴様にも見えているだろう。ああ、見えていないとは言えまい。実によく見えているはずだろう。あの結界が」

「それがどうしたというんだい?」

 大気の獣が耳元でごうごうと唸りを上げようと、劣化しているはずの声ははっきりと聞き取れる。だからこそ声に一切の動揺もないことが、はっきりと分かる。

 ある意味では無知のようであり、ある意味では冷酷なようでもある。劣化してひび割れた声からは真意が読み取れない。

 否、例え正面から向かい合おうとも、真意など読めたことがない。

「要点だけ言うぞ。すでに現状はソーンチェスター全土に知れ渡っている。いくら不可視と言えど、これ以上結界の存在を隠すことはできん。貨幣局は信用を最も重んじる。何かしらの行動に出なければいけない」

「《桜貝》がどれだけ税金を無駄遣いしようと僕には関係のないことだ」

「結界が張られている。その事実が世間に知れ渡って困るのは貴様だろう」

「結界を張っている者が全て導術士ということではない。導術士とはもっと魂の底にこびりついた在り方だ。赤いものが全てポストではないのと同じくらい当たり前のことだ。導術を使うから導術士などというのは、あまりにも頭の悪い考え方だろう?」

「能書きはいい。伸るか反るか、二つに一つだ。それ以外など万に一つも有り得はしない」

「全く技術人というものはせっかちでいけない。状況は致命的ではあるが、それは同時に緊急性がないということでもある。至る所に至ってからでも遅くはあるまい」

 その口調からは何も読み取れない。虚仮威しのようにも聞こえるが、真理を見抜いているかのような茫漠さも感じ取れてしまう。詰まるところ何も分からないのだ。何かを見抜こうと足掻けば足掻くほど、相手の思惑に絡め取られていくだけだろう。長年の付き合いを通しても、相手のパーソナルに関わる情報をほとんど得られなかったが、それでも向き合い方だけは熟知していた。

 まともに取り合うのは無意味だ。波形の向こうに居座る者は自分の話したいことしか話さず、そして多くを顧みない。情に訴えかけようと、利害の一致を主張しようと、決定打になりうる可能性そのものが千変万化する。

「忠告はしたぞ、然るべき時、我々は然るべき対処を行う」

「構わぬさ。まあ、経済の処刑人であるステップホップ女史がムダだ分かりきっていることに金を投げ捨てるとも思えぬがね。貨幣という異教の徒である君が歩む殉教という名の旅路にくれぐれも幸があらんことを」

 そうして一方的な断線。いつの間にか気にならなくなっていたノイズも消え失せれば、静けさが耳を刺す。

 無音の通信機をキツく睨み付け、エイミーは傍らで胡座をかき機材を操作していた熊のような男にそれを手渡した。

「来ますかね、連中は」

 ピンクの髪をモホーク刈りにした男の声はその見た目通り野太いが、太い唇の端を釣り上げた男臭い笑みには気取らない馴れ馴れしさがあった。

「もし連中が動かなければ、CMIDシステムの信用は地に墜ち、ただでさえ高まりつつある反導術の気勢は臨界を迎える。遅かれ早かれ共倒れだろうさ。それは私も奴も望みはせん」

「俺もそう思いたいものだがね」

 ふっと笑い、大男は自身の指と同じくらいに太い葉巻を取り出し、強風の中でもまごつくことなくオイルライターで先端を煽る。

 迷彩柄のスラックスを履いた脚に載せた機材は幻素波と電波を相互変換するための装置だ。この屈強な大男はその見た目にそぐわず電子機器の扱いに長じている。導術による通信手段しか持たない彼の道化師とのホットラインを繋げられる者など、技術大国においてもこの男を除いてはいないだろう。

「しかし代表、今回の事件、どう見る?」

「どうもこうもない。我々ダラーズが守る経済の要所に土足で踏み込み、また脅かすというのなら、如何なる理由があろうとも斬り伏せ、一銭も残さず刻む」

「そりゃもちろんだがね、問題は敵の正体も目的も分からんことだ」

「そこに何の価値がある。我々が見つめるべきは値をつけられるものだけでいい」

 決断的にエイミーは言い放つ。荒涼たるコンクリートの大海を見果てる眼光に淀みはなく、抜き身の切っ先で弾ける光そのものだ。

 世界という表層を突き破った先を見つめるような横顔に、男は心底誇らしげに紫煙を吐き出す。

「ま、どっちにしろ賽は投げられちまった。後はなるようになるしかないか」

「いいや、まだだ、ヴィクター。まだ誰も、この盤面に投げ込んではいないし、水面は今も波紋一つない」

 エイミーはヴィクターと呼んだ男など一瞥もせず断言する。

 彼女が俯瞰する青味を帯びた鉄筋コンクリートのみで形成されたジャングル。まるで海底に取り残された遺跡のように静まり返っているように見える。ソーンチェスターの根幹を揺るがすような事件が起きているとは思えないほどの静謐、それともだからこその静寂というべきなのか。

 貨幣という血流が滞り、まるで壊死したような風景。それでも細胞はまだ動き続けている。




 CMIDシステムが停止したことによりソーンチェスターそのものが完全に停滞していた。

 着色と識別番号による貨幣のユニーク化と、指紋や声紋よりも高次な紋章識別という魂によるID認証。絶対的なセキュリティを標榜するCMIDシステムの導入をきっかけに、ほとんどの者が現金を持ち歩かなくなった。CMIDカードの普及率は首都であるリキッドーアでは九割九分、イルマたちが住むヒュジウォーシャは導術文化を色濃く残すが、それでも九割は越えている。

 CMIDシステムが停止した以上、ソーンチェスターのほぼ全員が一文無しになったも同然だ。仮に現金を持っていたとしても、個人営業の店でさえ決済の基盤にCMIDシステムがある以上、取引そのものがほとんど成立しない。

「まるで時が停まったみたいだ」と、帰りの車中で助手席に座ったユラハは窓の外を見つめながら、ぽつりと呟く。小生意気で破天荒な従業員の表現は、都市部とは思えないほど閑散とした車道を見つめるイルマが感じていた感慨の形にすっぽりと嵌まった。

「考えてみりゃ、俺たちの生きる社会っていうものは行動の基点からの経過とその先の結果、手段から目的まで、どこまで言っても金が絡んでくる。金を使うため、または得るために行動し、どこかへ行くにも金が必要で、行った先でも金を使って、娯楽を得ている。金の流れが止まるっていうのは、本当にそういうことなのかもな。考えるまでもないことだったが、考えてみりゃそういうことだ」

 取引と流通、経済、貨幣という概念は社会のあまりにも深く根ざしている。正しくは貨幣という概念の上にこそ、社会というものは成り立ちうるのだろう。

「なんだか金を使ってるんだか、金に使われてるんだか分かったもんじゃないね。ま、アタシたちは導術弄ってるだけで生きていけるんだから、そういう意味では得なのかな」

「そりゃどうだろうな。結局俺たちはその導術、または導術から生み出されるものを資本として、誰かに値段をつけられることで生きている。導術の研鑽、導式の構築はそのものが生きる上での歓びには繋がるが、値段という評価が付随しなければただの趣味だ。結局、向上心や自尊心、矜恃というものは経済の上に成り立ってるとも言えるかもしれねぇな。本当に経済から切り離されても、研鑽できる奴ってのは仙人みたいなもんだし、野山にでも籠もって自給自足してりゃあいい」

「いよいよお金が全ての創造主みたいな話になってきたなー」

 ユラハがぽつりと零す言葉は、いつも妙な角度から核心を突く。彼女が物事に対して大雑把なように見えて、きっちりと考えてもいる。価値観というよりも性質に基づいたものだ。

 何より導術士とは元来そういう生き物なのだろう。

「破導大戦以前にいたヒューレットっていう導術士が同じようなことを言ってたよ。貨幣とは宗教である、ってな」

「へぇ、それ有名な人?」

 かつての偉人と同じような価値観を持ったことが少なからずも嬉しいのか、頬杖をついていたユラハは和らいだ表情をイルマに向けてくる。

「破導大戦の遠因となった、技術国軍人の民間人射殺事件を仕組んだ扇動者としてなら有名だ」

 ユラハは双眸を絞り、イルマを無言で睥睨する。世界史の授業でも重点的に教えられる歴史的事件の首謀者と同じ価値観と言われていい気はしないだろう。

「貨幣も神様も一定の閾値以上の人間からの信用があってこそ成り立つ。誰も信じない神はいないも同然だし、誰も貨幣を信じなければ成り立ちはしない。改めて考えてみるとおかしいとは思わないか? CMIDシステム導入以前、俺たちは紙幣っていう紙切れの価値を受け容れていた。そのケツを拭くにも硬く、鶴を折るにも不便な長方形の紙が、例えばこの車や、その導具と同じくらいの価値を持つと普通に思っていた。それは国がその紙切れにその額が価値があると保証したからだ」

「それで今は形すらない電子の存在を価値があるものとして取引に使っている。確かにそりゃ宗教めいているか」

 電子も紙も大差はない。人間はずっとそこに付随する金額という概念を交換していた。

 貨幣とはつまりマクガフィンであり、最も重要な価値という存在は実体を持たず人々の共通認識の中にしか生息していない。これを神と呼ばずして何と呼ぶというのだろうか。

「神も経済も詰まるところ共同幻想みたいなもんか」

「その幻想の上に成り立っているのが社会っつぅもんだし、社会という構造体がある方が誰にとっても都合がいいからその共通認識は保たれている」

「じゃあ、その経済の要諦のCMIDシステムが停止している今って大分ヤバいんじゃないの?」

 現状、貨幣による取引は完全に崩壊した。最新鋭にして最も理想的な経済モデルとされたCMIDの停止は、ただそれだけで人類を原始の世紀にまで退行させた。

 もしこのままCMIDシステムが復旧しなければ、食料も枯渇してくるだろう。その先に待っているのは暴力を資本とした、掠奪という一方的な取引だ。

「ま、その心配はねぇだろ」

「また楽観的なこと言って」

「現にこんな話するまで、そこに思い至らなかったのがその証明だ。貨幣局には最強の私兵がいて、しかもそいつらはこれまで経済の敵に対する処刑というものを実践してきている。貨幣局への信用によって、俺たちは社会を保ち、どうせ明日には解決するだろうと考えているわけだ。まさに今話した通りのことだよ」

 共通の認識が社会を成り立たせる。あとは貨幣局がこの事件を間もなく収束させるだろうという認識が幻想ではないと祈るしかない。

「ま、しがない古導具商の俺たちに出来ることなんて何もないさ。今日はもう商売もできたもんじゃねぇし、さっさと帰って気楽にやろうぜ」

「ちなみに日給は?」

「……全額支給するさ」

 抜け目ないユラハにイルマは渋い声で答える。

 ここまで信頼がないことは大人として悲しい。何より、まだ未成年の少女でありながら、そんな物の考えばかりしているユラハの将来が純粋に心配だった。




 思えば店が実質休業状態である以上、ユラハを帰らせてしまってもよかった。だが、例えイルマがそれを提案しようと、ユラハは店に戻ってきたのだろうとも思う。

 店に帰ってきてから、日も暮れイルマがキッチンで夕食の支度をしている今の今まで、ユラハはガレージに籠もりっ放しだ。勘繰るまでもなく導式の構築をしているのだろう。

 仕事上イルマの自宅兼古導具店には大量の導具と導式構築を効率化する諸々が取り揃えられている。導術士にとっては最高の作業環境と言っていいだろう。少なくとも一人の少女では決して手の届かない環境だ。

 そのため、ユラハは大がかりな導式の構築を始めると、退勤後だけでなく、休日にもやって来て、挨拶もそこそこにガレージへ籠もる。彼女の性質は生粋の導術士そのものだといえた。

 導式を構築する行為そのものが楽しく、放っておけば寝食さえ忘れて没頭する。時にはイルマがガレージに入ってきても気付かない。

 病的なまでの好奇心と向上心。それは紛れもなく一種の才能だった。彼女が趣味に精を出すことにイルマは異存こそないが、しかしそれと不摂生は別問題だ。

 鍛え抜かれた筋肉質な長身には不似合いなピンクのエプロンを身につけ、三角巾を頭に巻いたイルマは、小皿に掬ったスープを口に含み、満足げに頷くと鍋を煮込む火勢を弱める。

 そろそろ匂いに釣られて、ユラハがガレージから戻ってくるはずだ。その前に盛り付けを済ませてしまおう。冷蔵庫に入っていた食材で適当に拵えた夕飯が、それでも食べないよりはいいだろう。

 キッチンの上部に設えた食器棚の脇に吊り下げられたラジオからは今も貨幣局前が緊張状態であるというニュースが流れている。例え解決したとしても今晩はこの話題で持ちきりなのだろう。

 食事時に聴く物ではないとして、イルマはラジオの電源を切り、食器棚から皿を取り出していく。

 口ずさむのは昔、少しだけ流行った女性シンガーのデビュー曲。この女性シンガーはすぐに音楽業界から姿を消してしまったが今でもイルマは好んで聴いており、彼女の曲は営業中店内でよく流している。

 ユラハからは眠たくなると不評だが、これだけはイルマも譲れなかった。

 キッチンから振り返ればすぐに食卓がある。四人がけでこそあるが、夕飯を並べるには二人分が限度の狭いテーブルだ。ユラハが働き始めて一年、何度もユラハから文句を言われて買い替えようとは思っているが、優先度の問題でずっと後回しになっている。

 夕食をある程度テーブルに並べ終え、後はユラハが来るのを待とうとイルマはキッチンに寄りかかり、咥えた煙草に火を付けた。

 CMIDシステムダウンはソーンチェスターにとって致命的な事態でこそあるが、電気もガスも水道も使える。不足なく一晩を明かせるならば、まだ危機的状況とは言えない。事件が解決すれば、すぐにシステム自体も復旧するだろう。

 明日の夜まで長引いても問題ない量の食料もある。例え食料を買い足せなくても心配はない。

 元々毎日客が来るような商売ではないので、気楽に待ちながら、臨時の休業として気楽に過ごすつもりだった。

 高望みせずに上手く立ち回れば問題はないし、突然舞い込んだ余暇を楽しめばいいだけだ。面倒なことには関わらず、領分を弁えて平穏を満喫するのも悪くはない。

 そう考え、紫煙を吐き出した時、裏庭から忙しない足音。間もなくダイニングキッチンに面する裏口から飛び込んできたユラハの息は荒れていた。

「イルマ、ちょっとまずいかもしれない」

 ユラハの手には小型のラジオ。聞こえてくる男性キャスターの声は焦燥に駆られ、早口に捲し立てるようなものだった。同時に店の電話がけたたましく鳴り響く。いつも通りの音量のはずだというのに、その音が苛立たしい。

「今! 貨幣局を青白い光が包み込んでいます! 一体何が起きているというのでしょうか! 突如として貨幣局から溢れ出した光が巨大な球状の物体となっていきます!」

 普段煙草の煙を嫌うユラハが文句一つ言わず、おずおずと何かを乞うようにイルマを見つめている。ただ事ではない。すぐに分かる。イルマ自体がただならぬものを感じていた。

 どう考えても面倒事の予感しかしない。

 イルマは煙草を一口吸い、煙を吐き出す。吐き損ねた煙を飲み込んでしまい、言い様のない不快感がじんわりと喉の奥から口内に広がる。

 気は乗らないが、無視できるわけもない。

 イルマ自身、自分の心が萎びていくのがよく分かった。

 もう今日一日、何なら明日も働かないつもりであったし、仮に電話があったとしても、それは古導具商として健全な商売に関わる連絡であるべきだと今でもイルマは思っている。それでも望まぬ相手からのコールは鳴り止まず、ニュースキャスターは次から次へと億劫になる情報ばかりを垂れ流していた。

 別に悲観的になっているわけではない。ただどうしようもなく、この面倒事に関わらなければならないという事実が、たまらなく嫌なだけだ。




 陽も沈みきり、春先の風は冷たさを帯び始めた。空も暗蒼の外套を纏い、黙している。

 ソーンチェスターの中心であるリキッドーアには数多の企業を押し詰めたビルが建ち並び、普段ならば煌びやかな夜景で人々を魅せる。しかし、CMIDが停止した今、その巨影は眠ったように静まり、光も疎らだ。

 宵闇にぼんやりと浮かび上がる深く黒いシルエットはいよいよ墓標めいている。無味乾燥の表面を舐める青白い光も鬼火のようであり、漂う無数の数式は蛍のようだ。

 冷たい灯りはしかし炎のように揺らめき、エイミーの作り物染みた顔立ちからさらに血の気を掻っ攫い、死人じみた倒錯的な美貌を生み出している。

 煙草を咥えた唇の隙間から煙を吐き、エイミーは凪いだ表情で眼前に広がる、およそ現実という概念だけをえぐり取ったような光景を眺めていた。

 貨幣局があるはずの場所には青白い光を放つ巨大な繭が横たわっている。繭を包むのは絹の糸などではなく数式の羅列。中心に宿った光は心臓のように脈打ち、それは次第に力強いものとなっていく。

 外敵を阻むために敷地を囲んでいるはずの塀が今はこの異形を閉じ込めるための檻にさえ見える。

「代表、こりゃ一体……」

 脇に立つ巨漢――ヴィクターが呆然と呟く。突如として幻出した奇怪に周囲の警官や貨幣局員も圧倒され、声さえ出ない様子だ。

「どこの誰だか知らねぇが、こんな儀式級導術、街一つ消し飛ばすにしたって過剰だぞ」

 ヴィクターは手元のパッドを操作し、市警の指揮車に集められた情報を引き出している。液晶に映し出された情報を信じるのならば、突如としてビル群の中に出現した繭には膨大な幻素が集約されていた。並大抵の導力では考えられない値が表示され、それは今も上昇を続けている。

 予測しうる最悪の状況がヴィクターの脳裡を掠め、屈強な肉体に汗が噴き出した。これほどの幻素集約、最早何が起こってもおかしくはなく、その何かが起こらない方がおかしい。

「代表、何が起ころうとしてんだ、一体」

 ヴィクターの度重なる問いに、それまで黙していたエイミーは静かに鋭利な吐息を零す。

 その横顔に感情はなく、右目はただ繭を見つめていた。あまりにも無機質で、激情も歓喜もない目はまるでレンズのようであり、事実彼女はただ紛れもない現実を観測する。

「一世紀前であれば奇跡の瞬間だったろうな。全く時代錯誤も甚だしい」

「代表、分かるように言ってくれ。知能指数の高い俺が聞いても分かるように、だ。今、何が起きている」

「起こるのはこれからだ。ようやく賽の目が出たぞ、道化。お前はどうするつもりなんだ?」

 ここにはいない誰かにエイミーは語りかける。いくら、道化師と言えど、事がここに至れば最早看過できないはずだ。

 待ち侘びた瞬間。仕組まれた歯車が一斉に回り出すような快感。最悪の展開が最上の結果を呼び起こす。

「竜転陣――よもやこの目で見ることになるとはな」

 エイミーの言葉にヴィクターは自身の背筋を特大の氷塊が滑り落ちていくのを確かに感じた。

 貨幣局全体に展開された数法結界を調査した市警の導術士たちの評価を思い出す。

 魔術師級。

 そんなものではない。これから起こりうる災厄は、きっと魔術師でさえ震え上がるだろう。

 技術大国ソーンチェスター。その中心で、今まさに一柱の竜が生まれようとしている。




「竜転陣?」

 経済という血流が滞り壊死しかけた街を疾走する車の後部座席でユラハはその単語を復唱した。

 ハンドルを片手で握ったイルマは手に持った木製の器を傾け、冷めかけたスープを口内に注ぎ込み、具材を咀嚼しながらも運転の手だけは緩めない。

 最悪の夕食だった。こんな時だからこそと腕を振るった料理を運転しながら味わう暇もなく、ただエネルギーを摂取するためだけに喰らわなければいけない。今日は食事の邪魔をされてばかりだ。

 スープを一気に飲み干し、イルマは大きくため息を吐き出す。

「そうだよ。今時、そんなことやらかそうなんていうバカがいるなんて思いもしなかったぜ」

「アタシだって世界史の授業くらいでしか聞いたことないよ、そんなの」

 買いだめしていたポテトチップスをのんびり食べながらユラハはぼんやりとした感想を漏らす。

 それはそうだろう。現代では導術士たちの会話にその単語が現れすらしない過去の異物だ。だが、その時代遅れのバカのせいでイルマたちは今こうして夜中に車を走らせている。

「破導大戦以前、導術士どもはどいつもこいつも自分の研究の集大成として、その秘術の完成ばかり目指していた。空飛ぶ蜥蜴になるなんてバカげた夢を見て、人生を浪費してやがった」

 かつて竜は神と同義だった。

 人間では決して追いつけない領域にまで干渉しうる桁外れの導力とそれ自体が一種の演算装置として機能する脳、竜の扱う導術は時に天候さえ操作し、意のままに世界を改竄する。確かにそれは神話さながらの光景を人々の前に描画する。

 だからこそ、導術士たちは焦がれた。世界に対し、より高度な権限を持つその存在に。

「五〇〇年前、最初の竜転人が生まれ、それが実現できると分かっちまった。そっから先は話が早い。できると分かったらやられずにはいられないのが導術士って生き物だ。誰も彼も最初の竜転人に続こうとした。そんで結果はやっぱりあんたが知っての通り」

「結局、竜転人として名を残したのは、たった六人」

「六人なんだか、六頭なんだか、六柱なんだかは判断に困るとこだがな」

 観測史上記録されている事例に限った話であるが、四百年近く数多の導術士が挑みながら、たったの六人。結局竜転陣は奇跡の親戚でしかなく、一部の超越者だけが辿り着ける境地だった。

 アンダンテの社用車が減速もせずに曲がり角へと差し掛かる。車体が横に滑り、前のシートを掴んで持ち堪えたユラハの背後、トランクルームで積荷が攪拌されていく。

 ヒュジウォーシャとリキッドーアは地理的にそこまで離れてはいない。セントイヤ運河を渡れば、すぐに市街地へ辿り着く。しかし、去年の事件で二つを結ぶドラゴニア大橋が崩落してしまった。エストーシャまで北上して、エターカイン橋を渡るのが現在の最短ルートになるが、本来の道程と比較するとかなりの遠回りになってしまう。

 時間がなかった。

 導術文化の名残で背の低い建物ばかりのヒュジウォーシャからはリキッドーアの夜景が臨める。車窓越しに見える景色の光はいつもより疎らだが、微かにビル郡の巨影が見て取れた。その間隙から微かに淡く青白い光が溢れている。

 あのソーンチェスターの中心に竜が現れようとしているというのは、にわかには信じがたい。しかし、確かにその瞬間は刻一刻と迫っている。

「情報によれば犯人はCMIDのメインシステムを積載する中枢演算装置を宝珠に転用して、貨幣局周辺に数法結界を展開しているらしい」

「あー、道理で。貨幣局の私兵にしては対応がトロいと思った」

「対導術や対幻素の兵装を用いても無効化できないし、そもそも何より導術結社ビルダウェーブと秘密裏に共同歩調を取っている貨幣局としては導術士に襲撃されていると公然するような真似をして、導術士の立場を悪くするわけにはいかない。また反導術団体のガス抜きが必要になるのは国そのものとしても手間だ。数法導術の性能的にも政治的にも優秀な結界だろうよ。ま、尤も奴さんが政の背景にまで頭が回ってたとは思えないけどな。今時竜になろうとする時点でそこは明らかだろ?」

「竜との外交問題」

 ユラハの表情が自然と引き締まる。

 竜と人間の関係の危うさはこの一年間でユラハも肌で感じていた。

「そういうこった。イストキャピタ条約で緩衝区を設け、互いに不干渉を貫くことで一応の和解までこぎつけた以上、新たな竜転人の誕生はあまりにも都合が悪い。いよいよ導術結社も重い腰を上げる気になったわけだ」

 過去六名の竜転人のうち、現在生き残っているのはたったの二名と言われている。それ以外の竜転人は誕生間もなく人類の敵として導術士に狩られ、または同胞となったはずの竜に殺された。

 条約が締結される以前は種族間の大きな問題にはならなかったが、現在ではそうもいかない。竜は人間に滅ぼす理由を今も探っている。そのきっかけが芽生える瞬間を待ち続けているのだ。

 ユラハはため息を吐き出し、うんざりした様子でシートに凭れかかった。

「あー! もう! 面倒事先延ばしにするだけして、こんな大事になってからこっちに放り投げたってことじゃんかっ! なんでアタシたちがあいつらの尻ぬぐいしなきゃなんないわけさっ!」

「そいつぁ同感だ」

 前方のシートを蹴りつけるユラハにイルマはくすりと笑う。

「ま、こうなった以上野放しにできる問題でもねぇ。他人に任せるより自分たちでやった方がずっと気楽だろ?」

 応じるようにユラハもにっと大胆不敵に笑い返す。

「報酬も悪くないだろうしね。ご馳走期待してますよ」

「お、おう……そうだな……」




 運河を越え、リキッドーア市街地をワゴン車が疾走する。側面にプリントされた店名が夜を白く切り裂く。

 貨幣局は目前にまで迫っていた。青白い繭だったはずの物体は、ここに辿りつくまでの間に成長し、すでに竜の姿をはっきりと形作っていた。

 束ねられた数式の羅列が竜の表面を描き空虚そのものだ。まだ実体とはなっていない。

 周辺の高層ビルと並び立つ巨体。木の幹のような四肢と長大な首がはっきりと見て取れた。

「うっわ、本当に竜がいるよ」

「時代錯誤もいいとこだぜ、SF小説じゃねぇんだぞ」

 前情報があっても、やはり実際にその光景を見ると、呆れ果ててしまう。

 ソーンチェスターの中心部でこんなことをしでかす無神経さが、二人にはただ信じられない。考え無しにも程があった。

「しっかし、本当に数法導術で竜転陣が実現できたんだね。なんか意外」

「導式構造については知らねぇが、すげぇのはむしろ中枢演算装置の方だと俺は思うぜ。なんせ宝珠としてこれだけの演算能力を発揮し、儀式級導術を個人で駆動可能にしている。言っちまえばあの演算装置は竜の脳と同等の代物ってことに他ならない。数百年ぶりに誕生しようとしている竜は技術と数法という人類の発明から生まれた、ある意味では生粋の竜転人なのかもしれねぇな」

「人の発明から生まれた人の竜……」

 そこにどれだけの意味があるのかユラハには分からない。興味もなかった。

 きっとイルマもそうなのだろう。

 車がセルコヴァ通りに入り込む。このまま直進すれば貨幣局に辿りつくはずだ。もう青白く光を放つ竜がはっきりと視認できる。

「よし、そろそろだ。ユラハ、準備しておけ」

「はいよ」

 後部座席に立てかけていた棒状の物体を引き寄せ、ユラハは手早く麻布から中身を取り出す。現れたのはレイヴァンの遺品である導槍グローバンクラック。

「早速仕事だよ新入りくん」

 柄を握ると冷たい表面が手に馴染んだ。石突きの部分に嵌め込まれた握り拳ほどの大きさの宝珠が鈍く光を放つ。柄の表面全体をユラハの幻素が浸透していくのを感じる。

「グローバンクラックの表面にはランディバリ加工が施されている。幻素に対して過敏に反応するリトニアの樹液でコーディングすることで、導力の伝達力が極限まで高められているんだ」

「そういう御託はいいって言ってんじゃん。戦闘に必要なことだけ説明して」

 せっかく導具の説明ができる機会だと思っていたイルマはいきなり斬り捨てられてしまい興を削がれる。古導具店の従業員でありながら、導具に対して実践的な知識にしか興味がないユラハに苦言を呈したくもあるが、今は状況が状況だ。

 能書きを並べるよりも必要な情報だけ伝える方が重要なのかもしれない。

「導槍使うのはどうせ初めてだろ。剣とは勝手が違う。トリガーじゃなくて、槍を捻ることで導術を発動できる」

「そういうのが聞きたかった」

 それだけ聞ければ十分なのか、ユラハは颯爽とドアの窓を下ろす。

「導線は一般的な動物性じゃなくて鏡虫の幻素線(エーテライン)を使ってるから焼き切るなよっ!」

「はいはーい」

 分かっているのか分かっていないのか、はっきりとしない適当な返事をしながら、ユラハは片腕だけを支点に車の天井へと飛び乗る。頭上から聞こえてくる破壊的な音にイルマは顔を顰めた。

「たく……もうちっと優雅に出来ねぇもんかね」

 屋外に出ると夜風が頬を叩きつける。束ねられた紅い後ろ髪が千切れそうなほどに揺れた。風の冷たさが精神を研ぎ澄ませる。

 数列の竜はすぐ近くだ。その青い竜の不完全な首が巡り、ユラハたちを正面に捉える。表層しか存在しないはずだというのに、そこには確かに双眸があるように思えた。

 ユラハの背筋を冷や汗が垂れる。

「……なんかこっち向いてんだけど」

「そりゃお前、こんな中、突っ込んでくる奴なんて目につくに決まってんだろ」

「ああ! だからそういうこと先に言えっつぅのぉ!」

「やめろ! 車体に傷つけんじゃねぇ! 臨戦態勢取れ! お前ので対処しろ!」

「はいはい! 分かりましたよっ!」

 ユラハは手元に持っていたグローバンクラックを翻し、足場である車体に突き立てる。下から文句が聞こえてくるが今は無視だ。ユラハは空いた手で腰に履いた剣をゆっくりと引き抜く。

 剣としては全長が僅かに短い片刃の剣。ユラハの愛剣アルドライト。エウリディーテシリーズの六十五年モデルを改造した特別製。その変わらない握り心地にユラハの表情が和らぐ。

「やっぱお前の方が馴染むな」

 竜の体から複数の光が放たれる。螺旋を描き多方向から迫り青い軌跡は数式の鎖だ。

「所詮は数法だ。力でねじ伏せられるだろう。ロックに決めてやれ」

「食後の運動には申し分ないかなっと」

 くるりとユラハの手の中で剣が翻り、逆手に持ち替えられる。上に向けられた柄頭には赤い宝珠。その様はSF小説でよく描かれる魔術師の扱う杖のようだった。

「ライブラリ検索……」

 幻素によってユラハと導剣アルドライトの幻素線(エーテライン)は接続されている。そのためユラハの意識による操作で宝珠内に保存された導式を選択可能だ。

「ロックなら、これかな」

 めぼしい導式が読み込まれ、宝珠が導式を導陣(レリーフ)へと変換していく。

 真っ先に目前へと迫った数列の鎖に対し、ユラハは杖のように持った剣を掲げる。宝珠と柄の接合部分にある銃のそれと酷似したトリガーを引き絞ると、宝珠が赤い燐光を散らし、幾何学的な模様が描かれた環状の紋章が虚空に転写された。

 鐔の機構がスライドし、術莢(カートリッジ)が排莢される。空術莢が車体に落ち澄んだ音を響かせた。導陣から放たれた紅い燐光が鎖まで走り、到達と同時に炸裂。

 轟音と爆炎が弾け、衝撃によって組成が崩れた鎖が破片となって周辺に散らばりながら消滅していく。

「いいビートだぜっ!」

 下方からイルマの口笛が聞こえてくる。

 ユラハもにっと笑い、続いて迫る鎖にトリガーを引く。再度の爆音によって鎖が破壊される。

 長々とくだらない詠唱をし、難解な呪文や面倒くさい円陣を描き、導術の駆動に手間をかけていたのは昔の話。宝珠による導式のライブラリ化、術の性質に合わせた術莢選択による幻素供給の効率化によって、導術の発動は高速なものとなった。

 後方から迫る鎖を素早く察知し、脳内で導式を高速検索。常時発動型の導式を選択しトリガーを引く。術莢が排出され、彫り込まれた鎬部分の根元から紅い光が切っ先へと駆け上がった。

 同時に刃全体が発火。炎を纏った剣の叩きつけるような一撃で鎖が粉砕され、幻素へと還っていく。さらに振り返りながらの一薙ぎで二本の鎖が引き千切れるように破壊される。

 術莢一発分の幻素を使い切り、剣の炎が紅い燐光となって霧散していく。ユラハの剣が再び半回転。トリガーを引くより先に鎖が迫る。咄嗟の判断、ユラハは逆手に持ったままの剣を振り上げ、鎖を上空へと弾き飛ばす。次いで横合いから迫った鎖を爆破で破壊、前を見たまま剣を空へと掲げ、トリガーを引き絞る。

 さらなる轟音。砕け散った鎖の破片がイルマの運転する車の通過した後で降り注ぐ。

「骨の髄まで痺れるサウンドだったぜっ!」

「デス・ストリーマーも賞賛を送るレベルのサウンドだったでしょ?」

 四〇年代に名を馳せたロックスターの名前を引き合いに出して誇るユラハに、イルマも応じて声を上げて笑う。

 前方に目を向けると貨幣局を遠巻きに見守る人混みがあった。もうすぐそこまで来ている。何人かは爆音を聞きつけ、ユラハたちを見つめているが今はどうだっていい。

 ユラハを手中でくるくると回した剣を流れるような動作で鞘に収め、導槍グローバンクラックを車体から引き抜く。

「そろそろ頃合いだね」

「ああ、昼飯と夕飯の邪魔をしたツケをたっぷり支払ってもらうとしようぜ」

 ユラハは両手で槍を握り、竜に向けて構える。光を受けた切っ先で青い煌めきが弾けた。グローバンクラックの宝珠にはかつての所有者だったレイヴァスが遺した導式が蓄積されている。それらは破導大戦に参加し無事帰還してからの六十年間、数学者として、導術士として生きた彼の研究成果であり生き様の結晶だ。

 展開される不可視の結界は龍理並みの数式。それは数法導術の到達点と評価されるものだ。数式さえ分解できれば簡単に砕け散る数法導術にとって、優れた術とは解き明かされない数式にある。龍理とはおよそ人間の頭脳では解き明かせない数式だ。

 車体の上をユラハが走り出す。ごく短い助走で跳躍したユラハの矮躯が紅い軌跡を描いた。人だかりを飛び越え、ビルの外壁を蹴って、さらに跳躍。向かいのビルの窓を割って内部へ転がり込む。

 デスクが整然と並ぶ暗いオフィス内を駆け抜け、一切の迷いもなく窓を突き破って、虚空へ身を躍らせた。

 眼下には貨幣局。目の前には数列の竜の頭があった。

「これ以上の面倒はごめんだからね、動けないうちに消えてもらうよ」

 ユラハは静かに導槍グローバンクラックを捻る。同時に術莢が五つ、柄の中心部分から次々と排莢された。

 宝珠が鈍色の光を放ち、導陣が空中に転写される。薄い灰色の導陣から無数の数式の羅列が飛び出し、竜へと殺到していく。貨幣局全体を覆う結界に数列が衝突。一瞬数列が阻まれたように見えたが、その直後結界を突き抜け、真っ直ぐに竜の体へと突き刺さる。

 未完成の竜の体が苦しみに蠢く。本来なら悲鳴を上げるのだろうが、まだ実体のない竜にそれはできない。

 宝珠に記録されていたレイヴァスの導式。それは様々な数式を解き明かしたレイヴァスの記録だった。無数のそれらを同時に駆動させることで、レイヴァスが遺した導術はあらゆる数法導術を無効化する。ユラハの放った数式が突き刺さった場所を中心に、竜の体が消滅していく。

 六十年間、来る日も来る日も数式に向き合った男の執念の結実だった。

 たった一つをただ、ただ繰り返し続ける。続け続ける。思えば導槍グローバンクラックとレイヴァスはよく似ていた。だからこそ、あの人は導槍に愛着を覚え、危険を冒してでも持ち帰ったのかもしれない。

 なんとなく意識の隅にそんな考えが浮かんで、すぐに弾けて消えた。

 停めた車に背を預け、霧散していく竜だったものを眺めながら、イルマは紫煙を夜空に向かって吐き出す。

「見てるかい、爺さん。あんたの導具はまだまだ現役のようだぜ」

 何の手向けにもなりはしない言葉をイルマは呟く。

 分かっていた。こんな結果などなくても、生涯を擲てるものに出会えた彼が幸せに逝ったことは、イルマもよく分かっている。

 それでもイルマは一人の男の生き様の結実を誇りたかった。

 斯くしてソーンチェスター全土に混乱をもたらし、外交問題にも発展しかけた貨幣局立て籠もり事件は一人の男の執念によって解決を迎えたのだ。


 貨幣局の内部、CMID管理室の暗い室内で呻き声が漏れる。壁一面に並ぶ液晶から漏れる青白い光が床に蹲った男の体をぼんやりと照らしていた。転化の中途で無理矢理に術が中断されたために肉体の一部が戻れず、彼の左腕と左脚は千切れたままだ。溢れ出した血溜まりの上を泳ぐように男は体を捩り、その度痛みに呻きを漏らす。

 顔の半分も欠損こそしなかったが、完全には戻れず、肌の表面はゲルのようになり、瞼は消え失せ、肌の表面の上に眼球だけが中途半端に嵌め込まれたような状態だった。

 何か声を発そうとしても発することができない。口の半分はもう口の形をしていなかった。

 意味も持たない唸りのような声だけが喉の奥から漏れ出てくる。もう人でも竜でもない。太陽に近付きすぎて、翼をもがれた者のように、全てを奪われた。

 もう最期を待つばかりの男の耳に、硬く鋭い音が突き刺さる。ヒールが床を突く音だ。

「いい格好じゃないか」

 男が痛みに堪えて身を捩ると、そこにはスーツに身を包んだ長身痩躯の女性の姿があった。長い前髪で片目を隠し、右目だけが退屈そうに男を見下している。眼鏡がどこに行ってしまったのかも分からず、目の位置もずれてしまったため、景色は歪み、女性の顔をはっきりと見ることさえできない。或いは眼鏡もまた、残った身に纏う服同様体のどこかに同化し、境目も分からなくなっているのかもしれない。

 女が片腕を上げる。そこには一振りの刀が握られていた。女はその先端を男の顔に突き付け、線でも引くように男の塞がった口の上をなぞった。今にも泣き出しそうな情けない悲鳴の中、紅い線が引かれ、それは仮初めの口となる。

「何か言い残すことはあるか?」

「僕を殺すつもりかい? 竜転陣を完成させた僕の頭脳をここで潰してしまってもいいっていうのかい?」

 喘鳴に途切れ途切れ、男は言葉を紡ぐ。

「数法で竜になりかけた実力は確かに驚くべきものだ。だが我々にとって重要なのは経済であって、数学ではない。それは何もかもが別物だ。だから、我々にとって貴様は無価値だ。一銭も残してやる義理がない」

 言い放ち、男が何かを言いかけるよりも速く女は刀を振り抜いた。片手に持っていた鞘に刀を納め、切断した首をヒールの爪先で小突いて遠くへと転がす。切断面から噴出した鮮血が床にさらに大きな血溜まりを広げていく。

「全く言い残すことにさえ何の利益もない男だ」

「よかったんですか? 何も聞かずに殺しちまって」

 背後から男の声、壁に背を預けて腕を組んだヴィクターの声だった。

「構わん。我々の役目は経済を守ることであり、治安を守ることではない。この男に思惑があろうと、それは我々にとって有益な情報ではない」

 ヴィクターの渇いた笑いが転がる。

「だから市警に嫌われるんですよ、俺たち」

「それも知らん」

 鞘に納めた刀を片手にエイミーは静かに振り返る。ヴィクターの脇には書類を抱えたウィニーがいた。死体を前にしても彼女の表情は普段と変わらず、エイミーに穏やかな笑みを浮かべている。

「代表、先程の導術士のこと、調べますか?」

「いや、別に調べるまでもない。誰が何をしようと、それが経済を回すのであれば、我々にとってはどうでもいい」

 無感動に言い捨て、エイミーは颯爽と部屋を去っていく。

 抜き身の刃のように決断的な上司の言動にウィニーとヴィクターは顔を見合わせ、少しだけ笑みを零した。

 彼女はまさにCMIDシステムによる経済の体現者そのものだ。だからこそ二人にとって彼女は誇りだった。




「結局、なんで竜になろうとしたんだろなー」

 そのまま真っ直ぐに帰る気にもならず、イルマとユラハは道中の居酒屋に立ち寄っていた。昔馴染みの店であり、未だに現金での会計にも対応している希少な店でもある。店内は薄汚く、テーブルの表面は汚れでべたついているが、それでも味だけは確かだった。

 今はまだCMIDが普及していないが、明日には復旧も終わり、元の生活に戻るのだろう。

「なんでってそんなもん知るかよ」

 どうでもよさそうに答えたイルマは、グラスを傾け焼酎を舐める。氷がカラリと心地よい音を立てた。

「いやまあ、そうなんだけどね。あ、おんちゃーん、たこわさ一つー!」

 酒も飲んでいないのにユラハはよく食べる。前線で戦う導術士は誰も彼もが大食いだ。

 向かいに座っているイルマとしては、見ているだけで腹が満たされる。

「犯人がなんであんなことしたのかは知らないし、むしろ大事なのは俺たちがなんで人間のままでいたいかの方じゃないか」

「んー、なんで人間でいたいか、かー」

 ユラハは食べ終えた焼き鳥の串を指揮棒のように振って、しばし考え込む。

「あー、みんなと一緒にいられなくなるのは寂しいですかね」

 妙に年相応な回答に自然と笑いが零れた。自分の答えを笑われて、ユラハは無性に恥ずかしくなったのか、顔を紅くして唇を尖らせる。

「俺も、そんなもんだよ」

 社会という檻で生まれ、経済の中で生きる。

 人間は一人で生まれ、一人で死んでいくのに、一人で生きていくことはできない。

 結局、そんな普通の人間が竜転人になれるわけがないのだ。

 人でもなく、竜でもない半端な異端になったところで、そこにそれだけの価値など見出せない。

 普通の人間にとって、価値は他人があって初めて成立するものなのだから。


Gifted Cyan - A.E.2080.5.6

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