第37話

「…………」

 自分の前を通り過ぎる男を見つめたまま、頭の中が真っ白になる。身体は自然と小刻みに震え、口の中がカラカラに乾き、どのような感情を抱いているのかもわからなくなっていた。驚愕か、歓喜、恐怖、あるいは怒りか。どれも正しい気がするし、どれも間違っているようにも思える。いずれにせよハーリットは極度の感情の昂ぶりと、そのせいで起きる全身の痺れを感じながら、言葉を失っていた。

 男は焦げた茶色をした、王国軍の軍服を着用している。胸には階級を示す金色の刺繍が施され、彼が司令官であることを伝えていた。

 しかしハーリットにはそんなもの、さほどの意味も持たなかった。少年は男の顔を見上げた――土色の髪と、同じ色をした顎まで覆う髭。

筋骨隆々の長身は大木を思わせ、そのがっしりとした腕には、悪さをすれば威嚇のために突き出されるという恐怖と、善行をすれば撫でてもらえるという安堵感がある。

 少年はふと考えてしまう。どちらの方が多かっただろうか。その男――五年前に『屍旅団』に連れ去られたはずの、父にしてもらったのは。

(どうして、ここに……)

 混乱し、わけもわからず彼を見つめる。

 ずっと探していた父。まさかそれが、こんなところで見つかるとは思っていなかった。それも、こんな形で。

「っ――!」

「静粛に」

 ハーリットが思わず声を上げそうになった瞬間。その心中を読み、先回りするように、女の方が声を上げた。鋭いが、妖艶さのある声が室内に響き、ざわめいていた罪人たちが存外素直に、というより単に睨むために言葉をとめる。

 女は二十近いそうした柄の悪い男たちに一切怯むことなく、全員を一瞥した。

 そして隣では、同じように少年の父が、ひとりひとりを見定めるように視線を走らせる。

 その目がハーリットのもとへ辿り着いた時、少年はびくっと緊張に身を固まらせた。何か言わなくては、何か言われるのではと考え、息を詰まらせるが……

「…………」

 父はその瞳はなんの感情も宿さず、少年を素通りしていった。一言も発さないまま全員を見回し、正面を見据える。

(気付いていない? いや、見た目だけはそれほど変わっていない。それに名前だって知られているはずだ)

 だとしたら記憶喪失にでもなっていない限り、わからないはずがない。

 混乱するうち女がまた声を発し、ハーリットはさらに当惑することになった。

「私は王国軍司令補佐官のリン・マルキアス。そしてこちらは――王国軍の総司令官よ」

(司令官……!?)

 女はハーリットの父を示してそう言った。それには驚愕せざるを得なかった。

 『屍旅団』に連れて行かれたはずが、どうして軍の司令などを務めているのか。そこに至るまでの経緯が理解できず、ハーリットは数々の疑問に頭の中を埋め尽くされていった。

 その間に、リンと名乗った補佐官の女は本格的に話を始める。

「今から、貴方たちをここへ呼んだ理由と、貴方たちがやらなければならないことを話すわ――結論から言いましょう。貴方たちを呼んだ理由は、魔物退治のためよ」

「魔物退治……?」

 訝るように、罪人の誰かが聞き返す。リンは頷くと、淡々と説明し始めた。

「昨今多発している、奇怪な事件は知っているわね? 小さなものもたくさんあるけれど、エンダストリの町や、ライオニック平原での同士討ちなんかが代表ね。それらについて王国が調査したところ……全てに魔物が関連していると判明したわ」

「魔物って……おいおい、冗談だろ?」

「ンな話、聞いたこともねえぞ」

 罪人たちが、どこか小ばかにするような声を上げる。補佐官の女はあくまでも淡々としていたが。

「まだ公にされていないだけで、これは事実よ。そしてだからこそ、貴方たちを呼んだ――ここにいるのは全員、罪は犯したものの優秀な能力を持った者よ。魔物退治にはうってつけの、ね」

「そんなこと、王国軍のやることだろ!」

「『私たち』はあくまでも対人のための組織として編成され、育成されている。全く勝手の違う魔物との戦いには不向きと言わざるを得ないわ。そのために――そうした枠組みを持っていない、優秀な力を持った魔物討伐専門の部隊を編成するために、貴方たちが選ばれたのよ」

「魔物の討伐隊なら、王国軍だってやってただろ? うちの祖父さんは、そのおかげで命拾いしたって言ってたぜ」

「それはあくまでも一時的なもので、実際に討伐こそできたものの効率的な勝利とは言いがたいわ。多種多様な魔物が出現し、その被害が拡大している今、専門の、それも即戦力が必要とされているのよ。その間に兵士の育成を行う形になるし、貴方たちも後任の指導にあたってもらうことがあるかもしれないわね。もっとも――」

 と、リンは言葉を継ぎかけて、咳払いでそれを中断した。しかしハーリットには、あるいは罪人たちでも、それを読み取ることはできたかもしれない――「ここにいるのはいつ死刑になってもおかしくない連中ばかりだからね」と。

 そのおかげで室内の空気は剣呑なものへと悪化したが、それでも反論の余地はなく、納得せざるを得なかった。そしてリンの説明した事情も、納得しなければならなかっただろう。特にハーリットは、魔物討伐の必要性を十分に理解していた。

 ただ――どうしても、不信感が募るのは否めなかった。

(そもそも、いくら死んでも構わない立場だからって、わざわざ罪人を使う意味はあるのか?)

 コールウッド国は軍国家というわけではない。どころか軍の扱いは総じて高くないものだった。歴史を紐解いてみても他国と戦争をしたことは数少なく、必要性が低かったためだ。もっともそれは平和主義というわけではなく、単に四方のうち三つが海という立地のためだったが。

 ともかく立場が弱くならざるを得ない王国軍が、罪人を取り入れたなどと知られれば、国民から強い批判を受けるに違いない。この事実を隠し通せるとも思えない。

 それに――

(今ここで剣呑な気配を発している連中が、素直に従うとは思えない。下手をすればこの前の傭兵のように……)

 そんなことになれば、なおのこと王国軍は批判されるはずだ。暴動が起きてもおかしくないだろう。

 かといって、わざわざそんな危険な橋を渡る必要があるほど有効な策だとも思えない。他の罪人たちがどのような能力を持っているかはわからないが、口振りからして魔物との戦闘経験が豊富だとも思えなかった。

(だとすれば、別の狙いがある。でもそれはなんだ? こんな杜撰な建前で、何を隠す?)

 しかし答えは閃けない。疑惑にも確証がなく、結局のところ黙するしかなかった。

 そうしていると、補佐官の女がやはり淡々と情報を付け足してきた。

「諜報組織が調査したところ、魔物はこの国に原生していたわけではなく、別のところから流れ込んできていることが判明したわ」

「別のところ?」

「魔物の発生地点は、マリセア――この国に唯一隣接する国ね。貴方たちには、先手を打ってその地を制圧してもらうわ」

「制圧、って……」

 その言葉に、凄絶なほど嫌な予感を抱く。総毛立つような思いで、ハーリットは息を呑んでいた。

 リンが疑問に答えるため、口を開こうとしている。それが異様なほど恐ろしいことのように思える。禍々しい悪鬼、怪物が女の口から吐き出される気がして、少年は思わず耳を塞ぎたくなった。しかしそうすることもできず、その言葉を聞いてしまう。

「つまり、マリセア国に戦争を仕掛けるということよ」

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