第35話

 ジレイネスはとにかく全速力で逃げ続けた。背後で魔物の駆ける恐怖の足音が聞こえるが、それを無視して目的のために走る。

 魔物が立ち止まり、こちらを発見して振り向くと同時に腕を振り回し、今度は玄関の辺りが砕かれるが……それも無視して駆ける。ジレイネスはさらに破損を増した民家――確かサヌスの家か、とジレイネスは思い出していた――の壁を沿うように駆け、また陰に隠れる。

(サヌスには悪いことをしたな。あとで豪華に建て直してやらないと)

 苦笑しながら、ジレイネスは民家の周りをぐるりと回った。魔物はそれを追いかけて駆け、怒り狂うように壁を破砕させている。

 そうして元の、最初に壊された壁の前まで来たところ、ジレイネスはようやく止まった。しかしそれは走るのをやめただけで、休憩のためなどではない。彼は壊れた壁に足をかけ、跳躍した。そして瓦が崩れて窪んだ屋根に手を届かせ、強引にその上によじ登る。

(敵は……狙い通りだ)

 知性のないインストア・ビーストは、ジレイネスと反対側の壁の前で、彼の姿を見失って怒りの咆哮を上げていた。八つ当たりのように民家の壁に拳を叩き付け、屋根の上のジレイネスが危うくバランスを取る。

「これだから……獣は倒すだけなら簡単なんだ!」

 彼は体勢を保つと、わざと大きな声を上げて魔物に自分の存在を気付かせた。さらに屋根の上から顔を出し、その姿を認識させてやる。

「俺はお前を嘲り、馬鹿にしている。それくらいはわかるだろう。理解できるのなら、もっと怒ってみせろ!」

「グルル、ルォォオアアアッ!」

 言葉に反応したわけではないかもしれないが、魔物は今まで以上に大きな咆哮を上げた。ジレイネスに向かい、それを浴びせるように。

 その圧力すら驚異的なものだったが――ジレイネスはその瞬間、魔物へと飛びかかっていた。

 屋根から飛び降りて、なんの考えもなく敵の前で大口を魔物の、その喉奥へと剣を突き立てる!

 そしてさらに、それを奥底まで貫かれるようにと、魔物の顔の上に立って剣の柄を踏みつける。その刃は、ちょっとすれば身体の外まで貫いたかもしれない。ずぢゅぅっ、と肉を抉る不快な音と手応えが響き、魔物は大きく身体を傾がせた。

 筋力があろうと、体表が守られていようと、体内を貫けば一撃だ。その狙い通り、魔物はこれで絶命するはずである。

「グォォオアア……!」

 しかし――魔物は断末魔のような咆哮を上げた瞬間、最後の抵抗とばかりに勢いよく口を閉じてきた。強靭な顎が、自分の口腔内に突き入れられたジレイネスの足を、がちっと噛み締める。

「ッ――!」

 ジレイネスは声にならない悲鳴を上げた。そのままであれば、食い千切られていたかもしれないほど、激しい激痛が足を襲う。

 幸いだったのは……魔物も死の縁で力を失いつつあったことと、その直後に絶命したことだった。おかげで脱力した口から解放され、転がり落ちる。

(くそっ、迂闊だったな……相手に知性がないからって、こっちまで同じ土俵に上がることはなかった)

 とはいえ、それでも勝利は勝利だった。完全に動かなくなった魔物の気配を察してか、避難していた村民たちが集まってきて、歓声を上げる。

「やった、流石は英雄だ!」

「ジレイネスは真の守護神だ!」

 そうした声に、ジレイネスは素直には笑い返せなかった。無様な負傷をして……村民のひとりを助けられなかったのだから、笑えそうにはない。

 ともかくジレイネスは、「よくやってくれた」と言いながら歩み寄ってくる村長の手を借りて立ち上がった。

「半分はヤヌスの手柄だ。家を建て直す手配をしてやってくれ」

「わかっておる。魔除けの印も付けておこう」

「そうしてやってくれ」

 そんな会話をしながら、ジレイネスはとにかく診療所へ向かおうとする。医者も当然、騒ぎの中で顔を出しているが、彼と共に診療所へ行き、早いところ足を治療してもらわねばならない、と。

(治るまでは、しばらく冒険者は休業か)

 そんなことを胸中で考える。その間、息子と遊んでやるのもいいかもしれない。足は動かせないかもしれないが、修行の指導くらいは、と。

 ――しかし、彼の悲運はそこで終わりを告げていたわけではなかった。というより、真に災厄が訪れたのはその瞬間だった。

「ちょっと、いいかしら?」

 彼の行く手を阻むように立ちはだかったのは、女だった。

 身体を隠すように全身にローブのような布で覆い、顔も同じように、目だけを残して布が隠している。そのせいで声はくぐもっていたが、鋭く高い音から性別を判断するくらいはできた。

 見知らぬ、少なくとも村の者ではない女だ。しかもその背後には十を超える、柄悪く薄ら笑いを浮かべた男たちが並んでいる。

 そして何より、女の腕の中には――

「ッ、そ、その子は!」

「ふふ……そう、あなたの息子よ、ジレイネス」

 今年で九歳になる、早くに亡くした母親譲りの黄金色の髪をした少年。女はそれを後ろから抱き締めるようにしながら、片手で口を塞いでいた。そして身体を拘束するもう片方の手に……鈍い銀色の刃。

 その意味を理解して、村人たちが騒然とし始める。

「誰だか知らんが、なんのつもりだ!」

 痛みも忘れてジレイネスが激昂に叫ぶ。しかし女の方は怯む様子もなく、むしろ挑発するように刃を少年の首筋に触れさせた。もがく少年に「動くとうっかり斬れちゃうわよ」と笑って脅しながら、その父親の方へと向き直り、

「少し貴方に用事があるのよ。大人しくついてきてくれるなら、この子は解放してあげる」

「まさか、お前たち――」

 そのために魔物をけしかけた――という考えを、ジレイネスは口にするのをやめた。あまりにも馬鹿げているからだ。いくらあのインストア・ビーストが何かに支配されているようだったとしても、そんなことが人間にできるはずもない。魔物は使役できない。それに、下手をすればその『用事』とやらができないまま、目当ての相手が死ぬこともある。

 だが――女はそうした思考を読んだように微笑の息を漏らした。元々細い目を細め、まるでその考えが正しく、応じない場合は再び魔物をけしかけると言っているように。

「さあ、どうする? 可愛い我が子を守りたいとは思わない?」

「…………」

 ジレイネスは黙考した。しかし実際のところ、考える余地などなかった。今の身体では、自分は戦えない。村人を危険に晒すわけにもいかないし、そうしたところで武装した相手に勝てるとは限らない。

 それでもジレイネスは、息子に人質をさせてしまったという不甲斐なさに沈黙し……やがて、静かに頷く。

「いいだろう。ただし、その子はすぐに解放しろ。どのみち俺は逃げることもできん」

「ふふ、まあいいわ」

 女は満足そうに言うと少年の拘束を解き、突き飛ばすように父親のもとへ押し出した。

 ジレイネスは数歩ほど進み出て、我が子を受け止める。

「お父さん……!」

「……すまない。だが心配するな、必ず戻ってくる」

 悲痛な息子の叫び声に、安心させるように優しく答えて頭を撫でる。そしてそんな我が子を村長に預けると、自分は女たちの方へと歩いていく。

 女の前に立つと、取り巻きがふたりでそれぞれ左右の腕を掴み、拘束する。

「ふふ……それじゃあ、お邪魔したわね。あとはゆっくり、魔物を倒した喜びに浸っているといいわ」

 女は嘲笑するように村人たちにそう言い残し、悠々と去っていく。

 ジレイネスはその途中、一度だけ振り返った。「お父さん!」と叫び続ける息子の泣き顔――それに無念を抱きながら。

 絶望的な心地で、英雄は村から姿を消してしまった。

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