第38話

 ざぁっ――と。補佐官の言葉に一瞬、砂をぶちまけたようなどよめきが走った。それは一度、息を詰まらせたように静寂に返り……今度こそ、大きな騒乱になる。

「戦争だと!? 正気か、おめえら!」

「いくらなんでも馬鹿げてる。俺たちにだってそれくらいはわかるぞ!」

「そもそも俺たちの仕事は、魔物討伐じゃなかったのか?」

 椅子を蹴倒し、口々に罵声を浴びせかける罪人たち。リンはそうした単純な苦情を一切無視しながら、疑問にだけ淡々と答えていった。

「もちろん貴方たちには魔物を討伐してもらうわ。けれど注意しなければならないのは、さっきも言った通り、魔物にも多くの種類がいるということよ。例えば――人間に変装できる魔物、とかね」

「……!」

 その意味は、その場にいる全員が理解できたのだろう。全員の顔が青ざめるか、あるいはさらなる激昂に赤く染まる。

 次にリンが言う言葉はわかっていた。

「魔物かどうかの判断はこちらで行うわ。貴方たちは我々の指示した『魔物』を殲滅してくれればいい」

「ふざけんな! 俺たちは確かに罪人で、いつ死刑になってもおかしくねえが、おめえらの勝手な罪まで被る気はねえんだよ!」

 罪人のひとりが声を張り上げ、他の者たちもそれに従い怒号を発する。

 しかし補佐官も、司令官も、それに僅かな動揺を見せることもなく、ただうるさそうにしているだけだった。

 そしてやがて……肩をすくめると、司令官の方が口を開いた。殺気を滲ませた、恐るべき重厚感と凄味のある声で。

「従わないのならば、反乱分子とみなして処刑する」

「おもしれえ、やってみろよ!」

 先頭に立っていた罪人が言い返し、彼はすぐさま司令官に向かって突進していった。

 その動きは確かに優秀な能力を持った証明になったかもしれない。怒声の分を除いては最小の動きで懐からナイフを抜き放ち、数歩分は離れていた距離を一歩で詰め寄ると、低い姿勢から的確に相手の喉下へと刃を突き出す。

 相手にしてみればほとんど死角から突き上げられるようなもので、視認も回避も困難だっただろう――

 しかし次の瞬間、どばんっ! 小さな爆発のような音が響くと、男の姿が消えていた。

 ハーリットが咄嗟に後方の壁を見やると……そこに、石壁に鮮血の花を咲かせて張り付く男がいた。体液を垂らし、脱力した腕からナイフを落とすのと同時に、血の線を描くように床に崩れ落ちる。

 司令官の方を見れば、彼はなんでもないというように、片腕を突き出している。人間ひとりを、反対の壁まで吹き飛ばすほどの腕を。

「…………」

 その音だけを室内に響かせて、その場にいる全員は動きを止めていた。呼吸すら止まっていたかもしれない。

 やがて……ひっ、と息を呑んだのは誰なのか。次の瞬間、こちら全員同時に悲鳴を上げる。

「う……うわあああああああ!」

「なんだよ……なんだよ、これは!」

「たすけっ、助けてくれえええ!」

 罪人たちは半狂乱になって、出口に向かって逃げ出した。しかしたった一つの扉には鍵が掛けられ、二十近い人間がその前で渋滞する。蹴破れという怒号はすぐに湧き上がったし、先頭の男もそうしようとしていたが……王城の、しかも機密を重視される部屋だ。そう簡単に破れるはずもない。

 手間取るうちに、ハーリットの横を人影が通り過ぎる。ぽつりと――

「従わないのならば、反乱分子とみなして処刑する」

 そう繰り返す、大木のような男が。

 ハーリットは戦慄したまま動けなかった。素通りされたのは、ショックで動けずにいたのを服従と判断されたためだろう。

 いずれにせよ少年は、ただ自分の父が――いや。王国軍の司令官が、扉に張り付こうとする集団の一番後ろにいた罪人の頭を掴み、腕の力だけで後方へ投げ捨てるのを見ていた。

 罪人は頭から落下し、首のねじれた奇妙な格好で動かなくなる。他の者もそれを見て、一斉に扉から離れるように逃げ出した。

 結果として先頭にいた男が、扉に背を向ける形で取り残される。彼はどうやら、破れかぶれの攻撃に転じたようだった。その動きは人間離れした力を見せ付けられた恐怖の中において、やはり優秀だと言えたかもしれない。怪力に対抗するため、フェイクの動作で相手の隙を作り出し、死角に回り込んで一発で致命傷を与える――その一連に迷いも乱れもなく、多くの殺人経験を証明していた。

 しかし問題は、相手がそれらを一切無視したことだ。フェイクも隙もなく、ただ異様なほどの力と速度で腕を振り回し、眼前全てを薙ぎ払う。男は軽く掠った程度だっただろうが、それでも体勢を崩され、倒れた。その腹に司令官の足がねじ込まれ……血を吐いて動かなくなる。

「あ……あ、あ……」

 ハーリットが意味のない呻きを発するうちに、作戦室はもはや悲惨な棺へと変貌していた。

 罪人たちに逃げ場はなく、司令官に惨殺されていく。錯乱して補佐官の女に襲い掛かる者までいたが、リンは腰に帯びていた短剣でそれをあっさりと返り討ちにしていた。

「……てくれ、やめてくれ……!」

 ハーリットが辛うじて意味のある言葉を発せられた、もう半数以上の死体が室内に転がった頃だった。残された者は完全に怯え、狂い、室内の隅で涙を流しながら命乞いをしている。

 司令官がそこへ歩み寄り、再び死体を一つ増やそうと腕を伸ばす――その時、少年はようやく叫ぶことができた。悲痛に絶叫しながら、背後から司令官に飛びかかる。

「もうやめてくれ、父さんッ!」

 抜剣はしていなかった。この状況でも殺す気は起きない、殺したくないという思いで、鞘ごとの剣を振り被る。

 しかしいずれにせよそれは全く無関係だった。司令官はこちらに気付くと、剣が届くよりも遥かに早く振り返り、低く身を沈めて剣の一撃をやり過ごしながら、カウンターの一撃を腹に叩き込んできた。

 どぐんっ――と内臓を貫かれるような衝撃と共に、大きく弾き飛ばされるハーリット。砕かれた椅子や机の破片、転がる死体を飛び越えて、木板の近くに落下する。

「がっ、げは……!」

 背中を強く打ち付け、息を詰まらせるハーリット。それでも強引な体勢での反撃だったおかげか、辛うじて死なずには済んだらしい。

 激痛と衝撃に白んだ視界が、ゆっくりと白黒から、色味のあるものに戻っていく。身体はまだ動かせそうにないが、聞こえてくる断末魔の叫びで、罪人たちの惨状は想像できた……考えたくもなかったが。

「あらあら、大変そうね」

 と、その時。ようやく色味を戻った視界に、入り込んでくる顔があった。

 のんきとも言える挑発的な声で、こちらを覗き込んでくる紫髪で眼鏡の女――補佐官を名乗った、リン・マルキアス。

 その人を愚弄した笑みに、少年はようやくハッとした。

「っ、そうか……お前は……」

「気付くのが遅かったわね。『お父さん』の姿を見られたことが、そんなに嬉しかったのかしら?」

 あっさりと肯定し、嘲笑に顔を歪める、『女』。

 実際、彼女の言葉通りではあった。連れ去られたはずの父の隣にいる女など、真っ先に疑わなければいけなかった。父の姿に動揺し、それを失念していた。

 しかし今はその自責よりも、怒りを滲ませて可能な限りの声を絞り出す。

「父さんに、何をした……何を企んでいる……!」

「ふふ。そうね、教えてあげてもいいわ。どうせこの状況では、作戦を少し変えないといけないし――」

 『女』はそう言って薄ら笑いを浮かべると、手にした短剣を振り被った。そして、泥沼のように変貌した声で。

「余興は、もう終わりだ」

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