第34話

「インストア・ビースト……王族種!?」

 それは支配階級を持つ魔物である。王族として生まれた種が、奴隷族として生まれた種族に命令を下す。奴隷族は知性を持たず、敵対種族への攻撃を行うのもそれらである。そのため王族は姿を現さない。奥底の住処に隠れて、命令だけを出しているのだ。

「それがどうして……しかも単独で、だと?」

 ジレイネスが見分けを付けられたのも、ただ知識を持っていただけに過ぎない。実物を見るのは初めてのことだ。

 およそ考えられることではなく、訝るが――

「ルォオァアア!」

 吼えて、巨大な魔物、インストア・ビーストは突進してきた。かなり前傾姿勢になって、頭突きを仕掛けるように向かってくる。

 その速度は人間よりも遥かに速い。尋常ではない脚力は――つい先ほど、思い知らされたばかりだ。ただ、それでも原始的な、直線的な突進を避けるのはそれほど難しいことでもなく、ジレイネスは転がるように横へ飛んでそれをやり過ごした。着地し、振り返ると、魔物は何歩分か通り過ぎたところで止まり、ギロリとまたこちらを向き、避けられた怒りのように吼える。

(咆哮……それもまた奇妙だ)

 ジレイネスは再び疑問に眉をひそめた。インストア・ビーストは独自の言語を持っているはずだった。不満でもあれば、こちらには理解できずともそれらしい声を上げるはずだ。もちろん、ただ掛け声のようなものを発することはあるだろうが……

「グルォォオオオ!」

 見境のない獣のように、インストア・ビーストは再び突進してくる。今度は頭突きではなく、腕を振り上げて――眼前まで迫った時、それを思い切り振り回す。

 ジレイネスは咄嗟にその場にしゃがみ込んだ。屈強なはずの彼の身体よりも太い魔物の腕が、おぞましい風切り音を発しながら頭上を通過して、民家の壁に直撃する。

 腕は砂でも抉るように、簡単に木の壁を貫き、砕けさせた。けたたましい音が響き、そこに大穴が空けられる。やはり驚異的な力ではあった。人間が受け切れるものではない。インストア・ビーストは手にスパイクのような爪を生やしているため、なおさらだ。

 唯一の救いは……村民が全員避難しているため、人的被害だけは考えなくていいところか。

「だが、あまり民家を壊されるのも困るがな!」

 魔物が壁に腕を突っ込まれている間に、ジレイネスは攻勢に転じた。狙うのはまず、足だ。動けなくさせれば戦いは勝利したのと同然である。まして背丈の関係で、狙うことは難しくない。

 ジレイネスはそのまま真っ直ぐに駆けると、すれ違うように剣を振るった。『く』の字に折れ曲がった膝。そこを思い切り斬り付ける。

 しかし――ぞふっ、と奇妙な手応えを残し、刃は魔物の身体を撫でただけだった。そのまま駆け抜けたジレイネスの剣には一滴の血も付いていない。代わりに、細かな毛が何本かだけ付着している。

「ッチ……頑丈な毛だ」

 舌打ちと同時に、ジレイネスは威圧を感じてそのまま前方に身を投げ出した。

 と同時に、木の砕ける音と共にその背後を再び暴風が襲う。細かな砕片くらいは背に当たったかもしれない。

 転がって、その勢いで立ち上がりながら振り返ると、民家に空いた穴はさらに大きくなっていた。魔物が強引に腕を振り回したせいだろう。穴というより、もはや線状になっている。

 屋根の一部が崩れ、魔物の頭に落ちるのも見えた。しかし魔物はそれに一切構った様子を見せず、咆哮を上げる。

「グルァァアア!」

「これは……」

 その姿に、ジレイネスの疑念はますます強くなった。あまりにも奇妙で、異常なことだった――インストア・ビーストの王族種は知性が高いはずである。だからこそ自分は身を隠すし、奴隷族に命令を下す。しかし……

「こいつにはまるで知性を感じない。これではまるで、王族種ではなく……」

 その不可解さは、ジレイネスに言いようもない恐怖を与えた。奇怪で、そこには何か恐ろしい暗示が秘められているのではないか、という気がしてならなかったのだ。

「ルォォォアア!」

「っ、今は考えている場合じゃないか」

 ジレイネスは魔物が突進してくるのを見て、民家の影に隠れるように飛び逃げた。

 仮に知性がないとしても、魔物の力は脅威ではある。腕力はもちろん、体毛が剣の一撃を鈍らせるのだから、まともにやりあっても倒すことはできない。

 ただ――知性がないなら、どうとでもなる。

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